尖閣問題(蒋介石日記)

2012.11.27

*11月23日付の環球時報は、尖閣諸島が注目され始めてからの1970年から72年にかけて、蒋介石日記において尖閣問題についてどのような記述が行われていたかを調べた翟翔署名の文章を掲載しました(この文章を載せた中国新聞社HPは翟翔の所属先及びこの文章の原題を紹介していません)。当時の国民党政権の尖閣問題に関する立場を理解する上で参考となると思いますので、翟翔の文章を紹介して記録に留めておきたいと思います(11月27日記。文章の強調部分は、蒋介石日記の尖閣関連の記述該当箇所として、浅井が付しました)。

 釣魚島は、中国がもっとも早く発見し、命名し、かつ主権を行使した。19世紀末、日本政府は中国の内憂外患に乗じて釣魚島を盗み取った。1951年、アメリカは中国の出席がない下で日本とサンフランシスコ平和条約を締結し、その後釣魚島をその管轄した沖縄地域に編入し、さらに1972年には台湾海峡両岸の強烈な反対を顧みずに日本に「施政権を返還」した。筆者は、アメリカのスタンフォード大学に収蔵されている蒋介石日記を閲覧し、1970年から72年の間の釣魚島に係わる内容を以下のとおり紹介する。

<アメリカと連合して日本を抑えようとする着想>
 国連アジア極東経済委員会(ECAFE)は、1968年に釣魚島海域に豊富な石油資源が埋蔵されていることを発見し、翌1969年5月に探査報告を発表した。沖縄政府は速やかに反応し、釣魚島海域への定期的巡視を開始し、台湾漁民を追い出し、1969年5月には釣魚島に「八重山尖閣群島魚釣島」のセメントの標識を立て、台湾漁民が島に建設していた建物を取り壊した。これに対して台湾当局は1969年7月17日、隣接する中国海岸からの大陸棚の天然資源に対して主権的権利を行使することを宣告するという声明を発表した。
 1970年7月、台湾「中国石油公司」はアメリカのガルフ石油と協力協定を締結し、北緯29度以南、台北以北の釣魚島を含む東海(東シナ海)の石油資源を共同で探査開鑿することとした。8月10日、日本の愛知外相は、「尖閣列島」は日本の領土であり、台湾がこの海域で石油の探査を行うことは国際法違反であると声明した。8月11日に蒋介石は日記の中で次のように反応した記述を行った。日本は尖閣島(翟翔注:1969年以前は釣魚島問題には特別の関心を払っていなかったので、蒋介石は日記のなかで最初のころ釣魚島に言及するときは日本の言い方を用いていた)が琉球に所属すると声明し、我が国がアメリカと協力して当該区域の海底の石油鉱脈を探索することに反対したが、(これに)注意しなければならない。14日、蒋介石はさらに次のように記した。中米、尖閣群島(環球時報HP注:つまり我が釣魚島及び付属島嶼。以下同じ)海底の石油探査につき署名、日本はさらに異議を提起しようとせず
 蒋介石からすれば、アメリカの会社を巻き込んで探査することは、西側の先進的な設備及び技術を利用できるに留まらず、アメリカをして受益側におくことにより、紛争において台湾側に傾斜させ、それによって日本に圧力をかけることもできるということで、一挙多得と言うべきであった。しかし、事実はそのようにはいかなかった。後に釣魚島紛争がさらに白熱化すると、アメリカ国務省は、アメリカ企業が東海海域における石油探査活動を即刻停止するように希望するとする声明を発表した。1972年6月、アメリカのガルフ石油は釣魚島海域から撤収した。
 1970年8月12日、アメリカ駐日大使館のスポークスマンは公然と日本側にテコ入れし、釣魚島はアメリカ政府が返還を決定した日本の琉球群島の一部であると述べた。これに対応するかの如く、8月16日、蒋介石は日記の中で再度釣魚島を提起して次のように述べた。尖閣群島主権問題は、我が国は放棄していないのみならず、琉球の主権問題は、歴史上、政治上、如何なる政府も日本のものであると承認したことはなく、しかも、第二次世界大戦で日本が投降したとき、ハッキリとそのすべての外島を放棄するという事実を承認した(浅井注:ポツダム宣言第8項を指していると思われます)。我が国政府の和隣敦睦の趣旨から(この小島群の紛争のために)主権問題を提起したことがないのは、気まずくするのを避けるためであったに過ぎない。しかし、中国政府は、400年来の歴史においてこれを日本の主権としていない(翟翔注:日記の原文には少なからぬ簡潔な記載があり、この個所には文法上の誤りがあるかもしれない)し、条約の規定も見たことがない。この月の末に、蒋介石は1958年に署名した国連大陸棚条約を批准した。

