震災地がれき受け入れ問題と他者感覚

2012.05.27

*東日本大地震によって生まれた大量のがれきの処分が大きな問題になっていますが、私が落ち着かないのは、がれき処分のための受け入れ(を表明)した各レベルの地方自治体に対して住民が激しく受け入れ反対を行っており、しかもマスコミが淡々と(?)「客観」報道に徹していることです。私には、日米安保条約には賛成しながら在日米軍基地移転受け入れに反対する住民の姿がしばしばダブって映るのです。しかし、そのように感じる自分自身の感覚には何か大きな間違い(というか落とし穴)があるようにも思えます。昨日(5月26日)の朝日新聞の「声」欄で、「がれき受け入れ 答え出せぬ」という題の長崎市の被ばく者の方の文章を読み、 私の感じている問題が「ピント外れ」のものではないことは分かりました(「声」蘭に掲載されたということは、それだけの問題であるからだと思うからです。)。
この際、とにかく、自分自身の受けとめ方を整理しておきたいと思いました。がれき受け入れ拒否にせよ、在日米軍基地移転受け入れ拒否にせよ、「拒否」という行動に地域住民が立ち上がるのには、人それぞれによって異なる様々な理由があるであろうことは分かります。ここでは、個々人の思想・確信(基地問題の場合は安保・日米軍事同盟に対する反対、がれきの場合は原子力発電に対する反対)に基づく反対は考察対象から除外しています(5月27日記)。

