在日米軍(在沖米海兵隊)は抑止力?

2012.03.03

*私が外務省で働いて、安全保障問題に関心を持っていた時期(1963年-1988年)には、「抑止力」といえば「核抑止力」と同義であり、「抑止論」は「核抑止論」と同義でした。そういう私の感覚からしますと、「在日米軍は抑止力である」とか、「在沖米海兵隊は抑止力である」とかの言説が大手を振ってまかり通っている今日の状況は摩訶不思議というか、およそ理解不能であるというのが正直なところです。
 しかし、そういうふうにしか思えない自分は時代遅れになっているのではないかと思うようにもなりました。そして、そもそも、なぜ外務省時代の私には「通常戦力による抑止」という問題が視野に入ってこなかったのだろうか、もっと端的にいえば、米ソ冷戦時代にもこの問題は論じられていたのであって、核抑止の問題に目を奪われていた私は見すごしていただけだったのではないか、ということが気になってきました。そこでネット検索をかけてみたところ、核抑止(Nuclear Deterrence)と対比されるものとしての非核抑止あるいは通常抑止(Conventional Deterrence)に関する論述をいくつか見つけることができました。とくに参考になったのは次の3つの論文でした。
〇William S. Huggins, "Deterrence after the Cold War: Conventional Arms and the Prevention of War"'Air Journal'Summer 1993
 この論文(以下「論文①」)は、米空軍の少佐である著者が湾岸戦争から3年後の時点で、核抑止力に「頼らない」抑止の可能性について否定的・批判的な立場から問題提起したものです。公表を承認され、配布制限なしとの紹介がありますので、当時の米軍部(少なくとも空軍)は、この論文の内容に抵抗感はなかったのだろうということが推定されます。このことは、これから紹介しますように、論文①の議論が通常抑止の概念・考え方には批判的・否定的であるが故に、留意するべきことだと思います。少なくとも1993年当時には、通常抑止の概念はまだアメリカの政策として確立したものではなく、むしろ論争的な概念だったことが理解されるのです。
〇Shireen M. Mazari, "Concept & Nature of Conventional & Nuclear Deterrence"'Defence'November 2000
 この論文(以下「論文②」)は、パキスタンの雑誌(当時の政府系。ただし、この論文はネットでヒットしましたし、その出所である2000年11月号の雑誌の紹介ページにまでは戻ることができましたが、当時の大統領の失脚を受けてか、HPそのものは削除されていました。)に載った、パキスタンの立場からの論述なのですが、「核抑止」と「通常抑止」とを比較し、両者を同日に論じることには根本的に無理があることを指摘している点で参考になりました。
〇Michael S. Gerson, "Conventional Deterrence in the Second Nuclear Age"'Parameters'Autumn 2009
 この論文(以下「論文③」)は、ブッシュ政権下での通常戦力をも含めた「戦略的抑止」の概念をも踏まえたもので、現在米日で大手を振ってまかり通っている「通常抑止」の考え方を無条件で肯定する立場で書かれた論文です。ガーソンは、連邦予算による研究機関であるthe Center for Naval Analysesのリサーチ・アナリストという紹介がありました。
 私の上記問題意識に即して、これら三つの論文を熟読した上での結論をいいますと、①「通常抑止」という考え方は元々からあったわけではない(私が「現役」時代に意識しなかったのは私の不注意のせいではなかった)、②「通常抑止」という考え方は1990年代に入ってから(特に1991年の湾岸戦争を契機に脚光を浴びることになったアメリカのハイテク戦争以後)の、アメリカによる優れて政策的な「産物」である、③「通常抑止」と「核抑止」とは同次元で論じるべきものではないし、核戦力の正当化として編み出された「抑止」の考え方(抑止論者にとっての最大の「売り」は、核兵器が持つ途方もない破壊力ゆえに対処しようのない戦争を起こさせないという意味での「抑止力」という点にあります。) を通常戦力に当てはめることにはそもそも無理がある (通常戦力はあくまでも「対処可能な戦争に備える」ことに主眼があり、戦争を起こさせない「抑止力」を本質的に具えていない) 、したがって、④在日米軍 (在沖米海兵隊は言わずもがな) を「抑止力」として正当化する「通常抑止」概念は、アメリカの軍事力を海外に展開することを正当化するために編み出された、せいぜい「後付け」の議論でしかない、ということです。
 もちろん、以上のように言うことは、「核抑止論」を肯定するということではまったくありません。ここでハッキリさせるべきことは、核兵器正当化の論拠として使われてきた「抑止力」論を暗黙の前提としてまかり通ってきた、通常戦力である在日米軍(在沖米海兵隊)も核戦力と同じように「抑止力」となっているという主張は、そもそもの「抑止力」論に即しても成り立ち得ない、ということなのです。「核抑止論」そのものが成り立ち得ないとする私自身の考え方は、これまでにも機会があるたびに示してきたつもりですし、今ある本の出版のための一つの項目として執筆中ですので、執筆が完成した段階でこのコラムでも紹介するつもりをしています(3月3日記)。

