尖閣問題:外務省『日本外交文書』と内務省『公文別録』の記述

2012.09.09

*私のコラムを読んだ方から、中国側文献に引用されている外務省編纂『日本外交文書』の該当部分をコピーで送って頂くことができました。また、私も拡張子djvu(デジャヴ)を検索することで、i.e.上でこの文献と内務省『公文別録』を読むことができるようになりました。早速原文と中国側文献に紹介されている内容とを比較検討してみました。明治時代の公文書を読解する私の能力はお粗末なものなので、100%の自信はありませんが、中国側が故意に意訳したり曲げて訳したり、更には原文にないような中身を書き加えていたりしているようなことはないことを確かめえたつもりです。
 とはいえ、重要な文献ですので、以下においては、中国側で訳されている箇所を紹介した上で、そこに該当する両文献の該当箇所を原文のまま(ただし、漢字は当用漢字に、また、カタカナはひらがなに直します)紹介しておこうと思います。  内務省の文書については重要な発見もありましたので、その点についても書き加えてありますのでご注目ください(9月9日記)。

(中国側の記載1)
第1回調査の結果:1885年9月22日、沖縄県令(後の知事)西村捨三は内務省の命令で調査を行い「本県と清国福州の間に散在する無人島の調査に関し、在京の森大書記官が受けた内命に従い調査を行った。概略は添付書類の通り。久米赤島、久場島および魚釣島(注:日本のいわゆる「久米赤島」は赤尾嶼、「久場島」は黄尾嶼、「魚釣島」は釣魚島のこと。日本語の文法では目的語のあとに動詞がくるので、中国の釣魚島は「魚釣島」と改竄されたのである)は古来本県におけるこれら島々への呼称であり、これら本県所轄の久米、宮古、八重島などに接近する無人島嶼を沖縄県の管轄とすることになんら異議はない。だが同島は以前報告した大東島(本県と小笠原島との間に位置する)と地形が異なり、中山伝信録に記載される釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のものではないかとの疑いがないわけではない。もし同一である場合は、すでに清国も旧中山王を冊封する使船の詳悉するのみならず、それぞれ名称も付しており、琉球航海の目標としていることは明らかである。従って今回の大東島同様、調査時直ちに国標を建ててもいくらか懸念が残る」と述べた。(日本外務省編纂『日本外交文書』第18巻「雑件」、日本国際連合協会発行、東京、1950年12月31日、574ページ)。

(『日本外交文書』における沖縄県令の述べた部分の原文)
 「本県と清国福州間に散在せる無人島取調之儀に付先般在京森本県大書記官へ御内命相成候趣に依り取調致候処概略別紙の通に有之候抑も久米赤島久場島及魚釣島は古来本県に於て称する所の名にして而も本県所轄の久米宮古八重山等の群島に接近したる無人の島嶼に付沖縄県下に属せらるるも敢て故障有之間敷と被存候得共過日御届及候大東島(本県と小笠原島の間にあり)とは地勢相違中山伝信録に記載せる釣魚台黃尾嶼赤尾嶼と同一なるものに無之哉の疑なき能はす果して同一なるときは既に清国も旧中山王を冊封する使船の詳悉せるのみならす夫々名称をも附し琉球航海の目標と為せし事明なり依て今回大東島同様踏査直に国標取建候も如何と懸念仕候間(以下略)」

 正確には、573ページから574ページにかけての記述であること、また、訳にも若干の齟齬があることを確認する必要はありますが、中国側の示している文章が原文を大きく歪めているところはないことを確認できます。

(中国側の記載2)
 第2回調査の結果:1885年10月21日、井上馨外務卿は山県有朋内務卿に宛てた書簡で「これらの島々は清国国境に近い。以前踏査を終えた大東島と比べ、面積の小さいことがわかった。とりわけ清国も島名を付している。かつ、最近清国紙などは、わが政府が台湾付近の清国所属の島嶼を占拠しようとしているとの風説を掲載し、わが国に対して猜疑を抱き、清政府にしきりに注意を促している。この時期に公然と国標建設などの措置に出れば、必ずや清国の疑惑を招く。従って、当面は実地調査を行い、その港湾形状ならびに土地物産開拓の見込みの有無を詳細に報告させるのみに止め、国標を建て開拓などに着手するのは、他日の機会を待つべきだ」としている。(『日本外交文書』第18巻、575ページ)

