イラン「核開発」に対する経済制裁の問題点を考える

2012.01.22

*日本国内においては、イランの「核開発」に対するアメリカ主導(EU協調)の経済制裁が、あたかも当たり前のことであるかのような報道が各メディア(共産党機関紙『赤旗』を含む。)で行われています。そして、こういう米欧諸国の措置に対してイランが身構えていることに対しては、イランによる海上交通の要衝・ホルムズ海峡封鎖の危険性のみを声高に、批判的に報道し、結局、私たちには「非はイランにあり、アメリカなどによる経済制裁は正しいのだ」という漠然とした、しかし牢固とした印象がなんとはなしにすり込まれるようになっているのです。
 私が今読み進め作業をしている丸山眞男は、大衆社会状況の下におけるマス・メディアの報道による人々の思考・判断に対する隠微な形での影響力とその危険性に対して早くから警鐘を鳴らしてきました。また、私が2011年度後期に広島市立大学大学院で非常勤講師として「国際関係と平和」を担当した際に教材として用いたジェームズ・メイヨール『世界政治』は、米ソ冷戦終結後に米欧諸国によって安易なまでに行われるようになった、民主主義に名を借りた介入(経済制裁を含む。)の危険性・欺瞞性に対して、歴史的に未成熟な発展段階にある国際社会の本質を踏まえた、傾聴に値する批判を展開しています。
 今回は、時事論として押し流されているイラン問題を題材として、私たちの国際情勢認識のあり方について考えておきたいと思います(1月22日記)。

1. 大衆社会状況下におけるデモクラシー

 丸山眞男は、戦後の極めて早い段階から、大衆社会状況におけるマス・メディアによる私たちの思考・判断に対する影響力行使の危険性を鋭く指摘しています(太字は浅井)。

 「洪水のような宣伝網の中にあって、ほんとうに自由に自主的に考えるということは口で言うよりも遙かに困難で、われわれが自主的に判断していると思っても、実は自己欺瞞であることが少くない。われわれは表面からくる宣伝には敏感になっているが、最も巧妙な宣伝というのは決して正面からは宣伝しない。…そういうふうにしてわれわれの「輿論」が、日々、新聞・ラジオによって養われていく。このような無意識的に潜在している心的傾向を利用する宣伝からわれわれの自主的判断を守ることは非常に困難である。」(『丸山眞男集』③ 「人間と政治」1948.2.)

「現代というのはつまりマスデモクラシーの時代ですね。‥現在の政治の納得させる仕方は、大規模な技術的手段を通じて、といふのはラヂオとか映画とか、街頭の拡声器とか或は新聞といつた様な伝達手段を通じて、民衆を大量的につかまへようとするわけです。益々コミュニケーションが発達してきますと、人間が昔のやうに、個人的に判断し決断するといふことがだんだん困難になる。いろいろ巧妙な手段での政治的宣伝がラヂオや新聞を通じてばらまかれる。十九世紀末までは、なんといつても人間相互の生活の間に空間がありましたから、個別的判断による納得を通じて政治を行はないと人民が動かないといふ要素が却つてあつたけれども、現在では一挙に、大量的に民衆の心理をつかまへうるし、これから益々デモンストレーションとか、さういつた大衆を大量的に動員する方法が発達して来ますから、納得による政治といふのも、ロックが考へたやうな意味でのラショナルなものではなくなつて来るわけです。…  …やつぱり機械文明の発展と共にどうしても人間の生活(デイリイ・)様式(ライフ)がだんだん画一化されてくるといふ傾向があるんぢやないか。例へば社会的事件についての価値判断にしてもインフォメーションを得る源泉がますます限定されるわけです。有名な新聞をみな読むわけですね。判断の基礎になるファクターが似てゐますからどうしてもだいたい似たやうな思考様式になつて行くわけです。明白に宣伝の形であらはれて来るものに対しては一応警戒しますけれども、事実として提供されたものに既にある選択が加へられてゐるとなると、それを看破することは容易でない。かういふ隠れた宣伝によつて気のつかないうちにある特定のものの考へ方を無批判的に受取つてしまう。これがむしろ現代デモクラシーの危険なんぢやないか‥。」(『丸山眞男手帳』52 「歴史と政治」1949.6.)

