尖閣問題:玄葉外相主張に対する中国側論駁

2012.10.13

*10月12日付の中国メディアの報道に関しては、玄葉外相の愚かとしかいいようがない発言に関する前日(11日)の洪磊外交部スポークスマンの発言と、それを受けて敷衍する形で人民日報に発表された国紀平「釣魚島は中国領土 鉄の証拠は山の如し」、そしてもう一つ、解放日報をソースとする廉徳瑰署名文章を紹介しておきたいと思います。
 その前に、新華社国際をソースとする記事(アメリカのニューヨークタイムズが最近発表した台湾の学者・邵漢儀の「釣魚島に関して、日本は真相を示しがたい」と題する文章の紹介)に、注目すべき内容が含まれていたので、その点を紹介しておきます。

 私は、日本の国立図書館、外務省外交史料館及び防衛省防衛研究所において40を越える明治時期の文献を探し当てた。これらの文献を通じて、当時の明治政府が釣魚島に対する清政府の主権を十分に意識していたことを知ることができる。…
 日本は1895年に内閣の決定を経て釣魚島を編入したとき、元来は台湾の付属島嶼だったこれら島嶼を沖縄県に編入した。また、「尖閣列島」という名称は、日本の学者である黒岩恒が1900年に新しく言いだしたもので、後に日本政府によって採用された。半世紀後、日本が台湾を中国に返還するとき、中日双方は1945年以前における日本植民時代の行政区画記録をそのまま使った。正にこのために、中国側は、無人島である「尖閣列島」、実は歴史上の釣魚島に対してはまったく知ることがなかった。両岸(中国及び台湾)が戦後アメリカによる(同島)管理のことに対して遅れて抗議を提出したのはこういう事情があったためである。

 この記事に関する要注目点は、中国側がいつの時点から尖閣が台湾から切り離されて日本領土とされたという事実を認識したかという点について、1945年に日本が敗北し、中国に台湾を引き渡した当時も、中国側としては認識していなかったと、邵漢儀が指摘しているということです。中国がいつの時点で日本による領土編入の事実を知ったかということは、日中間の主張(特に中国側のそれ)を考える上で重要な意味をもちうると思いますので、今後も注意していきたいと思います(10月13日記)。

<10月11日の外交部スポークスマンの発言>

 10月12日付の人民日報HPは、外交部の洪磊スポークスマンが11日の定例記者会見で行った発言に関して次のように報道しました。

 記者が次のように質問した。日本の玄葉外相は、記者会見において、中国は1970年代以前には尖閣に対する主権を主張したことがなかった、1895年に日本側は釣魚島が中国に属さないことを調査確認の上で日本の領土に編入した、日本側としては、1920年に長崎領事が発出した書簡、1933年(ママ)及び1960年に中国が発効した地図などに基づいて、中国側の釣魚島に対する主権の主張は成立しないと考える、と述べた。中国側は、これを如何に論評するか。
 洪磊は次のように述べた。玄葉外相が部分的な材料を持ち出して日本側の立場を維持しようと試みることははじめてのことではない。国家の領土主権にかかわる重大で厳粛な問題において、このようなコマギレの材料を用いて自らの立場を証明しようとするのは、日本が釣魚島に対する主権を未だ合法的に所有したことがないことを証明するだけだ。
 日本が日清戦争を利用して釣魚島を盗み取った歴史的経緯に関しては、中日両国の学者が詳細で厳密な論述を行っており、日本自身の公の史料によっても明々白々に傍証を構成することができる。日本側は、このことに対して見て見ぬフリをし、回避して提起せず、逆に日本が歴史的に戦争手段を通じて侵略を行ったことについてお先棒を担いでいる。これは正に強盗の理屈だ。
 我々は、速やかに事態を収束し、両国関係の安定的発展に影響を与えることを回避したいという日本側の希望に留意している。もしも日本側が言行一致できるのであれば、挑発的な行動及び言論に関する誤りを誠実に認識し、実際の行動で中日関係の大局を守るべきである。

