全国障害者問題研究会(全障研)全国大会・広島

2012.08.14

*8月11日及び12日に広島で全障研全国大会が行われました。私が広島で在勤していた時期に準備委員会が発足したこともあって、私は大会準備委員長という「看板役」(看板にもなり得ない私ですので、お話が来た時には大いにためらったのですが、孫娘・ミクのことを考える自分がいてお引き受けしたのでした)だったこともあり、久しぶりに広島に2泊して参加してきました。いろいろ学ぶことがあった大会について、特に印象に残ったこと、考えさせられたことを2点だけ書き留めておきたいと思います(8月14日記)。

<広島の若いエネルギー>

 毎回の準備委員会に出席したわけではない(八王子-広島の日帰り往復は、齢70を過ぎた私の体にはやはりこたえること、大会を赤字にしないように苦心している事務局に私の旅費を捻出してもらうことには大きなためらいがあったことなど)のですが、最初は「本当に大丈夫なの? これで大会ができるの?」と正直感じた出席率が、回を追うごとに若い人たちの出席が増え、しかも彼らがどんどん役割を担うようになっていく様子、雰囲気が感じられるようになりました。
 そういう若い人たちのたくましいエネルギーは、大会初日の全体会ですさまじい勢いで示されたのです。障がいのある人たちが加わった太鼓と合唱は心底感動的で、私は背筋がぞくぞくするあの感触を久々に味わったのでした。 そういう表だったことだけではありません。分厚い大会運営マニュアルを見せてもらったのですが、微に入り、細をうがつとは正にこのことで、このマニュアルも若い人たちが率先して作ったものであると聞かされ、彼らの思いの深さがビンビン伝わって来ました。
大会が終わって、広島駅に急ぐ私を自家用車で送ってくださった方(なんでも、私が新幹線に間に合うように見届けることがその人の役割として決められていたのだとか。この細かい気配りにも感謝感激)から聞くと、今回の大会に小さいお子さんを連れて参加した人が多く、あまりの多さに広島の参加者にはできるだけ大会運営側に負担をかけないようにしてもらったそうですが、それでもお子さんが200人を超えたために、お子さんを預かって保育を行う担当がいちばん負担が多かっただろうということでした。私が準備委員会の過程で聞いていた際の預かる子どもの数は確か100人弱だったと記憶するのですが、そのことからしても、若い人たちの頑張りがなければとても対応できなかったことが納得されたのです。
八王子の家に夜遅く帰った私に、準備委員会で中心的な役割を担っていた方からのメールが届いていました。

私達は浅井先生の「広島の全障研として何を発信するのか」と問われた言葉、「広島は陸の孤島」と言われた言葉が無かったら、ありきたりの全国大会を開催するところでした。
 浅井先生が望まれているところまで到達できていなかったかもわかりませんが、今回を終わりとせず、今回をスタートに障害児者問題のみならず平和 について考え行動していく種は蒔かれたと思っています。浅井先生は確実に広島の全障研を変えられました。特に若い人たちが中心になり、"人間の尊厳を社会に根づかせる"とりくみを継続させていくだろうと思っています。

実は準備委員会の中で、広島で開く大会なのだから、「障がい」と「平和」をキー・ワードにしようというコンセンサスは最初からあったのですが、広島ならではの「平和」特別企画で何をするか、という議題が提起され、企画担当の方から「被爆体験を聞く」「碑めぐりをする」という例によって例の如しの提案が行われた時に、日本的な「空気を読む」ことには迎合しないことにしている私が、そのマンネリ的発想に歯に衣を着せぬ厳しい疑問を投げかけたことがあるのです。
私は、福島第一原発の事態がなぜ広島・長崎に結びつけられていない日本の現実があるのかという問題を真剣に考える必要があると常々考えています(このコラムでもそういう問題意識の一端を書いたことがあります)が、そういう問題の一つとして、説得力ある発信を行うべき広島側にも重大な問題があると考えています。しかし、準備委員会で提案されたのはまったくありきたりの「被爆体験を聞く」であり、「碑めぐりをする」ということで、そこには「福島」の「ふ」の字も入っていなかったのです。私は、福島の事態を受けた広島の大会でこんなワン・パタンな発想で良いのですか、と問いかけたのでした。
以上に紹介したメールの内容は、広島の若い人たちが、私のとんがった、挑発的な問題提起に対して、反発するのではなく、しっかりと受けとめていてくれたことを確認させてくれるものでした。私にとってはなによりもの「ご褒美」でした。
広島の若いエネルギーと関連することとして是非触れておきたいことがあります。私は2日目の分科会では、数ある分科会の中で特別支援学校での教育をテーマとした分科会に午前中だけ出席しました。孫娘・ミクが中学校を終えたら高校については特別支援学校に行くことになるだろうという話を娘・のりこから聞いていたこともあって、関心があったからです。午前中の報告は中等部の先生2人によるものでしたので、私の期待からははずれていたのですが、60人定員の部屋がびっしり満杯で、しかも若い参加者がほとんどだったのがとても印象に残りました。全障研にこういう若い人たちが集う限り、全障研には大きな展望があると思ったのです。

