尖閣問題に対する米ロの立場(中国側見方)-その二(アメリカ)-

2012.11.08

*11月2日付の中国青年報は、尖閣問題に関する日中間の争いに関するロシアの各界の見解を紹介、分析する長文の文章(ロシア問題について同紙でよく書く関健斌署名。原題は不明)を掲載しました。また、11月5日付の中国新聞社HPは、雑誌『現代国際研究』をソースとする上海国際問題研究院アジア太平洋研究センター副主任の廉徳瑰署名のこれまた長文の「アメリカの釣魚島問題における曖昧な政策を分析する」と題する文章を掲載しました。米ロ両国が尖閣問題に関して日中いずれの側にも立たない政策をとっていることに関する中国側の見方を示すものとして私には極めて興味深いものでした。このコラムを訪れてくださる方にも読んでおいていただきたいので紹介します。前回はロシアの立場に関する文章を紹介しましたが、今回はアメリカの政策・立場に関する中国側の分析を紹介します。
この文章の言わんとすることは、尖閣問題に対するアメリカの政策には3つの曖昧性(主権帰属、沖縄返還時及び今回の日中衝突への介入)という特徴があり、その曖昧政策の狙いは、「日中間の紛争を利用して東アジアの国際関係を支配し、アジア太平洋地域における主導権を確保することにある」(文章冒頭の要旨)とするものです。事実関係を丹念に猟涉して書かれている文章であり、尖閣問題に対するアメリカの政策に関する歴史的経緯を突っ込んで調べたことがない私には初見のことも多く含まれており、中国側研究者の問題意識の所在を理解する上でも注目に値する文献だと思います(11月8日記)。

<廉徳瑰「アメリカの釣魚島問題における曖昧な政策を分析する」>

 …中日釣魚島紛争は、アメリカが戦後沖縄占領時に釣魚島も一緒に占領したことと密接な関係があり、1971年に日米が勝手に授受しあって沖縄と一緒に釣魚島をも日本に「返還」したこととも密接な関係がある。それだけではなく、アメリカは1996年に釣魚島に日米安保条約第5条が適用されると明確に表明することを開始し、2010年9月の「船舶衝突事件」以後、アメリカは再び釣魚島が同条約の適用範囲内にあることを再確認し、2012年7月にはクリントン国務長官が日本側に対して釣魚島に日米安保条約が適用される方針には変更がないことを再約束し、同年9月にはパネッタ国防長官が訪日してやはり日米安保条約が釣魚島に適用されると述べた。ところが、アメリカ側が一連の「明確な」態度表明を行う背後には相変わらず隠された曖昧な要素があり、特に我々がアメリカの釣魚島問題における「介入」過程を通観すると、アメリカの釣魚島政策には終始一貫して曖昧さが見出されるのであり、その主な表れは、釣魚島主権帰属問題の立場における曖昧さ、沖縄「返還」決定過程において現れた動揺そして中日間の釣魚島をめぐる衝突に介入するか否かにおける態度の曖昧さという3つである。

