自民党改憲草案の批判的検討

2013.06.13

*ある集会で自民党の「日本国憲法改正草案」(2012年10月発行)についてお話しする機会がありました。人民主権、人権、平和主義・自衛権の三つのテーマにしぼって、自民党草案を根本的に批判したものです。自衛権に関しては、「国家の自衛権」に対する「人民の自衛権」という概念を提起しています(6月13日記)。

1.自民党「日本国憲法改正草案」の問題点
  -安倍政権のねらうものは何でしょうか-

私は「安倍政権(保守政治)がねらうものとは、根本的には人民主権をくつがえし、国家主権に日本を逆戻りさせることであり、そのことの一つの重要な中身として、「人民の自衛権」を再び「国家の自衛権」としてすげ替えることです。簡単に言えば、「人民>国家」を「国家>人民」にひっくり返すということなのです」と指摘しました。以下では、人民主権(人権・民主)にかかわる問題と平和主義・自衛権にかかわる問題の2点にしぼり、自民党の「日本国憲法改正草案Q&A」(2012年10月)に示されている憲法改正草案(以下「草案」)及び解説(以下「Q&A」)の問題点を整理し、「安倍政権のねらうものは何か」という副題への私なりの考えを示します。

(1)人民主権にかかわる草案の問題点

-主権の所在について、草案は実にあやしい(有り体にいえば、主権者は天皇であって国民ではないと言いたげな)立場を示しています。
*草案とQ&A
  **草案
   ***前文:「日本国は、…国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家であって、国民主権の下、立法、司法及び行政の三権分立に基づいて統治される。」
    cf.平和憲法:「日本国民は、…ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その権利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」
   ***天皇(第1章)第1条:「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民の統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」
cf.平和憲法:「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」
***また草案の第1章には、国旗・国歌(第3条)、元号(第4条)、国事行為以外の公的行為(第6条5)が加わっており、天皇の国事行為に対する内閣の「助言と承認」(平和憲法第3条)は、草案では「進言」(第6条4)になっています。
  **Q&A
   ***前文(Q3):「我が国は、…国民統合の象徴である天皇を戴く国家であることを明らかにし、また、主権在民の下、三権分立に基づいて統治されることをうたいました。」
  ***天皇(Q4):「(草案では)天皇が元首であることを明記…。元首とは、英語ではHead of Stateであり、国の第一人者を意味します。明治憲法には、天皇が元首であるとの規定が存在していました。…したがって、我が国において、天皇が元首であることは紛れもない事実です…」
  ***国事行為に対する「進言」(Q6):「天皇の行為に対して「承認」とは礼を失することから、「進言」という言葉に統一しました。」
-問題点
 *平和憲法前文は、人民(国民)主権を「人類普遍の原理」として詳しくその内容を定めていて、いかなる曖昧さも残していません。これに対して、草案はまず「天皇を戴く国家」と天皇を持ってきたあとに、「国民主権の下…三権分立に基づいて統治される」としています。「国民主権の下」がいかにも「付け足し」であり、しかもQ&Aを含め、その人類史的意義・内容を完全に無視しています。
 *また草案第1条は、天皇を「日本国の元首」としています。
  Q&Aは、「元首とは、英語ではHead of State」だとしますが、「元首」に当たる英語   にはsovereign、即ち「主権者」という意味もあります。しかもQ&Aは、「明治憲法には、天皇が元首であるとの規定が存在していました」とも言っていますが、明治憲法下では天皇が主権者(君主主権)であったのですから、見方によっては正に「語るに落ちた」「頭隠してお尻隠さず」なのです。
  例えば、広辞苑において元首とは「国を代表する資格をもった首長。君主国では君主、共和国では大統領あるいは最高機関の長など」とありますから、「元首」としたからといって天皇主権を定めたものということには必ずしもなりません。また、天皇の「地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」という規定は草案でも残されています。とは言え、
 *全体として見れば、人民(国民)主権のニュアンスをできる限り薄め、天皇(君主)主権の色合いをできるだけ強めたいとする草案の復古的・反動的な姿勢が浮かび上がってくるわけで、現在の安倍政権の本質を表すものでしょう。その復古調・反動性は、「天皇の行為に対して「承認」とは礼を失する」から内閣の「助言と承認」を「進言」に変えたとする点にも明らかです。

