原水禁運動の統一的発展を期待する

2012.07.01

<福島第一原発の事態を引き起こしたもの>

最近八王子革新懇の集まりでお話しする機会がありました。「広島からみた世界と日本の動き」というタイトルをいただいたのですが、広島にかかわっての「世界と日本の動き」としてはやはり核問題が中心になることをお断りして、福島第一原発の事態が起こってしまったのはいかなる原因によるものなのかについての私の理解をお話ししました。福島の事態が起こるに至ったのには6つの根深いが原因があります。①経済コスト優先で人為的に低く設定された「想定事態」がなんの意味もなかったこと、②科学技術によってはコントロール不能な核エネルギーを「平和利用」するという根本的無理、③広島・長崎を隠蔽するために戦後一貫して圧殺されてきた放射能・放射線被害の危険性、④「原子力平和利用神話」の宣伝によって核固執政策の正当化を図ってきたアメリカに丸め込まれた日本、⑤アメリカの核政策に追随してきた日本の政財官学を挙げた核推進政策、⑥「平和憲法も日米安保も」「非核三原則もアメリカの核の傘も」とする日本の人の自己分裂した平和観・核意識がそれです。

<大飯原発再稼働反対の声の高まり>

6月30日付の朝日新聞が一面で写真を掲載せざるを得ないほど、野田政権による大飯原発再稼働の決定に対してはますます多くの国民が反対の声をあげる状況が生まれています。主催者発表では20万人近い人々が首相官邸の前に集まったという報道を読んで、1960年の安保闘争に匹敵するその数の多さに、自ら安保闘争を体験したものとして、久しぶりに気持ちが高まりました。新聞報道にあるように、これらの人々はツイッターなどによる相互触発を通じて自発的に首相官邸前に赴いたものであり、組織動員の要素も大きかった安保闘争の時と比べても、一人ひとりの「原発反対」の気持ちの集合体という性格は格段に強いと思います。それは、日本における新たな運動エネルギー対等の可能性を感じさせてくれます。ツイッター、フェイスブックが新しい意思伝達共有手段として活用されている点では、2011年にアラブ世界を覆った、政治の変革を要求する民衆のエネルギーの高まりとの同質性を示している点も興味深いことです。
天の邪鬼とおしかりを受けることを覚悟して、私が気がかりに思っていることを率直に言いますと、大飯原発再稼働に反対する人々の動きからは、私が福島第一原発の事態を引き起こした原因として上で指摘した6つの要素に対するこだわりというか意識というか、そういうものを感じ取れないということなのです。原発の危険性が明らかになった、納得できる有効な対策を政府は提起していない、そんな状況での運転再開は認められない、というのが皆さんの最大公約数的な声ではないかと思いますし、それでいいではないか、という意見も当然あると思います。しかし、私は、大飯原発再稼働に対する反対は、何故原爆を投下された日本に原発が林立することになってしまったのかという原因(それが上記6つのポイントなのです)をしっかり認識することによってのみ、私たち主権者自身の手による日本の政治経済社会全般にわたる変革を可能にするエネルギーを生みだすと確信するのです。そこまで私たちの認識が深まらないと、日本政治の支配権を死んでも放したくない政財官学は必ずや様々の目くらましの手段を講じて、私たちの運動エネルギーを弱めにかかってくるに違いありません。

<伝統的原水禁運動の担い手側の責任>

 大飯原発再稼働に反対する人々の多くは、1954年以来の日本の原水禁運動の歴史を知らないだろうし、関心もないだろうと思います。しかし、原水禁運動にかかわってきた側は、福島第一原発の事態以後の人々の原発問題に寄せる大きな関心に注目していますし、大飯原発再稼働反対の運動エネルギーの高まりに強い関心を寄せていることは紛れもありません。それは、膠着とマンネリ、そして沈滞・じり貧の傾向を強めている「既成」の運動に新しいエネルギーを加えることによって再活性化を期するという意図に出るものだと理解できます。私自身も、両者が交流を深め、新しい運動エネルギーを生みだしていくことに強い期待を寄せています。
 しかし、原発反対の素朴な感情・問題意識に基づいて行動する人々が、核兵器・原発を含むすべての核エネルギーに反対するという認識に基づいて行動する人々に自らを変えてもらう(それこそが日本という政治社会を根本的に変革するための不可欠な前提条件)ことが可能になるためには、既成の運動の担い手側が直視し、解決すべき問題は多いと思います。これらの問題に対して頬被りしたまま新しい運動エネルギーに「すり寄る」だけでは、日本の核廃絶運動が新しい活力を伴った運動エネルギーとして再生することは望むべくもないのではないでしょうか。
 私は、日本の原水禁運動の歴史的な問題点については、2010年のコラムで何度か問題提起したことがありますので、繰り返すことはやめておきます。関心のある方には、次の文章を読んでいただきたいと思います。
〇「日本共産党への辛口提言 -ふたたび埋没することがないように-」
〇「「いかなる国」問題についての今日的視点」
〇「日本共産党への辛口提言-2-」
〇「いかなる国」問題再考(8月1日記)
〇「第9回原水禁世界大会での「いかなる」国問題」
〇「「いかなる国」問題と1973年当時の日本共産党の立場」
 また、日本共産党の原子力発電所(原子力平和利用)問題に関する立場の問題に関しては、拙著『ヒロシマと広島』の「あとがき」で、次のように書いたことがあります。