一 主権帰属における曖昧さ

 …アメリカは、沖縄占領時に釣魚島を一緒に占領したが、長期にわたって沖縄を支配するという目的を実現するため、沖縄の主権帰属について明確な表明を行ったことはなく、釣魚島はアメリカの占領範囲内にあったこともあり、釣魚島の主権についてもアメリカは立場をとらなかったのであり、アメリカのこの態度が今日に至るまで変わっていないということである。
 まず、アメリカは、沖縄を長期占領する目的から釣魚島を国連の信託統治の下に置こうとし、これが曖昧な立場の根源にある。米軍が第二次大戦後に釣魚島を占領したのは日本のミスリードの結果である。というのは、米軍が占領を行ったのは、沖縄守備‥に当たっていた納見敏郎司令官が‥米軍に対する投降文に署名した後に指定した投降範囲に基づいており、その範囲の中に釣魚島が含まれていたのだ。また、1946年1月29日、日本外務省は、連合国最高司令部の「若干の外郭地域を政治及び行政上日本から分離することに関するメモランダム」に基づいて作成した「南西諸島一覧」の中に釣魚島を明確に列記した。外務省のこの「一覧表」は、明らかに甲午戦争(日清戦争)の期間中に日本が釣魚島を盗み取った後の沖縄の範囲に基づいて定めたものだ。第二次大戦後、釣魚島は日本が盗み取った領土として、本来であればカイロ宣言及びポツダム宣言に基づいて中国に返還されるべきだったのに、日本はアメリカの占領に引き渡したのだ。
 米軍は釣魚島占領後、上記誤りにさらに誤りを重ねる形で同島を含む沖縄に関する関連法律規定を充実させ、国連の信託統治の対象とさせた。例えば、1950年8月4日、米軍は第22号布告として「群島組織法」を発布し、その中で八重山群島の範囲に釣魚島を含ませ、そのことによって釣魚島が八重山群島の管轄ということを明確にした。1951年に署名されたサンフランシスコ対日平和条約(第3条)は国連の沖縄に対する信託統治を定めたが、実際上は沖縄をアメリカの管理の下に置くということだった。…(第3条に言う)「南西諸島」という言葉にカギがある。というのは、同条項に言う「北緯29度以南の南西諸島」とは、日米によって釣魚島を含むと解釈されたからである。それによりアメリカは、沖縄に対する立法、司法及び行政の権力を獲得し、釣魚島は沖縄とともにアメリカの支配の下に置かれることになった。
 アメリカが単独で沖縄及び釣魚島を支配したのは、これらの島嶼を反共軍事基地に変えるためだった。沖縄の90%以上がアメリカによって軍事基地として利用され、アメリカの釣魚島に対する支配及び使用も主に軍事目的で、例えば、米軍は同島の黃尾嶼及び赤尾嶼を空海軍の演習用爆撃地にした。即ち、黃尾嶼は1955年にいわゆる琉球民政府が米空軍に対して対地爆撃訓練用に提供し、赤尾嶼については1956年に米海軍に艦砲射撃及び艦船の対地爆撃訓練場として提供した。黃尾嶼は釣魚島のいわゆる「発見者」及び「所有者」の古賀辰四郎の息子である古賀善次が所有していたので、1953年7月1日、古賀善次は琉球民政府当局と契約を行い、琉球民政府は毎年賃貸料5763.92ドルを支払うことになった。このことは、アメリカが直接その占領下の住民からこれら島嶼の一部分を賃借したということであり、日本ではなくアメリカが釣魚島に対して行政管理権を行使したことを示しており、また同時に、戦前の日本の釣魚島を含む沖縄に対するいわゆる「主権」が既にサンフランシスコ条約第3条の信託統治の規定及びアメリカの単独管理によって喪失させられたことをも示しているのであり、沖縄及び釣魚島の主権もまたこれによって取り上げられたということである。
