日本政治に対する中国側観察

2012.07.27

*中国メディアの扱う対象は正に森羅万象なのですが、民主党政権を中心とする日本政治の混迷も当然取り上げられています。また、私はこのコラムでも折に触れ、日本のデモクラシーが遅々として成熟しない原因は何なのかという問題意識から、私なりのデモクラシー論を書いてきましたが、中国のメディアがこの問題に注目することもあります。さらには、中国人にとっては理解不能で、あきれるほかない日本政治の対米一辺倒についても好奇の目を向けることがあります。そういういくつかの報道・文章を整理して取り上げ、紹介しておきます。
「要らぬお世話だ」「自分のことを棚に上げて何を言うか」と反感を持たれる方もいると思いますが、私は日本論、日本人論として紹介するのではなく、健康で、安定し、長期にわたって発展する日中関係を願う立場から、中国側が日本についてどういう見方をしているかを私たちが理解、認識することは意味があると思うので紹介するのであることをご理解ください(7月27日記)。

<日本のデモクラシー>

 7月11日付新華社は、日中社会学会会長・陳立行(関西学院大学教授)が新華社に特別寄稿した「西側政治制度が日本の文化土壌に移植された後の畸形現象」と題する文章を掲載しています。私は常々、デモクラシーが日本に根を張らない最大の原因は、私たち日本人における「個」の欠落にあると考えているのですが、陳立行はそのことをずばり指摘いるもので、中国人学者がその点を喝破していることに驚きました。しかし、私は、中国人には昔から「個」が備わっていると認識していますし、そういう「個」を備えた中国人が日本人における「個」の欠落を見破るのは不思議でもないとも思いました。以下は、陳立行の文章の抜粋です(強調は浅井。以下同じ)。

 戦後、「絶対平等」の教育体制が日本で3世代を育て、70年代以前に出生した人にはまだ戦前世代の影響があるが、70年代以後に出生した人は、経済高度成長及び「絶対平等」の公立教育の環境の中で成長した。この世代の人の特徴は、納税者としての人権意識が極めて強いということである。
 この種の社会意識の中では、各レベルの公務員に対する公僕としての役割に対する期待がますます強まり、メディアによる公務員の特権に対する監督もますます厳しくなる。…
 納税者の人権意識に応えるため、地方公務員が市民にサービスする際には笑顔をもって、行動は迅速にしなければならない。千葉県松戸市は1969年に「すぐやる」課を設立した…が、1990年以後は多くの都市が「すぐやる」課を設けた。しかし、2000年以後、各地の「すぐやる」課の仕事の内容には大きな変化が起こった。多くの住民は、自分や周りの解決できる問題についてすべて「すぐやる」課を探した。松戸市「すぐやる」課が2009年に処理した…案件数は2097件に上り、仕事総量の57%を占めた。
 地方公務員である公立小中学校の教員の仕事もますます難しいものになっており、儒教文化にある「教職の尊厳」はもはやほとんど跡形もない。多くの家長は、教師を地方公務員であり、納税者の公僕であるべきだと見なしている。最近日本では10回シリーズのテレビ・ドラマ「モンスター・ペアレンツ」を放送し、家長の無理な要求及び公僕である教師の如何ともしがたい有様を描いた。…人によっては、ドラマで描かれたのは虚構の荒唐無稽な内容と言うだろうが、現実において、このような現象は不断に増えており、今や社会的に注目される現象になっている。常識の範囲を超えた無理な要求を学校及び教師に突きつける家長を"monster parent"と言う。中国にはこのような現象はないので、中国には対応する言葉がないのだが、ここではとりあえず「妖怪家長」と訳しておく。ここ17年、妖怪家長は不断に増え、公立学校で鬱になった教員は一貫して増加する状況であり、2010年には、鬱により休職した教師数は5500人以上に達し、歴史の最高記録を更新した。日本の公立小中学校の教員総数は約64.7万人であるから、教員総数の0.85%を占めることになる。(中略)
 (「すぐやる」課及び教師の以上の状況からは)廉恥観念及び集団と同調する意識によって個人の行動を規範するという日本社会のメカニズムはすでに弱まっていることを看取できる。こういった現象は、西側の民主的な政治制度が日本の文化土壌に移植された後の畸形現象と言うことができる。西側の民主的な制度における自由及び平等は、個人の独立及び個人の責任という文化土壌の中で形成されたもので、法律は個人の行動を規範する重要手段である。しかるに日本の文化土壌は、「我は人々のために」という基礎のうえでの相互依頼の「人々は我のため」であり、個人の行動を規範する手段は必ずしも法律ではなくて、廉恥観念及び集団意識である。政治的な民主制度は短時間で移植することができるが、文化土壌は数世代にわたる文化的蓄積及び伝承があってはじめて形成される。戦後、GHQの圧力の下で、日本は西側の政治制度を移植し、人々は大いに喜んで自由、平等、公平、権利などの価値を受け入れた。しかし、個人の独立及び責任・義務に関する文化土壌はまだ形成されていない。…社会生活において、過度に平等と権利を主張し、「人々は我のため」だけをひたすら求めるということが、「すぐやる」課に類対する過分な要求及び妖怪家長の無理な要求という畸形現象を出現させたのだ。
 民主的な制度を日本の文化土壌に移植した後の畸形現象は不断に増加している…が、これらの問題を有効に解決することができるか否かは、日本社会が有効な自己調整能力を備えているかどうかをテストする試金石になるだろう。

