外務省事務次官のオバマ広島訪問に関する発言(ウィキリークス公開電報)

2011.10.25

*内部告発サイト「ウィキリークス」が、日本外務省の事務次官とルース米駐日大使との会談(2009年8月28日)の内容を報告したアメリカ大使館発の公電2本を公開し、その中で藪中次官(当時)がオバマ大統領の広島訪問について語った内容が問題ありとして、広島を中心にして様々な反響が出ました。この文章は、日本ジャーナリスト会議広島支部の求めに応じてかいたものですが、このコラムを訪れて下さる方のために、松井・広島市長の記者会見については全文を載せるなどの工夫もしてあります。ご一読下されば幸いです(10月25日記)。

1.外務事務次官と米大使との会談概要

9月26日に内部告発サイト「ウィキリークス」は、2009年8月28日に行われた外務省の藪中次官(当時)とアメリカのルース駐日大使との間で行われた日米関係に関する意見交換の内容を記した同年9月3日付の同大使館から本国政府に当てた公電2本を公開した。この意見交換は、同年9月30日に行われることになっていた衆議院総選挙を受けて民主党政権が誕生することが確実視されていた状況の下で、アメリカ側が民主党政権のもとでの対米外交路線がどうなるかについて重大な関心と懸念を抱いていた背景で行われたことを強く窺わせるもので、2本の公電の1本はこの問題だけを扱っている。
この公電によれば、米側の懸念に対して、藪中次官は、鳩山代表に2度会い、①日本外交の継続性を維持すべきこと、②政治的必要による政策の変更は実質的課題に対して重大な影響を及ぼすべきでないこと、③在日米軍基地の如き日米軍事同盟に関しては低姿勢を守るべきであり、政治的得点(稼ぎ)のために同盟問題を利用すべきではないこと(そのようなことをすると、日米同盟に消極的な影響を及ぼす危険があること)の3点を鳩山代表に勧告したこと、そして鳩山代表は同次官の勧告を完全に理解し、両者の会見以後は鳩山代表が同盟問題についての公的な発言を控えていることをルース大使に伝えたことが明らかにされている。
政治に対して中立であるべき官僚機構(外務省)の事務次官が、民主党政権誕生を前に、首相になることが既定視されていた鳩山代表にこのように生々しい、露骨な政治的内容の「勧告」を行っていたこと自体も重大な問題であるが、鳩山代表がその「勧告」を「完全に理解」し、かつこれに従った(と藪中は判断していた)こともまた、到底看過できない重大な問題が含まれていることを、私としては指摘しておかないわけにはいかない。
もう1本の公電では、朝鮮問題、オバマの広島訪問問題及び国際的な子ども誘拐に関するハーグ条約の日本による加入問題の3点が取り上げられたとされているが、広島の地元紙・中国新聞及び中央の朝毎読3紙(大阪本社版)では、当然のことながら、オバマの広島訪問問題に関する藪中次官の発言の部分に関心が集中した。

2.オバマの広島訪問問題に関する藪中次官の発言

<藪中発言と広島関係者の反応>

 まず、オバマの広島訪問に関して公電が記している藪中次官の発言部分(全文)を紹介する。

 藪中次官は、(オバマ)大統領が日本人の間で歴史的レベルの人気を得ているので、大統領の(2009年)11月の訪日に対しては日本の大衆的な期待が高いであろうと指摘した。特に反核グループは、不拡散に関する大統領の4月5日のプラハ演説(浅井注:日本のマス・メディアが「核のない世界」を打ち出したものとして演説を特徴づけていたのに対して、公電は「不拡散」という性格付けを行っていることに要注意)との関わりで、大統領が広島を訪問するかどうかについてあれこれ推測するだろう。しかし、藪中は、オバマ大統領が第二次大戦中における原爆投下について謝罪するために広島を訪問するという考え方は「成功する見込みがないもの」(浅井注:英語はnon-starter)であるので、両政府はそのようなテーマに関する人々の期待を抑制しなければならないと強調した。仰々しくない簡素な広島訪問であれば正しいメッセージを伝える上で十分に象徴的(意義がある)だろうが、11月の(日本)訪問にそのようなプログラムを含めるのは早すぎる。藪中は、11月の訪問は東京中心とし、天皇及び首相の訪問、演説、大学での催しあるいは地域住民とのタウン・ホール的会合の如き公的プログラム(といった内容)を勧めた。