(2)人権にかかわる草案の問題点

-人権(国民の権利)に関してQ&Aが示す認識・基本的立場は、保守政治・安倍政権の反人権の本質をさらけ出す空恐ろしくなる内容です。
*前文での扱い方(Q3):「第三段落では、国民は国と郷土を自ら守り、家族や社会が助け合って国家を形成する自助、共助の精神をうたいました。その中で、基本的人権を尊重することを求めました。党内議論の中で「和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である。」というという意見があり、ここに「和を尊び」という文言を入れました。
  第四段落では、…自由には規律を伴うものであることを明らかにした…」
*国民の権利義務に関する規定方針(Q13):「権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。」
*「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えた理由(Q14):「意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。…「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑をかけてはいけないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。」
*家族に関する規定の新設(Q16):「昨今、家族の絆が薄くなってきていると言われてい  ます。こうしたことに鑑みて、24条1項に家族の規定を新設し、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」と規定しました。なお前段については、世界人権宣言16条3項(「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位であり、社会及び国による保護を受ける権利を有する。」)も参考にしました。
*新しい人権に関する説明(Q15):(国民の「知る権利」、環境権、犯罪被害者及びその家族の人権については)「国を主語とした人権規定としています。これらの人権は、まだ個人の法律上の権利として主張するには熟していないことから、まず国の側の責務として規定することとしました。」
*表現の自由を制約する規定の新設(Q19):「オウム真理教に対して破壊活動防止法が適 用できなかったことの反省などを踏まえ、公益や公の秩序を害する活動に対しては、表現の自由や結社の自由を認めないこととしました。内心の自由はどこまでも自由ですが、それを社会的に表現する段階になれば、一定の制限を受けるのは当然です。」
*緊急事態(新設の第9章)における国民の遵守義務(Q36):「99条3項で、緊急事態の宣言が発せられた場合には、国民は、国や地方自治体等が発する国民を保護するための指示に従わなければならないことを規定しました。現行の国民保護法において、こうした憲法上の根拠がないために、国民への要請は全て協力を求めるという形でしか規定できなかったことを踏まえ、法律の定める場合には、国民に対して指示できることとするとともに、それに対する国民の遵守義務を定めたものです。
…「緊急事態であっても、基本的人権は制限すべきではない。」との意見もありますが、国民の生命、身体及び財産という大きな人権を守るために、そのため必要な範囲でより小さな人権がやむなく制限されることもあり得る‥」
-問題点
*私が目を疑い、唖然となったのは、「権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたもので…人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だ」、「西欧の天賦人権説に基づいて規定されている(もの)…は改める必要がある」(Q13) とする、日本の保守政治の人権感覚・認識、というより正確にはその欠落でした。
基本的人権に関する考え方は、西欧において生まれ、育まれ、そして世界各地域での権力との闘いを通じて闘い取られる過程を経て、第二次大戦後に普遍的価値として確立したという歴史を持っていることはそれこそ常識に属します。アジアにおいても、韓国、フィリピン、台湾、タイなどでの人民の権力に対する闘いで人民主権・人権を勝ち取ってきました。
