中近東・北アフリカ情勢の回顧と展望
-民主化の視点から-

2011.12.13

*私は、3月2日付で「中東情勢から学ぶこと」と題する小文をこのコラムに書きました。そして、5月4日から12日にかけて、各国ごとの事態の成り行きをまとめる文章をやはりこのコラムに載せました。さらに6月1日付で、井筒俊彦及び黒田壽郎の著作を読んで思ったことを「イスラームと民主化について考える」と題して、このコラムに掲載しました。その後も私は、この地域の民主化という課題に関する事態の動きについてはそれなりの関心を持って見てきましたが、年末ということもあり、一つの区切りとして、3月2日付の上記「中東情勢から学ぶこと」の文章で提起した問題点に即して、自分なりの考えをまとめておきたいと思います。私の主たる関心は、「これら諸国での民主化を求める動き及びそれに対するアメリカの対応から、日本人である私たちが日本の政治を真に民主化していく上で学び、参考とするポイントが少なくないのではないかということ」(3月1日付コラム)であることは、何ら変わっておらず、その視点からの限られた問題提起であることを改めてお断りしておきます(12月13日記)。

<「マグマの所在・蓄積及び噴出」という見方の当否について>

 私は3月2日付のコラムで、これらの諸国で起こったことは、「米ソ冷戦の終結後のアメリカ発の新自由主義・グローバリゼーション(世界経済のマネタリズム資本主義による一体化)の流れが中東諸国をも襲い、ごく一部の特権層の富裕化の陰で大多数の人民の絶対的貧困化を招いてきたことが、広範な人民の間で現状変革を求めるマグマを蓄積させてきた結果」であるという理解を述べましたが、その見方を改める必要があるという新たな発展・展開の動きを見出すことができません。むしろ、この1年間の情勢を総じて見れば、この見方を再確認させるものであったと思います。また、この噴出した人民大衆のマグマが民主化を求めるという方向性を共通に持続していることも、「人権・デモクラシーそしてその根源にある人間の尊厳という普遍的価値の実現を求める本源的な要求というのはさまざまな特殊的な要因の働き(妨害)を乗り越えて発現する」ということである、という私の認識を再確認させるものであったと受けとめています。
これら諸国におけるこのような動きは、「新自由主義「改革」が日本においてもごく一部の特権層の富裕化の陰で大多数の人民の貧困化を招いてきたという厳然とした事実」に鑑みれば、「日本においても中東諸国と同じマグマの所在・蓄積が客観的にある」ことを示していると私は指摘したのですが、そのような見方をする私にとっては、3月11日の東日本大震災及び福島第一原発の事態は、日本において「人権・デモクラシーの実現を求めるエネルギーの噴出が起こる歴史的な可能性、必然性」を現実のものとする大きな契機(未曾有の災いを転じて福となす明治維新及び第二次大戦敗北に匹敵する歴史的なチャンス)にしなければならないもの、と受けとめたことも前に指摘しました。

<「「引き金」及びエネルギー噴出に関する予測困難性と確実性」「方向性・針路提示・リーダーシップの重要性」「暴力装置その他の伝統的権力機構の去就」「外的要因」について>