<「通常抑止」は新しい概念である>

 論文①の冒頭3パラグラフの記述は、「通常抑止」という概念が米ソ冷戦後のまったく新しい産物であることを物語るものです。長いですが引用します(強調は浅井)。

 過去36ヶ月(浅井注:湾岸戦争後の本論文執筆までの期間)の大変な出来事によって、戦略家及び対外政策研究者は、過去40年間にわたって国際安全保障問題の分析において前提となってきた根本的な立脚点を再検証することになった。抑止は、冷戦の二極世界を形作った安全保障関係における支配原理だった。戦略核兵器は、世界の二つのイデオロギー的巨人の間の膠着状態において鍵となる兵器だった。戦略核兵器の管理における進展が加速するとともに、アメリカの軍事戦略家及び国家安全保障政策決定者の注目は通常兵器に戻ってきた冷戦期において抑止という大戦略がいかに成功を収めたとはいっても、軍事戦略の最終点は抑止にあるというような思い込みはしてはならない。制服組であると否とを問わず、抑止に基づいた冷戦時代の大戦略は、少しの調整を加えることによって冷戦後の世界にも効果的に移行することができるとするものもいる。  我々は、封じ込め戦略及びその土台である戦略的核抑止が成功したということに惑わされてはならない。確かに核兵器はかなりの期間にわたって危険な存在であり続けるだろう。核兵器が脅威である限り、戦略的核抑止という要素は重要であり続けるしかし、これらの要素は、通常紛争の脅威が支配的な状況における戦略には効果的に移行しない。  通常戦力における技術的精巧化及びその統合的運用は、湾岸戦争における驚くほどの勝利を可能にした。核兵器の重要性が明らかに低下しているが故に、我々はハルマゲドンの脅威に基礎を置く抑止戦略に対する依存を再考しなければならない。抑止の基本的諸要素は、主に通常兵器に基礎を置く戦略に効果的に適用できるのか。そういう戦略は抑止するために何を必要とするのか。通常戦力の果断な採用によって起こりうべき紛争を防止することができるか

 ちなみに、論文②も、次のように述べており、冷戦期における抑止理論が核抑止論であったことを認めています。

 抑止理論は、冷戦の核兵器競争を背景にして発展し、核紛争防止に集中していた。学術研究と公の議論のほとんどは核戦争防止にかかわっており、抑止は核兵器と同義になった…。

 以上から直ちに明らかなように冷戦期においては、「抑止=核抑止」でした。しかし、核管理交渉の進展も背景に、米ソ冷戦終結後、特に湾岸戦争を契機に通常紛争及び通常戦力の重要性がアメリカ国内で再認識されるなかで、核抑止の考え方を通常紛争及び通常戦力の分野に「効果的に適用」することはできないかという問題意識が生まれてきたというのです。したがって、この論文では「通常抑止」という概念は肯定的な意味では使用されるに至っておらず、むしろ有効性を否定されるべき概念として扱われていることを見逃すべきではないでしょう。 むしろ論文①は、その執筆意図は「核兵器の抑止効果、就中戦争防止のための核兵器使用という脅迫は通常兵器にはコピーできないこと、及び、冷戦終了及び結果としての核兵器の重要性の低下により、抑止はもはやアメリカの大戦略の要とはなり得ないことを明らかにすることだ」としています。つまり、核兵器に関して編み出された「抑止」概念は通常兵器には当てはめることはできないし、通常戦争に重点が移行するなかでは「抑止」概念そのものが影が薄くなると言っているのです。
論文①にとっては、抑止概念を通常兵器にコピーできないのは自明なことです。なぜならば、核兵器は本質的に攻撃的であり、相手に対して壊滅的打撃を与える能力を持っているという点において「恐怖の政治的道具であって、戦争の軍事的道具ではない」のです。つまり核兵器は、誰もが堪え忍ぶことができない戦争という脅迫によって、戦争そのものを回避する(抑止する)という目的を達します。しかし、通常兵器にはこの属性はありません。「通常兵器による戦争は程度の問題である」のです。つまり、全面的な通常戦争といえども、核戦争におけるような「迅速かつ壊滅的結果」という脅威を持ちえないのであり、戦争しようとするものは、勝利は望めないとしても、交渉で何かを獲得できるという計算のもとに戦争のリスクを取ることはあり得るのです。論文①は指摘していませんが、サダム・フセインの行動が正にこのケースでした。論文①はまた、「先進工業国ですら、熱心ではないとしても、損害を被るリスクを冒してでも通常戦力を動かす用意があることを明らかにしてきた」と指摘しています。この実例に関していえば、私たちはNATOの軍事力の「域外適用」において数多く見ています。
論文①の結論は次の一節で終わっています。以上の議論からすれば、いわば当然の結論であると言えるでしょう。

