民主(カラー)革命の評価
-ウクライナ問題における論点②-

2014.03.31

ウクライナでは2004年にオレンジ革命が起こり、2003年のグルジアにおけるバラ革命、2005年のキルギスにおけるチューリップ革命とともに「カラー革命」と称され、2010年のチュニジアを起点とする、「アラブの春」と総称される中近東北アフリカ諸国における民主化運動とともに、日本を含めた西側(特にメディア)においては手放しに歓迎する受け止めが支配してきました。しかし、中国においてはむしろ慎重な受けとめ方が主流です。
その原因として日本をはじめとする西側メディアが指摘するのは、共産党の一党独裁体制をとる中国としては、チベット、新疆などでの少数民族の分離独立運動に波及することを恐れているからだというものがほとんどです。そういう要素は確かにあると私も思います。 しかし客観的に見た場合、カラー革命は軒並み失敗していますし、アラブの春ともてはやされた民主化運動も、チュニジアを除けば、おおむね大きな困難に遭遇し、むしろ深刻な混乱、内部分裂に陥っています。他方、中国国内においては、その改革開放路線が巨大かつ着実な成果を生みだしてきた実績、特にその結果として今やアメリカと対等に渡り合う大国となっていることを背景として、国民的自信が顕著に高まっていることは否定できないと思います。
そういう自信は各方面で顔を覗かせるようになっていますが、中国の政治制度に対する確信と自信というのも見逃せない一つです。その自信は、「カラー革命、アラブの春が失敗に終わっていることの原因は、条件もないもとで西側のデモクラシーを機械的に導入することにある」、「途上国にとって必要なことは、中国が実践しているように、自国の実情を踏まえたモデルを自分自身の手で探し出すことだ」とする分析にもつながっています。
私は人間の尊厳・人権・デモクラシーという普遍的価値の実現を目指すのが人類史の歩みだという確信を持っていますし、日本においてはこの普遍的価値を実現することが現実の最大の政治課題(そのためには安倍政治・自民党政治に引導を渡すことが不可欠)だと認識しています。しかし、デモクラシーを実現している欧米諸国の歴史を見れば一目瞭然であるように、人権・デモクラシー(政治的市民的自由)を実現するためには、生存権の確立(経済的社会的文化的自由の実現)が欠かせないとも確信しています。「デモクラシーは多様な顔を持つ」というのが私の確信であり、欧米式デモクラシーのみがデモクラシーだとする思い込みは厳に慎むべきだろうと考えるのです。
そういう私の考え方からしますと、最近の中国言論界に現れている、民主(カラー)革命に対する分析に対しては、「共産党支配を擁護するための官制キャンペーン」というレッテル貼りではなく、その言わんとしていることを正確に認識する必要があると考えます。今回紹介するのは、中国国際問題研究員の副研究員である田文林署名の二つの文章です(強調は浅井)。
ちなみに、エジプト情勢に関して言えば、私はエジプト軍部のムスリム同胞団鎮圧を肯定する田文林の立場には素直についていけないものを感じています。その理由は2点あります。
第一に、ムスリム同胞団出身のモルシ前大統領政権の執政が世俗派を中心とする反対勢力の動きでマヒし、国内政治経済情勢が混乱に陥ったことはそのとおりかもしれませんが、モルシ政権の失政が政情混乱の原因なのか、それとも反対派の執拗な行動がモルシ政権の行動の余地を狭めて情勢の混乱につながったのか、要するに因果関係が素人の私には判断できないのです。
第二点として、エジプト軍部が政権を掌握するとしても、それだけでエジプトの安定と回復が実現するとはとても思えないのです。そもそも、エジプトの民主化運動はムバラク軍事独裁政権に対する反対運動として起こったわけですから、シーシ国防相が大統領になるとして、その暁にムバラク政権時代とは異なる政策でエジプトの政治・社会を建て直すことができるのかどうかは、素人の私にはやはり判断できる材料の持ち合わせがありません。
この2点について、田文林文章はヒントとなる判断材料を提供していませんので、私としては物足りなさを感じるわけです。