しかし一体、日本の「歴史、伝統、文化」のどこに人権という権利の源泉があったというのでしょうか。人民の歴史の中のどこで権力に対して人権を闘い取る輝かしい成果があったでしょう。日本の長い歴史は人権獲得挫折の歴史であり、私たちは人権を闘い取る粘り強い歴史をもたなかったが故に、二度にわたる「開国」を通じて人権を学ぶ歴史を経たのです。しかし、明治維新にしても、1945年の敗戦にしても、結局私たちが人民的規模で人権を学びとり、我がものにすることは妨げられ、挫折しました。それを妨げたのは、正に今日の保守政治につながる権力でした。
こういう人権に関する最低限の基本的常識すらわきまえない保守政治・安倍政権には「憲法、人権を勝手にいじられてはかなわない」とひしひし思います。
*草案における人権感覚ゼロの本質は、「国民は国と郷土を自ら守り、家族や社会が助け 合って国家を形成する自助、共助の精神をうたい…その中で、基本的人権を尊重することを求め‥た」(Q3)に歴然です。要するに「国を守る中での人権尊重」でしかないのです。ここには、「国家>個人(人民)」の思想が露骨に表明されています。
*「公共の福祉」は「人権相互の衝突の場合」の調整原理であるということはQ&Aの指摘どおりであり、きわめて明確な中身をもっています。
それをQ&Aはことさらに「意味が曖昧」と言いつのった揚げ句、「基本的人権の制約  は、人権相互の衝突の場合に限られるものではな」く、「社会秩序」「平穏な社会生活」「他人に迷惑をかけてはいけない」という、それこそこれ以上にない「曖昧」な(=国家権力がいかようにも解釈できる)基準で人権を制約し、奪いあげる狙いを明らかにしているのです。ここでも「国家>個人(人民)」の思想が露骨です。
*以上の保守政治の考え方は既にいわゆる国民保護法の国会審議の中で繰り返し明らか にされ、国民保護法以下の有事法制に盛り込まれていたのですが、その時自民党政権がもっとも切歯扼腕したのは、「憲法上の根拠がないために、国民への要請は全て協力を求めるという形でしか規定できなかった」(Q36)ことでした。緊急事態を新設した草案の狙いは「国民の遵守義務を定め」る宿願を実現しようということです(同)。
  その言い分は目をむくもので、「生命、身体及び財産という大きな人権を守るために必要な範囲でより小さな人権が制限され得る」(同)というのです。「生命、身体及び財産」が「大きい人権」、それ以外の基本的人権は「より小さな人権」と大小の区別をつける珍論にはこれまでお目にかかったこともありません。このようなでたらめな認識に基づいて、言論、結社、報道などの様々な基本的人権を国家権力が思いどおりに制限する「憲法改正」は、この一事だけをもってしても断じて許すわけにはいかないと思います。
*同じ思想は「表現の自由」を制限する新設の規定を置くことにも現れています。「内心の自由はどこまでも自由ですが、それを社会的に表現する段階になれば、一定の制限を受けるのは当然です」(Q19)とこともなげに言ってのけるのです。また、「自由には規律を伴う」(Q3)とするのも同じことで、普遍的価値である人権に対する草案の無知・無理解をさらけ出しています。
*家族に関する新設の規定に関して、世界人権宣言の該当条項の前段を参照したと得意げに述べ、該当規定も紹介しています。しかし、該当規定の重要な部分はその後段の、家族は「社会及び国による保護を受ける権利を有する」という点にあるのに、草案は「互いに助け合わなければならない」という内容にすり替えているのです。家族の内部まで指図しなければ気がすまないという草案の感覚こそが大問題です。
*「新しい人権」に関する草案の新設規定に関しても、「これらの人権は、まだ個人の法律上の権利として主張するには熟していない」という時代錯誤の認識を押し出した上で、「国を主語とした人権規定としています」などと理解不能なことを述べ立てています。 *以上、ごくかいつまんで草案の内容・考え方を批判的に紹介しましたが、よほど人権感覚が乏しい人でないかぎり、草案の重大極まる問題が第9条に関してだけあるのではないことを分かっていただけると思います。