 我々は、戦略の基本問題を解決しなければならない。というのは、妥当な戦力構造の選択はこのこと次第だからだ。アメリカの利害に対する最大の脅威が主要な地域的通常紛争から来るという広く共有された確信からすれば、通常兵器による強力で柔軟な戦力構造という議論に説得力がある。主として通常戦闘の脅威に対処するべく設計された国家軍事戦略は、戦争防止の抑止アプローチではなく、戦争遂行の強制アプローチに集中するべきである。

<「通常抑止」はアメリカの政策的産物である>

 通常抑止に否定的な論文①に対して、2009年に執筆された論文②は、通常抑止を全面的に肯定する立場から書かれています。この論文では、アメリカにおいて通常抑止の概念が如何なる経緯・経過を経て肯定的に位置づけられるようになったかについては触れていませんが、イラク戦争及びアフガニスタン戦争によるアメリカの軍事的窮状、「反抗的で軍事化する」ロシア、イランのウラン濃縮活動、北朝鮮の核兵器庫、中国における軍事的現代化を挙げて、「ますます多極化する世界にいては、敵を特定した抑止戦略が国家的及び国際的安全保障の主要な構成部分となるだろう」と述べています。また、それとともに、核兵器及び先進的通常兵器からなる"New Triad"(2001年にブッシュ政権が発表した「核態勢報告」("Nuclear Posture Review")で明らかにしたもの)、通常弾頭搭載ICBMの提案、Prompt Global Strike構想などを受けて、「先進的通常能力がかつては核兵器専属だった任務を担えるという確信の広がり」という変化についても指摘しています。その上で論文②は、「通常戦力がアメリカの安全保障戦略における核兵器の役割を低減することに役立つという点で多くの専門家は一致している」とし、「実際に、近年にはアメリカ軍部は、かつては大陸間の核兵器のみを対象としていた「戦略的抑止」という概念を広げて、核戦力及び通常戦力の双方さらには外交、経済及び情報手段をも組み込んだものとしている」と述べています。以上の記述から読みとることができるのは、21世紀に入ってから、アメリカ政府がハイテクに裏付けられた通常兵器のめざましい発達をアメリカの戦略の中に積極的に織り込もうとしてきているということです。
 しかし論文②はすぐに続けて、このような動きが「通常抑止の論理及び戦略を十分に考慮していない」と指摘します。そしてこの論文では「アメリカの抑止戦略における通常戦力の役割及び有用性」について議論を深めることを狙いとすると自らの立場を明らかにしています。つまり、論文②は、米ソ冷戦終了後のアメリカの軍事的世界支配力向上を目指すアメリカ政府の政策を正当化し、下支えするための理論的根拠を「通常抑止」という概念に求めようとしているわけです。「通常抑止」は、アメリカの政策的必要に促された産物である、とする所以です。
 論文②で特に注目を要するのは、「通常抑止」概念が「同盟国及び友好国を守るための戦力の脅迫と定義される、拡大抑止におけるアメリカの通常戦力の役割」と限定的に関連づけられていることです。具体的には、論文②は、台湾有事、朝鮮半島有事そして2008年にグルジアとロシアの間で戦われた戦争を挙げて、「領土を攻撃・侵略から守ることが中心的課題になる」としています。論文②は明確にはしていませんが、「通常抑止」の概念は、アメリカが世界に展開する軍事戦略を正当化するための論拠として位置づけられていることが明らかです。だからこそ、「在日米軍は抑止力」という議論がアメリカ発で鳴り物入りで宣伝されてきたというわけです。
 しかし、はっきり言いまして、論文②で展開されている「通常抑止」を肯定し、説得しようとする議論は、論文①で示された「通常抑止」に対する否定的見解及びその論拠に対して説得力ある反論をまったく行っていません。なによりも論文②にとって致命的である(と私には思われる)のは、通常抑止に関して抑止が失敗するときのことを常に考えざるを得ず、その場合には軍事力発動が当然だとしていることです。核抑止肯定論の最大の論拠は、抑止が失敗すれば想像を絶する核戦争になるという共通理解によって戦争の勃発が未然に防止されるということで、「平和を維持するために核抑止力が必要だ」ということだったわけです。「通常抑止」に関しては戦争になる事態を考えざるを得ないのですから、要するに「核抑止」と同次元における「通常抑止」という「抑止」は成立し得ないという結論は不可避だと思われます。
 論文②のより根本的な問題は、常に敵が戦争を仕掛けてくる場合を議論の出発点においていることです。これは正しく、アメリカ中心の天動説的国際観のなせる技ですが、現実には、中国にしても、朝鮮にしてもイランにしても、アメリカから仕掛けられてくる戦争に対して身構えているというのが実情であり、アメリカ国内で議論されている「通常抑止」の前提条件がそもそも存在しないということです。私たち日本人の多くも、日本的天動説国際観に毒されている(中国脅威論や朝鮮脅威論はその典型)ので、アメリカ的天動説を受け入れやすい素地があります。だから、在日米軍は抑止力だとか、在沖米軍は抑止力だとかの議論が俗耳に入りやすいのです。

