非核三原則と民主党政権

2012.03.31

*野田・民主党政権は消費税増税に向けてなりふり構わず突っ走ろうとしていますが、彼らにとっての「チャンス」さえあれば非核三原則を骨抜きにする(アメリカの「核の傘」への依存を強める)機会を虎視眈々と狙っている点で、「第二・自民党」という本質を今ひとつさらけ出しています。この点についてはすでに、核密約問題がマスコミで大きく取り上げられた時期(2010年)にこのコラムでも何度も取り上げたのですが、「核抑止論」について原稿を書く際に、非核三原則問題についても執筆する機会がありました。民主党政権は、「北朝鮮脅威」論を悪用して核抑止論を振り回し、その関連で非核三原則の骨抜きを図ろうとしている点で、私たちとしては結びつけてみる視点が必要だと思いますので、書いた原稿を紹介しておきます(3月31日記)。

<非核三原則の由来>

 「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」といういわゆる非核三原則を日本の核政策として最初に公式に表明したのは、1968年当時に自民党政府の首相だった佐藤栄作です。今日ではこの原則だけが一人歩きしている感じがありますが、佐藤首相は当時、核廃絶・核軍縮、対米核抑止力依存、原子力の平和利用という従来からの政策に加え、非核三原則をいわば付け足す形で「4つの柱からなる核政策」を唱えたというのが正確な事実関係です。平たく言えば、日本の安全保障を日米核軍事同盟に委ねるという戦後保守政治の基本政策は動かさない、しかし、いわゆる政治的考慮から非核三原則を口にせざるを得なかったということなのです。では、その政治的考慮とは何だったのでしょうか。
 端的に言えば、それは広範な日本国民の間で共有されていた反核感情の重みを無視できないということでした。反核感情と言いますと、「唯一の被爆国」という私たち日本人にとっての常套句の元となった、広島及び長崎に対する原爆投下を連想する人が多いでしょう。しかし厳密に言うと、多くの日本人の反核感情の出発点になったのは、1954年の第五福竜丸事件(マグロ漁船の第五福竜丸がビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験によって被爆し、乗組員の一人が死亡した)をきっかけにして東京都杉並区の主婦たちが始めた水爆禁止署名運動でした。それまでは、日本を占領していたアメリカ軍による隠蔽工作により、広島及び長崎は10年近くも国民の意識に上らなかったのです。この署名活動が原水爆禁止署名運動として全国に広がり、翌年の原水爆禁止世界大会へと結実する過程で、ようやく広島及び長崎の記憶が呼び起こされ、「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ、ノーモア・ヒバクシャ」が当時の国民的な反核感情のコンセンサスとなっていったのです。
 国民的な反核感情は、佐藤首相が自らの政治生命をかけてとり組んだ沖縄の施政権返還問題の成り行きに大きな影響を及ぼしました。返還前の在沖縄米軍基地には核兵器が持ち込まれ、配備されていたことは公知の事実であり、核兵器の配備が行われていないとされていた本土と同じ状態で返還を実現できるかどうか(「核抜き本土並み返還」)が最大の政治的な争点となったのです。対米交渉の初期の段階では対米配慮から態度を曖昧にしていた佐藤首相でしたが、国民的な反核感情を背景にした国会論戦での圧力に抗しきれず、最終的に非核三原則を沖縄にも適用するという形で核抜き返還にコミットしたのです。
このように非核三原則は、国民的な反核感情と自民党政府の日米核軍事同盟堅持政策との間の「折り合いをつける」という、政権側からする政治的妥協の産物としての性格をはじめから色濃く帯びており、佐藤首相以下の自民党政権が進んで取り上げたものではありません。そのことが、これから述べるような深刻な問題を生むことになったのです。