 スリーマイル、チェルノブイリそして福島第一と続いた原発事故は、改めて核エネルギーの危険性を私たちに教えるものでした。私たちが福島第一の悲劇を無駄にしないためには、「人類は核と共存できない」という真理を学び取ることです。人知(テクノロジー)をもってしては完璧に制御できない核エネルギーを「パンドラの箱」に封印することです。
 この点に関しては、1975年に森瀧市郎が唱えた「核絶対否定」の思想をもう一度真剣に再評価する必要があると思います。本文でも触れました(p.26)ように、森瀧の主張は、当時においては社共対立の争点化されてしまいました。当時の共産党は、「わが党は、原子力そのものの開発、平和利用を核兵器と同列におき全面的に廃止すべきであるというような「反科学」の立場はとっていません」(1977年8月11日付「赤旗」主張)、「最近、核兵器も原子力平和利用も同列において、"核絶対否定"一般を原水禁運動の目標にしようとする傾向があらわれているが、これも、核兵器禁止、核戦争阻止の根本目標をあいまいにするものである」(1977年10月17~22日の第14回党大会決定)として、「核絶対否定」の考え方は「反科学」的であり、運動論としても正しくない、という立場でした(上記二つの文章は、日本共産党中央委員会出版局『核兵器廃絶を緊急課題として 原水禁運動の統一と日本共産党』によっています)。
 しかし、2011年5月14日付の「赤旗」に載った不破哲三の「「科学の目」で原発災害を考える」という文章では、原子炉の構造そのものが不安定、使った核燃料の後始末ができない「未完成の技術」だとして、「日本共産党は、安全性の保障のない「未完成の技術」のままで原子力発電の道に踏み出すことには、最初からきっぱり反対してきました」と述べています。そして、原発の建設は「原子力研究の基礎、応用全体のいっそうの発展、安全性と危険補償にたいする民主的な法的技術的措置の完了をまってから考慮されるべきである」(1961年の「原子力問題にかんする決議」)を引用しています。
 不破の文章を注意深く読めば、技術が完成すれば原子力発電も選択肢の一つであるという認識が潜んでいることを読み取ることは難しくありません。とはいえ、原子炉の構造を100%リスク・フリーにすることができることは予見しうる将来においてあり得ない、使った核燃料の後始末に関する技術が確立することも見込まれないことを考えれば、不破自身が限りなく核否定の立場に近づいているのではないでしょうか。「絶対」否定という表現そのものは非科学的・反科学的であるとしても、原子力が、気候変動、グローバル化した金融市場とともに、「限界のないリスクをはらんでいる」(2011年5月13日付の朝日新聞に掲載されたドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックの発言)ことは明らかである以上、広島・長崎の原爆体験を持つ日本こそが、脱原発を目指す世界の先頭に立つことが何よりも求められていると確信します。

 私がコラムでもっぱら日本共産党について取り上げたのは、現在の日本の原水禁運動の「大手」は日本共産党系とされる日本原水協(「協」)が主導権を握っているという事実に着目するが故であって、党派的な意図によるものではありません。旧社会党系・総評系の日本原水禁国民会議(「禁」)に関しても、1960年代からの歴史において総括されるべき問題があることは間違いないことだと思います。しかし、旧社会党の分裂(かなりの部分が民主党に流れこんだ)、総評の連合への吸収によって、「禁」の主張力・組織力・運動力・財政力は大きく削がれてしまいました。「禁」が今日もなお辛うじて運動を続けているのは、「協」(その後ろにいる共産党)に対する歴史的に形成され、凝り固まった対抗心による部分が大きいと思います。「禁」の「協」に対する今や無意味な対抗心を解消するためには、「協」そして日本共産党こそが真摯な総括を自らに対して行うことにより、両者の歴史的和解への道筋をつけることが求められているのだと思います。「既成」の運動が党派性を脱却できない限り、大飯原発再稼働反対に立ち上がる人々は「既成」の運動のしがらみ・うさんくささを敬遠するし、その結果、日本の核廃絶運動を再興する絶好のチャンスを失ってしまう危険性はこの上なく高いのです。

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