プーチンは大国主義・拡張主義の権化だろうか?

2014.03.27

私は外務省勤務の時代に2年間(1971-73年)モスクワで勤務したこと、中国問題を考えるときにはどうしてもロシア(ソ連)という要素は無視できないことなどもあって、ソ連崩壊後のロシア情勢については関心を持ち続けてきました。そういう中で、今やくそみそにしか評価されなくなったゴルバチョフの言動については大いに注目しましたし、2000年以来ロシア政治の中心にいるプーチンの言動にも注目してきました。
 プーチンがクリミアを併合する決定を下した後、アメリカの官民の圧倒的多くはプーチン非難一色です。しかし、つぶさにフォローしてきたわけではありませんが、2000年以来のプーチンの言動(その現在の到達点としてクリミア併合決定がある)についての私の印象は「それなりに筋の通った言動を心掛ける政治家」であり、世界的な水準以上の指導者というイメージが強いのです。もちろん、私の場合は印象論の域を出ません。
 しかし、以下に紹介するアメリカの識者の文章は、私のプーチンに関する印象があながち的外れではないことを示すもので、是非紹介しておきたいと思います(強調は浅井)。

  1.ヘンリー・キッシンジャー「ウクライナ危機はどう終わるか」

キッシンジャーのこの文章は3月6日付でワシントン・ポストに掲載されたものであり、プーチンのクリミア併合決定の2週間近く前のものですので、その点を踏まえて読んでいただきたいのですが、全体としてはとても読み応えがあるものです。老いてもなおこの頭脳明晰さを保っているのは、驚きを通り越して脅威ですらあります。この文章に対する中国の専門家の評価は高いものがありますが、「さもありなん」です。