<国紀平「釣魚島は中国領土 鉄の証拠は山の如し」>

 筆者である国紀平は、9月11日付の人民日報において「中国の釣魚島を他人が売買することを許し得ようか」と題する文章において中国側の原則的立場を述べましたが、今回の文章は、筆者自身が断っているように、「日本側(玄葉外相)の新しい「着眼点」の虚偽性とばかばかしさを、歴史的事実及び国際法に基づいて暴露し、その悪辣な本質を明らかにする」ことを目的としています。長文ですので、要点のみ紹介します。

○中国は1970年代初まで釣魚島の主権要求を提起したことがなかったとする日本側主張について
 1941年12月、中国政府は正式に対日宣戦を行い、中日間のすべての条約を廃棄した。(1943年のカイロ宣言、1945年のポツダム宣言を挙げ)1945年10月25日に中国台湾省は台北で対日投降受け入れの儀式を行い、正式に台湾を回収した。中国は、日本がカイロ宣言やポツダム宣言などの国際法文献に基づいて盗み取った中国のすべての領土を中国に返還すべきことを(以上の過程において)一貫して強調していたのであり、その中には当然釣魚島を含んでいる。
 (1951年のサンフランシスコ平和条約に対しても中国政府は一貫して反対し、その署名前に周恩来外相が厳粛な声明を発表したことを紹介した上で)この声明は、中国が条約中の中国領土に関するいかなる規定をも承認しないことを明々白々に明らかにしたが、この中国領土のなかに釣魚島が当然含まれている。この立場は、米日がその後同条約に依拠して行った(釣魚島に関する)受け渡しなどの行為にも同様に適用される。

○1958年及び1960年に中国で出版された世界地図集において、釣魚島が日本の沖縄の一部として扱われているという日本側の指摘について
 (玄葉外相が)地図というのであれば、十分なスペースを取って地図に関する事実について述べようではないか。  1579年…の「琉球過海図」、1629年…「皇明象胥録」、1767年…の「坤輿全図」、1863年…の「皇朝中外一統輿図」などのすべてにおいて、釣魚島は中国の版図に入っている。
 日本で最初に釣魚島について記載した文献は1785年における林子平著の『三国通覧図説』の付図「琉球三省及び36島の図」であり、この図では釣魚島を琉球36島の外に置き、中国大陸と同色に描いている。ということは中国領土の一部であることを指している。1892年に出版された『大日本府県別地図及び地名大鑑』においても釣魚島はまだ日本領土のなかに組み入れられていない(1809年のフランス人の地図、1811年のイギリスで出版された『最新中国地図』、1859年にアメリカで出版された地図、1877年にイギリス海軍が編纂した海図などもすべて釣魚島を中国の版図に入れていることも指摘)。
 部分的にある版の地図をもってきてある国の領土問題に関する立場を否定するということができないことは一つの基本常識である。日本が持ちだした、釣魚島を日本の沖縄の一部とした中国で出版の『世界地図集』が依拠している史料は、抗日戦争間の申報館の地図資料を採用したと注釈がある。抗日戦争前には釣魚島は日本の植民統治下にまだあったわけで、国際法の角度から見ても、ある版の地図にだけ基づくことは、自らの権利を正当化し相手側の権利を否定する根拠とするには不十分である。したがって、この地図に基づいて釣魚島は日本領土だと称することは、まったく信服することができない。事実としては、日本の1970年代以前の地図にも、釣魚島が日本に属すことを明らかにしていないものが多数あるのである。
 日本が宝物を手にしたかのようにこのような根拠のない事例をもって大々的に騒ぎ立てるということは、釣魚島及び付属島嶼に対する主権を持っているという「法理的根拠」を日本が探し求めた揚げ句、もはや頭をしぼりつくして何ものを持ちだしえなくなっていることを示している。

