中国と憲法の間(あいだ)

2013.09.26

*8月31日に広島で行われた日本弁護士連合会第56回人権擁護大会・広島弁護士会シンポジウム「中国脅威論と憲法改正問題 ~憲法9条で日本は守れるのか!~」で、表題で冒頭報告を行いました。丸山眞男『戦中と戦後の間』をもじってつけた演題です。テープ起こしされた原稿が届いたので、字句修正をして送り返しましたが、その修正したものを紹介します(9月26日記)。

皆様こんにちは。浅井でございます。2年前に広島を離れましてから久しぶりにお目にかかる方もあると思います。よろしくお願い致します。発言レジメをお手元に配って頂いております。時間が40分ということですので、このレジメに従って、なるべく無駄口を叩かないでお話しをしていきたいと思います。
「中国脅威論と憲法改正問題」というタイトルを拝見した時に、さしたる違和感はありませんでした。違和感を覚えなかった原因は、自分で考えるに2点あると思います。1つは、「中国脅威論」が出てくれば、憲法第9条の非武装平和主義は「非現実的」であるという考え方になり、したがって「改憲も必要である」という主張が多くの国民の耳に入りやすい状況が生まれているのではないかと思います。2番目は、広島弁護士会のシンポの企画者の方もそういう状況を念頭に置いて、このタイトルを設定されたのだろうという予想がついたということであります。
しかし、「中国脅威論」と「憲法改正問題」とは確かに関係はありますけれども、「中国の脅威があるから憲法を改正しなければならない」という直接の因果関係はないということであります。と言いますより、ここに書きますように、改憲論は「中国脅威論」が盛んに言われるようになる前から唱えられてきたことであります。
また、「中国脅威論」が本格的に唱えられるようになったのは、2010年の尖閣の漁船衝突事件を直接の契機とする、いわゆる「尖閣問題」以後のことであります。したがって、「中国脅威論と憲法改正問題」という、このシンポジウムの冒頭発言で、私が明らかにしておきたいと感じますのは次の4点であります。
I. 「憲法改正」を主張する人たちが、改憲の必要性を主張する基本的な考えは何であるかを私なりに確認し、その問題点を指摘することであります。
II. 改憲論と「中国脅威論」とが、改憲論の立場をとる人々によって、どういうかかわりを持たされているかを私なりに整理し、その問題点を指摘することであります。
III. 「中国脅威論」は作り話でしかなく、「中国脅威論」を改憲論とかかわらせようとする試み、あるいはこれを改憲論の補強材料にしようとする試みは、国民的に広がっている嫌中感情を利用するためにするものであるということを明らかにすることであります。 IV. 憲法改正問題を考えるに当たっては、「ポツダム宣言受諾」の結果として、日本国憲法が制定されたという大前提抜きの議論はあり得ないことを明らかにしたいということであります。
 時間の制約でどこまでお話しできるか分かりませんが、お話しできない部分はディスカッションで補足できればと思っております。