ウクライナについての議論は対決に関するものばかりだ。しかし、そういう議論がどういう結果になるか分かっているだろうか。私の人生において、熱狂と支持で始まった4つの戦争があるが、そのすべてについて我々はどう終えるかについて分かっていなかったし、そのうちの3つについては我々は一方的に退却する羽目に陥った。しかし、政策について問われるのは、どう始めるかではなくどう終えるかだ。
 ウクライナ問題といえば、東側に加わるのか西側に加わるのかという決着のあり方だけが問われる。しかし、ウクライナが生き残り、繁栄しようとするのであれば、いずれか一方にとっての他方に対する前線基地となってはならず、両者の間の橋渡し役として存在するべきだ。
 ロシアは、ウクライナを衛星国にし、ロシアの国境を移動させようとすれば、欧米との間で互いに圧力を掛け合う歴史を繰り返す運命にあることを覚悟しなければならない。西側は、ロシアにとってウクライナは単なる外国の一つではあり得ないことを理解しなければならない。ロシアの歴史はキエフ・ルーシと呼ばれるところに始まった。ロシア正教はそこから広がっていった。ウクライナは数世紀にわたってロシアの一部だったし、その以前にもロシアとウクライナの歴史は絡み合っていた。1709年のポルタヴァの戦いに始まるロシアの自由にとってもっとも重要ないくつかの戦いはウクライナの地で戦われた。黒海艦隊は長期のリース契約に基づきクリミアのセヴァストポリに基地を置いている。ソルジェニティンの如き有名な反体制派ですら、ウクライナはロシアの歴史、というよりロシアそのものの不可欠な一部だと主張した。
 EUは、ウクライナと欧州との関係を交渉する際の官僚主義的時間稼ぎ及び国内政治を戦略的考慮に優先したことが危機をもたらしたことを認めなければならない。対外政策というものは優先順位を決めるアートなのだ。
 ウクライナ人は決定的要素だ。彼らは複雑な歴史と多言語からなる国家で生きている。西部地域は、スターリンとヒトラーが領土を分割した1939年にソ連に編入された。人口の60%がロシア人であるクリミアは、ウクライナ人であったフルシチョフがロシアとコサックの協定300周年のお祝いとして贈った1954年に始めてウクライナの一部になったに過ぎない。西部はおおむねカソリックであるのに対して、東部はおおむねロシア正教だ。西部はウクライナ語を話し、東部のほとんどはロシア語を話す。これまでのパターンどおりにいずれの一方の側が他方を支配しようとしても、最終的には内戦あるいは分裂ということになる。ウクライナを東西対決の一部として扱ってきたために、ロシアと西側、特にロシアと欧州とを協力的な国際システムに導く可能性が数十年にわたって妨げられてきた。
ウクライナは独立してから23年しか経っていない。ウクライナは14世紀以来何らかの外国支配下にあった。同国の指導者たちが妥協ましてや歴史的視野というアートを我がものにしていないのは驚くに当たらない。独立後のウクライナ政治が明確に証明していることは、問題の根っこにあるのはウクライナの政治家が自分たちの意思を反抗する側に押しつけようとしたことだ。ヤヌコヴィッチとティモシェンコとの争いとはそういうことだ。彼らはウクライナの2つの派を代表し、権力をシェアしようとしなかった。アメリカの賢明な政策は両派をして互いに協力する方途を探させるようにすることだろう。我々は、一方の支配ではなく、両派の和解を探究するべきだ。
 ところがロシアも西側もウクライナの各派もこの原則に基づいて行動してこなかった。それぞれが情勢を悪化させてきた。ロシアは、国境の多くの部分がすでに不安定な時に、軍事的解決を押しつけることは孤立を招くだけだろう。西側に関しては、プーチンを悪魔扱いすることは政策とは言えず、政策の欠如についての言い訳でしかない
 プーチンは、どんなにやりきれない気持ちがあるにしても、軍事強圧の政策は再び冷戦を生むことになることを理解するべきだ。アメリカは、ワシントンが作った行動ルールを辛抱強く教えこむべき異常者としてロシアを扱うことを避ける必要がある。プーチンは、ロシアの歴史を踏まえた真剣な戦略家である。アメリカの価値観と心理とを理解することは彼の得意とするところではない。アメリカの政策決定者もまたロシアの歴史と心理を理解することが得意ではない。
 双方の指導者は強硬さを競争するのではなく、結果がどうなるかを見極めるようにするべきだ。双方の価値観と安全保障上の関心と矛盾しない結果に関する私の意見は以下のとおり。
1.ウクライナは、経済的及び政治的連携(欧州を含む)について自由に選択する権利を持つべきだ。
2.ウクライナはNATOに加盟するべきではない(この問題が起こった7年前に私が取った立場)。
3.ウクライナは、人民が表明する意思と矛盾しない政府を作る自由を認められるべきだ。ウクライナの指導者が賢明であれば、国家の様々な派が和解できる政策を採用することになるだろう。国際的には、フィンランド方式を追求するべきだ。
4.ロシアがクリミアを併合することは現在の世界秩序の諸規則とは相容れない。ロシアはクリミアに対するウクライナの主権を認め、ウクライナは、国際監視のもとで行われる選挙でクリミアの自治を強めることが望ましい。その過程において、黒海艦隊のセヴァストポリにおける地位に関するあいまいさを取り除く。
 以上は原則を述べたのであって、処方箋というわけではない。この地域に詳しいものであれば、以上のすべてがすべての当事者にとって受け入れられるものというわけではないことが分かる。しかし、カギとなるのは誰もが完全に満足するかどうかではなく、各当事者間の不満足度がバランスの取れたものとなるかどうかということだ。これらの要素に基づく解決が得られないとなると、対決に向かう流れが加速するだろう。時間的な余裕は少ない。

2.ジャック・マトロックJr.「アメリカは冷戦終結以来ロシアを敗北者のように扱ってきた」

この文章は3月15日付のワシントン・ポストに掲載されたものです。このように紹介すると、ワシントン・ポストはそういう文章ばかりを載せているのではないかと思われそうですが、そうではありません。一例を挙げれば、キッシンジャーの前にブレジンスキーがやはり同紙で文章を発表しています(4日付)が、その内容は冷戦思考そのものです。また、ワシントン・ポストの社説も一貫して「プーチンをやっつけろ」式の文章を繰り返し発表しています。
マトロックは1987年-91年にアメリカの駐ソ連大使を務めた人物だそうです。キッシンジャーの文章は、国際政治は権力政治であるとする彼の真骨頂であるリアリズムに徹する姿勢が特徴になっていますが、マトロックの文章は、冷戦末期に駐ソ連大使として現場の修羅場を経験したものならではのバランス感覚、他者感覚に満ちた内容である点に特徴があります。特に、当初は親西側的政策を取っていたプーチンに対して、クリントン、ブッシュ及びオバマと3代続いたアメリカの大統領の下でのアメリカの政策が他者感覚のかけらもない勝手放題であったことがプーチンをして西側との対決に追いやったのだという指摘は鋭いと思います。アメリカ(西側)がプーチン(ロシア)に対して敬意をもって接していたならば、恐らくウクライナ問題もクリミア問題も別の展開を辿って来ただろうと思います。