<「核抑止」と「通常抑止」>

 論文③はかなり文字化けしていますので、全文を正確に読みとることはできないのですが、そのタイトルに直接かかわる部分で、次のような記述に私は注目しました。

 1カ国以上によって核能力の開発が行われて以後、核戦略の目的はこの能力の使用を防止することであったので、抑止こそは核戦略の主要な要素である。しかし、核抑止は文脈的に通常抑止とは違うものである。
 即ち、通常抑止は防衛と分かちがたく結びついているのに対して、核抑止は抑止と防衛とを区別しようとする。通常抑止は、拒否または懲罰に依拠する。後者においては、望まない行為(浅井注:こちら側による懲罰)のコストが得べかりし利益をはるかに上廻るようにさせることによって(そもそもの攻撃を仕掛けることを)抑止しようとする。前者においては、敵が目的を達成するために軍事力を行使できないと理解するレベルにまで我が方の戦争能力を組織することによって相手側の軍事的政治的目標の達成を拒否するのだが、それは作戦としては取りも直さず防衛と同義だ。しかし、拒否による抑止の場合においても、通常抑止が失敗すれば、国家としてはしかるべく相手を懲罰する能力を持つことになる。
 しかし、核抑止の場合は、もし実戦になった場合、政治的な目的そのものが無意味になってしまうだけの壊滅的な懲罰を与えることがポイントとなる。即ち、敵対が始まったときに、敵側に対して軍事的成功を(与えることを)拒否するよりも、厳しい報復を脅迫することによって敵側の行動を抑止しようとするのだが、その報復とは、絶対に実戦に移されないことを願っているわけだ。

 文章が晦渋です(私の翻訳能力の問題もあります)が、要するに核抑止と通常抑止を同日に論じること自体がおかしい、ということを指摘しているのだと思います。もっと端的に私の理解を交えていえば、核抑止は防衛(実戦)に追い込まれることを未然に食い止めることに主眼があるのに対して、通常抑止の場合は防衛(実戦)が常に実際上の可能性として考慮され、また、その用意を前提にしているということです。ですから、核抑止における中心的概念である「戦争を起こさせない(という意味での抑止)」という要素は、「通常抑止」においては中心的位置を占めていないのです。ですから、「通常戦力」による「抑止」ということは概念的にそもそも成り立たないのです。

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