 これらの発言は、日本が第二次世界大戦に敗北した1945年8月からわずか2年ないし3年弱後という時点に行われていること、また、彼が「ラジオ」「街頭の拡声器」を引用していることからも直ちに明らかなように、テレビはおろか、インターネットをはじめとする今日の情報化時代到来の遙か前に行われたものであることを考える時、彼の炯眼には驚くほかありません。ちなみに丸山は、デモクラシー(彼は「デモクラシー」と「民主主義」を区別しないで互換的に使用しており、その点について私は疑問を抱いているのですが、ここでは深入りしません。)について終生鋭い問題意識を持ち続けたわけですが、特に大衆社会状況におけるデモクラシーのあり方(特にその移ろいやすさ、危険性)について突っ込んだ考察を行っています(彼は、大衆社会状況が現れる前の段階のデモクラシーを「近代デモクラシー」、大衆社会状況下のデモクラシーを「マス・デモクラシー」「現代デモクラシー」として区別しています。)。例えば次の文章を読めば直ちに明らかなように、丸山の現代デモクラシー(マス・デモクラシー)に対する見方は現代そのものに関する認識に由来していますし、したがって現代デモクラシーにおける私たちの主体性回復の方途に関する丸山の見解も今日なお傾聴に値するものがあるのです。

私達は「政治化」が進めば進むほど大衆の「非政治化」が顕著になるという矛盾が、いかに現代文明の本質に根ざしているかということをためらわずに認識して、そこから将来の打開の方向を真剣に考えて行かなければならないのです。
 「政治」の領域の未曾有の拡大および滲透をもたらした根本的な動力が生産力および技術・交通手段の飛躍的な発展であった‥が、それと逆行する大衆の非政治的受動的態度をはぐくむ地盤も実はやはり現代のいわゆる機械文明にあるのです。現代を機械文明とか機械時代とかいうゆえんは‥社会そのものの組織がますます機械化され、人間があたかも機械の部分品のようになって行く根本的傾向を指していうわけです。…現代の人間は昔のように家族とか部落とかいった「自発的」集団に全存在をあげて包まれているのではなく、むしろ、多数の目的団体に同時的に所属しておりますから、現代社会の「機械化」とともに、人間は四方八方からの部分品化の要請に適応するために、その人格的な統一性を無残に引き裂かれ解体される運命にあります。
 …こうして人格的な全体性を解体され部分品と化した人間に、どうして社会や政治の全般を見渡す識見と自主的判断が期待されるでしょうか。…新聞・ラジオ・テレビといった報道手段は‥いろいろの仕方で大衆の非政治化に拍車をかけています。マス・コミュの恐るべき役割は積極的に一つのイデオロギーを注入することよりも、寧ろこうして大衆生活を受動化し、批判力を麻痺させる点にあるといえましょう。…
こうして多忙な生活に追いまくられる現代人は職場において「部分人」となるだけでなく、家庭へ帰っても、大量的報道手段‥の圧倒的な影響下にさらされて、自発的な思考力を麻痺させられてしまいます。…現代文明は実にこのように、独自の個性と人格的統一性を喪失して、生活も判断も趣味、嗜好も劃一的類型的となりつつある夥(おびただ)しい「砂のような大衆」を不断に産み出しているのです。  現代民主政治がこうした原子的に解体された大衆の行使する投票権に依存しているところに、形式的な民主主義の地盤の上に実質的な独裁政が成立するゆえんがあります。大衆が日常的に政治的発言と討議をする暇と場所がなくなればなくなるほど、彼の政治的関心は非日常的、突発的となります。それだけに彼は容易に新聞の大見出しに興奮し、巷間のデマに忽ちまどわされます。…「砂のような大衆」は社会的実体として存在するというよりは、むしろ現代社会の人間が身分地位教養の如何を問わず持つところの或る行動(ビヘイ)様式(ビア)であり、資本主義の高度化はこうした行動様式をますます普遍化しつつあるということが出来ましょう。…
 民主主義を現実的に機能させるためには、なによりも何年に一度かの投票が民衆の政治的発言のほとんど唯一の場であるというような現状を根本的に改めて、もっと、民衆の日常生活のなかで、政治的社会的な問題が討議されるような場が与えられねばなりません。‥民間の自主的な組織が活潑に活動することによって、そうした民意のルートが多様に形成されることがなにより大事なことです。」(集⑤ 「政治の世界」1952.3.)

