東アジア情勢とアメリカ:歴史から学ぶ

2012.05.12

*寄稿を求められて書いた文章です。私たち日本人の物事を見る目には歴史という要素が欠けているというのが私の偽りない実感です。このことが日本人の「現実」を「既成事実への屈伏」「権力の偏重」(丸山眞男)と同義にしてしまうと思うのです。世の中をよくするためには、このような私たち日本人に通弊の「現実」観を克服することが大前提だと確信します。日本を変えなければ日米・日中・日朝関係ひいては東アジアの国際関係を転換することはできない、という気持ちを込めて書いた文章です(5月12日記)。

<全体的特徴>

 東アジア情勢は、第二次世界大戦が終わってから今日までの70年間足らずの間に、巨大な変化を遂げました。しかも変化のスピードとその中身は、21世紀に入ってますます加速しつつあります。そういう中で、ひとり日本及び多くの日本人だけが、その置かれた環境・条件の根本的な変化に気づかず、ひたすら日米同盟を基軸とする対米一辺倒の政策に安住し、波間に漂う泡沫(うたかた)のごとく漫然と打ち過ごしている姿は極楽トンビそのものであり、異常と言うほかありません。
 確かに、第二次世界大戦後の東アジア情勢を圧倒的に支配し、影響力を行使してきたのはアメリカでした。しかし、1975年にアメリカの敗退で終結したヴェトナム戦争以後、東アジア情勢は大きく変化しはじめ、その流れは時とともに強まって21世紀を迎えています。この変化の最大の要因は、それまで米ソ冷戦構造の枠組みの中にあった東アジア域内の諸国が大国の支配・影響を脱しあるいはふるい除け、それぞれが試行錯誤を重ねながら自らに適した国内政治形態を修得・獲得し、国際関係においても自らの意思で行動する対外行動能力を獲得し、養ってきたことに求められます。
この場合、運輸通信技術(あるいはテクノロジー一般)の飛躍的発展に支えられた、経済政治文化その他あらゆる領域における国際的相互依存の進行・国際経済規模の拡大という外的条件は、多くの東アジア諸国の自主独立性の強化にとってきわめて有利に働きました。そして、以上のすべての内外における環境・条件の変化が、戦争という伝統的な紛争解決手段の有意性を根底から突き崩し、国際関係のあり方を根本的に問い直すに至っているのです。日本に住む私たちがこれ以上惰性に流され続けることはもはや許されない時点に来ています。
東アジア情勢が地球規模の地殻変動と軌を一にした歩みを遂げてきたことは、東アジアの現代史を振り返ることによって確認することができます。また、歴史をしっかり踏まえることによってのみ、21世紀の東アジアの平和に関する確実な方向性を見通すことができるのです。以下においては、1945年を基点として10年ごとに東アジアにどのような変化が起こったのか、そして、そういう歴史が今日の東アジア情勢とどのようにつながっているのかを見たいと思います。最後に、そういう歴史的潮流の下での東アジア情勢とその方向性を考えます。

