中国の対外政策とアメリカ・日本-その一-

2012.10.31

*10月29日及び30日付の上海の新聞『解放日報』は、中国国際問題研究基金戦略研究センター執行主任の王嵎生署名文章「中国外交の変化と不変化」を上下2回に分けて掲載し、中国外交の基本的なあり方を論じています。また、30日付の環球時報HPは、呉祖栄署名文章「アメリカはアジアで踏みとどまるべきだ」を掲載し、オバマ政権下のアメリカの対アジア政策について批判的に論じました。さらに同日付の新華社HPは、新華社世界問題研究センター研究員の銭文栄署名文章「キッシンジャーの「瓶の蓋論」から「トラを山へ放つ」まで 日本軍国主義の再起」を掲載して、アメリカの戦後の対日政策を包括的に批判しました。
 私がこれまでコラムで紹介してきた中国側論調につきましては、様々な感想、批判が寄せられています。私がこれらの文章を紹介することで、私がそれらの文章の内容に同意しているとか、私自身がそういう考えなんだろうとか、お感じになる方もおられるようです。しかし、私としては、尖閣「国有化」後の中国の対日認識の所在について知っていただき、その上で読んでくださる方一人一人が自らの対中認識、日中関係のあり方、ひいては日本政治のあり方について思いをめぐらせていただきたいし、今回の尖閣問題についてはそうする重要な意味があると考えて紹介している(私自身の考え・判断を全面的に反映するものとは限らない)ことを念のためにお断りしておきます。
 また、中国側の激越な文章表現に不快感をお持ちになる方も多いようです。「自郎夜大」と形容された方もおられます。そういう形容に値する文章もありますが、そういう文章を含め、私はやはり、過去に日本に煮え湯を飲まされた中国民族、しかも日中国交正常化後はそういう屈折した心理を押さえ込んで日中友好に努力してきた中国人民が、今年に入ってからの野田・民主党政権(及び全般的に右傾化を強める日本政治)のもとでの尖閣問題での行動に「ついに切れてしまった」という事情がそういう激越さとなって爆発しているのだということを、いまこそ私たちが他者感覚、歴史感覚を精いっぱい働かせて理解する必要があるのではないかと思います。
 今回は、中国人が誰もかも「頭に血が上っている」わけではなく、中国外交のあり方、アメリカの対外政策及び対日政策について彼らなりに冷静な分析と判断を心掛けていることを見ていただきたいという思いから、冒頭に挙げた3つの文章の中の王嵎生「中国外交の変化と不変化」を紹介することにします。他の二つについては、改めて紹介するつもりです(10月31日記)。

 中国の総合的国力の速やかな向上、及びそれとともにやって来たアメリカの戦略重心の対東(アジア)移動ステップの加速、さらに日本その他の地域の国々による不断の騒ぎにより、中国外交は極めて重大な挑戦に直面している。情勢が任務を決定し、任務がまた情勢を決定する。いかなる国家の外交戦略もその社会的属性及び基本的価値観から離れることはできない。中国ももとより例外ではない。現在、内外の学者は中国の外交戦略に関心を持ちかつ重視しており、ありとあらゆる言説が出ている。例えば「韜光養晦」(才能を隠して外に表さない)戦略はもはや時代遅れで、いまは「大いに打って出るべし」だとか、「内政不干渉」原則を引き続き堅持するかどうかを改めて考え直すべきだとか、「非同盟」政策のプロとコンを改めて評価し直し、「準同盟」あるいは「半同盟」の政策を起動するべきだとか、中国外交には「気骨が欠けて」おり、「大国には大いなる外交があるべきだ」等々。自らの見解を以て、以上の諸問題について専門家諸氏とともに探求したいと考える。
○「韜光養晦」は時代遅れか
 経典上の「韜光養晦」の意味はもともと、弱い側の集団または個人が覇業を図りめぐらし、最終的に敵方を打ち負かす「策略」または「臨機応変のはかりごと」ということだ。このことに関しては、越王勾践の「臥薪嘗胆」の例がもっとも成功したケースだ。しかし鄧小平が提起した「韜光養晦」の時代背景と中国社会の属性は大いに異なる。外交部は、この言葉を一貫して"to play lowprofile"(低調処理)と訳しており、その意味は、謙虚にして慎み深くあるべきで、才能をひけらかしてはならないということだ。しかも鄧小平がこの言葉を述べたときには、続けて「永遠に覇を唱えず」かつ「ある程度は事を行う」べきであるということを特別に提起していた。したがって、一部の人々が言うような、鄧小平が「韜光養晦」であるべしと戒めたのは中国があまりに弱いから、ということではあり得ない。現在の中国はGDPで世界第2位であり、どうして古いしきたりにこだわっておられようか。中国は世界において「大いになすところある」べきであり、人に教訓を与えるべき時はそうするべきである。ここには大きな誤解がある。
