尖閣」無主先占」論と外務省編纂文書

2012.10.03

*昨日(10月2日)掲載したコラムの文章「尖閣問題に関する中国外交部スポークスマン発言」を読んだ方から、洪磊スポークスマンが言及している外務省編纂『日本外交文書』に関する情報の提供をいただきました。すでに昨年(2011年)1月14日付の人民日報HP日本語版で、この文書の内容が詳しく紹介されていることをお知らせくださったのです。
 私も早速読んでみました。そこでは、「日本外務省編纂『日本外交文書』第18巻「雑件」、日本国際連合協会発行、東京、1950年12月31日、574ページ」というように、該当ページまで明記してあります。洪磊発言が言及したものであることは確かだと思われます。
 私が実務官僚上がりのエセ学者に過ぎないことを改めて実感したのは、念のために「外務省編纂 日本外交文書」で検索してみたところ、外務省HPに「日本外交文書デジタルアーカイブ」というページがちゃんとあることで、私はそれまで外務省HPにそういうものがあるということすら知っていなかったことでした。ちなみに、「雑件」を開こうとしたのですが、通常のPDFでは開かず、そのための特別のソフトをダウンロードしなければ閲覧できないことも知りました(FastPicture Viewerという市販ソフトらしく、その「お試し版」は無料とあったので、早速ダウンロードしてみたのですが、なぜかファイルが開いてくれません)。しかし、その気になれば、閲覧できることは確かです。
 それはともかく、この方が紹介してくださった文章の内容は極めて詳細なもので、1885年当時、日本政府が尖閣諸島はすでに中国の支配下にあったことを明確に認識していたことを、誰が読んでも確認せざるを得ない内容です。しかもここでは、「「沖縄県と清国福州との間に散在する無人島へ国標建設の件」、日本内務省『公文別録(明治15-18年)』」第4巻、明治18年(注:1885年)12月5日」と題する当時の内務省の公文書も引用されています。中国側が、日本側資料を丹念に猟涉していることが、このことからも窺えます。
 ということで、2011年1月14日に人民日報HP日本語版に掲載された「1月14日は日本が釣魚島を乗っ取った「窃取日」と呼ぶべきだ」と題する文章の内容を紹介しておきます(10月3日記)。

 日本の沖縄県石垣市議会は昨年(2010年)12月17日、毎年1月14日を「尖閣諸島開拓の日」とする条例を可決した。「尖閣諸島(中国の釣魚島列島)が歴史的にも日本固有の領土であると国際社会に意思表示し、国民世論の啓発を図る」目的だ(「産経新聞」ウェブサイト)。1月14日は、1895年に日本政府が釣魚島に標杭を建設することを秘密裏に閣議決定した日だ。現在もなお日本は釣魚島を違法に石垣市の所管としている。
 周知の通り、釣魚島及びその周辺諸島は古来、中国固有の領土であり、1895年以前も「無主地」などでは全くなかった。他国の領土を盗み取る行為を「開拓」と呼ぶとは荒唐かつ横暴だ。日本軍国主義は中国東北部を侵略した当時、植民地支配下の日本移民団を「開拓団」と呼んだ。こうしたいわゆる「開拓」は植民拡張の代名詞に過ぎない。日本が釣魚島を秘密裏に乗っ取った1月14日は、「開拓日」というよりも「窃取日」と呼ぶ方がより的確だ。
 日本が中国領土の釣魚島を盗み取ったこの不名誉な歴史は、日本自身の公文書に非常にはっきりと記されている。
 日本外務省編纂の『日本外交文書』第18巻によると、日本政府は1885年9月から11月にかけて3回人員を派遣して秘密調査を実施。その結果、釣魚島及びその周辺諸島が無主地ではなく、中国に属することが様々な側面から証明された。