<1945年:人類史の転換点>

 1945年に終わった第二次世界大戦は、次の3点において、正に人類史を画する重要な意味を持っています。
まず、民主主義と全体主義との対決において民主主義が勝利したことにより、民主主義はもはや数多くあるイデオロギーの中の一つのイデオロギーであることを止め、人間の尊厳、基本的人権ととともにデモクラシーという普遍的価値としての位置を確立しました。国連憲章(1945年)及び世界人権宣言(1948年)は、いわばその法的モニュメントです。第二次世界大戦までは、国内政治のあり方はそれぞれの国が自分で決めるものでしたが、人権・デモクラシーが普遍的価値として国際的に承認されることにより、人権の国際的保障、デモクラシーの国際的実現という課題が提起されることになったのです。
次に、広島及び長崎に投下された原爆(核兵器)の登場は、「政治の延長」「国際紛争解決の手段」として位置づけられてきた戦争の概念を根底から突き崩すものでした。大量破壊兵器の極致である核兵器は、その使用が人類の意味ある存続そのものを不可能にすることが認識されました。その認識が結実したのが日本国憲法(平和憲法)の第9条です。
戦争違法化の流れは、第一次世界大戦終了後の国際連盟規約、不戦条約として生まれていました。しかし、戦争を違法化したのは国際連合憲章がはじめてです。日本国憲法の先駆性は、国連憲章ではまだ認められている自衛権の行使をも含めて戦争一般を禁止している徹底性にあります。
第三に、国際社会が今や全世界規模で広がる条件が作られたことです。第二次世界大戦までの国際社会は欧米列強中心の地理的に限られたものでした。第一次世界大戦を受けて国際的に承認された民族(人民)自決原則は、欧米日列強の植民地が独立する道を切り開きました。しかし、この原則が実際に適用されたのは欧州地域に限られ、アジア、アフリカ及び中南米の多くの地域には適用されませんでした。国連憲章は、その不徹底さを取り除き、国際社会が地球規模で成立する条件を確立しました。
これから見るように、人権・デモクラシーの普遍的実現も、戦争のない世界の実現も、20世紀中には達成されませんでした。地球規模の国際社会は一応成立しましたが、人権・デモクラシーを伴わず、また、戦争のない世界からはほど遠いきわめて不十分なものです。21世紀は正にこれらの全面的な実現を目ざすことが人類的目標ということになります。

<1955年前後:東西冷戦と国際デモクラシーの提起>

 1955年前後の時点ではすでに、地球規模で国際社会が実現する条件が生まれていたにもかかわらず、世界が米ソ両陣営に分かれて厳しく対峙する状況が固定化していました。しかも、核兵器は廃止・禁止されるどころか、アメリカが核政策を進めることに脅威を感じたソ連が開発を急いだ結果、この時点ではすでに核冷戦が本格化していました。世界は再び第三次世界大戦の恐怖に直面していたのです。
 アメリカは、自らの核政策を正当化するためにも、「核=キノコ雲」という広く抱かれていたイメージを払拭する取り組みを行いました。特に1953年には「アムウ・フォア・ピース」計画を打ち出し、国際的に「原子力平和利用」キャンペーンを推進しました。このキャンペーンでは、被爆国・日本における「核アレルギー」を取り除くことが重点とされました。原子力平和利用の中心に据えられたのが原子力発電所です。その結果、日本では早くも1956年にいわゆる原子力3法が成立しました。福島第一原発の事態を生みだすタネは、アメリカの周到な政策のもとで、約60年前にすでにまかれていたのです。
 東西両陣営のいずれにも与さないアジア・アフリカ諸国は、国際平和を実現するために協力する道を選択しました。その嚆矢となったのが、1955年にインドネシアで開催されたバンドン会議です。この会議には、中国、インドをはじめとする29カ国が参加し、平和10原則を発表しました。この会議はその後非同盟運動として継承され、同運動は今日に至るまで続いています。バンドン会議の歴史的意義は、欧米中心の伝統的な国際政治に風穴を開けたこと、米ソ両陣営対峙の権力政治に対して、主権尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存等からなる国際デモクラシー諸原則と紛争の平和的解決を対置したことにあります。