基地反対の住民運動が問題とするのは騒音、犯罪、墜落などに起因する身体財産への危険性、様々な環境汚染を含む住環境への悪影響等々、多岐にわたります。これに対して、がれき受け入れ反対の場合は優れて放射能による健康に対する悪影響という問題にしぼられると思います(基地反対運動においても、原子力空母や原潜に関しては、事故、放射能漏れが問題になりますから、がれきの場合と同じ内容が含まれますが、それだけが問題とされるわけではありません。)。このように反対運動を起こす動機となる原因については、両者の間に違いがあります。しかし、自らに深刻な影響が及ぶことに対する不安・警戒感が運動のエネルギーの源であることは両者に共通しています。そこでさらに考えるべきことは、両者における不安・警戒感の中身の比較ということになります。
基地問題の場合は、原子力空母・原潜のケースは別として、これらの不安・警戒感が根拠あるものであることは、基地所在地におけるこれまでの厳しい現実が何よりもの証拠で、客観的に明らかです。
ただし、一点だけ、基地移設受け入れに反対する立場の人々に関して私が問題・矛盾を感じる場合があります。それは、日米安保(軍事同盟)には賛成・支持するし、日本国内に米軍基地があることについても賛成する(少なくとも反対しない)という立場の人々が、「自分の住むところに基地が移転してくることには絶対反対」というケースです。
これはあまりにも身勝手です。しかも、在沖米軍基地の問題について無関心を決め込む「本土」の日本人がきわめて多い現実は、この身勝手さが決して個々人レベルの問題ではなく、日本人の多くに共通する他者感覚(丸山眞男)の欠如によるもので、きわめて深刻な問題であることを物語っています。
私ががれき受け入れ問題に関して考え込むのは、ここでも正にこの他者感覚の問題が問われているのではないかということです。
がれき受け入れ反対が強いのは、①広島・長崎・第五福竜丸の教訓を正面から学びとり、放射能に関する科学的知見を国民的に共有することが、アメリカの強い影響・圧力(及びこれに付き従った日本の政官財学による情報操作)で妨げられてきたこと、②「原子力安全神話」が強力に吹き込まれてきたことによる根拠のない安心感が巣くってきたことなどにより、放射能の問題が長い間いわばブラック・ボックスに閉じこめられてきたのですが、福島の事態に直面して、一気に漠然とした(果たして根拠があるのかないのかも分明ではない)不安・警戒感が広範囲に広がったことに大きな原因があります。きわめて大雑把な言い方ですが、「ハッキリしていないことに対する不安・警戒感」という要素が大きいと思います。その点で、ハッキリした根拠に基づく基地移設受け入れ反対のケースとは大きな違いがあります。
誤解のないようにつけ加えておきますが、私は、原発推進を唱える側の論拠であった「原子力安全神話」は元々根拠がなかったのみならず、福島の事態で完全に崩壊したと思います。また、放射線被害にはいわゆる「閾値」はないという専門家の指摘に説得力を感じています。しかし、政官財学による「臭いものには蓋」という隠蔽体質が支配した結果とは言え、放射能・放射線被害に関しては科学的にハッキリしていないことが多いことも事実でしょう。ですから、どれほど微量であっても100%無害と言い切ることはできないと思いますが、すべての物事には「許容できる危険度」というものは存在するし、放射能にもそのことは当てはまるのではないか、と思います。
この点を考える上で分かりやすい例が自家用車(マイ・カー)です。自動車の事故を100%排除することは不可能であることを誰もが知っています。しかし、車を利用することの利便性・快適性がその危険性に対する不安・警戒感を上廻っていると判断するからこそ、多くの人々が車を受け入れ、マイ・カー族になるわけです(その危険性を重視する人が車を利用しないことの不便性・不快性を受け入れて自家用車を保有しないというケースも存在します。)。ここでは、自分自身における利便度・快適度と危険度との比較衡量がポイントです。利便度・快適度と危険度との比較と判断の基準は各人各様であり、それこそ自己責任で決めることであり、それに尽きるのです。ですから分かりやすいし、議論の対象にもなりません。
がれき受け入れに反対している人たちの立論も似ているように感じます。つまり、がれきを受け入れないことによる自分自身の安全度(100%)は、受け入れることによる自分自身の危険度(閾値がハッキリしない以上、いかに微量であれ0%ではあり得ない)を圧倒することは明らかですから、受け入れ反対となるのではないでしょうか。
しかし私は、がれき受け入れ問題に関しては、他の要素を加えた比較衡量が行われる余地があるのではないかと考えます。他の要素とは、要するに東北地方の人々(他者)の置かれた境遇ということです。他者の置かれた境遇という要素を、自分自身の安全度との比較衡量の対象とするのは、まったく質の異なる要素間のことですから確かに難しいことです。しかし、この要素をも織り込んで考える頭・心の働きにおける配線構造が各人の中で当たり前となっているかどうかが、取りも直さず、日本人が他者感覚を我がものにしているかどうかということだと思います。
もちろん、私は、常に他者感覚が優先されるべきだなどと言うつもりが毛頭ないことは、これから書くことを見ていただけば分かると思います。私が問題とするのは、そもそも他者感覚という要素を働かせる頭・心の配線構造が私たちにはあるのか、ということです。 一般論として議論を進めるのは不毛な誤解、反発を招きかねないと思いますので、まずは私自身に引きつけて考えます。私の住む八王子市が現地での検査をパスしたがれきについて受け入れを表明したら、私はこのことにどういう態度決定を行うかという問題です。
放射能の場合、私のような70歳の老人にとっては、その危険度はかなり割り引いて考えることができます(すでに余命幾ばくもないのですから、ごく微量の放射線を浴びること(低線量被ばく)に起因する生命への危険度を深刻に思い悩むことはありません。)。客観的な値はともかく、私における主観的な閾値は限りなくゼロに近いと考えています。
私が低線量被ばくによる生命への危険度に関して考えざるを得ないのは孫娘のことです。小人症という障がいを持つ孫娘の場合、放射線の悪影響の程度・度合いは、一般成人とはもちろん、同じ年代の子供たちと比較しても高いと思います。ですから、孫娘との関連も込めて考えると、私にとってのトータルかつ主観的な閾値はグンと高くなります。
他方、この寄る年並みではボランティア活動に参加することすらためらわれる(下手にノコノコお邪魔しても足手まといになるのがオチだということは目に見えます。)私ですが、東北地方の人々が現に味わわされている困難は、私の貧弱な他者感覚をいくら働かせても想像を絶します。民主党政権の目に余る無為無策には怒髪天を突く思いですが、「何か自分でもできることはないか」と切に思います。そういう私にとって、八王子市ががれきを受け入れることには、原則として大賛成だし、支持します。私自身の危険度など問題にもなりません。唯一引っかかるのは、孫娘とのかかわりにおける閾値の問題です。
ここまで考えてくると、問題の根本的な所在が見えてくるように思います。つまり、がれき受け入れを各自治体にもっぱら要請するだけで、受け入れるかどうかの判断を自治体に丸投げして涼しい顔をしている民主党政権の無責任を極める姿勢です。自治体としては、因果関係がハッキリしない事柄について判断を迫られても困るわけで、受け入れの意向があっても、住民の強い反対に遭遇すると立ち往生してしまうというのは当然のことです。民主党政権が本気・誠心誠意でこの問題に取り組むようにしなければなりません。東北地方の人々はもっともっと無能・無責任を極める民主党政権に対して怒らなければなりません。「絆」などの"美辞麗句"に欺されてはならないのです。
その点をまずハッキリ指摘した上で、しかし、がれきを処分しなければ東北地方の人々の置かれた状況を緩和し、改善していく方向性・可能性がまったく閉ざされることは明らかですから、私自身としてなんらかの態度決定をしなければなりません。結論として私は、ごく微量の放射線しか検出されないか、あるいはまったく検出されないがれきである以上、孫娘に及ぶ危険度は許容範囲内であり、したがって八王子市が受け入れることについて賛成・支持します。
そういう私自身の立場を前提にして、各地でのがれき受け入れ反対の住民運動を見るとき、私はその反対を理解はしますが、やはり強い違和感が先立ちます。この違和感のよって立つところは、繰り返しになりますが、反対する人々が東北地方の人々の置かれた状況に対して思いを致す(他者感覚を働かせる)ことを読みとることができないことにあります(マスコミの報道に問題があるのかもしれませんが)。