 第1回調査の結果:1885年9月22日、沖縄県令(後の知事)西村捨三は内務省の命令で調査を行い「本県と清国福州の間に散在する無人島の調査に関し、在京の森大書記官が受けた内命に従い調査を行った。概略は添付書類の通り。久米赤島、久場島および魚釣島(注:日本のいわゆる「久米赤島」は赤尾嶼、「久場島」は黄尾嶼、「魚釣島」は釣魚島のこと。日本語の文法では目的語のあとに動詞がくるので、中国の釣魚島は「魚釣島」と改竄されたのである)は古来本県におけるこれら島々への呼称であり、これら本県所轄の久米、宮古、八重島などに接近する無人島嶼を沖縄県の管轄とすることになんら異議はない。だが同島は以前報告した大東島(本県と小笠原島との間に位置する)と地形が異なり、中山伝信録に記載される釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のものではないかとの疑いがないわけではない。もし同一である場合は、すでに清国も旧中山王を冊封する使船の詳悉するのみならず、それぞれ名称も付しており、琉球航海の目標としていることは明らかである。従って今回の大東島同様、調査時直ちに国標を建ててもいくらか懸念が残る」と述べた。(日本外務省編纂『日本外交文書』第18巻「雑件」、日本国際連合協会発行、東京、1950年12月31日、574ページ)。これは少なくとも、これらの諸島がおそらく中国の領土であることを当時沖縄県がすでに確認し、その占領によって中国を刺激することを懸念していたことを示している。
 だが山県有朋内務卿はなお断念せず、再調査を行ない、日本の「国標」の建設を要求した。そのいわゆる主たる理由は、これらの島々が「清国に所属する痕跡がまだ見つからない」(現在もなお日本はこの誤った主張を釣魚島占有の口実としている)というものだった。だが再調査は逆に日本側に軽挙妄動を慎ませる結果となった。日本のこうした動きに、中国新聞界がすでに警戒を高めていたからだ。1885年9月6日(清光緒十一年七月二十八日)付「申報」は「台島警信」の見出しで「台湾北東の島に日本人が日本国旗を掲げ、占拠する動きを活発化している」と報じ、清政府に注意を喚起した。泥棒をするのはうしろめたいものだ。日本政府は釣魚島占拠に向けて秘密上陸調査を推し進める一方で、中国紙の報道などを通して中国側の反応を緊密に窺っていた。
 第2回調査の結果:1885年10月21日、井上馨外務卿は山県有朋内務卿に宛てた書簡で「これらの島々は清国国境に近い。以前踏査を終えた大東島と比べ、面積の小さいことがわかった。とりわけ清国も島名を付している。かつ、最近清国紙などは、わが政府が台湾付近の清国所属の島嶼を占拠しようとしているとの風説を掲載し、わが国に対して猜疑を抱き、清政府にしきりに注意を促している。この時期に公然と国標建設などの措置に出れば、必ずや清国の疑惑を招く。従って、当面は実地調査を行い、その港湾形状ならびに土地物産開拓の見込みの有無を詳細に報告させるのみに止め、国標を建て開拓などに着手するのは、他日の機会を待つべきだ」としている。(『日本外交文書』第18巻、575ページ)
 この調査によって、台湾の附属島嶼である釣魚島が「清国所属」であることが一層確認された。まさにこうした背景から井上馨は山県有朋に、中国側の反対を招かぬよう、秘密調査は公にせず、陰で実施するべきだとわざわざ念を押したのである。
 第3回調査の結果:1885年11月24日、沖縄県令・西村捨三は内務卿命令による調査結果を報告し「以前報告した通り、所管の無人島に国標を建設する件は、清国と全く無関係とは限らない。万が一紛糾が発生した場合、いかに処置すべきか、速やかに指示を仰ぎたい」。(『日本外交文書』第18巻、576ページ)
 甲午戦争(日清戦争)前、日本内務省は中国と釣魚島を争奪する機はまだ熟していないと考えていた。1885年12月5日、山県有朋は外務卿と沖縄県令の報告に基づき、以下の結論を下した:「秘第128号内の無人島へ国標建設の件に付いての内申。沖縄県と清国福州との間に散在する無人島嶼調査の件は、別紙に記した通り。沖縄県令より上申あり、国標建設の件は清国と島嶼帰属の交渉に関わり、双方に適切な時機があり、目下の情勢では見合わせるべきと思われる。外務卿と協議の上、その旨沖縄県令に指示する」。(「沖縄県と清国福州との間に散在する無人島へ国標建設の件」、日本内務省『公文別録(明治15-18年)』」第4巻、明治18年(注:1885年)12月5日)
