尖閣「国有化」後の中国の対日観(8)

2012.10.18

*週明けの中国メディアに掲載される対日論調は、数は減り気味ですが、相変わらず私たちが注目すべき論考が少なくありません。今回は10月15日及び17日付のもののなかから主だったものを紹介します(10月18日記)。

<鐘声「しらを切ると呼ぶ行為」>

 17日付の人民日報は、鐘声署名の「しらを切ると呼ぶ行為」と題する文章を掲載しました。「しらを切る」と訳してみましたが、中国語は「耍賴」です(もっと適切な訳があればご教示願いたいと思います)。私もこのコラムで指摘してきましたが、1895年の日本政府の尖閣「編入」の決定を中国側は知らなかったとすれば、下関条約において、台湾及び付属島嶼を中国が日本に割譲を迫られた際に、その付属島嶼に尖閣が含まれていると認識していたとしても当然なわけですが、今回の鐘声の文章は正にその点を指摘するものです。

 釣魚島と言えば、中国人が恥辱と憤慨を覚える馬関条約(下関条約)を提起しないわけにはいかない。日本は頻りに、釣魚島は馬関条約の割譲範囲には入っていなと言い張り、釣魚島の帰属では日本が先だとでたらめを言い、したがって、馬関条約第2条が規定する日本に割譲した台湾及び付属島嶼には釣魚島は含まれておらず、かくして窃取した中国領土を返還するという責任を回避できると考えている。これは、傷口に塩を振りかける行為であるとともに、極めて醜くまたへたくそにしらを切るものである。
 誰もが知っているように、釣魚島は早くから中国の行政管轄に収められていたのであり、清代の『台海使様録』、『台湾府志』等の官庁の文献は詳細に釣魚島に対する管轄状況を記載しているし、1871年に刊印された『重纂福建通志』は釣魚島などの島嶼を台湾宜蘭県の海防の要衝に並べている。馬関条約締結の時には、釣魚島は台湾の管轄に属し、台湾及びその付属島嶼は一括して日本に割譲した。これは証拠確実な事実であり、物を元の持ち主に返すべき時になって、日本が受け取っていないと言うのは、言い逃れでなくて何であろうか。
 日本は、1885年に釣魚島の調査を開始し、1895年に「内閣の秘密決議」を通じて正式に盗み取ったのであり、すべては秘密状態で行われ、馬関条約交渉の過程を通して中国側としては、この「秘密決議」を知らなかったし、知る統べもなかったわけであり、したがって、日本の行為は、まず窃取した後に分割占領したことになる。日本が台湾を分割占領した後に釣魚島を沖縄県の下におき、台湾治下で管轄しなかったことは、日本が事後に勝手に行政区画を決定したという問題であって、釣魚島が日本に帰属する前に台湾に属していなかったという証拠とすることはできない。したがって、日本が釣魚島は馬関条約で割譲した中には入らないとする主張は成り立たないのだ。日本が釣魚島を無理矢理占領した行動は、日本側が自作監督自演した低劣な芝居であり、いかなる合法性をも語る余地はない。
 注意を要するのは、カイロ宣言は、「東北4省、台湾、澎湖群島などの日本が窃取した中国の領土」を中国に返還すると規定していることだ。以上の規定は網羅的に列挙する方式を使用しておらず、その意味は、馬関条約を通じて正式に割譲した台湾、澎湖であろうと、日本が傀儡政府を通じて実際に占拠した東北4省であろうと、すべて中国に返還すべしと強調することにある。したがって、日本は釣魚島が馬関条約の割譲範囲に属しないと言い張っても、同島が甲午戦争(日清戦争)を通じて日本が中国から「窃取」した領土であることは否定できず、故に中国に返還しなければならないということだ。
 我々は、正義は最終的に通り、歴史は自ずから定論をもち、公正な道理は自ずから人心にあると固く信じている。