 「韜光養晦」は、現代中国の長期的な戦略方針であり、それは中国社会の属性によって決定されるものであり、同時に、中国が「調和世界」を作り「覇を唱えず」、また「和して同ぜず」、「平等なパートナーシップ」など、一連の価値観によって決定されているものだ。過度に「韜光養晦」にこだわると容易に「なにもしない」ことになるし、過度に「大いになすべし」を強調すると人を威圧するまでになって、そうなると中国外交の大局に影響し、これを破壊する可能性も出てくる。正しい態度とは、「韜光養晦の意識を高め、なすべき事をなす」であるべきだ。
 中国の総合的国力の向上に伴い、中国は国際場裡特に周辺諸国との関係では、「積極的になすべきはなす」であるべきだし、そうでなければならない。しかし次の3点は謹んで意識するべきである。一つは「タイミングと情勢を慎重に判断する」ことであり、可能性及びフィージビリティを十分に評価することだ。二つ目は、「全体的な戦略」及び時代の求めることを忘れないことだ。三つ目は、政策及び手段を注意深く用い、「闘わずして人を屈せしめる闘い方」を追求することだ…。
 現在のアジア太平洋地域の情勢に基づいて言えば、アメリカは戦略的な重心を東に移す段取りを加速させており、日本も「三番手には甘んじず」、アメリカの「力を借りる」ことを狙っている。フィリピンとヴェトナムも一緒に騒いで勢いをつけようとしている。彼らは明らかに、中国を刺激し、抑止し、対決をあおっている。この情勢に直面して、「対決」してどこどこの国に教訓を与えるべしと主張するものもいる。もしそのようなことをすれば、奸計にはまってしまう可能性がある。むしろ中国は彼らを「失望」させるのだ。中国は高度に警戒して対処し、「釣魚台で腰を落ち着け」、着実に軍事的実力を向上させて万一に備えるとともに、同時に平和及び発展の大局に心配りし、「柔を以て剛を制し」「根本的に問題を解決する」方針をとることを強調する。これは弱みを見せるということではなく、新しい情勢の下における外柔内剛である。中国は「周辺との調和」を構築することを主張しているが、そこには犯すべからざる「レッド・ライン」があり、必要なときには「まず礼を尽くして接し、その後に武力を用いる」ということは、関係者は皆知っていることだ。今のアメリカは虚勢を張っているが、後顧の憂いの何と多いことか。日本などいくつかの国々はせいぜい海を抱えて威張っているだけだ。彼らは太平洋の水をかき回すことはできるが、大波を起こすことはできず、ものにはなりっこない。
○「内政不干渉」はまだ必要か否か
 「内政不干渉」は国連憲章の核心的原則の一つであり、平和共存5原則の一大要素でもある。この原則は、弱小国が独立と主権を守り、覇権主義及び強権政治に反対するための有力な武器である。中国政府は一貫してこの原則を堅持し、守っている。人によっては、過去の我々は国が弱く民は貧しかったから他者の内政干渉を恐れていたが、いまは強大になったのだから何を恐れるのか、と言うものもいる。干渉すべき時は干渉するべきで、前門の狼及び後門の虎を恐れる必要はないというのだ。このような考え方は国連憲章の精神に悖るだけでなく、我が国の社会的属性が求める行動原則に合致せず、中国を強権政治の国々の隊伍に容易に置いてしまうものであり、敵対勢力にも利用される。
 数年前、アメリカのメディアが「中米共同統治」(G2)のアドバルーンを上げて宣伝した際、報道によれば、我が国のなかにも考慮し、試してみても良いと秘かに言う権威ある人士がいた。当時発展途上国のいくつかからは強烈な反発の声が上がり、中国は過去においては自分たちと一緒の立場だったのに、いまではアメリカと一緒になって彼らを「共同統治」しようとしていると言った。いわゆる「共同統治」の「統治」とは、実際上「内政干渉」の意味が込められている。中国政府は当然拒否したのだった。
 冷戦終結後、アメリカは「アメリカ支配下の世界平和」を建設しようと図って、その価値観のもとで「保護する責任」を強力に進め、「内政不干渉は時代遅れとする議論」を宣伝し、「人権は主権よりも上だ」と主張し、「人道主義的干渉」を主張し、「新干渉主義」を実行した。20世紀末にアメリカとNATOが発動したコソボ戦争はその典型例だ。21世紀に入った最初の10年間においても、アメリカが中央アジアのいくつかで「○○革命」を行ったのもその例である(しかし成功例は極めて少ない)。リビア戦争もその典型であり、「民衆を守る」とか、「無辜の民に対する虐殺に反対する」とか言うが、実際においては、彼らこそがリビアで多数の人々を殺傷したのだ。