 注意に値するのは、「日本が台湾付近の清国所属島嶼を占拠しようとしている」との風説の中国紙掲載に関する井上馨の言葉は、以下の重要な事実を実証している点だ。第1に、少なくとも甲午戦争の9年前に日本政府はすでに釣魚島が「清国所属島嶼」であることを知っていた。第2に、甲午戦争前、日本が釣魚島を占拠しようとしているとの「風説」は日本にとって不利であり、日本側は国標の公然たる建設を見合わせざるを得なかった。第3に、日本は後に占拠の機会を窺うため、前々から企んで釣魚島の秘密調査を行っていた。このため甲午戦争前年の1893年まで、釣魚島の沖縄県編入を沖縄県令が求めても、日本政府は「同島が帝国に属すか否かはなお不明確」との理由で拒絶していた。当時日本は密かに中国に対する戦争準備を進めており、釣魚島に手を出して野心がばれることを懸念していたのである。
 実際、1887年に日本参謀本部は「清国征討策案」(山本四郎、小川又次「清国征討策案」、『日本史研究』、第75号、1887年)などの作戦計画を策定し、1892年までに対中戦の準備を終えること、朝鮮、遼東半島、山東半島、澎湖列島、台湾、舟山群島などを進攻方向とすることを決定した。7年後、日本はまさにこのようなタイムテーブルとロードマップに基づき、対中戦の準備を終え、甲午戦争を発動したのである。
 日本は1894年7月に甲午戦争を発動し、同年11月末に旅順口を占領した。同年12月4日、伊藤博文首相は「講和の際に中国に台湾を割譲させる」ため、前もって「軍事占領」することを大本営に提言した。(春畝公追頌会:『伊藤博文伝』下)
 こうした背景の下、野村靖内務大臣は陸奥宗光外務大臣に宛てた秘密文書で「久場島、魚釣島へ所轄標識建設の件に関し」「当時と今日とはすでに事情が異なり、別紙の通り閣議提出の見込みがあり、事前に御協議した次第」としている(日本外務省編纂「八重島群島魚釣島の所轄に関する決定の件」、『日本外交文書』第23巻、日本国際連合協会発行、東京、1952年3月31日、531・532ページ)。1895年1月11日、陸奥宗光は返書でこれに同意を表明した。翌日、野村は「沖縄県下八重島群島の西北久場島、魚釣島へ標杭建設の件に関する文書」を閣議提出した。「秘別133号 標杭建設に関する件。沖縄県下八重島群島の北西に位置する久場島、魚釣島は従来無人島だが、近来同島へ向け漁業を試みる者がいる。これを管理すべく、上述の各島を同県の所轄とし国標を建てる旨、同県知事より上申があった。上述の各島は同県の所轄と認めるゆえ、標杭の建設を認めるべきである。右閣議を請う」という内容だ。(『公文類聚第十九編明治28年第二巻政綱一帝国会議行政区地方自治(府県会市町村制?1895年1月12日)』)
 1895年1月14日、日本政府は甲午戦争の終結を待たずに閣議決定を急ぎ、釣魚島の沖縄県「編入」を一方的に決定。同島を秘密裏に盗み取った。同年4月17日、中日は「馬関条約」(下関条約)を締結。中国は「台湾全島及び全ての附属諸島嶼」の日本への割譲を余儀なくされた。これには当然釣魚島も含まれた。
 まさに横浜国立大学の村田忠禧教授や歴史家の故・井上清氏が指摘したように、日本側に「尖閣諸島」と呼ばれる島々は本来中国に属すのであり、決して琉球に属する島々ではない。1895年の日本によるその占有は、甲午戦争の勝利に乗じた火事場どろぼうであり、決して正々堂々たる行為ではないのである。
 石垣市議会が同日を「尖閣諸島開拓の日」と定めたのが、歴史への無知によるものなら、早めに撤回するのが賢明だ。だがもし確信犯で突き進んだのなら、隠そうとしてはばれ、上手くやろうとしては失敗する行為の典型であり、かえって釣魚島の主権帰属の真相に対する国際社会の理解を深める結果となるのである。(編集NA)
 「人民網日本語版」2011年1月14日

RSS