<1965年前後:核冷戦とヴェトナム戦争>

1965年前後の時点では、米ソ冷戦はいわば絶頂期にありました。核軍拡競争の結果、オーバーキルの核兵器が蓄積され、核戦争が人類滅亡に直結することが否応なしに認識されるに至りました。しかし核兵器に固執するアメリカは、その保有を正当化するための「核抑止」論を編み出し、これにソ連が追随したことにより、「核相互抑止によって平和が維持される」という、権力政治に基づく平和論を主張しました。米ソの核固執政策は、1965年までには英仏中3国の核兵器開発・保有をもたらしました。日本政府は、ソ連に加え中国も核兵器を保有する事態に対して、日米安保条約の下でアメリカの拡大核抑止力に依存する政策をとりました。
他方で、核兵器がこれ以上拡散すると不測の事態を生みかねないという核兵器国の恐れが強まり、これが国際的に共有されて、核不拡散条約(NPT)を生みました(1970年発効)。NPTの最大の狙いは、核兵器国をさらに増やさないことで、その意味での国際的不平等を固定化することにありました。しかし、非核兵器国の同調・支持を取り付けるために、非核兵器国の原子力平和利用の権利を認め、核兵器国による核兵器削減・廃棄に向けた努力義務を定めました。このような条約の内容がその後様々な問題を生みだすことになります。
東アジアにおけるもっとも重要な出来事はヴェトナム戦争です。1965年にアメリカは本格的な対ヴェトナム戦争に踏み込みました。しかし、ヴェトナムが頑強な抵抗戦争を展開してアメリカのもくろみは早々と崩れ、戦争は泥沼化しました。中ソ対立は1960年に公然化しましたが、中ソ両国はヴェトナムの戦争努力を支援しました。米中関係も、台湾問題をめぐって緊張を続けていました。したがって、アメリカの東アジアでの軍事網である日米、米韓、米比条約、SEATO(東南アジア条約機構)は健在でした。特に日本は、日米安保体制のもと、アメリカの対ヴェトナム戦争の出動・兵站基地として不可欠な役割を進んで担いました。アメリカと同盟関係を結ぶ国々の多くは独裁政治体制を敷いていました。東アジアは政治軍事的に完全に引き裂かれた状況にありました。
経済面では、対米追随路線の下で高度経済成長を実現しつつあった日本の躍進(1968年に世界第2位の経済大国となりました。)が目立ちましたが、アメリカの同盟諸国ではおしなべて独裁政治の下で経済が停滞しました。中国は1950年代後半の大躍進政策の失敗で、深刻な調整政策を余儀なくされていました。

<1975年前後:大国関係の安定化と国際経済における変化>

1975年前後の時点では、政治的・軍事的な分野で変化が起こりました。米ソ関係では核相互抑止に基づくデタントが成立し、ニクソン訪中(1972年)によって米中関係も安定しつつありました(日中国交正常化も実現)。アメリカは、このような対ソ・対中関係の戦略的調整という基盤の上に、約10年に及んだ対ヴェトナム侵略戦争から撤退しました(1975年4月)。しかしアメリカがソ連に対する軍事的警戒を弛めることはなく、「西のNATO、東の日米安保」という位置づけを変えることもなく、ソ連(アカ)を脅威とする日本の保守政治の対米軍事依存政策も微動だにしませんでした。
他方、アメリカ経済にとってヴェトナム戦争の後遺症は重く、財政及び貿易のいわゆる双子の赤字が深刻化し、世界経済に占める比重は著しく低下し、アメリカ・日本・西欧という三極が世界経済を牽引する傾向がはっきりしてきました。また、ヴェトナム戦争の終結は、東南アジア諸国がアメリカに振り回されて身動きが取れない状況から脱するための客観的な条件を提供しました。1976年には東南アジア友好協力条約が締結され、SEATOは1977年に解体します。ASEAN(東南アジア諸国連合)の発足は1967年と早かったのですが、経済的に比重を高めるのは、国際緊張緩和を背景にして、1980年代にシンガポール、タイ次いでマレーシアが高度経済成長を遂げるようになってからで、やはりヴェトナム戦争の終結が好条件を提供しました。韓国経済も、開発独裁と称されましたが、めざましい発展を示します。この時期を境にして、韓国と朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との間の経済力が逆転していきます。中ソ対立に対して等距離をとることに腐心した朝鮮は、経済面で苦しさを増していきました。