 3月2日付のコラムでは、「歴史の必然性と偶然性という関係」について私が常日頃感じていることが正にこれら諸国で起こっていることによって改めて再確認されるという実感を記しました。ただし、そのときの私は、チュニジアにおける青年の自殺並びに若い世代を中心として急成長するネット媒体の情報伝達力及び行動を呼びかけるアッピール力(この力は、その後ウォールストリートに端を発した先進諸国での新自由主義批判の運動でも再び実証されました。先般行われたロシア下院選の結果に不正があったとして12月10日に大規模な抗議集会がモスクワその他で行われるに当たっても、やはりフェイスブックを中心にしたネット媒体の役割が伝えられました。)をともに歴史の歩みにおける偶然性の要素として捉えていました。前者は間違いなく高度に偶然の出来事であったわけです。しかし後者に関していえば、情報分野におけるテクノロジーの発展という高度に必然的な人類史の歩みの系として捉えるべきものであったと、いまは自己批判を込めて指摘しなければなりません。
 ただし、ネット媒体が今後どのような役割を担っていくのかについては、現時点で判断するにたる材料は不足していると言わざるを得ません。アメリカのようにそれなりのデモクラシーの伝統を持っているところでも、運動の持続的継続(発展は言うまでもないことですが)そのものが、参加者全員が納得するまでとことん議論を尽くすいわば直接民主政を実行している(朝日新聞報道によります。)ことによるのかもしれませんが、不透明と言わざるを得ない状況にあります。ましてや、デモクラシーの何たるか自体が不分明な中近東アフリカ諸国においては、独裁と言われた既存の政権を引きずり下ろすという具体的な目標がはっきりしている間は求心力を保ち得た運動のエネルギーが、今後のそれぞれの国における政治の針路・方向性をめぐっては直ちに百家争鳴の観を呈してしまっていることは否めない事実でしょう。つまり、ネット媒体は、現状に不満を持つ人々のエネルギーを街頭に繰り出させるまでは目を見張るだけの力を発揮したのですが、爆発した運動エネルギーを方向性を持った持続的な政治的力量としてまとめる上では、少なくともこれまでのところでは、有効な力を持っていないと言わざるを得ないのではないでしょうか。
 むしろ私が注目するのは、エジプト、チュニジアなどでイスラム同胞団(メディアの報道する内容によって判断する限りでは、トルコで現実に行われているような政治と宗教(イスラム)との穏健な形での融和を主張し、既存の政権の支配下では弾圧されながらも人民大衆の間で影響力を扶植してきた、と一応判断されます。もちろん、メディア報道によっての判断ですし、各国ごとにきめの細かい分析をする必要がありますが、門外漢である私の能力ではできません。)が存在感を高めつつあることです。実は、アメリカなどからは「テロリスト集団」と決めつけられているパレスチナのハマスも、素人の私の目から見ると、人民大衆に密着し、宗教を突出させない点において、類似の政治路線で成功している先例のように映じます。つまり「イラン式のデモクラシーへの模索」の主体的担い手(政治勢力)の可能性をイスラム同胞団に見出すことができるのではないか、ということです。さらに言えば、1917年のロシア革命でレーニン率いるボルシェビキが発揮した政治的方向性を指し示すリーダーシップの役割をイスラム同胞団が担う可能性を感じとるのです。
 もちろん、歴史の歩みは常に偶然的要因によって左右され、ジグザグでしか前進しないのですから、手放しの楽観は禁物です。はじめから外国勢力の介入に依拠したリビアの場合は論外としても、エジプトにおいては実権を握った軍部(アメリカが影響力を強めている可能性が高い)が簡単に民意に従う保証はありません。サレハ大統領がようやく実権を手放すことに同意したとされるイエメンでも、アメリカの支持のもとに動くサウジアラビアを中心とした湾岸協力機構(GCC)は露骨に内政干渉の度合いを強めています。民主化の進展さらにはその「度合い」を自らのコントロールできる範囲内のものにとどめようとする外部の力に対して、内部から湧きおこる自発的なエネルギーが自らを運動そのものの中で鍛えながら、どこまで人民大衆の自発的な支持・参加を勝ち取ることができるかどうかによって、各国の歩みが左右されるのだろうと思います。一つだけ間違いないことは、人民大衆が「自らの血と汗と涙を流す」(金大中の言葉)ところでのみ、韓国がそうであったように、アメリカなどの外部の干渉をためらわせ、土着の民主化を実現することに成功することができるだろうということです。

<「大衆社会状況における民主化という課題」について>

 「大衆社会状況」というのは、歴史的に見れば、デモクラシーがそれなりに根を下ろしている社会において、デモクラシーの機能不全をもたらす要因として欧米諸国において注目されることになった問題であると、私は受けとめています。しかし、ネット媒体にいまや代表される(ただし、すでに新聞、ラジオ、テレビ等の普及に伴って確実に進展してきた)情報テクノロジーの世界的発展は、デモクラシーが定着しているか否かにまったくかかわりなく、世界の多くの国々において大衆社会状況を生みだしています。3月2日付のコラムでも「民主的な市民社会という過程・経験を経ていない中東諸国の人民の場合には、人権・デモクラシーの実現という課題の困難性はより大きい」という認識は書いたのですが、これら諸国における現実を観察するとき、改めてその感を深くします。
 日本に関していえば、3月2日付のコラムで書いた次の文章の判断にまったく変わりはありません。むしろ、最近のコラムで書きましたように、東日本大震災及び福島第一原発の事態を契機に主体性(「個」の確立)をもって政治に主人公として臨むべく、「災いを転じて福となす」べき私たちが、「絆」という言葉の明らかに意識的かつ政治誘導的な氾濫によって元の木阿弥の絶望的な状況に押し戻されようとしているのを見るにつけ、ますます日本におけるデモクラシーの実現及び確立の難しさ、困難性を感じないわけにはいきません。日本の人民が自らの「血と汗と涙」を流す不退転の決意を我がものにするのは、一体どのような条件のもとにおいて可能になるのでしょうか。

   「日本における状況も相当程度において中東諸国と似た状況にあると思います。先ほども述べたように、制度としてのデモクラシーは「導入」されたとしても、理念、運動としてのデモクラシーは、戦後65年が過ぎたというのに、相変わらず未成熟なままです。政治的な「市民」という名に値する人民は現れてはいますが、日本社会全体を取ればまだ圧倒的に少数派ですし、したがって「市民社会」と呼べるだけの実体は日本においてはまだ成立していないと言わざるを得ません。しかも、これまた丸山が何度も指摘しているように、「権力の偏重」という病弊を抱え込んでいる日本社会の場合、ますます人権・デモクラシー実現のハードルは高いものがあるのです。私たちが「独裁政治に苦しめられてきた中東諸国」などといった同情心で傍観者的に眺めるということにとどまるならば、それはとんでもない「了見違い」ということになります。」

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