日本の対朝鮮半島政策を考える

2013.07.15

*最近誘いを受けて、日本の対朝鮮半島政策について考える文章を書きました。字数の制限もあって若干舌足らずの箇所があったので、その点を書き加えてみたのが以下の文章です。皆様の参考に供します。
 私事なのですが、6月25日に腹膜炎を起こして「即入院」と医者に言われたぐらい(入院だけは勘弁してほしいと願い下げにしてもらいました)で、10日間ほどは体も頭も使い物にならない状況で苦しみました。7月に入ってやっと元通りの体調を回復し、締め切り期限を過ぎていたこの文章に取りかかったというわけです。直近のコラムから3週間近い時間が過ぎてしまいましたが、また、こつこつとコラムを更新していきたいと思いますので、よろしくお願いいたします(7月15日記)。

<第二次大戦敗北までの対朝鮮半島政策>

 日本の支配層にとって、朝鮮半島は常に対外拡張政策において真っ先に攻略するべき対象そしてアジア大陸侵略の橋頭堡として位置づけられてきた。韓国及び朝鮮において日本の侵略主義の歴史上の大事件として取り上げられるのは663年の白(はく)村江(すきのえ)の戦い、1592年及び1597年の豊臣秀吉による朝鮮出兵(いわゆる「文禄の役」及び「慶長の役」)まで遡るが、日本の戦後保守政治の対朝鮮政策の思想的系譜をたどる上では、明治維新前後の征韓論を直接的な源流と見ることが妥当だろう。対外的矛盾(外患)を作り出すことによって国内の矛盾(内憂)を転嫁することは、明治維新以来今日まで続く日本支配層の常套手段であるが、日本列島と目と鼻の先に位置する朝鮮半島は「外患」作りの材料として常に格好の対象と位置づけられてきた。
明治6年政変(1873年)においては、征韓論を争点に明治政権内部で権力闘争が闘われた。その際に慎重論を唱えて積極論者を排除した政権自体が、1875年の江華島事件及び翌1876年の日朝修好条規を皮切りに朝鮮に対する野心を膨らませていった。この事実に明らかなとおり、朝鮮を独立主権国家と遇し、日朝関係を対等平等な主権国家関係と位置づける認識は支配層になく、朝鮮を日本が支配するべき対象として捉える発想がはじめから支配的だった。
ちなみに日本の支配層に、国際関係を対等平等な主権国家間の関係(横断的国際関係)として捉える認識が欠落していたのは対朝鮮関係に限ってのことではない。明治維新を成し遂げた支配層は、いわゆる脱亜入欧のスローガンのもとで、欧米先進国の仲間入りする政策をしゃにむに追求したが、その政策を進めた彼らの国際観は本質的に旧態依然のままだった。即ち、江戸時代までの中国を頂点とする華夷秩序(中華世界)のイメージは、欧米列強を頂点とする帝国(支配)-植民地(被支配)の国際秩序というイメージに置き換えられたが、両イメージを貫通する垂直的な国家関係(垂直的国際関係)として捉える国際観はそのまま維持された。日本支配層に根強いこの国際観は、1945年の第二次大戦敗北以後においては、アメリカを頂点とする権力政治の国際秩序(アメリカ中心の国際共同体)というイメージに置き換えられることでそのまま維持され、今日に至っている。
日本の支配層の垂直的国際観には一つの特徴がある。それは天動説とでも言うべきものだ。華夷秩序における頂点に位置したのは言うまでもなく中国であり、徳川時代以前の日本の支配層もその事実を承認せざるを得なかったのだが、その枠組みのもとでさらに日本を頂点とするいわば小中華世界(小華夷秩序)を構想したのだ(私のこの認識は西嶋定生の所説を踏襲している)。
明治維新以後においても、日本の支配層は、自らを帝国主義列強の一員(世界の中心軸)と位置づけることによって天動説を維持した。また、第二次大戦に敗北した後は、一極支配を目ざしたアメリカにピッタリ従うことにより、アメリカ(実は、アメリカ自身が自らの価値観を世界に押し広めるべき天命を担っているとする天動説的国際観の持ち主である)と自らを一体化することで天動説を維持してきた。そのいずれの天動説においても、朝鮮は常に日本に朝貢ないし従属するべき存在と観念された。
この天動説的国際観の根底にあるのは、他者の存在を承認し、尊重するという他者感覚の欠落である。詳説する余裕はないが、他者感覚の欠落こそが私たち日本人が個を確立できず、集団として群れることによってのみ安心する集団主義、異質な存在を許容しない自己中心主義(自己中)の根本的な原因である。
今一つつけ加えて指摘しておきたいことがある。天動説的垂直的国際観は、1648年のウェストファリア条約以後成立した国際社会を受け入れないということだ。欧州起源の国際社会の最大の特徴は、主権国家の対等平等性の承認にある。国家の大小、強弱、貧富の差を問わず、独立主権国家は互いに対等平等である。この国際社会は横断的国際関係のみを許容するのだ。日本が朝鮮を目下の存在として位置づける伝統的発想は優れて天動説的垂直的国際観の所産であり、朝鮮(半島)に対するこの発想を捨て去ることができるかどうかは、日本が国際社会及びその基本構造である横断的国際観を我がものにし得たかどうかを判断する重要なモノサシとして機能するということだ。
本論に戻る。明治日本の侵略的な対朝鮮政策は日清戦争勝利以後に本格的に進められ、1904年の第一次日韓協約を皮切りに、1905年の第二次日韓協約(外交権を奪い保護国化)を経て、1910年の日韓併合条約で朝鮮半島を完全に植民地化することによって基本的に完成した。こうして明治維新で開国した日本は、わずか40年あまりで後発帝国主義として、朝鮮を橋頭堡にしてアジア近隣諸国に対する侵略戦争の道に乗りだした。
日本軍国主義の対朝鮮政策は、基本的に明治期に獲得された既成事実を所与のものとしつつ、天皇中心の超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)に基づき、戦時動員体制に朝鮮人を組み込むために行った一連の皇民化政策に最大の特徴がある。被支配民族の民族性を強制的に抹殺し、天皇を崇拝させ、日本への同化を強いたこの政策ほど、日本の超国家主義の特異かつ異常な本質をあらわすものはない。皇民化政策は日本が支配した植民地で広く行われたが、日本の支配に対する民族的抵抗が激しかった朝鮮においてもっとも苛烈を極めたとされる。
具体的には、天皇に対する忠誠を強要する皇民化教育(朝鮮語の使用禁止と日本語の使用強要、教育勅語・日の丸・君が代の強制、神社の建立と参拝強要)、創氏改名などが典型的なものである。朝鮮人を含む植民地・支配地人民を人間扱いしない日本の超国家主義の異常を極める精神構造は、いわゆる従軍慰安婦の名のもとに朝鮮その他の女性を性奴隷化し、内地の労働力不足を補うためとして、朝鮮人及び中国人を強制連行して日本各地で奴隷労働に従事せしめる政策を平然と立案し、遂行したことに余すところなくあらわれている。皇民化政策が他者感覚欠落の自己中心主義のもっとも極端な形での発露にほかならないことは改めて言うまでもないだろう。