<金采薇「主権の要求は資源と無関係」>

 やはり10月17日付の人民日報は、金采薇署名の「主権の要求は資源と無関係」と題する文章を掲載しました。この文章は、日本でよく指摘される、中国が尖閣に主権・領有権を主張するようになったのは石油が発見された1970年代からのことであり、それまでは主張したことがなかったとする議論(日本政府のみならず、日本共産党もこのことをよく言っています)を取り上げ、「この議論は大いに誤っている」と反論したものです。

 日本のメディアでは、1895年以後、中国は釣魚島の主権を提起したことは未だかつてなく、1970年代に石油天然ガスが発見されてから中国は主権を要求したに過ぎないと言うものがある。
 この議論は大いに誤っている。中国人からすれば、資源の有無、いかなる資源があるかということは主権問題とは関係がない。中国の領土である限り、資源のあるなしにかかわらず、すべて中国に属すべきである。日本がこの問題についてどのように考えているかは我々の知るところではないが、これまでの100年以上の歴史から見ると、日本こそが他国の領土を侵略して、先を争って他国の資源を占領する悪い好みをいっぱい持っている。台湾を無理矢理占領し、中国を侵略したのは公認の事実だ。日本は、アメリカの地盤である太平洋のその他の国々をも呑みこもうとした。第二次大戦はこうして始めたのではなかったか。この(歴史の)ページは極めて不名誉なものであるが、消し去ることは極めて難しい。
 1895年当時、台湾及び付属島嶼に石油天然ガス資源があるかどうかは誰にも分からなかった。はっきり言える問題は、1895年に日本が釣魚島を窃取し、台湾島を侵略占領したということは、その実一つのことであり、その本質は、甲午戦争に借りて火事場泥棒を働き、中国領土を侵略占領したということだ。1941年に中国は余儀なく対日宣戦し、すべての不平等条約を廃棄することを宣言した。1943年のカイロ宣言、1945年のポツダム宣言及び1972年の中日共同声明はすべて、中国が釣魚島に対する主権の要求を放棄したことはないことを明らかにしている。日本は史実を知らないのではなく、選択性の聾唖で、聞こえないフリをしているのだ。
 世界の反ファシズム戦争の勝利について、日本はひた隠しに隠してきた。あるいは、あれは前の世代のことで、現在の日本はこのことに対して責任は負わないと言う人もいるかもしれない。これは間違いでないし、そうであってほしいと願う。我々は、日本の歴史上の侵略暴行を現在の人々の罪にしようとしたことはかつてないが、しかしその前提は、あの時期の歴史を承認し、正視し、歴史から教訓をくみ取るということであり、その逆であってはならない。我々はかつて、第二次大戦を経験した日本人があの歴史を深刻に反省し、日本が平和発展の道を歩むように真剣に推進したことを見届けたことがある。しかし我々はまた、日本人の中には、戦争に負けたことに対して相変わらず根に持って、狭隘な民族的な私利に基づいて、第二次大戦後の国際秩序を揺り動かし、甚だしきはひっくり返そうとしているものもいることをはっきりと見ている。戦後数十年も過ぎてから飛び出してきて釣魚島問題で騒動を起こすということの深層の原因はここにある。
 日本は、窃取あるいは侵略が日本に何の良いことももたらさないことを忘れてしまったかのようだ。歴史上、日本はかつてアジア諸国を征服して世界に覇を唱えようとし、その結果は血まみれになった。日本においては、平和的発展が社会の主流になるときであり、アジアの隣国に対して友好であるべき時であり、経済はそうしてのみ発展し、繁栄するだろう。冷静に考えてみれば、そういうことではないだろうか。
 「前事を忘れず、後事の師と為す」という中国の古い諺を、今日の日本人が読みとってくれることを願うのみである。

