東京都知事選結果について思うこと

2014.02.13

<開票結果> 舛添要一  2,112,979
宇都宮健児   982,594
細川 護熙 956,063
田母神俊雄   610,865
<投票率>
46.14% (鈴木俊一3選の1987年の43.19%、石原慎太郎再選の2003年の44.94%に次ぐ過去3番目の低さ)

9日午前9時過ぎに都知事選の投票から帰ってすぐにフェイスブック(FB)に次の文章を書き込みました。

 八王子は豪雪でした。家の周りだけですが雪かきをして、私の家の前を通るときは人々が安心できるように心掛けました。その後、都知事選の投票に行ってきました。私のところの投票率は8時の段階でなんと0.44%。
 皆さん、投票に行きましょう!! あまり嬉しくはありませんが、変な人が立候補してしまったために、私が支持する候補は今回はあまり浮動票を見込めません。しかし、これだけの積雪があると(他のところは八王子ほどではないでしょうが)、浮動票頼りの候補は相対的に不利になると思われます。堅い支持率を誇る候補は相対的に有利になるはず。大雪が事前のメディアの予想をくつがえす方向に働くかも、です。
 でも、ホントに足が滑りやすいですから、足元にはくれぐれも気をつけてください。
 みんなで誘い合って投票し、我らが候補を押し上げましょう!!

私が行った投票所に張り出されていた投票所の投票率の低さにびっくりし、「これはひょっとするとひょっとしてかも」と淡い希望を抱いたのが上記文章をFBに書き込んだ動機でした。結果的には冒頭の結果に見るとおり「淡い希望」は粉砕されましたが。とは言え、「変な人」よりは得票が多かった点では、部分的にせよ私の予想が当たっていたのかもしれません(2月11日付『しんぶん赤旗』によれば、投票率が前回よりも16ポイント以上下がるもとで、宇都宮氏の得票は前回得票を13,634票上回ったそうです)。もっと大雪崩現象を期待したのですが。
 選挙における各候補者の獲得票数を見て、いろいろ思うことがありました。私たちはとかく、「すんでしまったことについていつまでも思い悩んでも仕方ない」として終わったことを引き出しにしまい込んでしまいがちです。「過去を水に流す」ことを美風と捉える日本的土壌のなせる技だと思うのですが、しかし、「過去を忘れるものはその過去を繰り返す」という格言は、なにも戦争責任についてだけ意味があるわけではありません。起こったこと(過去)から教訓を引き出し、これから(未来)に生かすように心掛けることは、何ごとに関しても不可欠なことだと思います。特に今回の選挙結果については汲むべき教訓が少なくないと思うのです。
 ただし、これから書き記すことについてはなんの客観的データの裏づけもありません。すべて私の独断に基づくものです。これからの日本の政治が少しでも良い方向に向かって進んでいくことを常に願っているものの見方として一読願えれば、そして刺激を感じていただければ幸いです。

1.田母神氏の60万票は日本政治のこれからへの危険な予兆である

私が今回の結果の中でもっとも注目せざるを得なかったし、日本の将来に対して不吉な予兆として受けとめざるを得なかったのは、田母神氏が60万票以上を獲得し、しかも朝日新聞の出口調査によれば、20歳代の24%(実に4人に一人!) が田母神氏に投票し、若年層ほど同氏に対する支持が高かったということです。日本政治の右傾化傾向をこれほど端的に示すものはないと思いました。これが安倍政権支持の精神的基盤を構成しているのでしょう。
しかもこの傾向は、今後育鵬社の歴史教科書が広まれば広まるほど、ますます高くなっていくことが確実だということです。日本は本当に危うい、というのが私の実感です。