Ⅰ.「改憲論者の基本的な考え方」

私が思うに3つのポイントがあると思います。
 1番目は『戦前政治を肯定的に受け継ぐ思想的立場』ということであります。そういう人たちの立場を理解する上で、私は昭和天皇の終戦詔書というのが非常に参考になると思います。お手元に配って頂いた付属資料1の3ページの5を後で見て頂きたいと思います。まず、≪過去に対する反省の欠如あるいは拒否≫ということであります。抜粋して書きましたように、「米英に宣戦した理由は、まさに帝国の自存と東亜の安定とを願うところにあって、他国の主権を排し領土を侵すというようなことは、固より私の志ではなかった」ということであります。つまり、日本は悪いことはしていなかったのだと。したがって反省すべき歴史などないということになります。もう1つ、≪捲土重来を期す≫あるいは≪臥薪嘗胆≫ということであります。つまり、「戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず、惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至った」と。「したがって堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを思い、総力を将来の建設に傾け、国體の精華を発揚し、世界の進運に遅れざらんことを期すべし」と言っている訳です。したがって、1945年に渋々敗戦を受け入れた訳ですけれども、また時期が来たれば再興しようではないかということであります。平和憲法を止むを得ず受け入れたということであって、いずれ時期が来れば変えるということになってくると思う訳であります。
2番目のポイントは『自主憲法を制定する』ということであります。これは、自民党が出しました日本国憲法改正草案を見れば分かる訳でして、付属資料2で、私が批判的にまとめたものを付けておきましたのでご参照下さい。
自主憲法を制定したいというのは、根本にはアメリカによる「押し付け憲法」に対する拒否感というのがあることは勿論であります。その結果、日本国憲法改正草案では3つ大きなポイントがあると私は感じています。1つは、平和憲法に言う国民主権を「元首たる天皇」を強調することによって、曖昧にさせるということであります。次に、基本的人権を平和憲法は定めている訳ですが、これを「公益及び公の秩序」に服従せしめるということでありまして、国あるいは権力が個人の上に立つという立場を押し込もうとしております。3つ目が自衛権の発動ということであります。
その自衛権、あるいは問題になっている集団的自衛権、及び集団安全保障に関する主な問題点についても、付属資料2の5~7ページに書いておきましたので、興味のある方は後で見て頂きたいと思います。私達が通常議論しているのは「国家の自衛権」であります。当たり前のように議論されておりますが、私はもう古いと思います。古いと言うか、淘汰されるべき考え方だと思います。それは、「民族の自決権」というものの延長として考えれば、自衛権というのも主権者である国民、あるいは「人民の自衛権」でなければならないということでありまして、これは付属資料2の5~7ページに書いておきましたので、後程ご覧になって下さい。実は、これは丸山真男さんの「憲法第9条をめぐる若干の考察」という論文にも、「人民の自衛権」という言葉では言っておりませんが、実質的に同じことを言っておられます。次に、日本国憲法改正草案から出てくる非常に危うい要素は、自衛権を先制的に発動するということも含ませようとしている点であります。それは付属資料2の7~8ページに書きました。それから、問題となっております、集団的自衛権。さらに言えば、集団安全保障という問題も込められています。それぞれ該当の箇所を後で見て頂きたいと思います。
3番目が『ポスト冷戦におけるアメリカの世界戦略への呼応』という要素であります。これは日米軍事同盟をNATO並みにするということであります。そのためには、どうしても日本国憲法を変えなければいけないということになります。その中身について少し詳しく説明をしたいと思います。
まず、≪アメリカの対外戦略≫とはどういうものかということであります。これには、歴代政権の対外戦略の特徴的要素とオバマ政権における要素、この2つを考える必要があると思います。
まず、「歴代政権の対外戦略の特徴」というのは、主に4つあると思います。
① 世界経済に対するリーダーシップを掌握するということ。オバマ政権においては、アメリカ経済に対する深刻な危機感が加わっています。
② 伝統的な国際観。つまり、パワー・ポリティクスですね。
③ アメリカ的価値観への拘りがあります。これは、J.メイヨールというイギリスの国際政治学者が書いた『世界政治』という本に、「アメリカの経験がアメリカだけでなく、人類全体のモデルであるという根強い信条があって、それを世界に広めていくのがアメリカの責任である」という自負があるということであります。
④ アメリカには「国際社会」という考え方はありません。ほとんど欠落しています。その代りにあるのは、「国際共同体」さもなくば「国際システム」という考え方であります。「国際社会」と「国際共同体」の違いは、異質な存在との共存を前提としたのが「国際社会」。しかし、異質な存在を同化させてしまうか、または排除することを前提とした考え方が「国際共同体」であります。最近の実例としては、シリアの問題がございます。