「デモクラシーの進展にともなって、従来政治から締め出されていた巨大な大衆が政治に参与することになったわけでありますが、巨大な大衆が政治から締め出されていく度合いが激しければ激しいほど、あるいはその期間が長ければ長いほど、多数の大衆の政治的成熟度は低い。大衆の政治的成熟度が低いと、‥言葉の魔術というものは、益々大きな政治的役割をもちます。つまり、それだけ、理性よりもエモーションというものが政治の中で大きな作用をするということになるわけであります。…言葉の魔術というものが横行するという現象があるとすれば、それは国民大衆に過度の政治的権利を与えすぎた結果ではなくて、ながらく大衆に政治的な権利を与えなかった結果だと私は思います。…
 …デモクラシーの円滑な運転のためには、大衆の政治的な訓練の高さというものが前提になっている。これがあって初めてデモクラシーがよく運転する。しかしながら反面、デモクラシー自身が大衆を訓練していく、ということでもあります。この反面というものを忘れてはならない。つまり、デモクラシー自身が人民の自己訓練の学校だということです。
 大衆運動のゆきすぎというものがもしあるとすれば、それを是正していく道はどういう道か。それは大衆をもっと大衆運動に習熟させる以外にない。つまり、大衆が大衆運動の経験を通じて、自分の経験から、失敗から学んでいくという展望です。そうでなければ権力で押さえつけて大衆を無権利にするという以外には基本的ないき方はない。つまり大衆の自己訓練能力、つまり経験から学んで、自己自身のやり方を修正していく-そういう能力が大衆にあることを認めるか認めないか、これが究極において民主化の価値を認めるか認めないかの分れ目です。つまり現実の大衆を美化するのではなくて、大衆の権利行使、その中でのゆきすぎ、錯誤、混乱、を十分認める。しかしまさにそういう錯誤を通じて大衆が学び成長するプロセスを信じる。そういう過誤自身が大衆を政治的に教育していく意味をもつ。これがつまり、他の政治形態にはないデモクラシーがもつ大きな特色であります。…つまり、民主主義自身が運動でありプロセスであるということ。…その意味でデモクラシー自身が、いわば「過程の哲学」のうえに立っております。」(集⑦ 「政治的判断」1958.7.)

 もっとも丸山のこの炯眼は、彼が「イカレテいる」ことを公言してはばからなかった福沢諭吉に学んだものであることは、丸山自身が認めています。そして、福沢自身はトクヴィルから学んでいるというのです。

「トクヴィルは、判事として十九世紀初めにアメリカへ旅行して初めてアメリカのデモクラシーなるものを実際に観察します。デモクラシーという言葉は、当時まだヨーロッパではほとんど一般には使われていない。アメリカははじめから平等に力点が置かれています。そこで、「デモクラシー・イン・アメリカ」という題になるわけです。ヨーロッパはすでにフランス革命を経ているのですが、トクヴィルはアメリカで「抗し難い民主主義的革命」と「諸条件の平等」がもたらす現実の結果、そのヨーロッパとのちがいを見て、一種のカルチュア・ショックを受けます。彼の書物には、その平等社会のいいところと悪いところとが実に冷静に観察されていて、今日でも新鮮さを失っていません。ですからトクヴィルは、大衆社会の予言者などといわれ‥ています。
 福沢は、のちには直接にトクヴィルを読み、‥『概略』では、ミルを通じて「多数の圧制」についての醒(さ)めた見方を獲得していたのです。」
 「異端であることを恐れてはいけない、昨日の異端は今日の正統である、世論に束縛されずに少数意見を述べよという(福沢の)主張は、この衆論の変革の可能性と結びついているわけです。福沢における人民(ポピュ)主義(リズム)と、知識人の使命観とは、このような形で結びついているのです。
 西洋で新聞紙や演説会が盛んで「衆口の喧(かまびす)しき」状態も結局、人民の智徳を鞭撻することになっている、という。福沢の「多事争論」のすすめもそこからきています。ですから、彼はまだ、今日の大衆社会におけるマスコミの発達のなかにひそむ問題性-世論を操作し、ステロタイプ化する作用など-は洞察していません。これは、西洋でも一九二〇年代になって、たとえばW.リップマンの『世論』などという著作でようやく指摘されるようになるのです。」(『丸山眞男集』⑬⑭ 「『文明論之概略』を読む」1986.)