1.「ウクライナ 早熟が'壊れたデモクラシー'を導く」

この文章は、3月21日付の人民日報海外版のウェブサイトに掲載されたものです。

 表面的に見ると、現在のウクライナ情勢の混迷は主として西側とロシアとの力比べによってもたらされたかのように見えるが、外的要因というものは内的要因を通じてこそその作用を及ぼすものだ。つまり、ウクライナ政治において混乱した事象が群生することによって、外部勢力が手を突っ込んで干渉するためのチャンスが生まれるというわけだ。さらに具体的に言えば、ウクライナの現在の混乱した局面という災いの根っこにあるのは、1991年に独立したときに導入した西側の政治制度である。西側のデモクラシーがウクライナの「政治土壌に合わない」からこそ、ウクライナは「民主化の落とし穴」に陥ってしまったのだ。
 ウクライナはもともと、ソ連時代当時は非常に豊かで発達した加盟共和国であり、工業システムは揃っており、鉱物資源は豊富で、交通インフラも発達し、地理的環境も優れ、経済発展のポテンシャルは巨大だった。ところが独立してからの20年以上というもの、経済レベルは一貫して独立前の水準まで回復していない。
 多くの人は「デモクラシーは良い」と言うが、この西側の制度がウクライナに移植されたとき、「壊れたデモクラシー」の典型になってしまったのはいかなる原因によるものだろうか。原因は各方面に及ぶが、その中で重要な一点は、「良いデモクラシー」は本来的に贅沢品であり、それが正常に機能するためにはいくつかの条件が必要だということだ。その条件とは、比較的高い経済水準、層の厚い中産階級の存在、成熟した政党制度、コンセンサスのある政治文化などである。そのほかにも、国家が整備されていて国家・民族の整合性があり、人々が共通のナショナル・アイデンティティを備えていることも必要だ。これらの条件が備わっていない場合には、民主化は人々の間の民族的、教派的対立を激化するだけになってしまう。ウクライナは正にこれらの必要条件を欠いているのだ。
 歴史的に見ても、ウクライナは未だかつて独立国家として存在したことはなく、ウクライナ東部(ドニエプル河以東)は1654年以来ロシアに統治されてきたし、全国の工業の70%を擁し、人口はロシア人が主体、主要な宗教はロシア正教である。西ウクライナ地域は14世紀から1939年に至るまでポーランドなどの支配のもとにあり、現在は農業が主産業で、住民は主としてウクライナ人、宗教はカソリックだ。クリミアに関しては、1954年、ロシアとウクライナの合併300周年を祝うため、フルシチョフが同地をウクライナに編入した。以上の独特な歴史的経緯及び地域間の隔たりにより、ウクライナの東西住民の政治的態度はかなり違っている。クリミア及び東部住民は生まれつき親露であるのに対して、西部住民はポーランド及び欧州に親しみを感じており、自分たちを欧州の一部だと見做している。
 正常な状況のもとにおいては、民主政治における多元的競い合い及び政党間の組み合わせは、立場、利益などの後天的な違いに基づいて決められるべきであって、先天的な教派、民族及び地域的な違いに基づくべきではないはずだ。ところがウクライナ人の民族的、地域的アイデンティティはナショナル及び国家的なアイデンティティよりも強い。こういう状況のもとでは、ウクライナで開始された民主化プロセスは東西の民族的、地域的違いをますます激化させてしまう。例えば、1994年の大統領選挙においては、クラフチュクが西部13州で多数を獲得したのに対して、ライバルであるクチマは東部各州で勝利した。2010年の大統領選挙では、中西部の人々の多くが親西側のティモシェンコを支持したのに対し、東部の選挙民は親露のヤヌケヴィッチを支持した。異なる地域をバックにする指導者の政治主張は互いに対立し、しかも互いに妥協しないため、内輪もめが絶えず、内外政策は腰が定まらず、重要問題(例:ウクライナのEU加盟、ロシア出兵に対する対応など)では意思を統一できず、このことが政治の混乱ひいては国家分裂の危機を招いた。
 独立して20年以上になるが、ウクライナ国内の分裂は解消されるどころか、むしろ拡大する一方だ。世論調査にそのことがクッキリ示されている。ウクライナ独立後の2008年において、ウクライナを祖国と考えていない人がまだ12.5%、ウクライナ国民という立場であることを誇らしいと思わないものが31.5%それぞれいた。ウクライナ東部のロシア人居住地域(特にドネツク及びクリミア)での比率はさらに高かった。学者によっては、2014年のウクライナ東西の対立を「文明の衝突」と呼ぶものもいる。
 民主化によって民族分裂が招致されるという状況は、他の途上国にも見られる共通の問題である。例えば、イラクはアメリカによって「民主的改造」が行われたが、スンニ派、シーア派及びクルド人という3大勢力の間の矛盾は激化したし、カダフィ打倒後のリビアでは部族間の群雄割拠状態で四分五裂に陥っている。
 以上から簡単な道理が分かる。政治的な変革は、国家の興亡及び土台安定にかかわる問題であり、「大きな流れに従う」ことはもちろん、「むやみに突っ走る」ということであってはならないということだ。政治制度の優劣を判断するカギは、その制度が富国強兵を実現し、総合的国力を増進するかどうかを主として見るべきであり、いわゆる「民主化」を実現するかどうかということではないのだ。したがって、政治制度の選択に当たっては国情、民情、社会的条件と結合させる必要があり、機械的にやることは「虎を描こうとして犬のようになってしまう」(野心が大きすぎて失敗するたとえ)ことになり易く、国家をして「民主化の落とし穴」に陥らせることになる。習近平はかつて、「靴が足に合っているかどうかは、自分で履いてみてはじめて分かる」と形容した。即ち、ある国家の発展の道が適合しているかどうかについては、その国家の人民だけが発言権を持っている。こういう実事求是、即ち具体的問題を具体的に分析する科学的な態度は、西側の抽象的な「普遍的価値」よりもはるかに第三世界の国々にふさわしいものなのだ。