○釣魚島は下関条約で割譲された台湾の付属島嶼には含まれないとする日本側の主張について
 日本側は、中日共同声明第3項の台湾問題にかかわるときに、ポツダム宣言第8条の規定を遵守することを約束し、中日平和友好条約でも共同声明の各条項を厳格に遵守することを確認した。中日共同声明にいうポツダム宣言第8項の核心的内容は、カイロ宣言の条件は必ず実施するということ、つまり、カイロ宣言で明確に規定している日本が中国からかすめ取った中国の領土を中国に返還するということだ。…この約束は台湾問題に言及したときに行ったものだが、釣魚島は台湾の付属島嶼に属するのだから、この約束は当然釣魚島問題を解決することにも適用される。注意する必要があるのは、カイロ宣言の上記規定は網羅的ではない方法を採用しているのであって、その趣旨は、日本がいかなる方式で中国から盗み取った領土であってもすべて(返す)ということで、下関条約で正式に割譲した台湾、澎湖はもちろん、日本が傀儡政権を通じて占領した東北4省、あるいは他の方法で盗み取った中国領土もすべて中国に返還しなければならない、ということだ。したがって、釣魚島は台湾の付属島嶼として下関条約で割譲されたものではないと日本側が主張するとしても、当該島嶼は日本が日清戦争を利用して中国から盗み取った領土であるということは否定できないのであって、したがって中国に返還しなければならないのだ。

○日中共同声明及び日中平和友好条約の交渉時に、両国指導者が「釣魚島紛争を棚上げする」ことについて了解及び共通認識を達成したことはなかったとする日本側の主張について
 共同声明及び平和友好条約を交渉し締結するとき、中日指導者は両国関係の大局から考慮し、しばらく釣魚島問題を取り上げず、後の解決を待つことを決定した。…
 玄葉外相は、少し以前に1972年の田中首相と周恩来首相の話し合いの内容を引用して、釣魚島問題に関して共通の認識を達成したことはないと述べた。事実として、周恩来首相と田中首相が当時交わした言葉の主要な内容は次のとおりである。
 田中首相:この機会に貴方の釣魚島(日本名は尖閣列島)に対する態度を聞きたい。
 周恩来首相:この問題は今は話したいとは思わない。今話しても良いことはない。
 田中首相:北京に来た以上、この問題についてまったく提起しないとなると、帰国してからちょっと困難に遭う可能性がある。
 周首相:然り。あそこの海底で石油が発見されたために、台湾が大騒ぎしているし、アメリカもあれこれ言って、問題を大きくしている。
 玄葉外相はここまでを引用しただけであるが、実は田中首相は続けて、「分かった、これ以上話す必要はない、いずれまた話そう」と述べた。
 周首相:いずれまた話そう。今回は、我々は大きな基本問題を解決することができる。例えば、両国関係の正常化という問題を先に解決する。ほかの問題が大きくないということではないが、現在切迫しているのは両国関係の正常化問題だ。問題によっては時間の推移を待ってまた話す。
 田中首相:国交正常化が実現すれば、ほかの問題も解決できると信じている。
 田中首相と周首相が提起した解決を要する問題とは何か。そのことは、当時の両国指導者には極めて明らかだった。即ち、1971年6月17日に米日は沖縄返還協定に署名し、そこでは琉球群島などの島嶼の施政権を日本に返還することを規定し、釣魚島及び付属島嶼を勝手に「返還区域」に組み入れた。同年12月30日、中国外交部は声明を発表し、米日が勝手に釣魚島などの島嶼の受け渡しを行ったことは完全に不法であり、釣魚島などの島嶼に対する中国の領土主権をいささかも変更させるものではないと強調した。したがって、(両指導者が述べた)解決を要する問題とは何か曖昧な事柄なのではなく、釣魚島の主権帰属問題だったのだ。玄葉外相は、関係する話し合いの記録の全文を見ることができなかったのか。それとも意識的に部分だけを取り上げたのか。
 (次いで中日平和友好条約締結に際しての鄧小平発言を取り上げ)この発言に対して日本側からは誰も異議を提起しなかった。…以上のすべてが、中日間で釣魚島紛争を棚上げすることについての了解と共通認識があったかなかったかについて明らかにしている。
 日本は、わずか数十年前の権威ある史料に対しても改ざん、否認をし、墨黒々と書いてあることも勝手に塗りつぶすというのだから、もはや何でもありということなのか。