<敗戦日本の国際約束と対朝鮮半島政策に関する意味>

 日本は第二次大戦で敗北し、ポツダム宣言(及びそれに先立つカイロ宣言)を受け入れて降伏することにより、対朝鮮半島政策を含む侵略政策を徹底的に反省し、清算することを約束し、かつ、その履行を国際的に義務づけられた。カイロ宣言では、「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈(やが)テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシム」と述べている。そしてポツダム宣言では、「日本国国民…ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」(第6項)として、軍国主義者・超国家主義者の根絶を降伏条件の筆頭に掲げた。この宣言を受諾(昭和天皇の終戦詔書)し、その「条項ヲ誠実ニ履行スルコト」を「天皇、日本国政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス」(降伏文書)とした日本は、忌むべき過去と決別し、平和国家として生まれ変わることを国際社会に対して約束したのだ。
 ポツダム宣言に示された降伏条件を受諾し、誠実に履行することを国際社会に対して約束したことの重みを確認しておくことは、今日の日本の保守勢力の改憲問題、領土問題更には歴史認識にかかわる主張が絶対に看過されてはならないものであることを国民的認識として確立するためにも不可欠である。歴史認識の問題については改めて取り上げることとし、ここでは憲法問題と領土問題についてさらに理解を深めておくこととする。