 ロシアと西側との緊張は、イデオロギー及び国益の衝突によるものというよりも、誤解、偽りそして国内向けのポーズによる面が大きい。今日の双方の争点について言えば、冷戦期よりもはるかに数少ないし、危険度はずっと小さい。
 しかし、冷戦がどのように終わったかについて正確に認識できていないために、ロシアと西側の姿勢のあり方が大きく左右され、そのことが今日の事態を生んでいる。西側がソ連の崩壊を強い、その結果冷戦が終結したという一般的理解は誤っている。事実は、冷戦は双方の利益になるように交渉で終了したのだ。
 1989年のマルタ首脳会談において、ゴルバチョフとブッシュは、戦争をするイデオロギー的根拠はもはや存在せず、両国は互いを敵と見做さないと述べた。その後の2年間、アメリカはソ連と緊密に協力したのであって、その緊密さはアメリカの同盟国との間以上だった。軍備競争を停止し、化学兵器を禁止し、核兵器を大幅に削減することに合意した。鉄のカーテンは取り除かれ、東欧は解放され、ソ連の指導者は共産主義のイデオロギーを放棄した。ソ連経済を圧迫していた軍備競争及び長い間の全体主義から解放されて、ゴルバチョフは内政に専念することができることになった。
 その後ソ連の崩壊があまりにも早く起こったため、人々はソ連崩壊と冷戦終結とを混同しがちだ。しかし、両者は別ものであり、ソ連崩壊は冷戦終結の必然的な結果というわけではないのだ。
 さらに言えば、ソ連が15の独立国に分裂するという事態はアメリカが原因であったわけではないし、アメリカが望んだことでもなかった。我々が望んだのは、ゴルバチョフがバルト3国を除く共和国からなる自発的な連合を作ることだった。ブッシュは1991年8月に、ゴルバチョフが提案した連合協定をロシア以外の共和国が受け入れることを強く言うことでその希望を明らかにしたし、ブッシュはその中で「自殺的なナショナリズム」に対して警告もしたのだ。ソ連崩壊を悔やむロシア人は、ソ連に代わって緩やかで何の権限もない「独立国家共同体(CIS)」を作ることについてウクライナ及び白ロシアと共謀したのは国民によって選ばれたエリツィンだったことを忘れるべきではない。
 ソ連国家が存在しなくなった後も、ゴルバチョフは「冷戦の終結は米露両国の勝利だ」と述べた。ところがアメリカはロシア人を敗者として扱うことに固執したのだ
 ブッシュは1992年の一般教書において、「神の加護により、アメリカは冷戦に勝利した」と述べた。そういうレトリック自身は特に害があるというわけではない。しかし、ブッシュの後の3人の大統領はその害悪性を強める行動を取ったのだ。
 クリントン大統領は国連安保理の授権もないままNATOがセルビアを空爆することを支持し、かつてのワルシャワ条約加盟国を囲い込むNATO拡大をも支持した。これらの動きは、アメリカはソ連の東欧からの退却を利用しないという米ソ間の了解に違反したものと見られる。ロシアのアメリカに対する信頼感に対する影響は壊滅的なものだった。1991年の世論調査では、ロシア市民の約80%はアメリカについて好意的な見方をしていたが、1999年には同じ数字のものが非好意的だった。
 プーチンは2000年に大統領に選ばれたが、当初は親西欧的だった。2001年9月11日にテロリストがアメリカを攻撃したとき、プーチンは支持を呼びかけかつ支持した最初の外国の指導者だった。アメリカがアフガニスタンに侵略したときにも、プーチンはアメリカに協力したし、彼は自発的にキューバとヴェトナムのカムラン湾の基地を退去した。
 その見返りにプーチンが得たものは何だったか。ブッシュの中身のない賞讃のほかは、バルト3国及びバルカン半島へのNATOの拡大及び両地域での米軍基地計画であり、弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM)からの脱退であり、国連安保理の授権のないイラク侵略であり、ウクライナ、グルジア及びキルギスのカラー革命に対する露骨な介入であり、いかなるロシア人指導者でも断固として拒否するグルジアとウクライナのNATO加盟を模索したことであった。モンロー・ドクトリンの継承者であるアメリカ人であれば、ロシアは外国に支配された軍事同盟が自国国境に迫ってくることに対して極度にセンシティヴであることを理解するべきだった。
 オバマがロシアとの関係を「リセット」しようとしたことは有名な話だ。新START条約は重要な成果だったし、地域問題でも静かな協力が進んだ。ところが、自分のことも処理できないのに他人のことに首を突っ込みたがる議会の行動のしわ寄せがやって来た。ロシアの人権侵害を狙い撃ちしたマグニツキー法は、ロシアの支配者たちを激怒させ、アメリカは執念深い敵であるというイメージを広範なロシア人に植えつけた
 アメリカが繰り返し取った否定的な行動に対してロシアは過剰反応し、両国関係は大きく傷つけられたから、ウクライナ危機が起こったときには、冷戦を終結させるために用いられた静かな外交は不可能だった。43%のロシア人はこの危機の背後には西側の行動があり、ロシアは包囲されているとたやすく信じるのは以上の事情によるものだ。
 プーチンがクリミアを軍事占領したことは情勢をさらに悪化させることになった。クリミアのロシアへの編入ということになれば、冷戦さながらの逆襲及び経済制裁の応酬ということになるだろう。そうなれば、勝者はなく敗者のみということになる。即ち、ウクライナは現在のままではすまなくなるし、ロシアはさらに孤立させられることになるだろう。ロシアはまた、反露過激主義者のテロ活動の増加に見舞われる可能性があるし、ロシアが推進しているユーラシア経済連合については、近隣諸国の抵抗の増大に直面する可能性もある。
 米欧に関しては、イランの核問題、北朝鮮及びシリア内戦をはじめとするグローバル及び地域問題について、ロシアが問題の扱い方を難しくする程度に応じて成算を失うことになりうる。これまでもロシアの政策はアメリカが望むほどのものではなかったにせよ、多くのアメリカ人が思ってきた以上に協力的だったのだ。ロシアをさらに殻の中に閉じこもるように追い詰めることは誰の利益にもならない。