 次に、アメリカは釣魚島主権問題で立場をとらない。以上に述べたように、アメリカの操作により、釣魚島主権問題は実際上沖縄問題と一緒に結びつけられ、すべて国連の信託統治の対象になった。アメリカは朝鮮戦争期間中になってはじめて沖縄の将来的地位の問題を考えたのであり、沖縄を日本に渡す方が中国に渡すよりもアメリカの戦略にとって有利であると考え始め、この背景のもとで、ダレスは、日本が沖縄に対する「潜在主権」を持っている可能性があると提起したのだ。しかし、沖縄は法律上国連の信託統治とされるべきであったので、アメリカといえども沖縄の主権を日本に「返還」する権利はなく、その故に、後の沖縄「返還」過程が行政権移行過程に過ぎず、日本は必ずしも沖縄に対する主権を備えていないということなのだ(この点は日本も承認せざるを得ないのであり、例えば、行政権移行前に、日本も沖縄に対して「残存主権」があるかどうか研究したことがある。というのは、日本の警察も沖縄の治安維持に参与したので、日本の法学者はこのことを沖縄「返還」の法的根拠にしたいと企図したからだ)。
こういう背景があったために、沖縄の行政権を日本に移行した後、アメリカは沖縄の主権問題に関して明確な態度表明をしたことは一度もないのだ。つまり、釣魚島は沖縄と一括りだったために、アメリカとしても釣魚島の主権帰属の所在を明確に表明することができなかったということだ。例えば1971年4月、アメリカ国務省スポークスマンは、中日間で釣魚島紛争が起こったことに鑑み、関係方面が対話を通じて問題を解決することを希望すると発言したことがある。1971年6月17日、「返還協定」署名後、アメリカ国務省は、釣魚島の行政権を日本に引き渡すが、主権問題に関しては中日両国の協議によって解決されるべきだと声明した。1971年9月、国務省スポークスマンのマクロスキーは、「釣魚島問題は当事国によって解決されるべきだ」と述べた。最近のメディアの報道によれば、本年9月、アメリカ議会が報告を出版し、アメリカ政府が議会に批准を付託した「沖縄返還協定」が釣魚島の主権を日本に引き渡したということは、アメリカがこれらの島嶼の主権に対して如何なる傾向の主張をも行うことを意味しないと述べた。このこともアメリカの立場には如何なる変化もないことを説明している。
 アメリカが主権問題について立場を持たないということは、表向きの理由は沖縄が国連の信託統治の対象であるということだが、同時にまた、アメリカが中日間で中立を維持する狙いがあるということも反映している。アメリカのこのような態度は日本にとっては大きな失望であり、…福田赳夫外相は記者に対して、「(1972年)5月15日の沖縄返還の際には、尖閣諸島は日本の領土であることをアメリカが証明するように要求する」と述べた。福田赳夫は国会においてもアメリカに対する不満を表明し、「尖閣諸島問題に関しては、アメリカは、1970年及び1971年以前においては態度が非常に明確だったのに、1971年中頃に至り「返還協定」署名の時、尖閣諸島の施政権に関し、第三国が異議を持っているため、態度を変えた。このことに対して、私は非常に遺憾に思っている」と述べた。福田がここで言う「第三国」とは明らかに中国のことを指している。
日本の船橋洋一記者は、「尖閣諸島は、アメリカの対中接近政策によって犠牲にされた」と認識したが、この見方には一定の説得力がある。というのは、1971年7月15日、キッシンジャーが秘密裏に中国を訪問し、1971年12月30日に中国外交部が声明を発表して、釣魚島は昔から中国の固有の領土だと主張し、1972年2月22日、アメリカ大統領が北京を訪問して中米間に和解が実現したのであり、こういうこともアメリカが沖縄及び釣魚島の主権問題で立場を表明することを望まない重要な背景の一つだったからである。

