「集団的自衛権」問題のポイント整理

2013.09.05

*誘いに応じて書いた文章を紹介します。本来はもっと書きたいところも、3000字という字数制限で諦めています。特に、NATOと日米軍事同盟との違い、集団的自衛権の中身-国際法上認められている範囲とNATO「新戦略概念」が勝手にできるとしている範囲との違い-、安保理決議が認めさえれば何でもありなのか等々、非常に重要なポイントを書き込むことができませんでした。また、いずれかの機会を待ちたいと思っています(9月5日記)。

 「日米同盟に対するアメリカの信頼を確かなものとし、中国及び北朝鮮の脅威に対処するためには、集団的自衛権を行使して日米防衛協力の実を挙げるようにすることが不可欠。そのためには、この権利の行使を禁じてきたこれまでの9条の憲法解釈を変えるか、9条を改正すべきだ。」以上が「集団的自衛権」の行使を主張する人々の議論のさわりです。
多くの日本人がこの議論をどう考えればよいのか迷っていることは最近の世論調査の結果に現れています。「戦後長い間日本が平和でいられたのは平和憲法のおかげだと思う。しかし、中国や北朝鮮の脅威を考えると、アメリカとの同盟関係も大事だ。でも、集団的自衛権ってよく分からない。」これが多くの人の中でくすぶっていることではないでしょうか。
そこで、「集団的自衛権」行使論者の議論を点検し、多くの人の悩み、迷いに答えます。

「集団的自衛権」とは何ものか。国連憲章(第51条)は国家の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」と定めています。したがって「集団的自衛権」行使論者も、「集団的自衛権は固有の権利だ」と主張しています。
確かに自衛権(つまり個別の自衛権)は、国家にもともと備わっている国際法上の権利です。しかし、「集団的自衛権」は、大国特にアメリカの都合で国連憲章にはじめて顔を出した、いわば強引につくり出された権利なのです。私が「集団的自衛権」とカッコ付きにする所以です。

何故アメリカは「集団的自衛権」をつくったのか。国連憲章は戦争をはじめて違法としました(第2条4)。戦争はやってはいけないことになったのです。戦争で明け暮れしてきた人類の歴史を根本から変える積極的な意味を持つ出来事です。
しかし国連憲章は、他国から攻撃、侵略される可能性は否定できないと考え、これを撃退するための自衛権行使は、「国連憲章が禁止する戦争には当たらない」例外としました。ところがアメリカはさらに、憲章交渉の土壇場の段階で、米ソ冷戦が激化しつつあった当時の国際情勢を睨み、ソ連と対抗するための軍事体制づくりの法的な拠りどころとして「集団的自衛権」という「権利」を憲章に潜り込ませたのです。北大西洋条約機構(NATO)もその後に作られた日米安保条約も、集団的自衛権に基づいて作られました。
米ソ冷戦が終わったのに、なぜ今更「集団的自衛権」が出てくるのか。ソ連と対決するアメリカの世界戦略に協力する役割を担った日米同盟、NATOですから、ソ連が崩壊したら用済みではないか、と私たちは常識的に考えます。
しかし、アメリカはそうではありません。アメリカは建国以来世界をリードする使命感が強く、第二次大戦以後は「世界の警察官」を自任してきました。ソ連の脅威がなくなると、大量破壊兵器拡散の危険性、国際テロリズム、地域紛争などを「新しいタイプの脅威」とし、これに対処するために、引き続き世界最強の軍事力を持つことが必要だとしたのです。ところが、かつてのような圧倒的な経済力の裏付けを持たないアメリカには同盟国の支持と協力なしにはもはややっていけません。そのために、NATOや日米同盟の役割・機能の見直し・拡大を要求することになりました。ここで「集団的自衛権」問題が改めて浮上してきたのです。

NATO諸国と日本はアメリカの要求に応じたのか。アメリカの要求に応じたのはNATOです。NATOは1990年代の試行錯誤(湾岸戦争、ユーゴ内戦)と活発な議論の末、1999年に「新戦略概念」を採用しました。これによりNATOは、「集団的自衛権」の弾力的な適用、NATO以外の地域への出動(域外適用)、安保理決議が得られない場合の出動など、いわば「何でもできるNATO」となる方針を決定したのです。
このようなNATOのあり方に対して、権威ある国際法学者により、戦争を禁止した国連憲章に違反すると指摘されています。しかしアメリカは、9.11事件対処、対イラク戦争、対アフガン戦争、リビア空爆などでNATOを最大限活用してきました。