2.「勝てる候補」擁立・支持に走った人々には責任を痛感してもらわなければ困る

選挙結果が雄弁に示すとおり、宇都宮氏が細川氏よりも得票数が多かったという事実は、細川氏擁立・支持に走った人たちに対して、自らが設定した「勝てる候補」という基準に照らしても、その判断は間違いだったことを示すものです。これらの人々はそのことをしっかり認識し、自らの判断について大いに反省すべきです。今後の戒めにしてもらわなければ困ります。
 さらに重要なことは、細川氏が立候補を断念し、あるいは辞退していたならば、宇都宮氏が勝利する現実的な可能性があったということです。多くのマス・メディアは「舛添氏圧勝」と形容していたようですが、宇都宮氏と細川氏の得票数を合わせれば193万票であり、桝添氏の211万票に肉迫しています。細川氏擁立・支持に走った人たちが同氏に立候補を思いとどまらせ、あるいは立候補を辞退させていたならば、「候補一本化により勝つ可能性が出てきた、大きくなった」という判断のもと、投票所に足を運ばせる有権者が増えた可能性がありますし、その結果、情勢が逆転していた可能性は大いにあったと言うべきです。都民(ひいては国民)がそういうチャンスを奪われる結果になったことについて、細川氏擁立・支持に走った人々の政治責任は極めて大きいものがあります。この点についても、しっかり反省してもらわなければなりません。

3.私の「独断」には重大な問題が潜んでいる

ただし、私の以上の主張については、私自身もさらに考えるべき検討点が含まれていると感じています。特に、細川氏が立候補をやめていたら宇都宮氏の得票は両氏が獲得した票数の合計以上になった可能性があった、という「独断」については吟味が必要です。
 そう考えなければならない最大の要素は、「細川氏に投票した人たちのすべてが、細川氏の立候補なかりせば宇都宮氏に投票しただろう」という私の「独断」には、裏付けとなる根拠がないことにあります。むしろ「原発反対を明示した保守の細川氏が立候補したから投票に行ったが、彼が立候補していなかったら棄権していた」、あるいは「宇都宮氏と桝添氏との間の選択ということだったら、共産党が支援する宇都宮氏よりも、細川氏と主義主張が近い舛添氏を選んでいた」と考える人々が多く、選挙結果は文字どおり「舛添氏圧勝」を絵に描いた結果になっていた可能性があります。いや、その可能性のほうが大きかったかもしれません。
 この点についての議論を以下の4.でさらに敷衍したいのですが、その前に一言。宇都宮氏に投票した人々の場合、仮に細川氏への一本化ということで宇都宮氏が降りていたとするならば、そのほとんどは細川氏に投票したかもしれないということです。
 正直言って、私自身についてはその場合に細川氏に投票することはあり得ませんでした。「反原発」と言えば聞こえはいいですが、小泉政治が今日の日本の惨憺たる状況を生みだした直近の、最大の、そして最悪の元凶である以上、その小泉氏と平然と手を組む細川氏(彼自身をどう位置づけるかは今しばらく問わないとして)に私は一票を投じる気持ちはあり得ませんでした。「反原発」が水戸黄門の御印籠にされてはかなわないからです。私と同じ判断をする人は決して少なくないと思います。
しかし、宇都宮氏を支持した多くの善意の有権者は「桝添氏よりは細川氏の方がまだマシ」と考えて、細川氏に投票したのではないでしょうか。だから目減り数はそれほど大きくなかっただろうと考えられるのです。