<1985年前後:ソ連・中国の路線転換と新自由主義の台頭>

1985年前後の時点では、ソ連がペレストロイカ政策を、また中国が改革開放政策を採用したこと(正確には1978年ですが、本格化は1980年代)は、東西対立を固定的に捉える権力政治・勢力均衡の国際観を根本から揺るがせるものでした。
ちなみに、権力政治・勢力均衡という考え方(イデオロギー)は、17世紀における欧州国際社会の誕生に起源を持つものです。19世紀に登場した、国境を超えた人民の連帯を唱える国際共産主義運動は、この国際観に正面から挑戦するイデオロギーでした(それだけに、欧米諸国から警戒されたのです。)。しかし、ソ連が一国社会主義の路線を採用し、第二次世界大戦後に米ソを中心とする陣営的対立が固定化するとともに、権力政治・勢力均衡の国際観が両陣営によって受け入れられてしまいました。
ソ連及び中国に起こった以上の変化は国際緊張を弛め、客観的に見る限り、以上の伝統的な国際観の根本的な見直しを迫るものでした。東アジアにおいても、日米軍事同盟を含む、アメリカが張り巡らせてきた軍事網の存在理由は正面から問い直される客観的事態に直面していたのです。しかし、アメリカには、ソ連を弱体化させ、中国を引き寄せるチャンスとする受けとめ方しかなく、独自の役割を発揮しうる日本においても、対米追随が固定化してしまっていたために、このチャンスが生かされることはおろか、正確に認識されることすらありませんでした。
1970年代の経済困難に直面したアメリカを中心にして、米欧諸国では経済政策の転換が進みました。支柱的経済政策理論として、政府の積極的介入を肯定するケインズ主義を批判し、市場至上主義を唱える新自由主義が台頭し、1985年前後までには米英日を中心として経済政策の中心に据えられました。アメリカは、新自由主義に基づいて世界的な市場一体化を目指す政策を推進しました。それがいわゆるグローバリゼーションです。東アジア経済も、中国、NICs、ASEANを中心に、世界経済の一体化の流れの中で、全体としてめざましい経済発展を示しました。二度にわたる石油危機を乗り越えた日本経済もバブルを謳歌していました。それに対して、ソ連・東欧諸国・朝鮮の経済的停滞が露わになってきました。

<1995年前後:権力政治の横行と世界経済の一体化>

1995年前後の時点では、権力政治・勢力均衡の国際観を見直し、核政策を根本から問い直すせっかくのモメンタムが失われてしまっていました。1991年のソ連崩壊は、本来であれば、この国際観の見直しを促進する有力な要素でした。しかし、「ソ連の崩壊=アメリカの勝利」とする短絡的な受けとめ方が国際的に広がったのです。しかも、1990年に起こった湾岸危機(イラクによるクウェートへの軍事侵入)は翌年のアメリカ主導の湾岸戦争に直結し、アメリカが圧倒的な軍事的勝利を収めたことは、アメリカ中心の権力政治の国際観を正当化する材料となりました。その結果、アメリカでは、権力政治を前提にした、圧倒的な軍事力を維持するための正当化材料としての「ソ連に代わる脅威探し」が行われることになったのです。