2.自衛権と集団的自衛権

集団的自衛権について考えるためには、まず自衛権についての理解が必要です。したがって、まず自衛権についてお話しし、その上で集団的自衛権についてお話し、その上で自民党草案についてまとめます。

(1)自衛権

-自衛権の意味(定義):「急迫不正の侵害(攻撃)に対して、実力行使以外の手段がない場合に、その侵害(攻撃)を排除するために必要最小限度の範囲内で実力を行使してその侵害(攻撃)を排除する権利」:イメージ的に分かりやすく言えば、刑法で個人に認められる「正当防衛」(「緊急避難」)の権利のいわば国家版が自衛権です。
-自衛権の歴史的由来:17世紀に欧州で生まれた国際社会(互いに対等平等な主権国家を主な構成員(メンバー)として構成される社会)では、国内社会におけるような中央政府がない(だから国際社会は「無政府的(政府なき)社会」とも呼ばれることがあります)ため、国家としては自分で自分を守る以外になく、そのため、国家には「自らを自らの力で守る権利(自衛権)」が認められてきました。
*国内社会では、中央政府が治安を担当し、犯罪を取り締まる責任を担います。国内社会の構成員(メンバー)である個人に正当防衛としての実力行使が認められるのは、暴漢に襲われて自分で自分の身を守る以外にないような例外的な場合だけです(正当防衛と認められない実力行使は、刑法上の責任が問われる暴力として扱われます)。しかし、
*国際社会では、治安を担当し、犯罪を取り締まる責任を担う中央政府がありません。そのために、国際社会の構成員(メンバー)である国家は、自分で自分を守る以外にありません。ですから、国内社会では個人の正当防衛の権利は例外的な場合に限って認められますが、国際社会では自衛権は国家の基本的な権利として認められてきたのです。
*しかし、自衛権の問題が実際問題として取り上げられるようになったのは20世紀になってからです。つまり、武器の破壊力・殺傷力が飛躍的に拡大したことを背景に、第一次大戦における戦争の非人道性が深刻に認識された結果、1929年に「國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス」ることを約束した不戦条約(第1条)ができて、戦争を違法化する国際的な努力が行われるようになって以来のことなのです。
**それまでは、戦争は「国家の政策の手段」として認められていたので、戦争を正当化するための議論をする必要がなく、わざわざ自衛権を持ち出す必要はありませんでした。
**不戦条約では戦争を「非(してはならない)」とした(この時点ではまだ「違法」とはしていない)のですが、その結果直ちに問題となったのは、「それでも戦争を仕掛けてくる国家が現れた場合にはどう対処するのか」という問いでした。そして、戦争を仕掛ける国家を取り締まる中央政府がない国際社会では、自分で自分を守る以外の手だてはないという認識から、「非とされた戦争」には「自衛権の行使(自衛の戦争)」は含まれないとする考え方が認められたのです。
-国家の自衛権と人民の自衛権:もう一つ、「国家=お上」意識が根強い私たち日本人として、特に踏まえておきたいことがあります。つまり、アメリカ独立戦争、フランス革命を経て「人民主権」(民主)の考え方が世界的に確立した今日とそれ以前の時代とでは、自衛権が意味することの中身も異なっていることです(ただし、このように考える私の意見はまだ多数説ではありません)。
*人民主権が世界的に確立する以前の時代には、自衛権とは、「国家そのものを他の国家 からの侵略・攻撃から守る権利」(いうならば、国家の自衛権)を意味していました。
*人民主権が確立した今日においては、自衛権とは、「国家の主権者である人民が、人民の・人民による・人民のための政治(リンカーン)を全うする場である自らの国家を他者(他の国家・国際組織・多国籍企業など)による侵略・攻撃から守る権利」(いうならば人民の自衛権)を意味しなければなりません。
*「人民の自衛権」は、個人の正当防衛の権利及び人民(民族)の自決権と密接に結びついている権利です。即ち、
  **正当防衛の権利を持ち、自らの責任ある意思決定を行う個人の集合体が「人民」であり、正当防衛の権利の集合体が「人民の自衛権」です。
  **人民(民族)の自決権は、個人の集合体としての人民(民族)が自らの運命を決定する権利として第一次大戦後に国際的に承認され、確立したもので、主に自らが主権者として統治する国家(正確に言えば国家とは限られませんが)を持つ権利です。
これに対して人民の自衛権は、すでに自らが主権者として統治する国家を持っている場合において、その国家を他者からの侵害に対して守る権利です。
国家をまだ持っていない段階では自決権、国家をすでに持っている段階では自衛権、と理解してください。
*「国家の自衛権」と「人民の自衛権」との違いはしっかり認識してください。
**国家の自衛権という考え方が当たり前な時代には、例えば第二次大戦までの日本がそうであったように、「国家>人民」であり、「お国(お上)のため」には「命は鴻毛(こうもう)より軽(かろ)し」であり、私たちは「赤紙一枚」の価値しかなかったのです。私たち人民が国家権力の意志に逆らうことなどはあり得ないことでした。しかし、
**人民の自衛権として理解するべき今日は「人民>国家」であり、私たち主権者が自らの運命を決定するのであり、国家権力(を握る政治勢力)が「国益」を振りかざして私たちの運命を勝手に決定し、私たち主権者の意思・尊厳を踏みにじることを許すようなことがあってはなりません。
**安倍政権(保守政治)がねらうものとは、根本的には人民主権をくつがえし、国家主権に日本を逆戻りさせることであり、そのことの一つの重要な中身として、「人民の自衛権」を再び「国家の自衛権」としてすげ替えることなのです。簡単に言えば、「人民>国家」を「国家>人民」にひっくり返すことです。いかに人類の歴史的な歩みに逆行するものであるか(決して許してはならないものであるか)が分かると思います。
-「自衛権の行使」の中身:「国家の自衛権」の場合と「人民の自衛権」の場合とでは大きく違ってきます。