<まず資源開発権を保全することを提起>
 1970年9月10日、アメリカ国務省は声明を発表し、沖縄は1972年に日本への返還を期待できる、島嶼に関する異なる主張に関しては紛争にかかわる国家及び地域自身によって解決される、と述べた。同日、沖縄当局は宣言を発表し、「尖閣諸島は沖縄に属し、行政権が日本に返還されることにより、当然に日本の領土に属する」と述べた。9月11日から14日にかけて、蒋介石は日記において3度釣魚島に言及した。
 9月11日の日記では次のように記している。尖閣群島は大陸棚の問題である。まずは大陸棚が我が所有であることを解決し、島の問題はしばらくは提起しない。しかし、アメリカの琉球問題に関する声明に対しては、中国は同意せず、中米協議を経ずして日本に帰還することについて自分は発言権を留保する。9月12日(の記載):一、大陸棚の石油探査問題に関し、アメリカの会社と協約することを批准すると決定。我が推測的判断によれば、アメリカが琉球を返還した後、日本は大陸棚の石油鉱床を独占し、アメリカにとっての後患はさらに大きくなるべし。二、釣魚台群島は我が国防に関係あり、したがってそれが琉球の範囲内に属するとは承認できず。9月14日(の記載):釣魚台列島の問題につき政策を策定。(甲)大陸棚はすべて我による所有権。(乙)釣魚島陸地については争わないが、日本の所有権となすことも承認せず、懸案とする。
 以上より見れば、蒋介石は既にアメリカが日本の肩を持っていることを意識しており、釣魚島問題は一朝一夕では解決できないので、紛争を棚上げすることを図り、台湾の釣魚島海域の資源開発権限を固めることを先行させ、同時に、琉球が日本に属することを承認せず、また、釣魚島と琉球とを明確に区別させようとしていた。この時点での蒋介石は、アメリカに対して理をもってさとし、アメリカ(の力)を借りて問題を解決することを願望していた。かかる思考の下、台湾「外交部次長」は9月15日にアメリカの駐台湾代表を呼び、直接台湾側の声明を手交した。9月25日、厳家淦「副総統」兼「行政院院長」は「立法院」に対して施政報告を提出し、関係する大陸棚資源に対して台湾が「探査及び開発の権利を有する」と声明した。しかし、これらの措置に対して、アメリカ側からの積極的な反応は得られなかった。

<引き続きアメリカの介入を幻想>
 1971年1月末、アメリカ各地の中国人が成立した「保釣運動委員会」は釣魚島防衛の示威デモを展開しはじめた。4月4日、アメリカ国務省スポークスマンは、琉球群島を返還するときに釣魚島の施政権を日本に引き渡すが、釣魚島の主権帰属問題に対しては中立の立場を取ると述べた。この時点で、釣魚島紛争はさらにエスカレートし、蒋介石は歴史的要素及び大陸棚の原則を引いて釣魚島の帰属を強調した。彼はこの月の日記において、(釣魚島の主権は)「歴史及び地理的に言って、台湾省に属することはやはり問題なし」と非常に断固として記している。アメリカが中立の立場を取ったことに対しては、彼(蒋介石)は、(釣魚島が)「事実上アメリカ軍によって占領されており、いずれの国家に属するかはアメリカが決定すべきである」と認識し、アメリカ側を介入させようと試み、ひいてはアメリカが釣魚島の行政権を日本に引き渡すときに(紛争を)「国際法廷に付託し、法律によってこれを解決する」ことを考えていた。蒋介石は軍事的解決のプランは考慮しておらず、「現在は当該列島に駐留防衛する能力はなく」(かつ、海防兵力を分散することが大陸の)「乗じる」ところとなって、「現有基地すら確保できない」事態になりかねないことを心配し、「国策」としては「光復大陸及び同胞救済をもって第一と為す」べきだとしていた。
 6月17日、米日は沖縄返還協定を締結し、釣魚島は返還区域に列せられた。その前の段階でニュースは出ていたので、蒋介石は6月10日の日記で、アメリカは日本に返還し、釣魚台もその中にあり、甚だ不公平である、と記している。6月11日、台湾「外交部」は声明を発表し、アメリカが釣魚島を琉球とともに引き渡そうとしていることは「絶対に受け入れられない」とした。この日の蒋介石の日記には、「午前、外交部の釣魚島に対する声明を審査決定の後仮眠する」とあり、この声明に蒋介石が直接関与したことが明らかである。蒋介石はまた日記に「病状は昨日の如し」、「本日は精神的に優れず、国を憂慮す」とも記している。15日、彼の「病状はやや改善があり」、午後には高級幹部を召集して「外交及び釣魚台問題」を議論した。17日の午前及び午後、蒋介石はそれぞれ2時間休息したが「熟睡できず」、午後には再び蒋経国「行政院副院長」と釣魚島問題を協議した。この日の日記にはさらに、「本日米日が琉球引き渡し協定に署名」と記している。わずか数語であるが、蒋介石が1年余の間にしばしば打撃を受け、大いに失望するも如何ともしがたい苦悶の心境が溢れている。
 この後、蒋介石日記には釣魚島への言及はない。1972年5月15日、沖縄返還協定の一部分として、アメリカは釣魚島を日本に引き渡した。その2日前、アメリカ及び台湾において愛国青年が再び大規模な抗議行動を起こした。この時は、蒋介石が日記の最後の1ページを記す日(1972年7月21日)を隔てることわずか2ヶ月余であった。

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