ソ連崩壊に直面した日本の保守政治もまた、日米軍事同盟を国内的に正当化するために新たな脅威を必要としました。そこでフルに利用されたのが朝鮮です。朝鮮半島情勢は、朝鮮の「核開発疑惑」をめぐって、1993-4年に一触即発の危機を迎えました。この危機は、米朝間で核問題に関する枠組み合意が成立したことによって解決しましたが、日本ではこの頃から「北朝鮮脅威」論が華々しく喧伝されるようになったのです。台頭著しい中国に対する保守政治の警戒感も次第に高まり、「中国脅威」論も唱えられるようになりました。1992年にPKOとして戦後初の海外派遣を果たした自衛隊を、日米軍事同盟の中で対米補完的役割を担える組織にしていく動きもこの頃から本格化します。
ちなみに、今回(2012年5月1日)の野田首相訪米時に出された日米共同声明に出てくる「新たに生じる安全保障上の脅威」という概念は、そういうアメリカ主導の「脅威探し」の産物です。また、東アジアでは、アメリカは台頭しつつある中国を「潜在的脅威」として捉えるようになりましたが、野田首相訪米時の日米共同声明で「伝統的な脅威」と指摘しているのは主に中国(及び朝鮮)のことです。
東アジアという狭い脈絡ではないのですが、この時点で特に注意を要するのは国際連合の変質です。国連は、歴代事務総長の粘り強い努力により、米ソ冷戦という厳しい条件の下で国際の平和と安定を維持する、権力政治に対する歯止めの役割を模索してきました。しかし、冷戦終結は国連の機能・役割に重大な影響を及ぼしたのです。特に安全保障理事会においては、ソ連の拒否権を継承したロシアそして天安門事件(1989年)による国際的孤立からの脱却を図る中国が対米協調姿勢を強めました。そういう背景の下で起こったのが湾岸危機・戦争であり、イラクのクウェート侵略があまりにも露骨な国際法(国連憲章)違反だったこともあって、アメリカ中心の大国協調体制が機能することになったのです。大国協調体制自体は、本来、良くも悪くも機能しうるものなのですが、湾岸危機以後、アメリカに対して他の大国(4常任理事国)が無原則に同調する対米翼賛体制が事実上成立し、権力政治が横行することとなりました。
国連の変質は、国際紛争へのかかわり方にかかわる変質をも生みました。すでに湾岸戦争において、アメリカ主導の多国籍軍方式に安保理決議がお墨付きを与えました。また、国連主体の平和維持活動(PKO)も、それまでの平和維持を中心とする活動から逸脱し、「平和創出」のための軍事行動にまで踏み込もうとしたのです。国連にはそのような軍事能力が備わっていないことが明らかになって、この方向での努力は早々と流産するのですが、安保理決議の「お墨付き」を根拠にして、世界各地の紛争に大国が軍事介入する流れが生まれたのはこの時期からです。
経済面では、新自由主義に基づく世界経済の一体化プロセスが東アジア経済を巻き込んで進行しました。これには、「ソ連崩壊=社会主義破産=資本主義勝利=市場経済絶対」という短絡的な受けとめ方が支配したこと、旧ソ連邦諸国(CIS)及び旧東欧諸国が一斉に資本主義経済に移行し、「社会主義市場経済」を標榜した中国が経済的躍進を遂げ始めたこと、東西対立に距離を保って独自の経済発展を模索していた途上諸国にグローバリゼーションの波が押し寄せたこと、これらの機会に乗じた多国籍企業の世界市場支配など、様々な要因が働いていました。アメリカは、市場経済を人権・デモクラシーと並ぶ普遍的価値と位置づけ、対外政策の中心に据えるまでになりました。
しかし、東アジア経済はこの時期に大きな試練に見舞われました。即ち、1992年に日本のバブル経済が完全に崩壊しました。また1997年には、アジア通貨危機が起こりました。東アジア経済は、世界経済に先がけて新自由主義の脆さ、危うさを露呈したのです。