日本はどうなのか。アメリカは、1990/91年の湾岸危機・戦争を皮切りに、日本の積極的な対米軍事協力を要求してきました。その根っこにあるのが「カネだけでなく血も流せ」.即ち「集団的自衛権」行使の要求でした。
憲法とアメリカの要求との板挟みになった歴代政府は、国民感情を配慮して「軍事的国際貢献論」という看板を掲げつつ、対米軍事協力の実を挙げることに腐心してきました。自衛隊のPKO派遣、掃海艇及び給油艦のペルシャ湾及びインド洋への派遣、イラクへの地上部隊派遣、ソマリア沖海賊対策の護衛艦派遣等です。有事の共同作戦行動を想定した陸海空の日米合同軍事演習も積み重ねられています。しかし、「集団的自衛権」は行使できないとする立場を変えない限り、アメリカの対日要求を満足することはできません。
自主憲法の制定を目指す安倍首相は、「憲法上、集団的自衛権の行使はできない」とする歴代政権の憲法解釈に対しても極めて批判的で、その解釈を変えるべきだという立場です。2006年に安倍首相が設置した「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が2008年に出した報告書は正にその産物です。2012年に再び政権を取った安倍首相は、今度こそ「集団的自衛権」行使を実現し、日米軍事同盟をNATOに近づけることに意欲を燃やしているのです。

しかし、日本の問題は、「中国や北朝鮮の脅威に対処するための集団的自衛権行使の是非」ということではないのか。アメリカがロシアや中国に無警戒ということではありませんし、大量破壊兵器の拡散防止として念頭にあるのはイラン及び朝鮮の核開発問題です。しかし、そういう要素も含め、あらゆる事態に対処できる軍事体制を作り上げるというのがアメリカの世界軍事戦略です。それなのに日本では、メディアが中心になってひたすら「北朝鮮脅威論」、「中国脅威論」が強調されるのは訳ありなのです。
一つは、多くの国民が「北朝鮮の脅威」、「中国の脅威」を感じさせられていることです。ですから、「中国や北朝鮮からの攻撃に備えるためには集団的自衛権行使で日米同盟を強化することが必要だ」と言われれば納得しやすいのです。
もう一つは、アメリカの対日要求の中身が分かったらまずいという判断です。平たく言えば、アメリカの要求は、日本がアメリカ(及びNATO)とともに世界の警察官となることです。自分の身を守るためには備えが必要と考える人も、世界を軍事力で仕切ろうとするアメリカには違和感が強いし、ましてや日本が積極的にその片割れとなることにはほとんどの人が賛成しないでしょう。だから「中国脅威論」や「北朝鮮脅威論」を煽ることで、問題の本質を見えないようにしているのです。

だが、中国や北朝鮮の脅威に対する備えはやはり必要ではないか。中国や朝鮮がアメリカ、日本に戦争を仕掛けてくるというシナリオはアメリカにもありません。朝鮮が無謀に攻撃を仕掛けたら、次の瞬間には朝鮮全土が灰になるということは、広島、長崎を経験した人類的教訓(朝鮮指導者を含む)だからです。中国が自ら戦争を仕掛けることもあり得ません。国際的相互依存の世界で経済発展に余念がない中国が戦争を起こすことは自らの首を絞めるだけであることは明らかだからです。「中国脅威論」も「北朝鮮脅威論」も作り話ですから、これに踊らされるのは愚の極みです。

私たちのとるべき立場は何か。1990年代からの大規模な戦争はすべてアメリカが震源地です。核兵器を知った人類及び国際的相互依存が圧倒的に支配する世界にとって、アメリカの世界軍事戦略を改めさせることが最大かつ喫緊の課題です。日本国憲法を擁する日本は、日米軍事同盟を清算することを第一歩とし、アメリカの国際情勢認識及び世界政策の根本的転換を促す役割を率先して担うべきです。大国・日本にはその力があります。すべては、主権者・国民がこの国の進路を誤らない決定を行うことができるかどうか次第です。

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