二 「返還」決定の曖昧さ

 アメリカが最終的に釣魚島を日本に引き渡したのは、同島が沖縄とともにその占領下にあったからだ。しかし、中日間に紛争が発生した後、アメリカは台日関係、中日関係などの要素も考慮し、釣魚島も一緒に日本に「返還」することに対して揺れ動き、躊躇するようになった。台湾に悪く思われたくなかったし、さりとて日本にも悪く思われたくなかったということだ。同時にアメリカはまた、台湾問題を利用して台湾と日本更には中日関係を牽制することも考え、「返還」決定の後でさえ、「返還」協定の中で直接かつ明確に釣魚島の名前を記さず、「返還」決定も実は曖昧だった。
 まず、アメリカは釣魚島問題を複雑化したくなかったので、釣魚島の「返還」に対する態度は明確ではなかった。当時のアメリカはヴェトナム戦争の泥沼に陥っており、国内の反戦感情は高揚しており、中国と計らってヴェトナムから撤退する必要があった(これが米中和解の背景の一つだ)。つまり、沖縄「返還」交渉は正に中米が和解を模索する途上にあったという背景の下にあったのであり、アメリカとしては釣魚島問題に対して全面的な考慮をせざるを得なかったのである。
そのほか、釣魚島問題では台湾の態度が断固としたものであり、台米間にもやりとりがあり、したがってアメリカとしては、これらの島嶼紛争が「盟友」である台湾との関係に影響して、問題をさらに複雑化することを望まなかったということもある。 1969年11月、佐藤・ニクソン共同声明の発表後、日米双方が3年以内に沖縄を日本に「返還」することを公表したが、声明には「釣魚島」という文字は入っていなかった。1971年5月11日、アメリカのメア駐日大使は愛知揆一外相に対し、「我々の基本的立場は、領土に関する主張に関して決裁を行わず、将来的に国際司法裁判所に行くという事態が出現することを避けるということだ」と述べた。ここからも、当時の日本が沖縄「返還」と同時に釣魚島も獲得したいと考えたことがそれほど簡単ではなかったことが分かる。というのは、当時のアメリカの態度は必ずしもハッキリしておらず、釣魚島を日本に引き渡すとは決めていなかったからだ。
 次に、アメリカは釣魚島問題を対日交渉上のカードにしようと考えた。上述の複雑な要因により、アメリカ政府内部に釣魚島を(沖縄とともに) 日本に引き渡すことに反対する意見も現れた。特に当時は日米間で沖縄「返還」の条件に関して駆け引きが行われており、アメリカは、日本が沖縄「返還」後も米軍事基地の継続的プレゼンスを約束することを要求し、核兵器が自由に沖縄を出入りすることまで要求していた。同時に日米では「繊維交渉」も行っていた…。こうして、アメリカ政府内部には、「日本が繊維交渉で譲歩するように釣魚島問題も条件にすべきであり、即時に日本に引き渡すべきではない」と主張するものもいた。…したがって日本は一定の代価を払ったのであり、沖縄に引き続き米軍が駐留することに同意したほか、秘密合意を通じてアメリカ艦船が核兵器を搭載して沖縄に入ることにも同意し、また、アメリカに対して3億2000万ドルの「返還」費用を支払った。(繊維交渉での妥協も指摘。)
日本のこれらの譲歩が最終的に沖縄の順調な「返還」の基礎を据えるとともに、日本が釣魚島に対する支配権を獲得することにも条件を作り出したのであり、アメリカは最後になって釣魚島を日本に引き渡さないとする当初の態度を変えたのだ。しかし、釣魚島は明らかにアメリカが日本に譲歩を要求するカードになったのであり、「返還」決定は躊躇する過程を経たのだった。
 第三、「返還」範囲に曖昧さがあった。アメリカは日本の一連の譲歩の基礎の上に最終的に釣魚島を日本に引き渡すことを決定したが、「返還」の範囲については曖昧な処理を行うことをやはり主張した。即ち、「奄美返還協定の対象地域以外の北緯29度以南の南西諸島」と述べただけで釣魚島の名前に触れず、「返還協定」本文の中に「返還」範囲に言及することにも反対したのであり、(そう主張した)アメリカの意図は、釣魚島の支配権を日本に渡すが、協定本文では明確にそのことを規定しないということだった。
これに対して日本側は、アメリカの主張に同意することを余儀なくされ、協定本文中に「返還」範囲に言及することを堅持はしなかったが、協定の付属議定書中に規定を置くことを要求した。アメリカは当初は日本の要求に応えなかった。1971年6月9日、佐藤ニクソン声明の正式署名の8日前、ロジャース国務長官は「返還」範囲問題について愛知揆一外相に対し、「国民政府は一般国民の反応を非常に気にしており、アメリカ政府にも圧力をかけてきている。……したがって、貴方が我々に協力してほしい」と述べた。これに対して愛知揆一は、「我々は、アメリカ政府にご迷惑をおかけしない前提の下で本件を処理する自信があり、必要であれば、会談を行うこともできる」と応じた。
日本がアメリカに「迷惑をかける」ことをしないと約束したので、双方は1971年6月17日に「返還協定」に署名し、アメリカは付属議定書(浅井注:正式には「合意された議事録」)の方式で緯度の表示で「返還」範囲を示すことに同意した。日本外交官の一再ならぬ努力の下、(この議事録には)「区域内にあるすべての島,小島,環礁及び岩礁」という言葉がつけ加えられ、そのことは、アメリカが事実上釣魚島を日本に「返還」することを決定したことを意味した。
以上の「返還」決定の過程から見ると、アメリカが釣魚島を(沖縄と)一緒に日本に引き渡す過程においては、動揺と躊躇があったということであり、最終的に「返還協定」に署名したけれども、そこには「釣魚島」の文字はなく、したがって、アメリカの「返還」決定にはやはり曖昧さがあったということである。