<非核三原則と「核の傘」との間の矛盾と核密約>

 日本が独自に核武装するべきだとする主張は、一部の保守政治層の間で早くから唱えられてきました。現実に、日本の核不拡散条約(NPT)加盟(1970年署名、1976年批准)の是非が政治的な議論を生んだ背景には、日本独自の核武装の手を縛る条約に対する抵抗感が一部の保守政治家及び外務省の間で働いていたことが分かっています。しかし、日本独自の核武装への動きを警戒するアメリカとの関係を良好に保つことを優先した歴代自民党政権は、日本の安全保障をアメリカの「核の傘」(拡大核抑止力)を含む日米軍事同盟に依存する政策を取りました。したがって、核兵器を「持たず」「作らず」という点はもともと重大な障害ではなく、非核三原則にかかわる問題は核兵器を国内に「持ち込ませず」という点にあったのです。それはどういうことでしょうか。
ちなみに、これからの議論はとりあえず、核抑止・拡大核抑止という考え方に立つ側の主張を前提とすることをお断りしておきます。というのは、「持ち込ませる」「持ち込ませない」の議論は、この考え方を前提にしたときにはじめて出てくるものだからです。つまり、核抑止・拡大核抑止という考え方がそもそも成り立たない(その点については別項で明らかにしました)ことを前提にすれば、核兵器の国内への持ち込みはあり得ないという結論は自明だからです。なお、日本は非核三原則を堅持し、アメリカの「核の傘」、日米核軍事同盟を清算すべきことについては、この項の最後で改めて明らかにします。
 まず、核抑止論を肯定しながら核兵器の持ち込みは認めないとした佐藤政権以後の日本政府の立場がいかに支離滅裂な代物であるかを見ておく必要があります。そのため、かつては日本と同じようにアメリカの「核の傘」(拡大核抑止力)によって安全を図る立場を採用していた北大西洋条約機構(NATO)の場合を見ることにしましょう。
NATOは、ソ連の軍事的侵攻をアメリカの核戦力によって抑える(抑止する)、また、抑止力が働かなくてソ連が侵攻してきた場合には、アメリカの核報復力によって対抗し、撃退するという政策を採用していました。この場合、NATO諸国にとっての最大の懸念材料は、アメリカがいざという時に核戦争を賭して(自らが核被害を被って)でもNATO諸国を守り切る覚悟があるかどうかについて確信を持てない(いざという時になれば、アメリカは自らの安全を優先し、ソ連と手を打ってNATO諸国を見殺しにするのではないか)ということでした。その懸念を払拭し、アメリカをして日和って、逃れようとすることがないようにするためにNATO諸国が行ったのは、いわば人質として米軍の欧州駐留を受け入れるのみならずアメリカの核兵器のNATO諸国への配備(「持ち込み」)をも認めるというギリギリの決断でした。
つまり、自らが核戦争の当事者になる(欧州が核戦争に晒されて灰になる)という最悪の事態を受け入れるという不退転の決意を代償に、アメリカに対してNATO諸国との一蓮托生の運命を受け入れる決意を迫ったわけです。アメリカの「核の傘」によって安全を確保するという政策は、このように自らの生存そのものをまな板に乗せる悲愴なまでの覚悟を伴ってのみ政策として成り立つというのがNATO諸国の理解でした。今の私たちには想像もつかないことですが、当時のNATO諸国にとって、欧州正面におけるソ連の軍事的な脅威はそれほどリアルで深刻なものと受けとめられていたのです(当時の日本でも「ソ連脅威論」はありましたが、極東におけるソ連の軍事力は大したものではなく、日本国内を覆っていたのはむしろ抽象的な「共産主義(アカ)の脅威」という感覚でした)。
 正確を期するためには、アメリカ側の立場も理解しておく必要があります。アメリカがNATO諸国に核兵器を配備する政策をとったのは、その核戦略の変化に伴うものでした。