4.共産党指導部には今回の選挙結果について考えてほしいことがある

以上のように考える私は、共産党指導部に対して、今回の選挙結果についていろいろ考えてほしいと思うことがあります。私は、共産党の第一線(草の根)で活動している、人間性に溢れる多くの党員の人たちと親しくさせてもらっています。また、尊敬に値する党員である学者・研究者が数少なくなく存在していることも知っています。この人たちが本当に善意でこの国のあり方を憂い、この国をなんとかよくしようとそれぞれの持ち場で奮闘していることに対して、私は心からの敬意を持っていますし、こういう人たちがいなかったならば、日本はとっくの昔に「戦争する国」に向けてまっしぐらに突き進んでいただろうと常々思っています。共産党員・支持者の多くは日本のデモクラシーの担い手として欠くことはできません。だから、私が注文をつける相手はあくまでも「共産党指導部」であって「共産党」そのものではないということを最初に強調しておきます。
 もちろん、私は共産党指導部について特別の知識を持っているわけではありません。ただ、私は長年にわたって中国政治を関心対象にしており、中国と日本の共産党指導部を比較してみることがしばしばあり、そういう中で日本の共産党指導部に対してもの申したいことがあるのです。
 中国共産党は毛沢東が唱道して以来の「群衆路線」(日本語では「大衆路線」と訳されるのが常ですが、"中国語の「群衆」=日本語の「大衆」"とすることに私は違和感がありますので、ここでは「群衆路線」で通します)に対するこだわりが非常に強いのです。これが「中国的デモクラシー」の生命源であると私は常々考えています。特に今の習近平・李克強指導部においては、胡錦濤・温家宝指導部の時よりも「群衆路線」に対する回帰傾向が強いと私は観察しています。
 「群衆路線」とは、一言でいえば「人民の中へ行き、そして人民の中から来る」「人民のために服務する」という、これも毛沢東由来の、中国共産党独自の思想・作風として表されます。それは「調査なくして発言権なし」という「調査研究」(中国語では「調研」)重視の姿勢を生みます。例えば習近平は、激務にもかかわらず、しばしば地方に出かけて「調研」を行っています(そもそも中国共産党の最高指導部に名前を連ねるものの多くは、地方で長年仕事し、その実績を評価されて最高指導部入りしたという経歴、したがって指導者として折り紙付きの経歴の持ち主が少なくありません。欧米日とはまったく異なる「選賢選良」システムが今や確立、機能しているのです)。
 もう一つ特筆する必要があるのは、鄧小平が特に強調した「実事求是」です。「事実の中に真理を求める」という意味合いですが、これは官僚主義に対する歯止めにもなります。
 また、今日の中国の改革開放路線の出発点となったのが1970年代後半に四川省や浙江省で試みられた農業改革であることはよく知られていますが、それを制度化したのがこれまた中国共産党独自の「試点」です。つまり、ある地域・単位を選んである政策を試験的にやってみて、そこから正反両面の経験を学びとり、さらに精製加工していく。そして他の地域・単位でも実験し、点から線へ、線から面へと広げていって最終的に全国的に実施するというやり方です。そのプロセスにおいては当然のことながら「群衆路線」「調査研究」「実事求是」が重視されるのです。
 また、古くから「信訪」「上訪」という制度もあります。中国共産党の政策・腐敗に不満を持つ基層レベルの人々が手紙で、あるいは直接当局の窓口を訪れて訴えることを受け付け、政策をチェックし、幹部の腐敗を取り締まるというものです(そういう訴えをうるさく感じ、邪魔に思う共産党の関係機関が弾圧の挙に出て、そのために各地に暴動が発生することは、日本のメディアが好んで報道することですが、これは中国についてはマイナス報道しかしないという日本メディアの特有現象でもあります)。しかし「信訪」「上訪」について考えなければならないことは、日本では、善良な民は「お上」の横暴に諦めて泣き寝入りするしかないのが多いのに対して、中国の民は「お上なにするものぞ」という意識が強いし、弾圧にひるまず自己主張するしぶとさを持っており、「信訪」「上訪」はそのための制度的保障として編み出されてきたということです。
 私は、「群衆路線」が中国において常に理想的な形で機能しているというのではありません。改革開放路線が本格化して以後の中国社会の腐敗・汚職のすさまじさは、「群衆路線」がしっかり機能していれば起こりえないことでしょう。しかし、私のここでのポイントは、「群衆路線」という思想・作風を中国共産党は備えているし、鄧小平から習近平に至る最高指導部は、濃淡の差はありますが、それを重視し、中国において実践しようとしているという事実です。中国共産党組織の末端あるいは中間層は腐敗まみれが多いのは事実でしょうが、「群衆路線」に対するこだわりを忘れない限り、「中国的デモクラシー」の前途は暗いものではないと私は考えています。