*「国家の自衛権」を「行使する」場合は、もっぱら「国家の戦力(軍事力)」を使用することが中身となります。しかし、
*「人民の自衛権」を「行使する」場合は、その中身は人民の意思に基づいた実に多様なものであり得るのです。戦争放棄・戦力不保持の第9条を前提にして考えれば、例えば第二次大戦時のフランス、ポーランドなどにおけるレジスタンス運動、占領・支配に対する不服従運動があります。また、第9条の存在を考慮から外すとすれば、日本軍国主義の侵略戦争に対する中国の抗日戦争、アメリカの侵略戦争に対するヴェトナムの民族解放戦争なども「人民の自衛権の行使」のあり方として参考になるしょう。
-第9条と自衛権:「徹底した平和主義の立場に立つ平和憲法(第9条)は自衛権(及びその行使)を認めていないのではないか?」という疑問について
 *かつて吉田首相は、自衛権そのものを否定することが第9条の趣旨だ、と発言したことがあります。しかし、今日では「憲法は自衛権まで否定する趣旨(いうならば絶対非暴力の立場)ではない」という理解が一般的です。
 *私自身は、平和(及び平和を実現するための政治のあり方)についての基本的考え方として、「力による平和」(権力政治)と「力によらない平和」(脱権力政治)という2つがあり、憲法は「力によらない平和」の考え方に立っていると考える立場です。即ち、
  **安倍政権(保守政治)は、「力による平和」(権力政治)」の考え方に基づいて、「国家の自衛権」を復活させようという立場で憲法を変えようとしており、私はこれには断固反対です。他方、
  **私は、平和憲法(第9条)は「力によらない平和」(脱権力政治)の立場に立っており、「国家の自衛権」は否定しているけれども、「人民の自衛権」を否定しているとは思いません。なぜならば、人民主権が確立している国家に対して外部からの侵略・攻撃が行われるということは、人民が自らの運命を自ら決める権利(=人民主権・自決権)が奪われる危険に直面するということにほかならず、人民がその侵略・攻撃を排除するために身をもって立ち向かう(=自衛権を行使する)ことは認められると考えるからです。つまり、「力によらない平和」と人民の自衛権とは必ずしも対立・矛盾するものではないのです。
-自衛権行使の3要件(「自衛権を行使することができるための条件」):国家には「自らを自らの力で守る権利(自衛権)」が認められると言いましたが、それは決して「何をしてもいい」ということではありません。「自衛権の行使」が主張できる(「他国の法益を侵害したとしても、その違法性は阻却され、損害賠償等の責任が発生しない」)のは次の3つの条件を充たす場合に限られます(個人の「正当防衛」の権利の場合と基本的に同じ)。
*「急迫不正の侵害(攻撃)があること」(急迫性と違法性)
**例えば、こちらが先に攻撃して相手が反撃してくる場合は、急迫不正の侵害があったとは言えず、自衛権行使として正当化することはできません。
**この点は、集団的自衛権の行使という問題を考えるときの一つのカギとなりますので、よく覚えておいてください。
*「実力行使以外に、その侵害(攻撃)を排除する手段がないこと」(必要性)。例えば、話し合い(外交)で解決する可能性があるのに、実力に訴えることは認められません。
*「実力行使は必要最小限度であること」(相当性・均衡性)
  **刑法では、必要最小限度を超えるときは、過剰防衛とされ、犯罪とされますが、国際法においても、「相手が攻撃してきたときに、このチャンスに相手を痛めつける」というような実力行使は「自衛権の行使」を超えるものとして認められません。
**ちなみに、自衛隊がことさらに「自衛」隊と命名されたのは、「必要最小限度以上の実力を行使しない」実力組織であることを強調する趣旨からです。
cf.安倍首相が自衛隊を「国防軍」とすると主張しているのは、名前が気に入らないという単純な理由からではなく、正真正銘の軍隊として、米軍と一緒になって、必要最小限度以上の軍事力を行使する(つまり他国を侵略(攻撃)することができる)軍隊にしたいからです(後述参照)。
-「先制的自衛権」の問題 *「先制的自衛権」とは:以上の3つの条件を充たす場合には、相手が現実に攻撃を仕掛けてくる前に、いわば機先を制して相手に対して武力を行使することは国家の正当な権利として認められる、とする主張・考え方です。いわゆる慣習国際法もこの権利を認めている、と解釈されてきました。
*イスラエルは度々その主張に基づいて行動してきました。また、アメリカが湾岸戦争、対イラク戦争、対アフガニスタン戦争を行ったことを正当化する根拠もこの主張にあると理解されます(現実には安保理決議の「お墨付き」を得たので、アメリカはおおっぴらに戦争をしましたが、安保理決議がなくても戦争していたのです)。
*私たちがこの問題を見過ごすことができないのは、特に近年、防衛省を中心にして、「朝鮮半島有事」などの場合に先制的自衛権を行使するという主張が現れているからです。集団的自衛権行使に関しても「先制的自衛」を考えていると思われます。
*私の「国家の自衛権」と「人民の自衛権」とを分ける考え方に立てば、「先制的自衛権」の問題に対する答は簡単明瞭です。
**先制的自衛権が認められるとされたのは、「国家の自衛権」として自衛権が理解されている状況・時代においてでした。イスラエル、アメリカ、そして防衛省が考え、主張しているのも「国家の自衛権」という意味合いにおいてです。しかし、
**自衛権を「人民の自衛権」として理解する立場に立てば、それはすでに述べたように、「人民が自らの運命を自ら決める権利(=人民主権)が奪われる侵略・攻撃…を排除するために身をもって立ち向かう(=自衛権を行使する)こと」に限られる以上、「先制的」に「立ち向かう」ということはあり得ないし、あってはならないのです。それは、個人の「先制的な正当防衛」が認められないのと同じです。