三 衝突への介入における曖昧さ

 アメリカは、釣魚島問題のために中日間の衝突に巻き込まれることを望んではいなかった。アメリカの目的は、中日の間でバランサー、調停人になることにより、中日関係ひいては東アジアの国際関係において主動的な立場を維持することにあった。そのため、アメリカは中日の衝突問題に介入するかどうかに関して一貫して曖昧であり、実際上推進してきたのは曖昧政策である。
 まず、アメリカは日米安保条約の適用範囲に釣魚島を含めるかどうかについて曖昧だった。例えば、1972年5月、キッシンジャーは国家安全保障会議の席上、「釣魚島に関して最善の方法は、人々が関心を向ける対象にさせないことだ」と述べた。日本が釣魚島は安保条約の適用範囲に含まれるかどうかを追加質問した際、アメリカは同年5月の秘密文件において、安保条約の適用範囲に含まれるかどうかについて肯定的な回答を行うべきではなく、安保条約の適用対象と解釈されることができると言うべきであるとしている。ここにおける「解釈される」という文言は極めて深い意味があるのであり、日米安保条約は必然的に釣魚島を含むということではなく、釣魚島を含めると「解釈」できるということであり、拡大解釈なのである。これが、アメリカ高官がこの問題に対して態度を表明した初めてのケースであり、アメリカは明らかにことさらに曖昧さを持たせようとしていたのだ。
 冷戦終結後、釣魚島が日米安保条約の適用範囲に含まれるかどうかについてのアメリカの態度には明確化の傾向が現れたが、曖昧模糊とした点も相変わらず存在した。例えば、1996年、アメリカのモンデール駐日大使はアメリカが中日の釣魚島衝突に介入しないと表明したが、石原慎太郎はこれを批判する文章を書き、もしそうであるとすれば、日米安保条約は廃棄した方がよく、日本は独自の防衛体制を構築するべきだと述べた。このような背景のもと、クリントン政権のキャンベル国務次官補(浅井注:正しくは国防副次官補)は、日本の追及に対して、釣魚島は日米安保条約の適用対象であると述べたが、これは、アメリカ政府高官が公式にこういう態度表明した最初のケースであった。アメリカの二度目の釣魚島防衛問題に関する態度表明は2004年3月であり、国務省スポークスマンが記者に対して「日米安保条約は日本の施政下の領域に適用され、釣魚島にも適用される」と述べた。
しかし筆者の見るところ、これらは「拡大解釈」に過ぎず、アメリカが釣魚島紛争に必ず介入するということを意味したものではない。例えば、2009年2月26日の日本メディアの報道によれば、日本は何度もアメリカに対して釣魚島が日米安保条約の適用対象であることを確認するように要求したが、アメリカは明確に態度表明することを回避した。この報道を受けて、当時の首相・麻生太郎が国会での民主党前代表・前原誠司の質問に答えて、…「尖閣諸島は日本の領土であり、当然に日米安保条約の対象である」と述べた。しかし、これは日本側の勝手な願望の表明に過ぎず、当時アメリカ側はさらに踏み込んで答えることはしなかった。
 実をいえば、アメリカの曖昧な態度は釣魚島問題を利用して日本を支配するという目的を達成するためであった。当時、民主党は政権掌握の可能性があり、特に小沢、鳩山といった人物には脱米傾向があった。2009年2月25日、小沢一郎は、「在日米軍は第7艦隊の駐留があれば十分だ」と述べた。彼の趣旨は、アメリカができないことは自衛隊ができるということだったが、この発言はアメリカの警戒を引き起こした。 民主党が政権に就いた後、普天間基地問題に関してアメリカと対立し、日米関係は緊張した。そのため、アメリカはまた曖昧な手練手管を弄しはじめた。2010年2月28日、アメリカ国防省のシドニー東アジア担当国防副次官補は北京で、「アメリカが釣魚島の最終的主権論争に参与しないことはアメリカの一貫した立場だ」と述べた。…シドニーの地位は高くはないが、彼は国務省出身であり、日本側は、この発言はクリントンが主導する国務省の意向を反映しているのではないかという推測を行った。
…2010年9月の船舶衝突事件以後でさえ、アメリカは相変わらず釣魚島に安保が適用されるかどうかについて明確にしなかった。ゲーツ国防長官は、「我々は同盟の責任を履行する」と述べただけで、釣魚島が安保の防衛範囲に含まれるかどうかについては触れなかった。9月23日になって、日米外相会談においてクリントン国務長官がついに釣魚島は「日米安保条約の適用対象である」と表明した。しかし、アメリカはこのことについて発表せず、クリントンは、中日両国が平和的な方法で問題解決することを希望した。前原誠司は、アメリカ高官の態度表明の中の暗示的な言葉を聞き分け、「クリントン国務長官は、尖閣諸島には日米安保条約第5条の適用がある、しかし、日本の領土とは確定しなかった」と述べた。