2.「ムスリム同胞団弾圧 エジプト軍部の危険な一手」

この文章は3月27日付でやはり人民日報海外版のウェブサイトに掲載されたものです。文章はエジプト国内情勢についてかなりスペースを割いて説明していますが、ここでは、今回のテーマに関係する部分だけを訳出して紹介します。

 (エジプト軍部が強硬な手段に訴えてムスリム同胞団を弾圧していることを「危険な一手」であると指摘しつつも)安定と発展という大局から見れば、このような強硬手段は短期的にはメリットよりディメリットが大きいが、長期的にはディメリットよりメリットが大きい。家庭内の事柄でも誰かが最終的に裁決する必要があるのだから、国家を治める上では強力な政治的中心がもっと必要とされる。ましてやエジプトのように政治経済社会の難問が多い途上国においては、強力な中央政府、様々な政治勢力が力を合わせて1本の縄の如くになることがさらに必要だ。
 政治勢力の多元化あるいは二大政党対決は、政治的繁栄及び「民主と自由」の表現であるかのように見える。しかし、タイにおいて、民主化後に現れた赤シャツ派(タクシン派)と黃シャツ派(反タクシン派)の政治的対立、及びウクライナの民主化後における親西側勢力と親露勢力との角逐の結果は何かといえば、最終的には国家及び社会の分裂の深まりであり、国家及び人々の全体的な利益は深刻に損なわれた。エジプトの民主化プロセスで出現した世俗派と宗教勢力との対立もまた、エジプト社会の分裂、政治的消耗、国家空転などの一連の危険な状況を生みだした。事態を成り行きに任せてしまうならば、エジプトは結局「失敗国家」あるいは「半失敗国家」となってしまうだろう。エジプト軍部がムスリム同胞団を強力に弾圧することは、その性格については今論じないこととして、エジプトに秩序及び一元的指導システムを回復し、長期的な安定及び発展を実現するための基本的前提を確立するものである。