(2)集団的自衛権

-「集団的自衛権」とは何でしょうか?:「集団的自衛権」は国連憲章で作り出された「新しい権利」です。
*国連憲章第51条:「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。」
*国連憲章第51条では、集団的自衛権は、自衛権と一緒に「固有の権利」とされていますが、実はこの規定によってはじめて認められることになった、いわば新たに作り出された権利です。
*第51条が想定している国際社会がどういうものかを強いてイメージするならば、アメリカの「銃社会」でしょうか(ただし、アメリカにおいてさえ、個人が集まって「集団的に」自衛する権利は認めていませんが)。日本社会のイメージからは第51条の想定する国際社会は理解しにくいです。
-国連憲章は何故、集団的自衛権という「新しい権利」を作り出したのでしょうか?
*国連憲章を作った戦勝国は、2度にわたる大戦の惨禍に学び、戦争を違法化しました(憲章第2条4)。
*また、「平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為」に対して「国際の平和及び安全  を維持し又は回復する」(憲章第39条)ことを目的として、「国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍または陸軍の行動をとる」(憲章第42条)集団安全保障の仕組み(後述)を設けました。
*しかし、憲章作成交渉時にはすでに米ソの対立は決定的になっており、互いの反対で、集団安全保障の仕組みを起動させる安保理決議ができない事態になること(大国の拒否権の問題)を考えた米ソ(特にアメリカ)は、自分で「合法的に」戦争をするための抜け道(法的な根拠)を憲章の中に設けておく必要を感じました。
しかも米ソは、2度の大戦の経験から、1国で戦う場合(自衛権の行使)だけではなく、他の国々と一緒に戦う可能性を残しておく必要があると考えたのです。その可能性を法的に担保するために編み出されたのが「集団的自衛権」でした。つまり、
*戦争が違法化されていない時代には軍事同盟を作れば済む(?)話でしたが、違法化された今はそういうわけにはいかず、戦争違法化の対象に含まれないと理解されている「自分で自分を守る」自衛権を拡張して、「自分たちを自分たちで守る」集団的自衛権という権利を作り上げて、従来の軍事同盟と変わらないものを合法的に作ることができるようにした、というわけです。
-集団的自衛権行使の要件:「集団的自衛権を行使することができるための条件」
*憲章第51条(上記規定参照)はいくつかの条件を設けています。即ち、
*「武力攻撃が発生した場合」であること:自衛権の「急迫不正の侵害」に対応します。
  **「急迫不正の侵害」という場合は、武力攻撃が現実にはまだ発生していない場合を含むという理解から、「先制的自衛権」を行使することができるという主張・理解を生みましたが、憲章第51条で「武力攻撃が発生した場合」という要件が課せられているということは、「先制的」な自衛権及び集団的自衛権の行使は認められないことを意味します。
 **ただし、国連憲章は慣習国際法を排除するものではないとする説もあり、アメリカや日本は先制的に自衛権及び集団的自衛権を行使できるという立場であることは間違いありません。
*「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」に限って認められる一時的な権利であること。
  **伝統的な自衛権の場合は武力行使の中身を「必要最小限」に留めることが要求されていましたが、憲章第51条は自衛権及び集団的自衛権の行使を時間的に制限しています。しかし、
**安全保障理事会が措置を取るまでは軍事力行使が事実上無制限に認められるという ことです。しかも、
**大国の利害がからむときは安保理が行動できない(大国の拒否権)わけですから、時間的な制限はまったく活かされないということになります。
*「とった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない」こと。
  **この規定が設けられた趣旨は、自衛権及び集団的自衛権の行使と主張されることの中身を安保理の監視の下におく(好き放題をさせない)ということで、伝統的な自衛権行使の第2及び第3の要件を実質的に担保しようという狙いだと考えられます。
 **しかしこの要件も、大国の拒否権を考えると、どれほど意味があるかは大いに疑問です。アメリカ主導のイラク戦争やアフガニスタン戦争に対して、安保理が無力であったことは示唆的です。
-集団的自衛権(及びその行使)には様々な問題が含まれており、私たちは批判的・否定的に考えることが必要です。
 *以上からも明らかなように、憲章第51条の規定自体が重大な問題を含んでいます。
  **集団的自衛権の行使が認められるための3条件のうちの2つは実質的に意味を持たないこと(上述参照)。
  **唯一意味を持っている第1の要件も、慣習国際法で認められるとされる「先制的自衛権」の問題という難題に直面していること。
  **要するに第51条は、集団的自衛権行使を正当化することによって、国連憲章(第2条4)が違法化したはずの戦争を広く「合法化」する役割を果たしていること。
  **第51条が設けた集団的自衛権はNATO、日米安保条約をはじめとするアメリカ主導の軍事同盟を正当化する根拠とされてきました。
 *そもそも「集団的」な「自衛権」という考え方自体に根本的な無理があります。