(憲法問題)
 まず、日本国憲法は優れてポツダム宣言の嫡出子であり、日本の非軍事化、民主化、基本的人権の確立を要求したポツダム宣言の諸条項を「誠実に履行する」国際公約という性格を持つ。現在の国内の議論は、安倍首相が提起した改憲手続き、つまり第96条との関わりに集中しているし、それはそれとしてハッキリさせなければならない。しかし、国際公約を体現した憲法を「押しつけ」として排撃し、「自前」の憲法を作るとする改憲論そのものが許されてはならないものであるという本質的、国際的論点をおろそかにすることがあってはならない。
ちなみに、百歩譲って日本国憲法の改正問題を客観的に考えるとした場合、改憲を目ざす安倍政権としては、国内的に改正に歩を進めるに先立って(あるいは、少なくとも同時的に)、ポツダム宣言の当事国である米英中露の了承を取り付けなければならない。了承の中身は二とおりの可能性がある。
一つは、改正されるべき憲法の内容がポツダム宣言と整合性があるとし、そのことについて4ヵ国の了承を取り付けることである。しかし、中国(そしておそらくはロシア)は安倍政権の説明を了承するはずはなく、その時点で改憲を断念しなければならない。
今一つは、安倍政権としてはポツダム宣言に基づく日本の国際的義務(特に非軍事化義務)を解除するように申し入れ、4ヵ国の了承を取り付けることである。これまた中国(及びロシア)は了承しないから、安倍政権としてはその時点で改憲自体を断念しなければならない。
安倍政権がそれでもなお憲法を改正することに固執するならば、ポツダム宣言を一方的に破棄する以外にない。しかし、これは終戦詔書及び降伏文書による同宣言の受諾及び履行という国際公約を突き崩し、日本の敗戦受諾及びこれに基づく国際法上の権利義務関係を、日本が一方的に無効化させるに等しい。端的に言えば、そのような行為は敗戦受諾そのものの撤回に等しく、日本が米中を中心とする連合国との戦争状態を回復することを宣言するに等しい。このような行動を取る日本は、中露はもちろん、アメリカをすら深刻な矛盾・対立・敵対の関係に置くことを意味する。
そのような日本は、国際の平和と安定に対する脅威として、例えば、現在の朝鮮がそうである(もっとも、朝鮮に対する安保理の行動は正当化できるものではないのに対して、降伏を事実上撤回して世界を敵に回す日本に対する安保理の行動は正当であるという重要な違いがある)ように、国連安保理の非難と制裁に直面することになるだろう。そのような重大な意味合いをもつ行動を安倍政権が取ることに対しては、いかに脳天気な国内世論といえども危機感に駆られ、安倍政権の暴走に待ったをかけるだろう。

(領土問題)
 領土問題に関しては、ポツダム宣言は敗戦日本の領土に関して明確な規定を置いた。即ち、同宣言第8項後段は、「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」と定めている。その意味することは単純にしてかつ明快である。要するに、本州、北海道、九州及び四国は日本の領土として残すが、それ以外の「諸小島」(沖縄を含む!)の主権的帰属については、「吾等」、つまりポツダム宣言の当事国であるアメリカ、イギリス、中国及びロシア(ソ連)が決定するということだ。そして日本はそのことを受け入れて降伏した。したがって、竹島(独島)及び北方領土(南千島)に関する「固有の領土」論も、尖閣(釣魚島)に関する無主先占の法理に基づく主張(日本ではこの主張をも「固有の領土」論に組み入れている)も、同規定の前には国際的にはなんらの意味も持ちえない。日本が主張することはもちろん自由だが、4ヵ国がその主張を考慮せず、別段の決定を行うならば、日本としてはその決定に従わなければならないのだ。
 竹島(独島)に関して一言すれば、上記ポツダム宣言の規定から、自動的に同島の主権的帰属先が決定されるというわけではない。しかし、韓国の主張については中国が明確に支持する態度を示している。ロシアも恐らく中国に同調するだろう。
アメリカは、原則的に日本の領土問題に関しては基本的に「立場を取らない」といういわば逃げの姿勢に徹している(北方領土に関しては日本の主張を支持している)。その原因は、日本の領土問題に関するアメリカの矛盾した政策にある。つまりアメリカは、ポツダム宣言作成に主導的役割を果たしながら、その後のサンフランシスコ対日平和条約作成において意識的に曖昧な、つまりヤルタ、カイロ、ポツダムでソ連及び中国に対して行ったコミットメントを事実上無効化させる意図を体現した内容の領土条項を置いた。現在のアメリカは、ポツダム宣言と対日平和条約との間の矛盾を糊塗するために、「立場を取らない」政策で傍観者を決め込んでいるというわけだ。そして日本の歴代保守政権は、アメリカの曖昧政策を唯一の手がかりにして、「固有の領土」「無主先占」論に基づく主張を展開してきたのだ。
アメリカは特に、竹島(独島)をめぐる領土紛争については、等しく重要な同盟国である日本と韓国のいずれの反発をも買うわけにはいかないという現実的考慮にも基づく中立堅持である。しかしアメリカは、韓国の実効支配に対して日本がいささかなりとも挑戦する(現状変更を試みる)ことは許さない。したがって、中露の韓国支持と合わせて考えれば、竹島(独島)という領土問題は実質的に決着していると考えるほかない。