次に、「米ソ冷戦終結後の軍事戦略」であります。アメリカには、自国の軍事戦略に合わせた集団的自衛権の恣意的な拡大解釈の傾向が表れています。その背景事情というのは、まずアメリカ中心主義は手放さない。しかし、アメリカは経済・財政的にヨレヨレになっておりますので、同盟国を糾合しなければアメリカ中心主義の軍事覇権は世界的に維持できないという事情がある訳であります。それがどういう発展経緯を辿ってきたかと言いますと、まずブッシュ(父)政権の時には湾岸戦争があって多国籍軍という形を生み出しました。クリントン政権の時にはコソボ問題がありました。ユーゴの分裂を招いた悲惨な事件でありますけれども、そこにおいて人道的な介入を全面的に押し出していきました。そして、その経験を踏まえて、NATOに「新戦略概念」というのができております。これが1999年であります。ブッシュ(子)政権の時には「9・11」事件があり、その際にNATOの新戦略概念に基づく「集団的自衛権」の行使が初めて適用されていくということになりました。
「集団的自衛権の拡大解釈」にはどういう内容が含まれているのかと言いますと、そこにたくさん書いておきました。1つ1つ詳しく説明しないと中身が分かり難いと思いますが、残念ながら時間がございませんので、後で質疑の時にでも提示して頂ければお答えしたいと思います。ただ重要な問題は、実は「集団的自衛権」というのは国連憲章で初めて認められた権利でありますけれども、事実上「何でもあり」ということになりますと、安保理による授権がなくても行使できるということになってしまいます。それが、コソボの際の空爆という実例でありますし、今まさにオバマ大統領がシリアに対して何かしようとする時に、「国連安保理の決議が得られそうもないけれども、やるんだ」ということになれば、こういうことになっていく訳であります。実は、こういう勝手気ままな「何でもありの解釈」が如何に問題かということで、そこに1つ挙げております。ドイツ人の国際法学者で、2003~2012年に国際司法裁判所判事を務めたBruno Simmaという方です。"The Charter of United Nations、 A Commentary"という膨大な編著がある方で、まさに国連憲章法の国際的権威と考えてもいいと思うのですけども、彼の書いた一つの論文の中に次のような文章があります。「自衛の範囲をこのように拡げることは、法的に言えば、NATOという法的機関にとってあり得ないことであり、馬鹿げており、それ以上のコメントに値しない」。それはまさに、私自身の理解でもあります。
オバマ政権は、以上に申し上げた前政権がやって来たことをそっくりそのまま引き継いでいる訳ですが、それに加えて≪アジア回帰戦略≫というのをやっております。世界的経済成長の牽引き車としてのアジア、なかんずく中国に対する再認識というものでありまして、対中経済関係を重視する一方で、アメリカ主導の経済システムを形成しようとしています。それがTPPになる訳です。
しかし、中国に対する違和感、それは価値観や体制的な違いに由来するものであります。それから警戒感。これはアメリカの伝統的な「脅威」認識なんですけれども、そこで日米軍事同盟を要石とする対中軍事封じ込め。対中軍事包囲網の形成という戦略が出てまいります。そういうのがアメリカの戦略の特徴的要素であります。
次に、そういうところからどういうものが出てくるのかと言いますと、≪日米軍事同盟を実質的にNATO化≫することであります。つまり、NATOが先鞭をつけた「拡大解釈」に基づく集団的自衛権行使を、日米軍事同盟においても実現することが目的であります。これまでは「集団的自衛権行使は憲法違反」とする歴代自民党政権、法制局の憲法解釈だったんですけれども、それを突破する必要がある訳ですね。その方法として「解釈改憲」と「明文改憲」があるということ。「解釈改憲」というのは、多数を頼んだ暴走ということですけれども、その多数の状況というのは、国会状況如何では再解釈で元に戻す可能性を残す訳ですね。ですから「明文改憲」を引き続き考えているということだと思います。
この「実質的なNATO化」ということで何を考えようとしているのかと言いますと、アメリカの戦争に即応できる体制を日本に確立するということであります。
「国内での集団的自衛権についての議論の問題」を3つ挙げておきました。
① 米ソ冷戦終結後のアメリカ主導の戦争は、1991年の湾岸戦争を除けば国際法違反と言われているケースが圧倒的に多いことが、日本国内ではことさらに無視されています。
② 国内の集団的自衛権に関する議論は圧倒的に自民党、及びその背後にいるアメリカのペースに支配されております。したがって私に言わせると、国際法における自衛権及び集団的自衛権に関する正しい理解・認識を事実上、排除しているということであります。
③ さらに私が問題と思っていることは、集団的自衛権行使を違憲とする側の議論も、事実上NATO的な拡大解釈そのものには異論を唱えていないという点です。ですから、集団的自衛権と言えば、「どんな戦争もあり」「止むを得ない」と皆さんが受け止めているということであります。付属資料2を参照下さい。私は、自衛権・集団的自衛権というものは厳密に解釈すべきものであるし、また国連憲章に基づいて解釈されるものだと思っています。Bruno Simmaもそれを強調しています。ですからそういうものを踏まえて、「集団的自衛権を認めれば、どんな戦争にも参加できる(参加できてしまう)という理解自体がおかしい」ということを考えなければいけないと申し上げたい訳です。
Ⅰの最後として、『改憲論の最大の皮肉』。これは、アメリカの「押し付け憲法」を排除して自主憲法を持ちたいと考えている人達が、そのアメリカの軍事的要求に応えることをもって、改憲の最大の動機の1つとしていることであります。