3.アンジェラ・ステント「アメリカはなぜプーチンを理解しないのか?」

3月15日付のワシントン・ポストに掲載された文章です。ステントはジョージタウン大学のユーラシア・ロシア・東欧研究センターの主任と紹介されています。文章の中で彼女が自己紹介的に述べているように、1970年代にソ連研究を行い、長らく同大学で教えてきた根っからのロシア問題専門家のようです。1999年から国務省の政策部門で働いたことも紹介していますが、その時は正に旧ユーゴ問題をめぐって米露関係が険悪になったときでした。
 この文章の主眼は地域研究としてのロシア学の重要性を強調し、ロシア研究の人材を育成することが急務であることを説くことにありますが、ここでは、文章のタイトルにもなっている該当部分だけを紹介します。その指摘はマトロックと大幅に重なっていることが分かると思います。

 アフガニスタン戦争でロシアが協力者であった期待を抱かせる数カ月の後、イラク戦争及び2003年のグルジア及び2004年のウクライナにおけるカラー革命によってオバマのリセット政策はつぶれた。クレムリンとしては、2001年の9.11事件でアメリカを支持する見返りとして、ワシントンがロシアの「特殊利益地域」での権益を承認することを期待していた。しかし今日の場合と同じように、アメリカが西側との強い結びつきを求めるウクライナの勢力を支持したので裏切られたと感じたのだ。
 冷戦終結後の米露関係の悪化の原因は、1991年以来の双方の世界観及び期待値においてボタンの根本的な掛け違いがあったことにある。クリミア危機の原因は正に、ソ連が空中分解し、スターリンが敷いた国境に基づいて各共和国が独立したところにあるのだ。ロシア人の多くにとって、ウクライナが独立国となり、1783年以来ロシアの一部だったクリミアがフルシチョフの勝手な裁量でウクライナに「分譲された」ということは到底受け入れがたいことだった。そうであるからこそ2008年に、プーチンはブッシュに、ウクライナは本当の意味での国家ではないとまで述べたのだ。