明らかにアメリカは、釣魚島の主権紛争には介入しないし、同島に安保が適用されることを表明することを常に「忘れる」という一貫した立場を堅持しているのだ。アメリカのこの曖昧な態度は、少なくとも船舶衝突事件以後、日本をして不断に日米同盟強化を表明することを迫り、これによってアメリカが日本に対する支配を強めることを可能にした。
 第三、アメリカは釣魚島衝突に介入するかどうかについて曖昧な態度である。アメリカは、釣魚島に安保が適用されるとは表明しても、これによって引き起こされる中日衝突に本気で巻き込まれることを願っているとは限らない。
2010年9月10日、ニューヨークタイムズのコラムニストであるニコラス・クリストフは文章を発表し、アメリカが釣魚島のために中国と開戦する理由はまったく見出しがたいのであり、ましてやアメリカが釣魚島は日本に属することを承認したわけではないのでなおさらだと述べた。アメリカは太平洋の小岩のために戦争という危険を冒すはずはない。クリストフはアメリカの著名な記者であり、政界とも密接な関係があるので、彼の文章は日本のニューヨーク総領事館の抗議を呼び起こし、(総領事館は)同紙に抗議の手紙を送った。しかしクリストフは20日にこの手紙の内容の一部を公開し、世論の対日批判を呼んだ。…クリストフは、「アメリカが釣魚島といういくつかの無人の岩石のために(条約)義務を履行する可能性はほぼゼロだ」と述べた。ブッシュ政権時代に国家安全保障会議でアジア担当主任を務めたマイケル・グリーンも、クリストフの発言を確認し、「日本が(中国を)刺激する行動を最初にとるならば、アメリカは必ずしも日本に全面的に賛同し、これを支持するとは限らない」と述べた。
 以上から分かるように、アメリカは実際上、衝突発生を避ける政策を推進しているのだ。例えば、アメリカの本当の意図について、日本は船舶衝突事件からも察しがついたはずである。当時アメリカは、釣魚島に安保が適用されると保証はしたが、同時に日本が船長を釈放するように暗示したのであり、このことは、中日の衝突に日本がアメリカを巻き込むことをアメリカが願っていないことを表している。
アメリカの船舶衝突事件における言動は日本にとって悲喜こもごもということである。「喜び」とは、アメリカが再度釣魚島は安保の適用対象であることを約束したことであり、「悲しみ」とは、アメリカが日本に船長を釈放するように「提案」し、…日本も‥最後にはそそくさと釈放せざるを得ず、しかも第2次拘留期限になる前に釈放せざるを得なかったということで、日本は事実上この外交的闘いで負けたということだ。
船舶衝突事件はアメリカが衝突に巻き込まれたくないというホンネを暴露した。2011年11月14日、在日米軍司令官は日本記者クラブで問題の本質に触れ、「尖閣諸島は日米安保条約の適用対象だが、最善の方法は平和的解決であり、必ず解決の方法は見つけることができ、それは武力解決よりも好ましい方法である」と述べた。
最近、日本はオスプレイ配備問題でアメリカと争っている。アメリカは日本側が配備に同意することを要求し、日本側はアメリカが釣魚島防衛を表明することを要求している。しかしパネッタ国防長官は、その配備が「離島防衛にとって非常に重要」と言うに留まり、釣魚島の名前には触れなかった。却ってクリントン国務長官はその前の段階で、釣魚島「国有化」問題について日本外務省に質問し、アメリカは主権問題には態度をとらず、関係する国家が平和的に問題を解決することを希望すると述べた。
最近の日米「島嶼奪還」軍事演習においても、アメリカはその演習の趣旨が釣魚島にあるとは表明せず、日本政府もその目的が釣魚島だとは説明する勇気はなく、防衛省関係筋が匿名で演習の目的は釣魚島だと明かしたに過ぎない。9月17日、パネッタは訪日時に再度、釣魚島は日米安保の適用対象だと述べたが、同時に中日双方が平和的に問題解決することを希望する旨再び述べた。見るところ、アメリカにとっては、釣魚島が安保の適用対象であることについては約束したが、結論的にはやはり一貫した立場があるということであり、それは即ち、自分が衝突に巻き込まれたくないということだ。