<戦後の対朝鮮半島政策>

 戦後における歴代保守政権の対朝鮮半島政策に関しては、いくつかのポイントに即して考える必要がある。
まずそしてもっとも重要なポイントは、戦後保守政治は第二次大戦敗北までの対朝鮮半島政策を特徴づけていた二つの要素(対外侵略政策の対象としての朝鮮半島という位置づけ及び日本軍国主義による超国家主義的アプローチ)をキッパリと清算したかどうかという問題だ。
次に、日本の植民地政策は朝鮮半島の南北分断を生んだ最大の原因だ。したがって、日本は朝鮮半島の平和と安定更には統一に積極的に貢献するべき義務と責任がある。この問題は、ひとり日本政府だけではなく、私たち日本国民すべてが向きあわなければならない。その点に関する検証が不可欠だ。
さらに、南北に分かれて存在する大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)に対する日本の政策のあり方という問題を考えなければならない。

(過去の清算)
 戦前までの日本の対朝鮮半島政策を特徴づけていた侵略・支配の対象という位置づけは、日本がポツダム宣言を受諾したこと、分断された形ではあるにせよ、韓国と朝鮮という独立主権国家が成立したこと、主権国家の対等平等、内政不干渉、戦争の違法化を定めた国連憲章が生まれて、民主的な国際関係の基本的ルール(国際法)が曲がりなりにも整えられたことにより、維持・固執する上での主観的・客観的・国際的条件を失った。戦後保守政治としてもこの冷厳な現実を受け入れざるを得ない。いかに極端な主張を唱える政治家であっても、朝鮮半島に対する領土的野心を口にするものはもはやいないのはその表れである。
 しかし、1969年の佐藤・ニクソン共同声明において、佐藤首相が「韓国の安全は日本自身の安全にとつて緊要である」とわざわざ言及したことに示されるとおり、朝鮮半島を日本の安全保障にとっての利益線(山県有朋)あるいは生命線と見なす伝統的発想は戦後保守政治においてなお健在であることを見過ごしてはならない。日米安保条約の極東条項が台湾海峡有事とともに朝鮮半島有事を念頭においていることにも変化はない。日米安保体制が日米軍事同盟に変質強化される中で、朝鮮半島(及び台湾)を日本の生命線と位置づける姿勢は、「2+2」諸文書でさらに強まっている。
 対朝鮮半島政策においてむきだしになった超国家主義的な要素も隠微な形で維持されている。いわゆる従軍慰安婦問題に対する安倍政権の頑固なまでの挑戦的な認識表明に示されるとおり、戦後保守政治は一貫して軍国主義・超国家主義が犯した侵略戦争・植民地支配の犯罪行為を否認し、これをアジア解放のための聖戦とする時代錯誤以外の何ものでもない歴史認識にしがみついている。
これは、アメリカの対日政策が、日本の非軍事化、民主化及び基本的人権の保障を目ざしたポツダム宣言から、再軍備、反ソ反共陣営への組み込みを目ざすトルーマン宣言(1947年)へと180度の転換を遂げたことを背景としている。即ちアメリカは、反共反ソ戦略の橋頭堡として日本を再建する政策を推進するため、軍国主義・超国家主義の清算を中途半端な形で急停止させた。その政策は、軍国主義・超国家主義と思想的、人的・組織的に密接につながっている政官財の旧勢力を復権させ、こうして復権した彼らが戦後保守政治の一大勢力となった。
もちろん、戦後保守政治を形成したのは彼らだけではなく、石橋湛山に代表される保守リベラルの流れを汲むものもいた。しかし、そういう良心的保守勢力は戦後60年以上を経た今日、現実政治においてほとんど影響力を持ち得ないまでに凋落し、今日の保守政治勢力はほぼ完全に軍国主義・超国家主義に親和感を示す勢力によって占められるに至っている。
こうした日本の保守政治の歴史認識に対しては、ひとり中国だけでなく、朝鮮、韓国においても厳しい批判が行われている。韓国政治の保守派を代表する朴槿恵政権が安倍政権の歴史認識(及び領土問題)を厳しく批判し、日韓関係が冷え切っている現状はその端的な表れである。