1950年代のアメリカでは、「ソ連が侵略戦争を仕掛けてくれば、アメリカの圧倒的な核戦力で対抗するぞ」という威嚇で押さえ込む政策(大量報復戦略)が採用されました。しかし、ソ連が急速にアメリカに匹敵する核戦力を備えるに伴い、この戦略では政策的な柔軟性を期しがたいという認識がアメリカに生まれました。つまり、核大量報復とは取りも直さず全面的核戦争を意味しますから米ソ共滅という結果しかないわけです。そこで1960年代に入ってアメリカが採用したのが、ソ連の攻撃に対して段階的に反撃をエスカレートしていく選択肢を確保する(最初は戦術核兵器を、それでもソ連が攻撃をやめないときには戦域核兵器を使用するという段階を踏むことでいわば時間稼ぎをする)ことで、全面核戦争の破局に至る前に事態を収拾する可能性を生みだすという政策(柔軟反応戦略)でした。
要するに、NATO諸国への核「持ち込み」の軍事的意味に関しては、アメリカとNATO諸国との間には思惑の違いがあったのです。
しかし、私たちがしっかり確認しておく必要があるのは、「核の傘」(拡大核抑止)という考え方が政策として成立する前提条件は、受け入れ側(NATO諸国)にも提供側(アメリカ)にも核戦争という最悪の事態を織り込む厳しい覚悟・決断が要求されるということです。そのことと比較した場合、佐藤首相が言いだした非核三原則はどういう意味を持っていたでしょうか。
アメリカの「核の傘」に頼って日本の安全を図るということは、アメリカの立場から言えば、日本がほかの国から侵略・攻撃される場合には、アメリカは核戦争(自らが核攻撃に晒されること)を賭してでも日本を防衛するということです。したがって当然のことながらアメリカとしては、日本がそれに見合うだけの覚悟(つまり、日本も核戦争という最悪の事態を自ら引き受けること)を求めることになります。上記の柔軟反応戦略からすれば、アメリカが日本に核兵器を配備すること(「持ち込み」)で政策的選択肢を多様に確保することを日本が受け入れることは不可欠です。沖縄返還に応じる前提としてアメリカ側が具体的にあくまでこだわったのは、有事における沖縄への核兵器の持ち込み(再配備)に日本側からの約束を取り付けることでした。
沖縄返還という脈絡の中で非核三原則を打ち出した佐藤首相としては、有事に際しての核兵器の沖縄への持ち込みに唯々諾々と応じるわけにはいきませんでした。そもそも国民的な反核感情から言って、核戦争という最悪のシナリオを口にすること自体が政治的自殺以外の何ものでもないことは明らかでした。
しかし、非核三原則を言いながらアメリカの「核の傘」に頼るということが実際に意味することは、「自分(日本)は核戦争の埒外に居たい。しかし、アメリカは核戦争が降りかかることを覚悟してなお日本の安全を守ってくれ」というに等しいものです。アメリカからすれば、そんな身勝手な日本とはまともにつき合ってはおられず、沖縄の返還などとんでもないことでした。そこで佐藤首相が取ったのは国民をだますという最悪の手法、いわゆる「核密約」でした。つまり、佐藤首相は核の「持ち込み」を認めないとする非核三原則を政策として公表した(1968年1月)わずか2年弱の後に、ニクソン大統領とのトップ会談で有事の際の沖縄への核兵器「持ち込み」を認める秘密の約束(1969年11月)をしたのです。
ちなみに、核兵器の「持ち込み」に関しては、もう一つの「核密約」があることも確認しておく必要があります。それは日米安保条約のいわゆる事前協議制度にかかわるものです。返還前の沖縄と異なり日本本土への核兵器の持ち込みはないとされていた、と前に述べましたが、「とされていた」という点に注目する必要があります。本当はどういうことであったかと言えば、日本政府(外務省)は国民に対しては核兵器の「持ち込み」はないと一貫して説明していたけれども、実は「持ち込み」はあったのであり、日本政府(外務省)はこの事前協議制度を悪用して「クロをシロと言い抜けていた」のです。もう少し詳しく説明しておきましょう。
まず、事前協議制度とは何かということです。日米安保条約には付属したいくつかの取り決めがあります。その一つが、在日米軍の日本での装備に関する「重要な変更」をアメリカが行おうとするときは、事前に日本政府と協議しなければならない、とするものです。核兵器の持ち込みは装備の重要な変更に当たり、したがって事前協議の対象になることについては日米間で了解されていました。