<西原海くんのお母さんのお話>

 2日目の午後には、私も「人間の尊厳と平和 ヒロシマと広島」という題でお話しすることになっていたのですが、私の前に同じ部屋で「西原海 いのちのメッセージ」というお話を彼のお母さんが行われたのをお聞きしました。一言でいうと、身につまされて、ミクとのりこのことをずっと連想しながら1時間半が過ぎる思いでした。
 西原海くんとミクとの障がいはまったく違うのですが、今22歳の海くんは13歳のミクの約10年後について、そしてそれに続く人生についてとても示唆に富むものでした。正直言って、私は10年後自分自身がどうなっているかまったく自信はありませんし、仮に物理的に生きているとしても粗大ゴミになってしまっていることはほぼ確かなのですが、海くんの現在とこれからは、ミクの10年後及びそれからを想像する上で想像力が貧弱な私にも強い刺激を与えてくれたのです。
 海くんのご両親のこれまでの生き様、葛藤、苦しみをお聞きしながら、のりこのこれまでの生き様、葛藤、苦しみを改めて考えました。なんと脳天気な父親だったんだろうと、我が身の感性の鈍さに呆れかえりました。
 海くんは今様々なサポート体制にも支えられて彼自身の人生を歩み始めていることを伺ったのも大きな衝撃でした。10年後のミクにはそのようなサポート体制ができているのだろうか、と正直不安になりました。海くんのような恵まれたケースは恐らく例外的なのではないかとも思いました。
この劣悪極まる日本の政治が続く限り、家族だけでは重い障がいを持つ人たちの尊厳ある人生は全うしにくいと言うほかありません。この政治を前提として考える限り、海くんのようなサポート体制ができるかどうかがカギとなるでしょう。
 しかし、そういう現実はどう考えてもおかしい、と思わないわけにはいきません。やはり、政治を根本から変えなければならないのです。障がいのある人すべてが国・地域・社会から十全なサポートを受けて尊厳ある人生を全うすることができるのでなければなりません。やはり行きつくのは、この国の政治を根本から変えなければならない、ということです。
 残念ながら、民主党政権の政治は、自公政治の時よりもさらに悪質になってしまっています。私は、自公政治は最悪で、これ以上悪い政治はあり得ないだろうと思っていたのですが、それは間違っていました。民主党政治は、自公政治がやりたくても世論をまだ気にして手をつけ得なかった領域においても、まったく傍若無人にブルドーザー式に破壊を進めています。消費税増税、政財官学・大マスコミ一体・グルで推し進める原発温存、日米軍事同盟の限りない侵略同盟への変質強化、非核三原則・武器輸出三原則の骨抜き化、宇宙の軍事利用への踏み込み、中韓露を領土問題で強硬姿勢に追いやる見境のない、狭隘なナショナリズムの鼓吹、等々。
 民主党政権には何の幻想ももっていなかった私ですが、谷底へ転げ落ちていくこの猛スピードまでは予想し得ませんでした。しかも、この加速するスピードにブレーキをかける手がかりも頭に浮かんでこないというのが今の私の焦燥感さらには絶望感を生んでいます。「自分は長生きしすぎた」というのが正直なホンネです。
 海くんのお母さんのお話は、こうした様々なことを、正に走馬燈のように私の中で次から次へと考えさせてくれました。

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