  **軍事同盟は、強大国(アメリカ)による中小国に対する軍事的支配あるいは中小国による対強大国依存を本質とするものであり、「自衛権」云々とは無縁です。そのことは、「集団的自衛権」を第51条に忍び込ませた米ソの思惑(上述参照)からも明らかです。
  **自衛権は「個人の正当防衛の権利の国家版」と言いました(上述)が、正当防衛の権利は個人一人一人の尊厳に由来するものであるその本質から言って、集団的な権利ではあり得ないのです。自衛権についてもそういう本質を踏まえることが必要です。
*集団的自衛権を、「国家の自衛権」としてではなく、「人民の自衛権」として理解する私の考えからすれば、集団的自衛権は許されるはずがありません。
  **個人の正当防衛の権利には他者を守るという意味は含まれません。個人の集合体である人民にとっての正当防衛の権利の集合体としての自衛権にも、他者を守るという意味合いはあり得ないのです。
  **人民の自衛権といわば兄弟関係にある人民(民族)の自決権も、他者(他民族)の自決への参加という内容を含むはずがありません。
 *憲法(第9条)は集団的自衛権(及びその行使)を認めません。
**「第9条は、自衛権という国家固有の権利は認めているが、集団的自衛権は、国際法(国連憲章)上はわが国にも認められているとしても、他国を防衛することは自国を防衛する範囲を超えるものであり、憲法上許されない」とするこれまでの政府の憲法解釈は、至極まっとうなものです。
**改憲論
***解釈改憲論(「憲法上、集団的自衛権行使は認められない」とする政府の解釈を変更し、「行使することが認められる」という解釈にすることを主張する立場)はなり立つはずがありません。その無理さ加減が分かるからこそ、
***明文改憲論(憲法の手続きに従って第9条を改正し、集団的自衛権行使を含む規定に改めることを主張する立場)が出てくるのです。
 *集団的自衛権に関する「アメリカの艦船が攻撃されたときに、日本がアメリカと一緒に反撃することができるようにする必要がある」とする改憲派の主張について
  **世界最強の軍事力を誇るアメリカの艦船に対して、弱小国・朝鮮はもちろん、軍事力増強に邁進しつつあるとしてもアメリカには遠く及ばない中国が自殺に等しい先制攻撃を仕掛けるはずがない、というポイントが素通りされているところに、この主張の最大の問題があります。
  **アメリカの数ある戦争シナリオにおいて想定されているのも、「朝鮮半島有事」「台湾海峡有事」を口実にして、アメリカが(朝鮮なり中国なりに)攻撃を仕掛けることによって始まる戦争だけです。しかし、
  **アメリカからの攻撃に対して(朝鮮または中国が)反撃することは正当な自衛権の行使ですから、その反撃に対して、日本がアメリカと一緒になってさらにやり返すのは、日本がアメリカの侵略に加担するということにほかならず、集団的自衛権によって正当化されようがない不法行為です。
  **ましてや、朝鮮あるいは中国が攻撃してくる恐れがあるとして、アメリカが先制的自衛権の行使と称して侵略戦争を始めることに対して、日本が集団的自衛権の行使として加担することは許されるはずがないことが理解されるはずです。
-集団的自衛権と集団安全保障
 *「集団的自衛権と集団安全保障とはどういう違いがあるのですか?」
  **両者の間には、もっとも平たく言えば、「敵(外)に対処するもの」か「仲間内のもの」かという点で決定的な違いがあります。即ち、
  **集団的自衛権は、憲章第51条に盛り込まれた経緯(上述)にも明らかなとおり、「敵(侵略・攻撃の主体)」に対してグループで対抗し、これを排除しようとするものです。極端なイメージとしては「暴力団の抗争」です。これに対して、
  **集団安全保障は、国際社会という社会に属する構成員(メンバー)すべてが従うべきルールを作り、ルールに違反するものが出る場合にはみんなでその違反を改めさせるために行動し、社会の秩序を回復するというものです。大胆なイメージとしては、「警察による違法行為の取り締まり」です。
*国連憲章における位置付け
  **国連憲章では、集団安全保障が主(基本)で、自衛権及び集団的自衛権は従(例外)の位置づけです(上述参照)。即ち、
  **安全保障理事会(安保理)が国際社会の代表として国際の平和と安全にかかわる問題を一手に担当し、取り仕切る集団安全保障の仕組み(集団安全保障体制)です。しかし、
  **安保理が行動を取るまでの間あるいは行動を取ることができない間に、取り返しがつかないことになってはいけないということで、その間は侵略・攻撃を受けた国(国々)が自衛権(集団的自衛権)を行使しても良い(ただし、安保理が行動を開始するまでの間に限る)ということにされています。
 *1990年代以前とそれ以後の国連の集団安全保障体制の現実
  **1990年代以前は、米ソ対立が激しくて、安保理中心の集団安全保障体制は機能しませんでした。
  **1990年代以後は、ソ連の崩壊及び中国の天安門事件を受けてロシアと中国が主張を控えたこともあり、アメリカ主導の大国協調体制の下で、安保理中心の集団安全保障体制が動くようになりました。その活動については、アメリカや日本では肯定的な受けとめ方が支配的です。しかし、
  **私は、アメリカ主導の大国協調体制のもとでの安保理の活動については、特に以下の諸点で極めて問題があると考えています。
   ***大国(特に超大国・アメリカ)の権力政治の正当化材料に使われるケースが少なくないこと:特に地域紛争や内戦に対する西側諸国の選択的・恣意的介入(逆に、自分たちにとって死活的関心がない場合には放置するケースも多い)
   ***安保理決議の乱発・乱用:対朝鮮制裁決議(宇宙条約無視、二重基準その他の国際法違反)
   ***集団安全保障と集団的自衛権との境界を意識的に曖昧にする仕組み:多国籍軍方式
*国際関係の民主化及び国際民主主義という人類史的観点から、国連の集団安全保障体制、アメリカ主導の集団的自衛権行使、更には安保理における大国協調体制の根本的かつ批判的な再評価・再検討を行う必要があります。