 現在アメリカはまたシリアで同じことをやろうとしている。彼らは、「民衆保護」の旗印を掲げて再び「新干渉主義」及び「政権更迭」を進めようと企図している。このような状況のもとで、中国は拒否権を行使して安保理で内政干渉にわたる決議に反対票を投じてきたが、これは中国が国連憲章の原則を擁護する表れであり、中国が新しい情勢の下で「積極的に為すべきは為す」ということである。
○中国は非同盟を放棄すべきか
 非同盟運動は冷戦及び米ソの覇権争いの時代に、機運に乗じて生まれたものだ。同運動は、同盟を結んで対抗することに反対し、両覇権国の世界争奪に反対し、世界平和、国家主権及び民族独立を守るために傑出した貢献を行ってきたのであり、今日においても独自の生命力を備えている。当時のもっとも代表的な同盟はNATOとワルシャワ条約機構であり、その次は日米安保条約、中ソ友好同盟条約もその一例であったが、中ソ関係の悪化及びソ連解体により自動的に「廃棄」された。中国は、一貫して非同盟運動のオブザーバーであり、ずっと同運動を支持している。
 問題は、いまは時代が異なるということである。アメリカは相変わらず同盟を推進しているが、人心を得ていない。中国は、時代の平和及び発展の要求に応じて、新しい形の大国関係を樹立し、調和ある世界を建設することを主張しているが、まずは、道義において要害高地を占領し、「非同盟、非対抗、第三国に向けない」及び「新しい安全観」の親和力で米日などのソフト・パワーやハード・パワーに対してスマートに相対している。仮に我々も同盟、準同盟をやり始め、日米あるいはNATOと対等に振る舞おうとするならば、必ずや地球規模の、破壊的な新冷戦をもたらすに違いない。これは、世界の平和及び発展の潮流に対して不利であり、世界人民の新世紀に対する期待に背くものでもある。
 …中国とアメリカの関係について言えば、中国はG2には賛成せず、「新しい形の大国関係」を樹立し、互いの核心的利益及び重大関心を相互に尊重することを主張している。しかし最近においては、アメリカは中国に対して常にヘッジをかけている。中国とロシアとの戦略的協力パートナーシップは米中関係とはまったく異なり、10年以上にわたり、既に全面的に大いに発展しており、実際には既に冷戦後の「新しい形の大国関係」のモデルとなっており、双方は同盟及び不必要な対抗を主張しない。上海協力機構は、非同盟、非対抗及び第三国に向けないことを一致して主張しているが、第三勢力に反対することでは緊密に協力し、相互に支持しあっている。こういう状況のもとで、同盟に如何なる意義があるというのか。中国は誰と同盟するべきだというのか。誰がまた中国と同盟したいだろうか。答えは明らかである。
○中国には大きな外交戦略がない?
 新中国が成立してからの60年以上にわたり、中国外交はいくつかの廻り道をしてきたが、全体として見れば独立自主の平和外交であり、より合理的な国際政治経済新秩序の建設を主張してきた。反帝反植民地、平和共存5原則、反覇権主義及び冷戦から、平和及び発展、協力及びウィン・ウィン、国際関係の民主化及び発展モデルの多様化、更には新しい安全観、多様な文明の尊重、共同の発展の追求、調和世界の建設と周辺諸国との調和、こうしたすべての主張はつながっており、時代とともに前進している。平和共存から調和世界に至るまで、時代の変化及び進展の産物であり、中国外交はさらに高みに登っているのだ。
 いまの世界では、明らかに二種類の大外交戦略が競いあっている。一つはアメリカが打ち立てようとしている、自らの価値観に基づく同国支配のもとでの世界平和であり、今一つは、中国が建設しようとする、中国の「和して同ぜず」という哲学思想の基礎の上での「調和世界」である。アメリカの大外交のキー・ワードは「指導」及び「二番手には絶対にならない」であり、中国の大外交のキー・ワードは「平等なパートナーシップ」及び「協力とウィン・ウィン」だ。この競い合いは長期にわたって続く可能性があり、一つの歴史的な時代を経るかもしれない。我々の時代は最終的に如何なる方向に向かって発展するのか、新世紀の平和と発展に向けての前途は実現できるのか、中国はこのことに対して十分な確信及び忍耐心を持っており、世界の人民は実践において正しい選択を行うであろう。

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