<日本の主体性のない対外政策:「民族文化的及び哲学的伝統の表れ」説>

 7月19日付南方日報は、5人の学者の対談による野田政権の対中強硬姿勢についての分析を掲載しましたが、中国社会科学院アジア太平洋研究所安全保障外交研究室副主任の鐘飛騰は、「日本の民族文化的及び哲学的伝統における特徴は、『他の人がはっきりすると、自分もようやくはっきりする』ということであり、「二番手」であることが習慣になっている日本は、国家の重要な情勢がはっきりしない時には、自分で方向をはっきりさせることができないのだ」と、日本の対外政策の核心を突く発言を行っています。
 この発言も、日本のデモクラシー未確立が「個」の欠如に基づくものだ、とする陳立行の指摘と通じるものがあると思います。

<デモクラシーと民意:「民主」日本のリーダーシップへの期待>

 7月17日付環球時報社説「日本は東アジアの民意を大きな対抗に導くことなかれ」は、野田首相による8月15日の靖国参拝に関する日本国内の報道を取り上げ、そのような分別ない行動が日中双方の民意を刺激することの危険性を、デモクラシー(の危うさ)とのかかわりで論じたものです。日本が激発しやすい民意に流されるのではなく、領土問題を含む東アジアの国際関係で、民主的な理性を持ってリーダーシップを発揮することを期待するとしたものです。この文章は、中国側がまだ理性的に日中関係を考えようとしていることをうかがわせるものだと思います。内容を抜粋して紹介します。

 万が一、野田が愚かにも本当に靖国神社に参拝するならば、中日関係は間違いなく新たな大後退を迎えるだろう。野田が政治的などん詰まりに足を踏み入れれば、首相の地位を保つためには一切を顧みず、その時には中日関係が後退するかどうかは彼にとってはどうでも良いことになるだろう、と言う分析もある。こういう分析は仮説だが、…激しい右翼的手段を使って個人及び党派の支持率を上げようとするケースは、日本の政治では過去において数多くあった。中日間の「未解決」の紛争において、あの手この手を使って事をしでかし、衝突を袋小路に追いやるのはいつも日本側の力であることを見て取るのは難しいことではない。
アジアにおける歴史及び領土に関する衝突に関して、「民主的な」日本がよい見本となったことはない。民主そのものはよいことだが、諸刃の剣でもある。日本の「民主」が社会の様々な対外的な敵意を放出させ、もっとも過激な勢力の影響力を大きくする時、人をして身構えさせることになる。
民主化はアジア全域で展開している。しかし、アジアにおいて民主を通じて紛争を操縦した経験はゼロに近い現在では、中国の民意も急速に放出されており、中日の民意が大々的に対抗する状況が徐々に形成されつつある。これはあるいは始まったばかりのことで、少なくとも中国には石原慎太郎のような極端な民族主義指導者はいない。しかし、そうであるとは言え、日本も多分、中国の民間の反日感情が「十分理解できる」ことを感じとっているだろう。
 民意が民意に対抗するとなると、政府が主導する対抗よりもはるかに解きほぐせなくなるアジアでは各国間の民意の力比べさらには対決に向かっているのだろうか。我々の判断するところ、もしも日本が率先してそのようなことをすれば、この局面が最終的なスタイルになり、アジアは妥協の空間を失うことになるだろう。
 中国における世論の解放の過程においては、人々は民意の外交的な力に対して一貫して理解が欠けている。釣魚島、靖国神社における日本の世論の表れは、事実として、中国人が非常に参考にしたのであって、中国世論の激烈さの程度及び中国人のその他のやり方は、意識的無意識的に日本の真似をしているのだ。
 政府の力だけで紛争が解決できる時代は、アジアにおいては基本的に去ったのであり、民意は各国が対策を行ううえでの最大の形成力になっている。しかし、もしも各国政府が民意に対する理性的なリードを完全に放棄するならば、アジアは極めて不確実な未来に直面し、戦争が爆発する可能性も排除できなくなるだろう。民意における対抗は、極めて簡単に東アジア各国の核心的利益に対する理解を領土紛争に集中させることになる。…一つの島嶼のために発展を犠牲にするというのが、東アジア諸国が現在あまねく対抗している姿である。
 「体を張ってやる」という主張は、今のところはまだ幾分なりとも外交的ジェスチャーあるいは怒って言う言葉という要素もあるけれども、最終的にはアジアの国々の選択になる可能性がある。ある地域における平和または対抗の局面というのは少しずつの積み重ねであり、一つのプロセスのように意のままに改めることができるものではない。東アジアの対抗が固定してしまったならば、後戻りすることは難しい。
日本政府は、自らの「民主」に対して責任を負う指導力を示さなければならず、石原慎太郎に代表される社会的な情緒に主導権を取られてはならないのであって、日本の基本的な理性がアジアの他の国々によって明確に見届けられるようにするべきである。さもなければ、各国間の判断の誤りと対抗は螺旋状にエスカレートするしかなくなってしまうだろう。
中国の民意が外交に及ぼす影響はますます大きくなっており、政策形成メカニズムに反映することは間違いない。このことは、中国と他の国々との間に新たな摩擦をもたらすだろう。関連する国家がこのような摩擦を拒否しようとするのは非現実的である。

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