問題は「何が持ち込みに当たるか」ということです。この問題に関しては国会論戦での錯綜する経緯があったのですが、特に問題となったのは、核兵器を搭載する米艦船が日本に入港する場合あるいは日本の領海を航行する場合も「持ち込み」に当たるか、ということでした。最終的に日本政府は反核世論に押される形で、このようなケースも「持ち込み」に当たる、したがって事前協議の対象になる、と答えたのです。
ところがアメリカ側は、核兵器の「持ち込み」に当たるのは陸揚げする場合であって、核兵器搭載艦船が入港したり、日本の領海を通過したりするケースは「持ち込み」に当たらないという理解でした。英語でいえば、「持ち込み」とはintroductionであり、単なるentryは含まれない、としていたのです。
実はごく初歩的な軍事常識からいっても、核兵器を積んだ艦船が日本の領域に入る前に洋上で核兵器を積み卸しするなどということはあり得ないことです。日本政府の上記の立場には根本的に無理があることはあまりにも明らかでした。
  一言附言しますと、米ソ冷戦が終結した1991年9月にアメリカは、水上艦艇と攻撃型原潜に搭載していた戦術核兵器を平時には撤去する政策を採用しましたので、そのかぎりでは上記問題(核搭載艦船の日本への入港及び領海通過という問題)は実際的に解消することになりました。しかし、オバマ政権のもとでこの政策が再検討されることとなり、民主党政権にとってこの問題がふたたび浮かび上がってきています。その点は後述します。
話を元に戻します。次に、それでは米艦船による核兵器の持ち込みはないとする立場を通すために日本政府(外務省)は何をしてきたのかということです。長い経緯をはしょって結論だけを言いますと、「アメリカ政府が核兵器の持ち込みについて事前に協議を提案してくれば、日本政府は非核三原則に基づいてノーと答える。しかし、アメリカ政府が事前協議を持ちかけてきたことはない。したがって、アメリカが核兵器を持ち込むことはあり得ない。」という主張を行ってきたのです。
このような主張がまったく真面目な議論にも値しないバカバカしいかぎりの代物であることは、事前協議の提案はアメリカだけの特権ではなく、日本側にも認められた権利であることからあまりにも明らかです。国民的な疑問を正すことに誠意をもって対応する政府であるならば、アメリカ側からの事前協議申し込みを待つまでもなく、日本側から持ち込みが行われていないかどうかを正すための事前協議を申し込めば直ちに答えは出るはずです。政府(外務省)としては、自ら墓穴を掘ることはできませんから、以上のような苦しい言い逃れで終始してきたのです。
きわめて不自然なのは、国会論戦ではその点に関する「突っ込み」が野党側から行われることもまたついぞなかったことです。また、国民「世論」においても、日本政府の言っていることは「眉唾」だという意識は広範に持たれてきたのですが、「くさいものには蓋」的な感覚(下手に藪をつつけば、非核三原則そのものの見直しという方向に議論が持って行かれかねないという懸念)が働いて、そのことが物事を表沙汰にすることを妨げてきました。
この項を終えるに先立って、もっとも根本的な問題に触れておかなければなりません。「非核三原則か「核の傘」か」という問題の根底には「日米安保・軍事同盟を終了するか、それとも堅持するか」という問いかけが潜んでいます。そのさらに根っこには「平和憲法か日米安保か」という、主権者である私たち国民が日本の平和と安全をどのように主体的に構築するのかという根本的な問題が横たわっています。
ところが、私たち主権者・国民の圧倒的多数は、1950年代まではともかく、1960年のいわゆる安保闘争を最後に、「安保も憲法も」「アメリカの「核の傘」も非核三原則も」という自己分裂以外の何ものでもない「現実」に甘んじて身を置いてきたのです。要するに、NATO諸国におけるような厳しい認識・問題意識は、日本政府・外務省も多くの国民もともに回避して直面しようとはしなかったのでした。このような状況が続くかぎり、日本世論における平和と安全にかかわる問題意識はいつまでたっても幼稚な次元に押しとどめられ、私たち主権者・国民が日本の平和と安全の真の舵取り・政治の主人公となることは「百年河清を待つ」ということになってしまいます。