「産業革命以前と以後の社会の区別は単にエネルギーの違い、牛や馬を使っているかそれとも無機的なエネルギーを使うかという産業構造の違いだけじゃなくて、民心、風俗その他を一変させると言うんです。このことを日本で一番早く唱えたのが、福沢諭吉なんですね。福沢の『民情一新』(一八七九年)という本はそれを一番早く-私の知る限り-主張したんです。‥(蒸気機関の発明というのは)自分でコントロールできない魔物を呼び出したようなものだと言うんです。無機的エネルギーを主として使い出す。すると機械時代がくるでしょう。これがオートメーション時代までつながるわけです。なぜそうかというと、思想とか観念の発達が電信・電気・鉄道その他によって非常に速く運搬されるでしょう。ある地に発生した思想なり観念なりが非常に速くパーッと違った地に伝わるようになる。昔は一部にとどまっていたある思想がたちまち全世界に普及していくようになる。そうすると誰もこれをコントロールできない。これは福沢が『民情一新』の中で先駆的に衝いているところです。
 …これは驚くべき洞察ですね。インフォメーション、情報化社会の到来。テクノロジーが発達すると思想が非常に速く伝播する。ということは情報化社会が到来する、と。‥これが、つまりいかなる専制政府もいかんともすべからざる人民の勢いだ、ということを福沢は言っているんです。それは必ずしも肯定的な意味に使っているんじゃない。どんな政府でも人民の間にある思想がパーッと伝播するのをコントロールできなくなるということですね。これは、二〇世紀的な独裁政とそれ以前の独裁政の最大の違い。‥人民の圧倒的支持に基づいた独裁政が二〇世紀になって初めて成立するようになったということは、テクノロジーの発展と無関係ではない。‥これは必ずしもいわゆる古典的な民主主義にとっていい方向には働かない。人民の圧力というものによって、いわば直接民主主義的に独裁政が成立する。…人民のエモーショナルな動きが昔では考えられないほど非常に強くなった。それに政府当局者が左右されるということ。世論やなんかが必ずしも理性的に動かないでしょう。ある一つの動きが生ずると歯止めがきかなくなっちゃう。それは現代の情報化社会の特色をよく表している。つまり、必ずしもいい意味での民主化ではない。なぜならば、そこには人民のエモーションが入ってくるから。これが一八〇〇年代の画期的な変化だった。」(『丸山眞男手帖』17 「中国人留学生の質問に答える(下)」 1988.10.5.)

 ここは丸山(そして福沢)の炯眼に恐れ入っている場ではありません。私たちが真剣に考えなければいけないこと(と私が考えること)は、日本にはマス・デモクラシーの移ろいやすさ・危険性を早くから鋭く指摘している先達がいるのに、私たちの中に血肉化しておらず、日本の政治はまさに福沢や丸山が憂慮した方向をまっしぐらに、しかも止める力がまったく働かない形で突き進んでしまっているのはなぜなのか、ということだと思います。
 イランの「核開発」問題に即して言うならば、まずは日本に関しては「原子力の平和利用」と言うのに、イランに関しては「核開発」という言葉で扱われること自身にすでに問題があると思うのです。もちろんその違いについては、日本は核兵器開発を行っていないのに対して、イランには少なくとも核兵器開発の疑惑があるという違いに基づいている、という説明はあり得るでしょう。しかし、イランが主張しているのは、「核不拡散条約(NPT)に基づく非核兵器国の条約上の権利である原子力の平和利用の権利を行使しているにすぎない」ということなのです。イランによれば(正確に言えば、イランの主張を待つまでもなく)、イランとしては「日本が現実に行っていることをイランとしてもやろうとしているにすぎない」ということなのです。