Ⅱ.改憲論における「中国脅威論」の位置づけ

アメリカの世界的軍事プレゼンス及び日米軍事同盟の変質強化を正当化するために必要とされてきたのが、対外的な「脅威」の存在という問題であります。なければ人為的に作り出すということが行われてきました。
米ソ冷戦時代…ソ連、そしてカッコ付きで中国でありました。
ソ連崩壊後~2006年…アメリカが挙げていたのは「様々なタイプの脅威」ですね。国際テロリズムとか大量破壊兵器の拡散とか、いろいろあります。そして「9・11」以後は「対テロ戦争」を前面に押し出したということであります。これに対して日本は、対テロ戦争に全面的に参与できなかった。小泉首相は参与したかったのでしょうが、できない状況下で、どうしてアメリカの要求に即応した対米軍事協力体制づくりを推進するのか。それについて国民的に説得する材料が必要である。国内的に正当化するために、「北朝鮮の軍事的脅威」を作り出した訳であります。
オバマ政権下…アメリカは、≪アジア回帰(再調整)戦略≫を打ち出す訳です。これを「対中軍事対決戦略」と単純に決めつけるのは正しくないと思います。しかし、台頭する中国を最大の軍事ライバル視する、「潜在的脅威」認識は時とともに強まっています。それに対して日本はどうかと言うと、日本の人達は中国を脅威呼ばわりすることにはためらいがずっとあった訳です。それゆえに「北朝鮮脅威論」に訴えて、日米軍事同盟の強化を推進してきました。ところが2010年に尖閣での漁船衝突事件があって、以後の日中関係の悪化を機に、「中国脅威論」というのが前面に押し出されてきたということになると思います。しかし、微妙なことがありまして、尖閣問題対処においては、日米間に落差があります。
『尖閣問題対処における日米間の落差』
日本は尖閣問題への日米安保条約の適用を強調することで、日米軍事同盟の有効性をアピールし、国民に売り込むということをやっておる訳です。そして、中国の増大する「軍事的脅威」に備える意味においても改憲が必要だというロジック。まさに今回のシンポジウムのテーマに行き着く訳ですね。
それに対してアメリカは、尖閣問題で明らかになったオバマ政権の「タテマエ」と「ホンネ」というものがあります。≪タテマエ≫は、アメリカは領土問題で立場を取らない。しかし尖閣は日本の施政権下にある。で、日米安保条約は日本の施政権下にある尖閣に適用がある。しかし≪ホンネ≫は、尖閣問題は日中間で話し合いによって解決するべきであると、一貫した立場であります。ちなみに、話し合いで解決すべきというのは、「領土問題は存在しない。したがって領土問題で話し合うことは何も存在しない」とする安倍政権の立場に対する客観的な鋭い批判なんですね。しかし、日本では。メディアを含め、その点がほとんど指摘されていない。もっと≪ホンネ≫は、尖閣が如き「岩礁」のために軍事的に巻き込まれるのは願い下げということであります。
『アメリカにとっての悩ましさ』
日本が集団的自衛権を行使できないとなると、アメリカの世界戦略遂行上は容認できません。NATOと同じように、東の日米安保がアメリカの戦争をお手伝いしてくれるようでなければ困る。
しかし、戦前政治への回帰色を強める安倍政権が、中国・韓国の最大の警戒材料でありますけれども、それがアメリカを利用して改憲への歩みを進めることは痛し痒しということであります。
アメリカとしては、改憲をしなくても「アメリカ流の何でもありの集団的自衛権」を行使できる日本であればそれでよくて、日本のために、ましてや尖閣如きで中国との対決に追い込まれることは絶対に避けたいということであります。
こういう日米間の温度差を踏まえた時に、「中国脅威論」というのは本当にあるのか、中国の脅威というのは本物か、ということであります。