<核密約と民主党政権>

 非核三原則と「核の傘」という自己矛盾は早晩、政府または主権者・国民のいずれかによって問い直される運命にありました。そして先手を取ったのは国民ではなくて政府の方だったのです。そのために彼らがふんだんに利用したのが「北朝鮮脅威論」であり、「中国脅威論」でした。
即ち、朝鮮半島非核問題を扱う6者協議におけるアメリカの姿勢に反発して朝鮮が核実験に踏み切り(2006年以後)、また、中国が、飛躍的な経済発展を背景にして、日米軍事同盟の変質強化に対抗するべく軍事力強化を進めることに対して、日本国内では「北朝鮮脅威論」「中国脅威論」が盛んに煽られるようになりました。そして、これらの脅威に対抗するためにはアメリカの「核の傘」(拡大核抑止力)に頼ることはますます必要だとする主張が力を強めてきたのです。時期をほぼ同じくして、オバマ政権のもとで核政策の見直し気運が高まってきたこと(同盟国への拡大核抑止政策の適用及びその一環としての戦術核兵器の米艦船への再配備を含む)も日本国内における非核三原則見直しの主張を強めるものでした。
 皮肉としか言いようがないのは、この主張を手助けするきっかけになったのは、日本が非核三原則を堅持するべきだという立場のジャーナリスト(共同通信記者)が行った核密約の存在を暴露する報道(外務省の4人の次官経験者がアメリカの核兵器持ち込みに関する日米間の密約があったことを明らかにしたもの)でした(2009年6月)。「北朝鮮脅威論」「中国脅威論」が国民の間に浸透しつつある状況に手応えを得ていた民主党政権(2009年9月成立)・外務省は、この報道を奇貨として、非核三原則の束縛を取り払い、核のタブーを打ち破るという長年にわたる宿願実現に乗り出したのです。私は確かな、動かぬ証拠を持ち合わせているわけではありませんが、これら外務省次官経験者の発言の意図も、このジャーナリストの狙いとは反して、非核三原則と「核の傘」との間の矛盾を非核三原則の見直しの方向で「解消」することにあったことは間違いないと思います。
 同年9月に政権を握った民主党政権は、「有識者」委員会による核密約の事実関係の究明に乗りだし、2010年3月(9日)に同委員会による報告書の発表によって、核密約が、日米軍事同盟(対米核抑止力依存)と非核三原則との絶対矛盾を取り繕う政策的な産物だったことを明らかにしました。そしてその直後(3月17日)に岡田外相(当時)は、衆議院外務委員会における答弁の機会を利用して、佐藤首相による核密約を含め、歴代自民党政権が核密約を行ってきた「苦渋の決断」に理解を示すにとどまらず、「一時的寄港や領海通過についても…非核三原則の対象にする(こと)を危うくするような状況、例えばアメリカの核戦略が変わるというようなことになれば、それはお互い矛盾があらわになるわけですから、そのときにはしっかりと議論が必要になる」と述べ、さらに「緊急事態ということが発生して、しかし、核の一時的寄港ということを認めないと日本の安全が守れないというような事態がもし発生したとすれば、それはそのときの政権が政権の命運をかけて決断をし、国民の皆さんに説明する」、「本当にぎりぎりの局面になれば、…それは国を、国民の命をどう守るかという話でありますから、そのときの政権がぎりぎりの判断をどうするか、大事なことは、きちっと国民に説明する」と述べて、「核の傘」を優先して非核三原則を見直す可能性に公然と足を踏み入れたのでした。
 私が理解するかぎりでは、これまでのところでは、民主党政権の公式な立場はこれ以上の深入りをしていないと思います。しかし、民主党政権はオバマ政権のもとでのアメリカの核戦略・政策の見直しがどのように進むかにきわめて大きな関心を持っていることは間違いありません。そして、将来的に非核三原則を見直す立場に立っていることも間違いないことでしょう。自民党政権が消費税増税に踏み込めなかったのに対して、野田政権がいとも軽々とのめり込んでいる事態は、非核三原則(さらには平和憲法そのもの)の命運を考えるときにもきわめて暗示的だと言わなければなりません。私たち主権者・国民が日本の平和と安全に関して主体的な判断と決断を行うことが迫られるのは時間の問題です。これまでのようないい加減な対応で思考停止を続けるのであれば、重大なツケが回ってきます。