<郁志栄「中日の島の争い アメリカが元凶」>

 10月15日付の環球時報は、郁志栄署名の「中日の島の争い アメリカが元凶」と題する文章を掲載しました。尖閣問題にしても、南シナ海での中比、中越間の島をめぐる紛争にしても、中国は紛争激化の背景にアメリカがいるという認識を持っています。アメリカがちょっかいを出さなければ、これらの問題を冷静に二国間ベースで話し合うことができるのに、アメリカが動くからこそ、日本も、フィリピンも、ヴェトナムも事を荒だてようとしていると考えているのです。しかも、オバマ政権になって「アジア回帰」戦略を打ち出してから、これらの問題がエスカレートしてきたというのが中国の基本的な判断です。郁志栄の文章は、このような観点を明確に尖閣問題に関して示したものです。
 郁志栄の文章は、もう一点で注目する必要があります。最後の方で、中国は今日本側に対して、紛争棚上げのこれまでの方針を維持するか、全面対決かの分かれ道に立っているという指摘です。歴史的法理的に勝算我にありと自信を深めている中国ですが、日本が棚上げ合意の線に戻るのであれば、中国としてもまだそれに応じる用意があることを示しているのです。私は、野田政権がこの大切なメッセージを正確に理解し、我執にしがみつかずに軌道修正することを心から望みますし、外務省事務当局は今こそ万難を排して野田政権に直言する役割を果たすべきだと確信します。

 中日の釣魚島領土主権の争いは、アメリカが仕掛け人であり、双方の矛盾及び紛争を拡大する元凶でもある。アメリカは、40年前に真実版の「中日釣魚島闘争記」のテレビ連続ドラマを脚本及び演出し、現在も中日の島嶼主権争いは相変わらずアメリカに左右されあるいは支配されている。アメリカの主要な目的は、中日が喧嘩はするが殴り合いはしないということだ。当初この「連続劇」を設計した目的は、中日が相争い、アメリカが漁夫の利を得ることにあった。中日が平安無事であるときには、アメリカは火をつけようとするのだ。
 日本側による「不法な島購入」の茶番劇で中日が鋭い舌戦を繰り広げ、騒ぎで収まらないとき、アメリカが出てきて、一方では口先で一方の側に立たず、立場を取らないと言い、一方ではもったいぶって双方に「和を勧める」。しかし同時に、米日は頻繁に島奪軍事演習を行うのだ。…アメリカは、法律と実力という両手を使って中日の喧嘩をコントロールしたりバランスを取ったりしており、最初のカードは双方に「理を説き」「和を語る」ことであり、効き目がないとなれば第二のカードを出すのだ。中日関係は中米関係及び日米関係に依存しているというのは、争うことのできない事実だ。
 中日の釣魚島主権紛争を引き起こした根源及び来歴を明らかにすることにより、これから中日間の島嶼をめぐる矛盾と紛争を如何に正しく処理するかについておおよその判断をすることができる。カイロ宣言及びポツダム宣言に基づき、反ファシズム戦争の成果として釣魚島及び付属島嶼が中国に返還されることは当然の、変えることのできない正義であるが、アメリカは一方的に「施政権」を日本に返還した。これがアメリカのあらかじめ設けた罠であり、つまり、日本をお先棒にして、中日が永久に平穏でないようにし、そこから漁夫の利を得ようということなのだ。
 以上の大前提の下で、我々は、これからの釣魚島の前途に関して二つの基本的判断をする。一つは、今までのところ、アメリカが終始中日の釣魚島主権帰属紛争のレバーを操作している。中国側が釣魚島主権紛争をすぐさま解決しようと思っても、アメリカの「許可」がなければまったく不可能だ。アメリカは、中国が日本を攻撃し抑圧すること及び釣魚島の主権をすぐさま中国に返すことを絶対に手助けしない。釣魚島が歴史的及び法律的に誰に属するかについて、アメリカは誰よりもはっきり知っているのだが、明らかなことを隠して知らないフリをし、そうすることで中日関係を制約し、自らのために利を図っているのだ。しかし、アメリカの操縦は永久に変わらないものではあり得ず、世界には何一つとして変わらないものはない。したがって、中国側としては自己の既定方針に基づき、歴史的にも法理的にも釣魚島及び付属島嶼は中国に属し、それは反ファシズム戦争の成果であるということを証明し、伝えるという努力をするだけだ。我々は、日本にもそう言い、アメリカにもそう言い、国際社会にもそう言い、煩わしさを避けずに言い続けて、釣魚島が中国に帰ってくるまでそうし続けるのだ。
 もう一つは、日本に対してだが、中国側は今正に十字路に立っている。「主権は我にあるが、紛争を棚上げにし、共同開発する」という既定方針を堅持するか、日本の立場及び態度に鑑みて調整を行い、「正面から対決し、一寸の領土たりとも争う」に変えるかという選択だ。日本の右翼分子は最近、我が釣魚島に対して、周辺海域を実際に支配することから実際の占領及び開発利用へと企んでおり、中国を退路がない方向に押しやっている。受け身に立たされてそそくさと戦いに応じるよりは、全面動員し、考え方を整理し、戦法を調整し、主動的に対処するに如かずだ。中日関係の大局を守り、東海(東シナ海)を平和友好協力の海にするという全体的方針の下で、主体的かつ積極的に万全の策を講じ、日本側の様々な手練手管を防止し、打ち破るべきである。