 中国共産党についての説明が長くなってしまいましたが、私が指摘したいのは、日本共産党には「群衆路線」に対応するものがあるように見えないということです。私の印象は多くの日本人の場合と同じで、日本共産党は「上意下達」の組織だというものです。
例えば私の専門領域である国際問題を取った場合、あれだけ優れた、数少なくない党員の学者・研究者がいるというのに、共産党の中国問題(私がもっとも意見があるのは尖閣問題に関する共産党の見解・立場)、朝鮮問題(私がもっともおかしいと思うのは朝鮮民主主義人民共和国に関する共産党の見方)に関して、共産党指導部が一度「有権的」解釈をしたら党員たるものはすげて「右にならえ」で、これらの学者・研究者の意見あるいは研究成果がどれほど反映され、くみ取られているのかはなはだ疑問に思われるということです。また、学者・研究者の側からも積極的な問題提起の声が提起されているようには私には見えません(私の限られた知見の範囲でのことですが)。「すべては代々木(党本部所在地)で決められる」という印象なのです。
ちなみに、中国ではまったく趣が異なります。中国の学者・研究者、メディア関係者の多くは中国の対外関係に関する原資料にアクセスが保障され、しかも高い自由度を保障されて発言しています。中国社会科学院、北京大学、清華大学をはじめとする研究機関や大学そして主要メディアの学者、ジャーナリストたちはしばしば政策プロセスに参画しています。これももちろん「群衆路線」の一環です。
政権党である中国共産党と小さな野党勢力の一つでしかない日本共産党を比較するのは問題だという異論はあるでしょう。しかし、中国共産党の「群衆路線」は1920年代以後からのもの(政権を取る前から確立していた)です。さらに言えば、政権党でない日本共産党の場合、衆知を結集する必要性はさらに高いと言うべきでしょう。
また私は時々各地の集会に招かれ、集会後の懇親会にも参加させてもらっています。そこでしばしば耳にするのが、「党の上の方(そもそも共産党に「上」「下」意識が働いていること自体が極めて日本的です)に意見を言っても無視される(取り上げてもらえない)」という声です。「意見を上げたら、批判された」という声を耳にした体験も少なくありません。
党員ではない人々の共産党に対する批判はもっと辛辣であることは改めて言うまでもありません。
長くなりましたが、私が言いたいのは、日本の社会の中で、「共産党だけはどうも」とする気持ちが今なお多くの人々を縛っている原因は、もはや「アカ意識」だけでは片づけられないのではないかということなのです。
「アカ意識」は確かに存在しています。明治以来の、執拗に押しつけられた官制の「アカ意識」が一朝一夕にきれいさっぱり拭い去られるはずはありません。しかし、共産党指導部における「群衆路線」の欠落(それを裏返せば「上意下達」の作風)は、今後ますます「アカ意識」に代わって、人々が共産党から距離を置く原因として働くのではないでしょうか。なぜならば、それはデモクラシーとは無縁、さらに思いきって言えば共産党指導部の独善的な体質を生む要因だからです。
党員は「民主集中制」を受け入れて入党したのだからある意味「仕方ない」としても、圧倒的に多くの非党員である国民にとっては、共産党指導部の「独善」(「群衆路線」の欠落)に対する違和感が政治選択の幅を狭める方向に働くことは間違いないと思うのです。この点を共産党指導部にはよくよく考えてほしいと思います。
この問題に共産党指導部が自らメスを入れない限り、そして「共産党は確かに変わった」という実感が主権者・国民の多くに共有されない限り、共産党が日本政治の現実的選択肢として浮上することは「百年河清を待つ」ではないでしょうか。これが、今回の都知事選の結果を前にして、私が改めて思いを深くした点です。
最後に、なぜこのようなことを問題提起するのかについて。世の中が「天下泰平」であるならば、私は何も言う気持ちにはなりません。「自供対決」でもなんでもやっていてくれ、という気持ちでしょう。しかし、来る6月にも「集団的自衛権行使は第9条のもとで認められる」とする解釈改憲のクーデターが行われる可能性が現実味を持ってきている日本の切羽詰まった政治状況を考えるとき、私は、共産党指導部にも是非危機感を共有し、脱皮してほしいのです。
なぜならば、安倍政権の危険を極める暴走を阻止し、日本政治のこれ以上の劣悪化をチェックするためには、改憲阻止の一点で世論を結集することが緊要不可欠であり、そのためには、改憲に反対する諸々の政治勢力のなかでもっとも力がある共産党が核になってもらわなければならないからです。そのためには、以上に指摘した問題を共産党指導部が直視し、日本のすべての民主勢力(人民)に服務する「群衆路線」を早急に我がものにしてもらうしかないと私は確信するのです。