 中国新聞以下の各紙の扱いに関して言えば、以上の公電内容の要旨を紹介(紹介に当たっての内容の正確度は新聞によってばらつきがある。)した上で、藪中発言及び被爆者を無視してアメリカにしか顔が向いていない外務省に対する被爆団体関係者などの怒り、失望などの声を伝え、各紙独自の分析あるいは評価に類することには立ち入らないという点で、私が広島滞在中に見慣れた「広島の立場を強調する」扱いが繰り返されていた(ちなみに、私が広島各紙の扱いぶり・内容を知り得たのは、ジャーナリスト会議広島支部の関係者から切り抜き記事の提供を受けたことによる。)。ひとり9月28日付の朝日新聞だけは、「大統領と広島 なぜ原爆と向き合わぬ」と題する社説を載せているが、その内容は余りにも空虚というか、何を言わんとしているのか理解に苦しむ、二の句がつけない、砂をかむような思いを味わわされるひどいもので、とても正面から取り上げて論評するに値しないものである。
 私自身、二、三の新聞社(広島駐在記者)からの電話取材を受けて感想を述べ、その中のごく断片的な部分が広島版紙面で記事になっていたが、改めて、上記藪中発言について、この発言が行われた重大な背景を考え、その脈絡において藪中発言の意味を確認しておく必要を感じる。

<藪中発言が行われた背景>

 私は、私のHPの「コラム」欄の2009年及び2010年当時の文章を改めてチェックしてみた。そして、藪中発言を理解する上で有用と思われる文章をいくつか読み直してみた。関係ある文書の題名だけを記すと、「危うい非核三原則-オバマ政権の核政策の二重性を見極めよう-」(2009年7月25日記)、「民主党政権の外交・安保政策を問う」(同年10月10日記)、「オバマ訪日と日本の政治」(同年11月15日記)、「核密約・対米工作と非核三原則の行方(4紙社説)」(同年11月29日記)、「民主党政権の日米安保・核政策-「非核3・5原則」の詭弁-」(2010年1月23日記)、「核問題に関する岡田外相のクリントン国務長官宛て書簡」(同年1月31日記)、「岡田外相の核問題に関する記者会見」(同年2月27日記)、「日米核密約と非核三原則」(同年4月8日記)などが主なものだ。ウィキリークスが公開した2本の公電による藪中・ルース会談の日付(2009年8月28日)に先立つ私の「コラム」の文章は最初のものだけだが、その中で私が指摘した分析・推測の中身がほぼ100%間違いなかったことを裏付けるのが2番目以後の「コラム」の文章であるので、関心のある向きは是非参照してほしい。
 最初の文章で私が注目したのは、2009年6月1日付の中国新聞が一面トップで報道した共同通信の配信記事で、4人の外務省事務次官経験者が核密約の存在を明らかにしたものだった。この文章では、その後、これらの発言が、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の核開発を口実として、アメリカの拡大核抑止力(「核の傘」)に依存する必要が高まっているから「持ち込ませず」を含む非核三原則は邪魔であり、見直すべきだ、という政治的意図に基づくものであったことを明らかにする報道も相次いだし、鳩山代表(当時)自身も非核三原則見直しの必要を強くにじませる発言を行うに至ったことについても指摘している。しかもこの文章は、こうした日本国内の動きは、日本への核兵器再配備をにらんだ日米両政府の緊密な「環境作り」に向けた動きというより大きな背景のもとでのものであったことも明らかにしている(その後の数編の文章は、この最初の文章で指摘したことが、そのまま日米双方で事実によって確認されていたことを明らかにする内容である。)。
 つまり、藪中・ルース会談が行われた時点では、すでにアメリカの日本に対する「核の傘」を前提にした非核三原則見直しの必要が日米両政府の共通理解事項になっていた(つまり、「核のない世界」を目指すことを表明した大統領として当時の日本国内で膨らんだオバマに対する期待感(そのような期待感自体がなんの根拠もない幻想だった。)とは真逆の方向で日米が動き始めていた。)ということだ。したがって、そのような日本国内の対オバマ期待感が勝手に暴走するようなことになってしまうと、非核三原則を見直すことなどはとんでもない、という雰囲気が醸成されてしまい、非核三原則見直しのための環球作りが難しくなることを、藪中次官(以下の外務省事務当局)としては憂慮せざるを得なかったことは容易に理解できるのだ。だからこそ、藪中次官としては、このような時期にオバマが広島を訪問するなどということはしないでほしい、という発想に立ってルース大使との会談に臨んだ、ということはほぼ間違いないところだろう。