<2005年前後:権力政治の行きづまりと多極化>

21世紀に入った2005年前後の時点では、権力政治・勢力均衡の国際観及び市場至上主義の新自由主義の行きづまりが世界規模で露わになってきました。
まず政治面では、脅威探しに躍起になっていたアメリカにとっていわば奇貨とも言える事態が2001年9月11日に起こった「9.11」であり、アメリカの世界支配が国際テロリズムの脅威、「対テロ戦争」という口実の下で進行したかに見えたのは事実です。しかし、アメリカの対イラク戦争がウソに塗り固められたものが明らかになり、対テロ戦争の次の標的になったアフガニスタンとともに戦争が泥沼化するにつれて、対テロ戦争ひいては権力政治の国際観そのものの有効性・説得力が問い直され、アメリカの一極支配体制の危険性が認識されることになったのです。天安門事件の後遺症から脱した中国及びソ連崩壊後の混乱を乗り切ったロシアを中心として、大国協調体制の対米翼賛化を反省し、警戒する動きが生まれました。「多極化」で表される潮流が顕著になったのもこの時期の新たな特徴です。
ロシアが国益中心のショービニズムに囚われて行動していることは明らかです。また、中国も大国意識が濃厚です。そういう意味では、2005年前後の時点でも、権力政治・勢力均衡という伝統的な国際観は相変わらず国際政治の主たる潮流です。しかし、ロシア及び中国も加わるBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国及び南アフリカ5カ国の頭文字をとったもの。元々は南アフリカを含めない新興経済大国である4カ国を指す言葉としてのBRICsでしたが、2011年の4カ国首脳会議に南アフリカも加わって以来BRICSと称されます。)は2009年以来、首脳会議を毎年開催しています。中国及びロシアを中心とする上海協力機構は2001年に成立しました。両者ともに明確にアメリカを牽制する動きを強めています。
多極化傾向は世界的なものです。米州機構(OAS)は、元々アメリカの肝いりで1951年に発足した地域的な国際組織ですが、中南米諸国が自主性を強め、むしろアメリカを牽制する動きで共同歩調をとるようになっています。アフリカ連合(AU)は、1963年発足の反植民地主義を旗印としたアフリカ統一機構(OAU)を前身とし、アフリカの統一と連帯を目的として2002年に改組発足した地域的な国際組織ですが、2011年のリビア内戦に際して独自の仲介行動を取るなど、やはりアメリカその他の大国の介入を牽制する姿勢が顕著です。こうした多極化傾向は、政治面だけにとどまるものではなく、経済面に及ぶものでした。
東アジアも例外ではありません。上記上海協力機構とともに注目されるのはASEANの動きです。元々東南アジア域内の経済・社会協力促進を目的として生まれたASEANが、ASEAN+3(1997年のアジア通貨危機を契機として日中韓3国が加わって開始)、東アジア首脳会議(EAS。2005年に第1回会議開催)などのイニシアティヴをとるなど、国際政治経済に存在感を示すようになっています。
ひとり朝鮮半島情勢は複雑な展開を遂げました。朝鮮半島の非核化を交渉する枠組みとして南北朝鮮及び米中ロ日が参加するいわゆる6者協議が2003年に開始されます。韓国では、南北共存を目ざす金大中及び盧武鉉政権が6者協議に積極的に参加するのですが、アメリカは対テロ戦争を声高に唱えるブッシュ政権が朝鮮を「テロ国家」と名指しする状況があって、6者協議も紆余曲折を余儀なくされました。
日本は、アメリカ追随政策をさらに強め、多極化の流れに対しても対米協調の枠内でという留保をつけました。重大なことは、日本が進んで日米軍事同盟の変質強化に踏み込んでいったことです。「北朝鮮脅威」論及び「中国脅威」論を国内世論に浸透させつつ、アメリカに呼応して自衛隊の対南方シフトを進めました。また、有事に際しては日本全土を米軍に提供し、国民を総動員するための法的整備も進めました。自民党政権を批判して登場した民主党政権も、自民党政権が進めた日米軍事同盟変質・強化路線を忠実に踏襲しています。