結論

 以上を綜合すると、アメリカの釣魚島問題における曖昧政策は、主に、主権帰属問題での立場が曖昧であること、(具体的には)主権が日本に属するか中国に属するかについて態度表明を行うことを肯んじないこと、釣魚島を日本に「返還」するという決定においても動揺し躊躇したのであり、これを沖縄と一緒に日本に引き渡すことを拒否する意見もあったということ、釣魚島をめぐって中日間で発生する衝突に介入するかどうかの問題でも態度が曖昧であり、一方では日米安保の適用を約束するが、他方では平和的方法で問題解決することを強調していることである。…主権については立場をとらないが安保の適用は約束する。安保の適用を約束しながら、一再ならず平和的方法で問題解決することを声明する。アメリカが釣魚島問題でこういう曖昧な政策をとる目的は、中日間で行動の余地を残しておきたいということであり、違ったときに違ったことを言うことで、中日関係を支配し、東アジア問題をコントロールするということなのだ。
この点に関して中国外交部はかつて声明を発表し、「我々は、米日反動派が中国の領土である釣魚島を使って取り引きし、中日両国人民の友好関係を挑発することに断固反対する」と急所を突く指摘を行ったことがある。中国外交部はアメリカの曖昧政策の本質を突いたのだ。 もちろん、曖昧政策も一定の効果は収めている。2010年の船舶衝突事件は、日本の民主党の動揺していたアジア政策をアメリカ回帰の方向に戻らせることになり、日米同盟は再び日本の唯一の戦略的選択となった。本年の「島購入」の茶番劇もまた、アメリカが普天間基地にオスプレイを配備するための道を洗い清め、アメリカのアジア回帰戦略に整合性を備えさせることになった。
釣魚島問題において曖昧な余地を残しておくことは、アメリカが調停者の立場で東アジア問題において発言権を保持することに明らかに有利なのだ。時に紛争を挑発し、時に調停者を演じることが、アメリカのアジア太平洋政策に奉仕する上で都合が良いのだ。…
中日双方は、理性的で明晰な頭脳を維持するべきである。有識の人々を連合して域外大国及び日本のタカ派が中日関係の大局を破壊しようとする陰謀を打ち破り、釣魚島問題を掛け値なしに棚上げし、紛争棚上げの原点に戻り、共同開発を図り、災いをもって好機と為し、ウィン・ウィンを実現することのみが両国関係に対処する正しい道である。

RSS