(『日本外交文書』における井上馨外務卿の述べた部分の原文 □の箇所は判読できず)
 「…右島嶼の義は清国国境にも接近致候□に踏査を遂け候大東島に比すれは周囲も小さき趣に相見へ殊に清国には其れ島名も附し有之候に就ては近時清国新聞紙等にも我政府に於て台湾近傍清国所属の島嶼を占拠せし等の風説を掲載し我国に対して猜疑を抱き頻に清政府の注意を促し候ものも有之候際に付此際遽に公然国標を建設する等の処置有之候ては清国の疑惑を招き候間差向実地を踏査せしめ港湾の形状並に土地物産開拓見込有無詳細報告せしむるのみに止め国標を建て開拓等に着手するは他日の機会に譲候方可然存候(以下略)」

 細かいニュアンスなどで気になる箇所も散見されますが、井上馨外務卿が、清政府及び清国メディアの動きに重大な関心を払っており、したがって山県有朋内務卿の動きに待ったをかけた様子については、中国側は原文に忠実に紹介していることが分かります。

(中国側の記載3)
 1885年12月5日、山県有朋は外務卿と沖縄県令の報告に基づき、以下の結論を下した:「秘第128号内の無人島へ国標建設の件に付いての内申。沖縄県と清国福州との間に散在する無人島嶼調査の件は、別紙に記した通り。沖縄県令より上申あり、国標建設の件は清国と島嶼帰属の交渉に関わり、双方に適切な時機があり、目下の情勢では見合わせるべきと思われる。外務卿と協議の上、その旨沖縄県令に指示する」。(「沖縄県と清国福州との間に散在する無人島へ国標建設の件」、日本内務省『公文別録(明治15-18年)』」第4巻、明治18年(注:1885年)12月5日)

(内務省『公文別録』該当箇所原文)
 「秘第128号の内
  無人島へ国標建設之儀に付内申
  沖縄県と清国福州との間に散在せる魚釣島外に島踏査の儀に付別紙写の通同県令より上申候処国標建設の儀は清国に交渉し彼是都合も有之候に付目下見合せ候方可然と相考候間外務卿と協議の上其旨同県へ致指令候条此段及内申候也」

 この文書は手書きのものでページ数もふってありませんが、中国側は極めて重要な事実を見落としていることが分かりました。それは、この文章は山県有朋内務卿が三条実美太政大臣に宛てた内申であったということです。つまり、首相に当たる太政大臣にまで内申するぐらいに重要案件だったということです。
そのことは、当時において既に、尖閣問題を下手に扱えば清政府との間で重大な紛争になる可能性があることについて、当時の日本政府が明確な問題意識を持っていたことを示しています。当時はまだ、日本としては清・中国の実力を侮る力を備えるには至っていなかったのですから、日中衝突の事態は回避しなければならないという認識が政治の最高レベルで共有されていたことを物語るのです。
だからこそ、井上馨外務卿は山県有朋内務卿に対して「他日の機会に」と言ったわけです。それはつまり、日本と中国の力が逆転して、中国からの抗議を無視しても差しつかえなくなった状況、あるいは日本に対して抗議をするどころではない状況にまで中国を追い込んでから、という言外の意味が込められていたことが分かるのです。それが正に1894年の日清戦争であり、勝利を確実なものにした日本政府は1895年に、かねてからの計画であった「無主先占」による領土編入に踏み込んでいったということです。
ちなみに、三条実美が太政大臣だったのは、内閣制度が発足した1885年12月22日まででしたが、山県内務卿の内申は同年12月5日付となっています。

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