(朝鮮半島の平和と安定及び統一)
 日本の植民地支配が朝鮮半島の分断と対立の根本原因であることを踏まえるものであれば、日本という国家及びその主権者たる私たち国民が朝鮮半島の平和と安定更には統一のために最大限の努力を行う義務と責任を負っていることは明々白々である。
 しかし、戦前の軍国主義及び超国家主義を色濃く引きずっている戦後保守政治は、この義務と責任に対する自覚がまったく欠落しており、1965年の日韓国交正常化(これもアメリカの強い圧力の下で実現が可能になったといういわく因縁がある)以来、もっぱら韓国にテコ入れし、朝鮮を敵視することによって、南北の分断を固定化するアメリカの政策に全面的に協調する政策を貫いてきた。
上記佐藤・ニクソン共同声明における佐藤首相の発言は、南北分断を当然の前提視した上でのものだった。近年においても、朝鮮に対して強硬な対決政策をとった李明博政権の時代に、日本の保守政治は米日韓の軍事協力関係強化に積極的に加担した。また、いわゆる「拉致」問題をあげつらい、国際問題化することによって、朝鮮半島の非核化及び平和と安定の実現を目標とする6ヵ国協議の進展に妨害要因を持ち込む始末である。
 主権者である私たち国民の間における朝鮮半島の平和と安定更には統一に関する義務と責任に対する認識の欠如は、保守政治が朝鮮半島問題に対してほしいままに妨害要因を持ち込むことを許容する大きな要因として機能している。仮に国民の問題意識が高いのであれば、保守政治のしたい放題をチェックする要因として機能するはずだ。
国民の間におけるこのような認識の欠如を生みだした原因は多岐にわたる。日本国憲法が据え付けた国民主権(人民主権)の原理は、65年以上を経た今日においても、憲法を受け身的に受容した多くの国民において自覚的に我がものとされるには至っていない。その端的な表れが伝統的な「お上」意識の働きだ。
詳述する余裕はないが、国民主権のもとでの主権者・国民と国家(権力)とのあるべき関係のあり方に関する認識、つまり国家観が、戦後60年余を経た今もなお私たち国民の中に育まれていない。むしろ強靱な「お上」意識から多くの国民が卒業できないでいるのだ。また、「外交は政府の専管事項」という骨董的認識が日本では相変わらず羽振りをきかせているという問題もある。このような意識・認識を払拭しない限り、国民主権と整合性のある国家観(私流にいえば「個人が権力の上に立つ」国家観)を私たちが我がものとすることはいつまでたっても夢のまた夢であるだろう。
しかし特に重要なのは、長年にわたって国家(権力)によってすり込まれてきた朝鮮(人)に対する蔑視感情が私たちの中に巣くっていて、朝鮮問題に対する私たちの思考を縛っているという問題だ。言い換えれば、支配層における垂直的天動説的国際観のもとでの、支配されるべき対象としての朝鮮の位置づけは、国民レベルでは蔑視という形をとっているということだ。もちろん、朝鮮(人)だけが蔑視の対象ではない。脱亜入欧の系としてのアジア蔑視という大本があり、そこから中国(人)蔑視、朝鮮(人)蔑視がさらに派生してくるのだ。