Ⅲ.「中国脅威論」という作り話

「中国の脅威」についてよく言われる4つの問題について、私の考え方を簡単にまとめておきました。

1.『今回の尖閣問題で軍事的緊張を作り出したのは中国?』
「尖閣問題で軍事的緊張を作り出したのは中国だ」という風に言われれば、みんなが「そうだそうだ」と言います。しかし日中間では、尖閣問題は「棚上げ」という了解・共通認識で平穏に推移してきた歴史的な日中関係があります。ですから1972年~2010年までは、尖閣でこのような事態になることはなかった訳です。私が外務省にいた時もありませんでした。「棚上げ」という了解の基に、日中関係を考えておりました。今回の問題を作り出したのは民主党政権でありますし、それを継承したのが安倍政権であります。そこについての事実関係は、下記のような経緯がありますので見ておいて頂きたいと思います。
2010年9月の中国漁船衝突事件に際して、「日中間に領土問題は存在しない」「国内法に基づいて処理する」と言い放った当時の前原外相(当時)
石原都知事(当時)の「買い上げ」発言(2012年4月)
野田首相の「国有化」発言(2012年7月)、その強行(同年9月)
民主党政権下の既成事実にあぐらをかいた安倍政権
とにかく、私が何よりもおかしいと思うことは、自民党政権下で日中間の棚上げの了解ができた訳です。それを、同じ自民党政権の安倍氏が、先輩達が作った「棚上げ」という相互了解というものはなかったとして、民主党政権がやったことをちゃっかり継承して居直るという態度。これは、根本的に問題があると私は思います。

2.『尖閣は日本の領土?』
 「尖閣は日本の領土なのに、中国が出しゃばってくるのはけしからん。脅威だ」と言う考え方についてですが、私はこれについてはいろいろありますが、一番基本的なことは、≪ポツダム宣言第8項後段≫に皆さんの注意を促したいということです。そこには、「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国、並びに我ら=すなわち連合国(具体的には米中露)=の決定する諸小島に局限せられるべし」と言っていることであります。したがって、尖閣はおろか沖縄すらも、連合国(米中露)がどこに服せしめると決めたら、日本はそれに従うことをポツダム宣言を受諾した際に受け入れているということであります。
聞くところによると、「ポツダム宣言は政治的文書で法的拘束力を持たない」という苦し紛れの議論をして、「このポツダム宣言第8項の意味はない」という人もいるかのようでありますけれども、昭和天皇の終戦詔書、それから9月2日にミズーリ号で日本が署名した降伏文書を挙げておきましたので見て頂きたいと思います。要するに、日本がポツダム宣言を受諾したから降伏が受け入れられた訳ですね。もしポツダム宣言が紙切れだとしたら、日本は何に基づいて降伏したのかということが根本的に問われなければいけない事態になります。ですから、ポツダム宣言の条項を履行するという約束をした以上は、このポツダム宣言第8項後段は私達にとって拘束力がある規定だということになります。したがって、日本政府は「固有の領土」と言っておりますが、言いたいことは分かりますし、言うことは自由ですけれども、固有の領土であるかないかにかかわらず、アメリカ・中国・ロシアが「これを日本のものではなくする」と言ったら、それで終わりということですね。とにかく、最小限言えることは、日本は尖閣の帰属について発言する権利はないということです。それが国際法というものです。「それはおかしい」と言われる方があるかもしれませんが、ポツダム宣言の恐ろしいまでの威力というのは、明治憲法を現在の日本国憲法にまで変えさせる力だった訳ですね。超法規的な効力を持っている。それが増して言わんや、領土問題においておやと、皆さんに考えて頂きたいと思います。

3.『中国は軍事大国化への道を邁進しているのか?』
中国は軍事大国化への道を確かに邁進しているのですが、それについては彼らなりに理由があるんです。ここにいろいろと挙げておきました。
経済建設に邁進する中国は、長期にわたる平和な国際環境を必要としています。
権力政治のゼロサムではなく、国際的相互依存の「ウィン・ウィン」の関係(新型大国関係)を唱えています。
台湾問題、最近は東シナ海及び南シナ海問題が加わり、アメリカの軍事的な脅威を感じており、軍事力増強はそれに対する備えであります。最近のペンタゴンの報告もそのことを認めています。
中国をも念頭に置いて進められている日米軍事同盟の強化に対する備えの意味。
米日の軍事力、(海空)は中国を圧倒的に上回り、アメリカの政策は、日本の協力を確保して対中圧倒的優位を確保することにあります。
舌足らずなので1つ加えておきたいのは、日米軍事同盟を強化することは、中国の軍事力増大に対する受身的な対応ではないということです。日米が軍事力を強化することによって、常に、中国が戦争を考える気持ちも起きないほどの圧倒的優位をアジア・太平洋において確保するというのがアメリカの戦略であり、それに従おうとするのが今の日本なんですね。そういう意味から言いますと、中国の軍事力増強というのは、アメリカ・日本の圧倒的な軍事力増強に対する対抗策であるというのが本質であります。