<解放日報をソースとする廉徳瑰署名文章>

 廉徳瑰は、上海国際問題研究院アジア太平洋研究センターの副主任とありますから、いい加減な研究者ではないと思われます(このことをわざわざ断るのは、すぐに出てきますように、彼の指摘のなかに私が意表を突かれることがあって、「本当かな?」と思う節がなきにしもあらずだからです)。
彼は、10日に玄葉外相が、1960年に中国で出版された地図において「尖閣群島」「魚釣島」という日本名がつけられていることを取り上げて、中国側はかつて釣魚島を日本領土としていたと説明したこと、また、1920年に中国の駐長崎領事が「沖縄県八重山郡尖閣列島」と記した感謝状を日本側に出したことをもって、中国も元々は釣魚島を自国の領土とは見ていなかったと説明したことに関して、「尖閣群島」及び「尖閣列島」という名称の由来を考証してみる必要があるという問題意識でこの文章を書いています。
この文章において、「尖閣諸島」という呼称が正式に用いられたのは1972年の外務省基本見解においてであるとする指摘は、恥ずかしいですが私には初見でしたし、いまだに半信半疑なのですが、この文章をお読みになって、事実関係をご存じの方からご教示願えればありがたいです。というよりも、この文章で示された事実関係すべてが私には初見に属することばかりですので、その点をお断りしておきます。
しかしこの文章に見られるように、中国においては、実に様々な角度から尖閣問題が研究されていることは窺える気がします。民主党政権があくまで成算のない勝負を続けるつもりならば、玄葉外相のように物笑いの対象になるような愚かな振る舞いで得々としているのではなく、ましてや英仏独に赴いて意味のない外交をするのではなく、性根を据えて取り組まなければならないでしょう。私としては、負けがはっきりしている勝負はあっさりと負けを認めた方が傷口を広げなくてすむと思うのですが。
要点のみ紹介します。

 「尖閣群島」及び「尖閣列島」はすべて日本語における釣魚島などの島嶼に対する総称であり、起源は19世紀なかばである。(以下、イギリスの軍艦艦長が1845年に釣魚島付属島嶼に関して、頂き、尖端を意味するpinnacleという名称をつけ、アメリカ海軍もそれにならった歴史などを述べた上で)日本人でもっとも早くこの名称を使用したのは、沖縄県師範学校の教師・黒岩恒だった。1900年8月、黒岩は日本の『地学雑誌』に「尖閣列島探検記事」と題する調査報告を発表した…が、そこで使った「尖閣列島」「尖閣諸嶼」は明らかに英語のpinnacle is.から来ている。
 黒岩の調査報告が発表されてから、「尖閣列島」という名称が次第に広範に使用されることになった。ここで留意するべきは、当該呼称には「赤尾嶼」(赤尾嶼はこの時にはまだ沖縄県に編入されておらず、引き続き中国領だった)は含んでいなかったことだ。「尖閣列島」も一学者がつけた学術名であって、日本の官庁が命名したものではなかった。日本の官庁が正式にこの名称を使用したのは1972年である。当時、日本外務省は釣魚島問題に関する基本見解を発表したが、その中で使用したのは「尖閣諸島」であり、「尖閣列島」ではなかった。玄葉外相が示した中国地図は、北京地図出版社が1960年4月に出版した『世界地図冊』であるが、そこで使用しているのは「尖閣群島」であり、「尖閣諸島」ではない。日本外務省が1972年に「尖閣諸島」を使用しはじめた後は、中国は類似の呼称を用いることはなく、「釣魚島及び付属島嶼」に統一している。
 筆者の認識では、1972年以前に中国の個別の資料のなかで「尖閣群島」という表現が現れるのはおかしなことではない。なぜならば、根本的にいって、これは翻訳用語あるいは学者間及び民間においてときおり使われた用語であって、官庁的色彩は備えていなかったからだ。仮に玄葉外相の理屈にしたがって、中国の個別の地図が「尖閣群島」という言葉を使ったことをもって中国が釣魚島は日本に属することを証明できるとするならば、日本も早くから釣魚島は中国に属することを承認していたということになる。…1946年1月29日、日本外務省が米軍に提供した「西南諸島一覧表」で中国語の「赤尾嶼」「黃尾嶼」などの名称を使っている。…「魚釣島」という呼称に関しては、実は八重山語であり、その本来の起源は中国語の「釣魚島」なのである。
かつての駐長崎総領事・馮勉の感謝状は日本の台湾占領期に出されたもので、如何なる問題をも説明するものではない。筆者としては、一国の外務大臣たるものは、重大な問題に関しては様になる法律的及び歴史的証拠を提出するべきであって、枝葉末節にまつわりつくべきではないと考える。

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