(韓国及び朝鮮との関係:歴史認識)
 日本の戦後保守政治が韓国との国交正常化に踏み切ったのは、既に指摘したアメリカの強力な働きかけと、国内経済建設を促進するために国交正常化を急いだ朴正煕政権の決断を受けてのことだった。したがって彼らには、朝鮮半島に対する植民地支配について誠実に謝罪する意思はなく、賠償・補償を行う気持ちもさらさらなかった。1965年に締結された日韓基本条約においては、「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」(第2条)という曖昧模糊とした規定が日本の植民地支配にかかわる唯一の条文である。
賠償・補償にかかわる問題は、同時に締結された「日韓請求権並びに経済協力協定(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)」において扱われたのだが、ここにおいても日本の植民地支配に関する明示的な言及はまったくない。しかも、賠償・補償問題を経済協力問題にすり替えるという厚かましさだ。
要するに、日本は韓国との国交正常化において、過去の清算を行うことを拒否する姿勢を貫いたということである。この姿勢が今日においても堅持されていることは、既に触れたいわゆる従軍慰安婦や強制連行にかかわる補償問題に対する日本政府の門前払いの頑なな態度、領土問題にかかわる「固有の領土」論固執に明らかだ。
日本の保守政治の朝鮮に対する一貫した敵対姿勢及び日韓間の2条約との比較からすると、2002年の日朝平壌宣言は、「日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した」(第2項)と、植民地支配に対する反省と謝罪を盛り込んでいることが一応注目される。しかし、以上の文言はいわゆる村山談話(1995年)のつぎはぎによる踏襲であり、そこから一歩も出ていないことを指摘しないわけにはいかない。
また、反省と謝罪から当然でてくるはずの賠償・補償という点に関しては、同宣言は、上記に続けて、国交正常化後に日本が「無償資金協力、低金利の長期借款供与及び国際機関を通じた人道主義的支援等の経済協力を実施」するとして、日韓間と同様に賠償・補償問題を経済協力問題にすり替えている。また、国民の個人的請求権に関しても「相互に放棄する」として、日韓条約のラインを踏襲している。したがって、反省と謝罪は行ったが、賠償・補償に関しては一切応じないという日韓条約以来の保守政治の頑なな姿勢が堅持されている。
結論として、日韓関係も日朝関係も盤石な基板の上に構築されていると言うにはほど遠い。日本が朝鮮半島に対する植民地支配の歴史を徹底して清算し、対等平等な国家関係と位置づけ、国民的な蔑視感情を克服することが先決問題であることが理解されよう。 最後に指摘しておきたいのは、日本の支配層の以上の頑なな態度及び国民的な対朝鮮(人)蔑視感情の根底に通底している、丸山眞男が解明した日本人の歴史感覚(というより、もっと素朴でかつ根源的な時間感覚)についてである。
丸山は、緻密な分析に基づき、時間に対する日本人の特有な感覚として、「そのときどきの「いま」に生きる日本人」、「絶えず瞬間瞬間のいまを享受し、その瞬間瞬間の流れにのっていく(日本人)」という指摘を行っている。日本人にとって重要なのは「いま」だけであり、過去も真剣に振り返らないし、未来を積極的に展望するという視点も生まれないのだ。
この指摘に基づけば、「過去を水に流す」という日本人特有の発想が生まれるのは極めて容易に理解できる。逆に言えば、「歴史を鑑と為す」という歴史感覚における普遍的スタンダードは日本人の思考になじみにくい。であるからこそ、政治(内政外交を問わない)に対する刹那主義が出てくる。例えば、鬼畜米英は一瞬のうちに親米一辺倒に変わるのだ。こういう発想はまた、いわゆる「自虐史観」排撃の思潮を生む一つの思想的土壌として自らを主張することにもなる。
また、安倍晋三における国際合意の重みを無視して顧みない姿勢もここに胚胎する。安倍副官房長官は、5人の拉致被害者に関する一時帰国の日朝合意を一方的に破った(2002年)。また安倍首相は、自民党政権時代に日中首脳間で達成された、尖閣問題「棚上げ」に関する了解の存在を平然と否定する。重みをもつ過去を否定して顧みない安倍の歴史感覚はまた、非核3原則を無視して、核兵器使用禁止を呼びかける国際文書への同調を拒否したことにも現れた。
人類の歴史は、人間の尊厳、人権・デモクラシーという普遍的価値をすべてのそして一人一人の人間において実現することを目ざす壮大な歩みである。そうであるからこそ、日本の軍国主義及び超国家主義は否定される歴史的運命をたどったのである。日本の支配層における頑なな対朝鮮観及び国民の深層心理に巣くっている対朝鮮蔑視感情も、この人類史的歩みの中で淘汰される運命にある。
私たちには二つの可能性しかない。一つは、人類史の歩みに従えとする強力な国際的圧力のもとで強制的に対朝鮮観・蔑視感情の清算を迫られる可能性である(それは第2の1945年ということだ)。今一つは、私たちの特異な歴史感覚(時間感覚)を自ら清算し、普遍的な歴史感覚を我がものとし、その中で対朝鮮観及び対朝鮮蔑視感情のくびきから抜け出すことだ。そのいずれの可能性を取るべきかは自明だろう。

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