4.『中国は核ミサイル攻撃をしてくるのではないか?』
そういう議論もあります。しかし、中国は「最小限核抑止」を政策の基本に据えております。これは相手を攻撃するほどの核戦力は持たないというもので、先制核攻撃はあり得ない。しかし相手が攻撃したら、甚大な被害を及ぼすだけの報復核攻撃はするぞ、ということなんですね。ですからアメリカからしたら、中国は自分に対して核攻撃をしてくることはないという安心感がある。しかし、中国に対して先制核攻撃をしかけたらサンフランシスコがなくなる、ロサンゼルスがなくなるということを覚悟しなくてはいけない。したがって、アメリカとしても中国に核戦争をしかけることはできない。アメリカをして対中戦争を思い止まらせるという考え方に立っているのが中国の「最小限核抑止戦略」であります。中国が日本に対しても理由なく核攻撃をしかけたら米中戦争になりますから、そういうことは中国の「最小限核抑止戦略」から言って、あり得ないということであります。それはアメリカにおいて非常によく理解されていることであり、それを理解しないのは私達であります。米日の弾道ミサイル防衛システムこそが、中朝を睨んだ攻撃的なもの。「先制的自衛」に最初に活用される兵器システムです。したがって、「攻撃的な中国に対しての防衛手段」というような、日本政府の宣伝を信じ込まされている国民の考え方こそが問題であると思います。
結論として、「中国が攻めてきたらどうする?」という類の「中国脅威論」は、天安門事件以来、強まった国民的な嫌中感情を利用した、全くの作り話であります。

Ⅳ.ポツダム宣言と日本国憲法

水島先生がおられますので、私がとやかく言うことではありませんが、まとめて言いますと、平和憲法を生んだのは「ポツダム宣言」ということですね。したがって、国際的な要素、歴史的な要素を無視した平和憲法の理解はあり得ないのではないか、というのが私の考え方であります。大西洋憲章、ポツダム宣言というものがありまして、付属資料1を後で参照下さい。特に、ポツダム宣言に基づいて、日本を国際的に無害化する・脱軍事化する・民主化するという方針が打ち出され、それを日本が受け入れたことによって平和憲法ができたということであります。
したがって、この平和憲法を変えようということは、私は今日の日本国内で行われている改憲論には致命的な問題があるのではないかと思っています。日本国内では第96条の改憲が議論になっているという印象であります。勿論、第96条の問題は重要であります。しかし私は、国際的な要素というもの、歴史的な要素というものを、抜きにしてはいけないのではないかと思う訳です。つまり致命的な問題とは―
ポツダム宣言を受諾して降伏した日本は、二度と国際の平和と安全を脅かす存在にならないという義務を負っております。憲法はそういう義務を積極的に担い、果たすことを国際的に約束した基本的文書であって、したがって日本が勝手に変えることは許されない性格のものであります。
もし改憲しようとする人がいるならば、その人は、改憲内容がポツダム宣言と矛盾しないこと、あるいは日本がポツダム宣言から逸脱することについて同宣言の当事国(アメリカ・中国・ロシア・イギリス)の了承を取り付けなければならないはずであります。
ポツダム宣言当事国の了承が取り付けられない場合にも改憲しようとするのであれば、このポツダム宣言を破棄しなければなりません。それは取りも直さず日本降伏の大前提を突き崩すという行動を一方的に取ることであり、日本は現在の朝鮮以上に「国際の平和と安全に対する脅威を構成する」ことを覚悟しなければなりません。したがって改憲する側は、そのことについて国民の判断を仰ぐべき義務があると私は思う訳であります。

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