中国残留邦人等への理解を深めるシンポジウム

2011.11.06

*11月5日に広島で表題の催しがあり、私もパネリストとして参加しました。この催しは、厚生労働省が主催するもので、これまでに長野、福岡、東京(2008年度)、大阪(2009年度)、愛知(2010年度)で開催され、今年度は広島ということだったようです。厚労省の説明書によれば、「(中国残留邦人等への)地域生活支援の要となる、地域住民の理解を深め将来の支援者育成につながる普及啓発を目的とし、『新たな支援』の一環として平成20年度から、中国残留邦人等の多く居住している地域を選定して開催している」ものらしいです。 ちなみに厚労省の資料には、「中国残留邦人等」とは、「戦前、中国東北地区には、開拓団を始めとした多くの邦人が居住していたが、終戦直前に、戦局の変化により多くの成年男子が関東軍に召集されたため、残された人の多くは老人婦女子であった。昭和20年8月9日のソ連の参戦により、人々は長い逃避生活を余儀なくされ、逃避中や収容所等では、飢餓や伝染病等により死亡者が続出するという悲惨な状況になった。このような混乱の中、家族と離ればなれになり孤児となり中国人に引き取られた子どもたちや、生活のために中国人の妻となるなどして中国に留まった婦人等を総称して、「中国残留邦人」としている。残留邦人の多くは、中国に残留していたが、他に残留地として樺太や旧ソ連本土もあり、彼らを総称して、「中国残留邦人等」としている」という説明があります。 また、「残留孤児」と「残留婦人」との区別については、このシンポに参加した「二世」「三世」の人たちとの話の中で、1945年8月15日現在で「13歳」未満であるかそれ以上であるかによって前者は「孤児」、後者は「婦人」とされているという話を聞きました。国民学校を卒業していたか否かによる線引きだったのでしょうか。 いずれにせよ、私は、1981年に第1回の訪日調査団が北京の日本大使館に集合して大使館から説明を聞く催しがあったときに、居合わせていたというときからこの問題には関心があったのですが、私が広島平和研究所で働いていたという経緯の持ち主であるということで、このシンポに深く関わってきた九州に活動拠点を置く劇団「道化」の責任者がシンポを主催するジャーナリスト・大谷昭宏氏に推薦して、今回の広島でのシンポにパネリストとして参加することになったというわけです。 いろいろ考えさせられることがあったので、思いつくままに若干のポイントを記録しておきたいと思います(11月6日記)。

<この催しの主催者である厚労省について>

 私は、すでに述べたとおり、厚労省(始まったときは厚生省)が残留邦人の訪日調査を始めた頃から、そのやり方には大きな疑問がありました。それは、帰国を希望する残留婦人・孤児に関して、帰国後の日本語習得、労働機会の確保、地域社会へのスムーズな溶け込みなどの「受け皿」作りをしっかり考え、準備することなしに、とにかく「帰ってもらえさえすれば」という、極めて場当たり的対応が顕著だったことです。果たせるかな、多くの帰国者は日本語のカベを克服できないままに「二世」「三世」の子どもや孫たちの通訳なしには日常生活も不便という状況が今日も続いています(今回のシンポに参加した一世の方は、敗戦当時18歳で「残留婦人」なのですが、その後中国人と結婚し50数年日本語をまったく使わなかったために、十数年前に帰国されたときには日本語をほとんど忘れてしまっていたそうですが、それでも18歳までの日本語の蓄積があったために、帰国後はほぼ不自由ないまでに日本語を回復されていました。しかし、その方より年少で敗戦を迎えられた方たちの多くは、日本語習得のための十分な機会が与えられない「お役所仕事」によって、「日本語の壁」に苦しみつつ生きておられます。)。
 私は、中国課長だった当時、この問題について当時の厚生省と何度もやり合った記憶があるのですが、驚いたことは、今厚労省でこの事業を担当している人たちは昔(30年前!)のことなどまったく知らないという感じであったことでした。彼らが今やっている事業に真剣に取り組んでいることは理解しましたが、過去における同省の問題ある対応についての歴史そのものが十分に自己批判的に継承されていないということには暗然とした気持ちになりました。