<非核三原則堅持の立場・政策こそが正解>

 核抑止論・拡大核抑止論及びその政策は21世紀の今日完全に破産していることについては別項で詳しく説明しました。そのことを前提として、ここでは非核三原則を堅持し、日米核軍事同盟を清算することこそが私たち主権者・国民の取るべき立場であり、政策であることを明らかにしておきたいと思います。
 まず、非核三原則は私たち国民が広島・長崎・第五福竜丸の体験から学びとった「人類は核兵器と共存できない」という歴史的かつ普遍的な真理を体現したものである、ということです。原体験から生みだされた反核感情は素朴なものですが、私たちの平和的生存のあり方を考える場合の国民的出発点なのです。「核兵器に依拠した平和」(核抑止論)という考え方は、根源的に私たちの平和のあり方に関する認識とは矛盾します。既に述べましたように、「非核三原則」という定式化そのものは自民党政府によって作り出されたものですが、核兵器を「持たず」「作らず」持ち込ませず」という内容は反核感情に立つ国民的コンセンサスを表しています。なによりも重要なことは、非核三原則は圧倒的多数の国民によって支持されているということです。
 次に、非核三原則は、日本国憲法の拠って立つ原則である平和主義を具体化したものであるということです。特に第9条の戦争放棄及び戦力不保持という徹底した内容は、侵略戦争に対する反省とともに、核兵器の登場によって戦争概念が一変した(「政治の延長・継続・手段」としての伝統的な位置づけがもはや維持できなくなった)という人類史を画する認識に由来するものです。したがって、非核三原則は憲法の不可分な一部を構成するものであるととらえるべきです。
歴代自民党政権は、非核三原則は「国是」であり、基本政策であるとして、その法制化には一貫して抵抗し、難色を示してきました。それは、非核三原則の法的性格(拘束力)を認めると、対米核抑止力依存政策を堅持しようとする立場が縛られるという警戒感に基づくものでした。逆に、非核三原則の法制化を主張する私たちの狙いが自民党政権の核政策の矛盾を突き、日米軍事同盟の非核化・脱核化を実現することにあったことは紛れもない事実でした。
しかし、私の以上のような理解からすれば、非核三原則及びその内容は憲法第9条そのものに由来するものであり、その不可分の一部を構成するものです。そういうものとして本来的に法規範としての性格を持っているのです。それを改めて法制化するというのは、厳密に言えば、法規範性を念のために確認しておくという意味を持つに過ぎません。もちろん、以上に述べた自民党政権の立場を勘案すれば、非核三原則を法制化することは決して無意味ではありません。しかしくどいようですが、厳密な理解としては、非核三原則は法規範としての性格を持っている、それを更に法制化するというのは確認的意味合いにおいてのみ政治的な意味がある、と理解することが妥当です。
日本が非核三原則を堅持することはさらに、国際的に非核化の流れを生みだし、促進するために重要な意義があります。私たち主権者・国民が日米核軍事同盟に固執してきた戦後保守政治に引導を渡し、平和憲法及び非核三原則を根底に据えた「力によらない」平和観に基づく対外政策を実行するならば、それは「力に基づく」平和観に立つアメリカの対外政策に対する痛撃を与えることは間違いありません。また、国際的な反核世論を鼓舞することになります。
最後に、一点だけ断っておく必要があります。非核三原則はもっぱら核兵器にかかわるものですが、私たちは核兵器を含む核廃絶を追求しなければならず、非核三原則を核廃絶の一部として位置づける必要があるということです。「人類は核兵器と共存できない」だけではなく、チェルノブイリ、福島第一原発の事態が示していることは、「人類は核と共存できない」という真理なのです。この問題については、別項で扱いましたので、ここでは問題点の確認にとどめます。

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