<劉海明「愛国的素養は公民の必修科目」>

 最近、上海で日本人数名がレストランで中国人に殴られた事件についての日本のメディアの報道に関して、中国人に対して反省を呼びかける10月17日付の環球時報に掲載された文章です。劉海明は西南科技大学教授という紹介があります。

 現代社会においては、公民個人に対する素養の要求は日増しに高まっている。現在、個人の心理的素養、文化的素養、知識的素養を高めることは既に社会の共通の認識になっている。しかし、愛国的素養に対する認識は不足しており、重視されるにも至っていない。一人の公民における愛国的素養が「栄養不足」であれば、特定の時期に感情にまかせて愛国の気持ちを表し、そのために面倒を引き起こし、人々の思惑を越えることがしばしばある。
 最近、4名の上海駐在の日本人がレストランで暴力を受けた事件は日本のメディアが注目するところとなった。事件を起こしたこと自体、一部の民衆の愛国的素養に何らかの問題が存在していることを明らかにしている。人によっては、「愛国」という旗さえ掲げればなんでもやって良いと思っている。最近では、我が国と隣国との領土紛争のために、民衆が愛国的な感情を表す情熱が高まっていることは、そのこと自体は良いことだが、自国及び外国の人に対してげんこつで鬱憤を晴らすということは、実は愛国とは関係がない。このような愛国の理屈づけは、実は民族主義のリプリントであり、警戒すべきである。
 「暴力式愛国」事件の発生は、中国人の愛国的素養を高めることが現在特殊な社会的意味を持っていることを示している。素養というものは、長年にわたって修練した結果であり、個人の優れた習慣の総和である。愛国的素養は、個人の愛国という目的を実現するに当たって備えなければならない基本条件だ。この条件は、個人の国家主権に対するプライド、国家の利益を守るという決意を含むとともに、社会秩序を守り、社会に貢献するということも含むのだ。一つの国家の秩序を規定しているのは規律と法律である。他者の権益を尊重し、物品を愛護することは、法律が規定する公民の義務である。愛国は感情をぶちまけることではなく、ましてや他人の人身的安全を脅かすことではない。
 愛国的素養はまた、愛国の質量を決定している。愛国の質量は、個人の国家利益を守る方式及び程度の上に体現される。愛国的素養はまず、個人と国家利益の関係を理解し、自らの社会的役割を担うことを必要とする。現代社会においては、社会的分業がますますきめ細かくなっている。愛国とは、どんな場合にも社会のために着想し、国家利益を守るということだ。愛国は一つの善の行いであり、野蛮とは関係がない。現在、民衆の愛国的素養を高めることは、公民にとっての必修科目となるべきである。

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