<シンポ出席の4人の明るさ>

 今回のシンポには、先ほども述べた残留婦人の帰国「一世」の方の他、「二世」が一人、「三世」が二人、計4人の方が出席されました。私は、4日の打ち合わせ兼懇親の夕食会で、主催者のご配慮でこの方たちと席を同じくすることができ、いろいろお話を伺うことができました。そして何よりも嬉しく、ホッとした気持ちにさせていただいたのは、4人の方たちが異口同音に「日本に帰ってきて良かった」と言っておられたことでした。一世の方の場合は、元々は新潟出身なのですが、満州開拓団として黒竜江省の雪深いところにいたということもあり、帰国に当たっては温暖なところを望まれ、身元引受人がいたこともあって広島に来られたということでしたが、生活も安定しており(中国人のご主人は日本へ来ることを望まず、ご主人が亡くなった後に帰国)、一緒に来た5人のお子さんたちもそれぞれ独立して生活しているので、「今、私は幸せです」とシンポの席でも繰り返しておられたことはとても印象的でした。
 二世及び三世の方の場合、ご両親あるいは祖父母の方たちは日本語が不自由で、必ずしも幸せとはいえない状況にあることが窺われたのですが、本人たちは「日本に来て良かった」と明快に言っておられたことが、これまた印象的でした。ただし、皆さんが共通に不安として述べていたのは、年老いていく祖父母(すでになくなられた方もいます。)や両親の老後ということです。彼女たち自身も生活に追われているわけであり、介護にまで手が回らない中で、国や地方公共団体が真剣にこの問題に取り組んでほしい、と切実な気持ちで訴えていたのは十二分に理解できることでした。しかし率直に違和感を感じたのは、彼らがこれまた異口同音に「国・地方自治体にこれこれをしていただけあらありがたい」という口調で、まさに「お上に対するお願い」という姿勢だったことです。そういう点では、彼らは日本人のメンタリティになりきっているな、と感じさせられたのでした。

<私が発言したこと>

 以上のような経緯もあったことも念頭に、私は、被爆者の問題にしても、残留邦人の問題にしても、その根っこにあるのは1980年以来の国(厚労省)が事あるごとに持ち出す「戦争被害はすべての国民が受忍すべきもの」とするいわゆる受忍論であることを指摘しました。この受忍論というのは、要するにアジア諸国に対して侵略戦争を行い、その戦争に天皇の臣民であった国民をかり出して途方もない犠牲を強いた日本国家の戦争責任にほおかぶりする(そのことによってアジア諸国に対する賠償責任を拒否するとともに、国民に対する補償責任を認めない)ことを正当化するための極めて厚かましい盗人の論理なのです。この議論が自己主張することによって、被爆者だけに特別待遇するわけにはいかない、残留邦人に対しても特別な厚遇を与えるわけにはいかない、という手前勝手な主張を導き出してくるというわけです。
 しかし、私に言わせれば、日本軍国主義が犯した侵略戦争の責任そしてその戦争に従うしかなかった、当時は無権利の天皇の臣民であった国民が蒙った多大な犠牲に対して国が責任がある(私たちの奪われた尊厳を回復するために、国は十分な措置を講じる義務と責任があり、私たちにはそれを要求する権利がある)のは当然なことで、このことがすべての物事の出発点におかなければならないのです。もちろん、国の財政能力には厳しい限界があることは否定できないので、すべての戦争被害者に対して賠償、補償を行うことは物理的に不可能ということは認めざるを得ません。しかし、出発点はあくまで、侵略戦争の犠牲になったもの(及びその家族)に対して国は責任を負うということを認めなければならないのです(国としてはこれを認めたくないからこそ、過去の戦争を美化し、正当化しようとする「逆さま」の議論が出て来るのです。)。そして、侵略戦争・植民地支配の犠牲になったアジア諸国民に対しては賠償責任を明確に認めて、相手国・国民が納得するだけの賠償・補償を行う。また、日本国民の中でもとりわけ甚大な被害を受けた人々に対しては十分な補償措置を誠実に講じる、ということを基本に据えなければならないのです。  国の限られた財政負担能力という点からすれば、日本人の中での補償を受ける対象については、国民的な議論と合意を踏まえた上での優先順位をつけざるを得ないわけですが、私は、被爆者・沖縄戦被害者と残留邦人は最優先順位が与えられるべきであると思います。被爆者(放射線被害の影響が懸念される二世以下を含む。)・沖縄戦被害者は、昭和天皇が「国体護持」のために敗戦受け入れをいたずらに引き延ばしたために犬死にを強いられた人々であり、残留邦人(及びその二世、三世)は、国策として過酷な満州開拓にかり出された人々であるからです。

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