 「核開発疑惑」という点に関して言うならば、私たちは「日本は核兵器開発をしていないし、将来的にもそういう可能性はあり得ない」と主観的に信じ込んでいるかもしれませんが、世界的な常識からすれば、日本に関しての問題は、「核兵器開発能力があるかないか」ではなく、その能力があることは当たり前の前提で、核兵器開発に踏み切れば「どれぐらいの時間で実戦能力を身につけるか」ということが問われているのです。また、民主党、自民党を問わず、日本は核兵器を開発、保有するべきだと公言する政治家はそれこそゴロゴロいるのです。
 そういう実情があるからこそ、イランが「自分たちは日本がやっていることをやろうとするにすぎない」と主張する時、「やはりイランは核兵器を開発しようとしている」という疑心暗鬼を生むことにもなるわけです。確かにイランとしては、「その気になれば何時でも核兵器を開発する能力を持っておきたいし、そういう能力(潜在的核兵器開発能力)を持つこと自身がアメリカ(及びイスラエル)からの予防的あるいは先制的攻撃から身を守る所以になると考えており、ことさらに曖昧さを残しておきたいと考えている可能性はあります。
しかし、「イランは、生物化学兵器や核兵器といった大量破壊兵器に反対しており、これらの兵器のいかなる使用も、イスラム法に反するものだと考えている」(イランのソルターニーエIAEA大使が5月27日に、オーストリアのウィーンで開かれた会合で行った発言)と強調する(私自身も、広島平和研究所在勤中に、広島を訪問したアラグチ・イラン大使から核兵器はイスラムと両立しない、という発言を直接聞きました。)時、このような発言は戦術的なもので信用に値しないと決めつけるのは、イランがイスラムを国是とする国家であることを考える時、あまりにバランスを失していると思うのです。福島の事態にもかかわらず原子力平和利用が国際的に今なお「当たり前」とされる流れが主流のもとで、イランの主張だけは「裏がある」とか「信用がおけない」と決めつけてかかるのは、あまりにもバランスを失していると考えます。
やはりここでは、イランを敵視しなければすまないアメリカの中東政策(イスラエル擁護を中心とする)が前提にあることを重要な要素として考えなければ全体像はつかめないでしょう。また、私たちには国際機関は公正かつ中立的であるという思い込みが往々にして働く傾向がありますし、そのような国際機関で日本人が重要ポストに就くと手放しで褒めそやす傾向もありますが、これまた根拠のないことであることを指摘しないわけにはいきません。即ち、IAEA(国際原子力機関)が極めて政治的な産物であることはその成立当時から国際常識です(そもそもの成り立ちから言えば、IAEAは第二次大戦の敗戦国である日本とドイツの「核開発」に対するお目付役を演ずることを一つの重要な目的としていたのです。)。私は、IAEA事務局長にエルバラダイ(エジプト人)のあとに天野之弥氏が就任した時点で非常に危険なものを感じていました(天野氏の外務省幹部時の発言に接する機会があって、私は彼のイデオロギー性の強い発言に不安を覚えました。)。そしてそれは杞憂ではなく、彼が事務局長として2011年5月にイランに核兵器開発の疑いを提起する新しい報告を示したことによって裏付けられたのです。
 長くなりましたが、要するにイランの「核開発」問題に関するマス・メディアの報道を鵜呑みにすることがあってはいけない、ということは分かっていただけるのではないでしょうか。