ここまで考えてくると、冒頭で述べた問題意識(「私には、日米安保条約には賛成しながら在日米軍基地移転受け入れに反対する住民の姿がしばしばダブって映るのです。しかし、そのように感じる自分自身の感覚には何か大きな間違い(というか落とし穴)があるようにも思えます。」)に関してクリアになる部分もあります。がれき受け入れ反対は、「安保は賛成だけど、米軍基地移転受け入れは反対」という露骨な「住民エゴ」とは違うし、ダブらせてしまう私の直観的受け止めは間違いだったと思います。
他方、私たちにおける他者感覚が確かなものであれば、基地移設受け入れ反対の問題であれ、がれき受け入れ反対の問題であれ、雑多な夾雑物が入り込むことを未然に防止し、あるいは入り込んできたとしてもそれらによって判断を曇らされることを阻止することはできるのではないでしょうか。
基地問題に関して言えば、「住民エゴ」の自分自身の身勝手さを見直すという課題が直ちに出てくるはずです。本当に日米安保(軍事同盟)は必要なのか。本当に必要ならば、沖縄に犠牲を押しつけて恬として恥じないのはおかしいのであって、自分自身が一定の犠牲を甘受するべきではないか。その犠牲はまっぴらごめんとするならば、それはそもそも日米安保(軍事同盟)が必要ないものだからではないのか。少なくとも、「安保はないよりも、あった方が安心」という類の発想では沖縄に顔向けできない。こういう頭の配線構造が働き出すはずです。
がれき問題に関して言えば、自分の安全を思うことを100%優先して、そのためには東北地方の人々が置かれている困難には目を瞑って見ないということでいいのか、ということです。他者感覚を働かせる余地は本当にないのかということです。みんなが他者感覚を我がものにすれば、がれき受け入れに関する反対一筋の自らの姿勢に、一人一人が別の角度から頭・心の配線構造を働かせて再考する余地が出てくるのではないか、と私は思うのです。そうなれば、自らの態度決定のあり方をもっと真剣に考えることになるし、民主党政権の無為無策・無責任に対しても「吾関せず」を決め込むことはできなくなると思います。

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