<東アジアの現状と展望>

 私は、以上に簡単に素描した戦後史を踏まえる時、21世紀を迎えた国際社会の方向性を決定づける要因として次の4点が決定的に重要だと思います。これらの要因は、東アジアについてもそのまま当てはまります。
 まず、人権・デモクラシーという普遍的価値が、国際関係を規律する上での座標軸として占める位置はますます高まっていくということです。この普遍的価値を承認するものである限り、国際政治における伝統的かつ支配的な権力政治・勢力均衡の国際観(イデオロギー)も、また1980年代に急速に影響力・支配力を強めた市場至上主義の新自由主義(イデオロギー)も認めることはできないはずです。なぜならば、いずれのイデオロギーも、あるいはパワーあるいは市場(利潤)という、人権・デモクラシーとは無縁かつ敵対する価値基準を根底においているからです。戦後史を一貫して流れてきたのは、普遍的価値と二つのイデオロギーとのせめぎ合いということであり、緩慢ではあるけれども、普遍的価値が次第に地歩を確実なものにしつつあるということです。
 次に、テクノロジーの飛躍的発展に裏付けられた国際相互依存及び世界の一体化の流れは不可逆的な歴史の潮流であるということです。アジア通貨危機、リーマン・ショック、ギリシャの国家財政破綻のいずれもが、国際相互依存及び世界の一体化ということが何を意味するかを如実に物語っています。東日本大震災によって操業できない工場が生まれたことは、世界各地の工場の操業に影響しました。人類は今や一つの船に乗っているのであり、このことは今後ますます強まるのです。
 三番目に、これまでの歴史的素描では扱えませんでしたが、いわゆる地球規模の諸課題が待ったなしで私たちの対応を迫っていることです。温暖化、エネルギー・資源問題、水資源、AIDS・鳥インフルエンザなどなど、いずれもが一国単位での取り組みではどうにもならず、国際社会挙げての取り組みが求められています。
 最後にそして以上3点の存在を認める時、戦争はもはやいかなる形にせよ許されてはならないということです。戦争は権力政治の手段であり、産物です。戦争は、国際相互依存・一体化を強める国際社会においてはもはや「政治の延長」ではあり得ません。山積しかつ深刻さを増すばかりの地球規模の諸課題に取り組むことに有限の資源を振り向けなければならず、戦争で資源を浪費することは許されません。
 最後に、東アジア情勢の方向性を誤らせないためには、私たちは次の諸課題に明確な問題意識を持って取り組むことが求められます。
 もっとも喫緊を要するかつ根本的に重要な課題は、アメリカの権力政治・新自由主義及び核固執政策を改めさせることです。オバマ大統領は、2009年4月に行った「核のない世界」に言及したプラハ演説によって国際的に期待されました。しかしその4年間の政策実績を点検すれば、同政権が権力政治及び核固執政策をまったく変えていないことは明らかです。新自由主義という言葉を使用することはありませんが、TPPに集中的に示されるように、その対外経済政策は、アメリカ主導で世界市場を一体化させようとするものにほかなりません。地球規模の諸課題に対する取り組みはせいぜい微温的でしかありません。しかし、ハッキリしているのは、アメリカが主体的に自らの政策を改めることを期待するのは幻想でしかないということです。
 アメリカの問題に負けず劣らず重要な課題は、中国とどのように向きあうかという問題です。私たちはともすると、「同文同種」「一衣帯水」という言葉に惑わされ、中国のことは「なんとなく分かっている」と思い込みがちです。しかし、それは間違いです。中国はあらゆる点で外国です。極端な言い方をするならば、アメリカ以上に分かりにくい国です。実は、「中国脅威」論が私たちの中に浸透しやすいという事実そのものが、私たちが中国をよく分かっていないことの裏返しなのです。分からないから不安になり、警戒心理が働きやすくなるのです。しかし、21世紀を特徴づける4つの要因を踏まえる時、もっとも確かなことは、日中が戦えば共に滅び、日中が和すれば共に栄える、ということです。共存共栄以外の選択肢はないのです。アメリカの権力政治に振り回されて中国をライバル視するのではなく、21世紀的視点に立って中国を位置づけることができるかどうかが鍵になります。
 東アジアの平和を構想する場合には、朝鮮半島情勢もきわめて重要な要素です。そのためには特に、朝鮮をありのままに理解し、認識する眼を養うことが先決条件です。私たちの朝鮮観は、アジア蔑視及び朝鮮蔑視という歴史的に培われた重大なハンディキャップを背負っています。しかも日本は、過去の侵略戦争の清算を朝鮮との間でのみ積み残したまま今日に至っています。その朝鮮は、米日韓という3頭の猛獣に今にも襲いかかられるのではないかという恐怖感に襲われて満身の毛を逆立てているハリネズミなのです。弾道ミサイルの開発も、核実験も、なけなしのカネをはたいて身を守ろうとする弱者の「あがき」です。そういう視点さえ我がものにできれば、私たちの朝鮮観が大きく変わることは間違いありませんし、「北朝鮮脅威」論によって振り回されることはあり得ないのです。
 以上のいずれの要素に関しても、問題は相手にあるのではなく(アメリカの場合は、相手に期待するのは無意味で)、要するに私たちが主体的に物事に対処する能力を身につけることができるかどうかがカギだということです。特に日米関係についてつけ加えれば、日本が決然として人権・デモクラシーの立場に基づいてアメリカの権力政治にもの申す存在に生まれ変われば、アメリカは慌てふためくでしょう。私たちには日本国憲法という確実な基軸がありますから、堂々とアメリカと渡り合えるはずです。私たちが原爆体験を基にしてアメリカの核固執政策を批判する時、はじめて世界的な核状況を改めさせる国際的な機運を作り出すことができるのです。このことは原発問題にもそっくり当てはまります。人権・デモクラシーを価値基準に据えた経済政策を展開する日本は、アメリカとしても無視できなくなるはずです。
 要するに、私たち(日本国の主権者)自身が変われば、日本の政治を変えることができます。日本が変われば、アメリカを変えることができ、日中・日朝関係も大きく転換させることができます。日米・日中・日朝関係が変われば、東アジア情勢も大きく変わる、ということです。結論:私たち自身を大きく変えなければ、何ごとも始まらないのです。

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