(3)草案の問題点

-草案の規定:第2章(安全保障) cf.平和憲法:第2章(戦争の放棄)
 *第9条(平和主義)
  「1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
   2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」
  cf.平和憲法
  「1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
   2 前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
 *第9条の2(国防軍)(新設)
  「1 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
   2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
   3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。(4及び5省略)」
 *第9条の3(領土等の保全等)(新設)
  「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。」
-Q&Aの解説
 *第9条1:「新たな9条1項で全面的に放棄するとしている「戦争」は、国際法上一般的に「違法」とされているところです。また、「戦争」以外の「武力の行使」や「武力による威嚇」が行われるのは、①侵略目的の場合、②自衛権の行使の場合、③制裁の場合の3つの場合に類型化できますが、…9条1項で禁止されるのは「戦争」及び侵略目的による武力行使(上記①)のみであり、自衛権の行使(上記②)や国際機関による制裁措置(上記③)は、禁止されていない‥」(Q7)
 *第9条2:「従来の政府解釈によっても認められている、主権国家の自然権(当然持っている権利)としての「自衛権」を明示的に規定した‥。この「自衛権」には、国連憲章が認めている個別的自衛権や集団的自衛権が含まれている‥。…新2項で、…自衛権の行使には、何の制約もないように規定しました。…」(Q8)
 *第9条の2:「…独立国家が、その独立と平和を保ち、国民の安全を確保するため軍隊を保有することは、現代の世界では常識です。…」(Q9)
  「9条の2第3項において、…国防軍の国際平和活動への参加を可能にしました。その際、国防軍は、軍隊である以上、‥武力を行使することは可能‥。集団安全保障における制裁活動についても、同様に可能‥」(Q10)
-問題点
 *上記1.から草案の問題点は明らかだと思います。したがって、要点だけ列記します。
  ① 「国家>人民」の立場に立った「国家の自衛権」の発想に貫かれていること。「人民の自衛権」の発想に立てば、草案のような規定が出てくるはずはありません。
  ② 「平和主義」を厚かましく謳いながら、その内容を「力によらない平和」から「力による平和」にすり替えていること。
  ③ 自衛権に集団的自衛権も含ませていること。
  ④ 非常に問題が多い多国籍軍への参加及び安保理決議に基づく「制裁」活動にも参加する道を開くこと。
  ⑤ 明記してはいないが、先制的自衛権行使を妨げる法的障壁を取り除いていること。
  ⑥ アメリカが要求するNATO並みの軍事同盟実現を「可能」にすること。
 *「主権国家の自然権(当然持っている権利)としての「自衛権」」(Q8)と言う草案の厚かましさには失笑を禁じえません。国家の自衛権を「自然権」とするならば、基本的人権はなおさら「自然権」であることを認めなければ筋が通りません。「西欧の天賦人権説に基づいて規定されている(もの)…は改める必要がある」(Q13)と言いながら、「国家の自衛権」について同じ由来をもつ「自然権」であるというヌケヌケさには言葉を失います。

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