2. 経済制裁の本質的問題と対外政策上の手段としての問題点

メイヨールは、『世界政治』の中で、国際社会(主権国家からなる社会としての国際社会の本質は、米ソ冷戦後においても何ら変わっていないし、世界を単独支配しようとするアメリカ自身がその本質を前提にして行動している。)及び国家主権(1648年のウェストファリア条約によって確立した国家主権の概念は、君主主権から人民主権に変わっても、領土主権の絶対性の概念が強められたことによって、むしろ今日強化されている。)の問題を論じたあとに、1990年代以後に起こった変化(国際社会を考えるに当たっても、普遍的人権が広く承認されたことにより、進歩の観念-「政治生活における目標は、国内的にも対外的にも、人間の解放になった。」-が導入されたこと、基本的人権及び法の支配から成る民主的価値が「国際社会における正統性の基準として確立したこと」)を正当に承認しつつ(pp.121-122)、米欧諸国が民主主義の名のもとに経済制裁をはじめとする介入に訴える傾向が強まっていることを極めて批判的に分析しています。
この場合、国際政治学のイギリス学派の泰斗としてのメイヨールは、物事に単純に白黒をつけて論じるアプローチはとりません。彼は、「国際関係で民主的価値へのコミットメントが何の意味もないということにはならない」というやや奥歯に物が挟まった言い方にせよ、国際関係における民主的価値へのコミットメントを基本的、本質的に肯定するのです。彼が問題にするのは(これこそがイギリス学派の真骨頂なのですが)、「国際社会の民主化が現実的(浅井注:「現実的」と言うよりは「実効的」という表現のほうがふさわしいと思われます。)なものであるためには」「非常に巧みに制度設計しないといけない」ということです。具体的には、民主主義の理念に埋没する原理主義ではなく、「国際的に民主主義を確立しようとする試みが、人命を救い、恣意的な抑圧を減らし、そして少なくとも一定の人々にそうでなければ得られないような機会を与えるのか、それとも逆により大きな抑圧と社会的軋轢を生むのか」を冷静に判断する姿勢(メイヨールはことさらに「偽善的にならないといけない」という表現を使っています。)が求められると指摘するのです(pp.130-131)。
メイヨールは、国際世論の善意そのものを否定しませんが、米欧諸国政府の実際の政策及び行動に対しては、上記の基準に則して極めて批判的なのです。即ち主権を神聖視することから人権を神聖視するようになった変化が国際法の原則として確立したかと言えば、米欧諸国の政策及び行動は、これら諸国の都合に合わせた、極めて選択的かつ恣意的なものであることを、彼は容赦なく指摘します(p.135)。
経済制裁に関して言えば、メイヨールは、「非行国家の行動を変えさせるのに経済制裁を利用するのは、いわば兵糧攻めを民主的に行うようなものだ」と極めて辛辣な表現でその取るべきではない所以を明らかにします。「公言されている目的を達成することはあまりない」(オバマがしきりに対イラン経済制裁は効果を上げていると言わざるを得ないこと自身がその逆が真実ではないかという疑問を起こさせます。)、「実施されているかどうかをきちんと監視するのはむずかしい」(イランに対する制裁は各国の自発的協力如何にかかっており、制裁監視の国際的仕組みはまったくありません。)、「すべての国の協力を確保するのは事実上不可能である」(対イラン制裁に関しては、中国、ロシアはもちろん、インド、ブラジル、南アフリカなども軒並み反対ですし、韓国でさえ慎重と伝えられています。)という問題があることはもちろんです。
より本質的な問題として、制裁の被害をもっとも蒙るのは、制裁を課される政府ではなくて、その人民であるということです。ここでもメイヨールは決して被制裁国政府に対して甘い見方を取るのではありません。むしろ、「制裁のコストを、すでに長期にわたって苦しんでいる住民に押しつけながら権力にしがみつくことに何の良心の呵責も感じない専制的な体制」と表現している点では、オバマ政権の対イラン認識と大同小異です。メイヨールが指摘するのは、「経済制裁によって国際社会に背を向けることのコストは高くなるが、経済制裁の対象となった国の指導者は、これによって民族の経済的苦境の責任を外国に負わせることができるので、絶好のプロパガンダの材料を手にすることになる」ということです。したがって結論としては、「経済制裁を課すことに関する倫理的および実際的な問題は、いまや認知されつつあると考えてよかろう」(pp.142-143)ということになるのです。
私は、以上のメイヨールの論点の数々を他の論者の中にも数多く見てきましたし、それらはむしろ国際的常識に属すると理解しています。私が重大な問題を感じずにはいられないのは、アメリカがしゃかりきになると、それだけが言論を支配してしまい、こうした国際常識自体が一切顧みられなくなるマス・メディアを筆頭とする日本社会の異様さです。そして、マス・メディアがみさかいもない議論をふりまく(丸山眞男が憂慮したのは、マス・メディアによる意識的な、しかし、人々に明確には自覚されない隠微な形での世論誘導の言論でしたが、イランに関して目撃されるのは、そういう意識と自覚すらも伴わない盲目的な、対米追随以外の形容が不可能な実に貧しさを極める言論です。)ことにより、大衆社会状況のもとにある私たちが健全な批判力を発揮することは極めて困難になってしまうということです。
唯一の救いは、インターネットを通じて、私たちは多種多様な情報に接する機会を持つに至っているということです。もちろん、正確な情報を選び取る眼を養うという別の困難さは存在します。しかし、すでに紹介した丸山の指摘(「大衆の自己訓練能力、つまり経験から学んで、自己自身のやり方を修正していく-そういう能力が大衆にあることを認めるか認めないか、これが究極において民主化の価値を認めるか認めないかの分れ目です。つまり現実の大衆を美化するのではなくて、大衆の権利行使、その中でのゆきすぎ、錯誤、混乱、を十分認める。しかしまさにそういう錯誤を通じて大衆が学び成長するプロセスを信じる。そういう過誤自身が大衆を政治的に教育していく意味をもつ。これがつまり、他の政治形態にはないデモクラシーがもつ大きな特色であります。…つまり、民主主義自身が運動でありプロセスであるということ。…その意味でデモクラシー自身が、いわば「過程の哲学」のうえに立っております。」)を我がものにすることに、この困難を打開していく手がかりが潜んでいると確信します。理念としてのデモクラシーの普遍的価値性に確信を持つ。しかし、制度としてのデモクラシーは永久に完全な形では存在せず、絶え間ない運動による働きかけを内在することによってのみデモクラシーはデモクラシーであり得る(永久革命としてのデモクラシー)という丸山の指摘は、今日においてますます輝きを放っているのではないでしょうか。

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