<藪中発言の内容に関するコメント>

 藪中次官の発言内容自体に関しては、いくつかのコメントが必要だと思う。
 第一に、公電の内容だけからは、オバマの広島訪問というテーマを日米のどちら側が提起したのかについては明確に判断できるだけの材料・ヒントはない。ただし、朝鮮問題及び子ども誘拐に関するハーグ条約の問題についてはルース大使が口火を切った(あるいは問題提起した)ことが強く窺われる内容であるのに対して、オバマの広島訪問に関してはいきなり藪中次官の発言を報告していることから判断すると、日本側から提起したと理解してもよいのではないか、と思われる。また、以上に述べた藪中発言の背景を踏まえれば、日本国内の期待感が高まっていたオバマの広島訪問問題に外務省が神経をとがらせており、すでに広島を訪問していたルース大使が、オバマに広島訪問を勧めるが如き「暴走」「軽挙妄動」しないように、日本側が口火を切ってルース大使を日本側の設定する土俵に乗せようとしたことは十分考えられる。
 第二に、藪中次官が「第二次大戦中における原爆投下について謝罪するために広島を訪問するという考え方」を「成功する見込みがないもの」として、「両政府はそのようなテーマに関する人々の期待を抑制しなければならないと強調した」と発言したとされる部分については、その内容には若干疑問が残る。日本国内では確かに原爆投下に関してアメリカの謝罪を求める声は存在するが、アメリカ国内において行われてきた議論の中心点は原爆投下が戦争終結のために必要だったかどうか、ということであって、「謝罪すべき行為であるかどうか」を明確に意識した上でこの問題が議論されてきたわけではない。外務省事務次官ともあろうものがそういうアメリカ国内における原爆投下の是非をめぐる論争点の所在を認識していないはずはないわけで、本当にこのような形・表現で問題提起したのかどうかについては、私としてはいささか腑に落ちず、首をかしげざるを得ないのだ。
 ただし、つぎのように考えることはできるだろう。即ち、アメリカの拡大核抑止政策が日本にとって必要不可欠であり、そのためにも非核三原則を変える必要があるとする前提で物事を考えていたに違いない藪中次官としては、オバマの広島訪問にかかわる発想・意図が原爆投下に関する謝罪にないことは明らかにせよ、オバマが広島を訪問するという事実自体が「そういうもの」として日本国内で受けとめられてしまうことを危惧した可能性はあるということだ。つまり、原爆投下はアメリカが日本に謝罪すべき誤りだったし、オバマの広島訪問によってアメリカがそれを認めた、という「誤った」理解(外務省からすれば)が日本国内で一方的に進行してしまうと、「日本を守るためにはアメリカの「核の傘」が必要だ」、したがって「その妨げになる非核三原則は改める必要がある」という方向で核密約問題の取り扱い・処理を利用していこうと考えていた外務省の方針・政策に狂いを生じさせかねないわけで、そういう考慮が以上のような藪中発言になったということは考えられないことではない。
 第三に、藪中次官は、オバマ(あるいは他のアメリカ大統領)の広島訪問についてどんな形であれ反対である、としているわけではないということにも留意しておく必要がある。つまり彼は、「仰々しくない簡素な広島訪問であれば正しいメッセージを伝える上で十分に象徴的(意義がある)だろう」と言っているわけで、私たちが考えておかなければならない問題は、彼のいう「正しいメッセージ」とは何か、という点にある。
この点については、判断するために必要な十分な手がかりもないので想像する以外にない。しかし、藪中発言が行われた前記の背景を踏まえて考えると、藪中次官が考えている「正しいメッセージ」とは、私たちが考えるような「広島訪問を機に、アメリカは核廃絶に向けて前進する」ということではあり得ないことは間違いないだろう。むしろ「日本に拡大核抑止政策を保証し、日本の平和と安全にコミットするアメリカ大統領を、被爆地・広島を含めた日本全体に伝える」、つまり、「非核三原則を過去のものとすることを象徴する広島訪問」というメッセージこそが、藪中次官をはじめとする外務省(ひいては日本の保守政治)が思い描いていることだろうと、私は考える。そうであるとすれば、「何が何でも米大統領の広島訪問を期待し、歓迎する」というが如き、広島で(そして日本全国で)広がっているような安易な発想そのものが、実は結果的に政治の側によってまったく反対の方向に利用される危険性をもっているのだ。そういう意味でも、広島には、感情だけで物事を考え、行動するのではなく、自分たちが願っていることがどのように政治的利用の手段・道具にされる危険性があるのか、ということまで十分に考慮した上での行動を心掛けるという、政治的な思想・行動における成熟を望みたい。
 第四に、しかし現実問題として、藪中・ルース会談が行われた2009年8月の時点では非核三原則見直しの材料・ステップとして位置づけられていた核密約の取り扱いの方向性もまだ必ずしも明確ではなかったわけだから、藪中次官としては、2009年11月時点での「(日本)訪問にそのようなプログラム(浅井注:広島訪問)を含めるのは早すぎる」としたのは、外務省の立場からすれば当然すぎることだった、ということになる。

3.広島市長の記者会見における発言

 最後に、松井広島市長は、就任半年を経た時点で記者会見に応じ、その中で、記者の質問に答える形でウィキリークスの米外交文書公電問題について発言した。このことについても触れておく必要があるだろう。その発言は、厚労省の官僚上がりの市長という経歴を十二分に窺わせる、不用意に言質をとられまいとする曖昧性を特徴とするものなので、まずは、該当部分を広島市HPからそのまま引用する。その上でコメントを附する。

<記者会見における一問一答>

記者 ウィキリークスに掲載されていたアメリカとの外交公電に関する質問です。当時の薮中外務事務次官がアメリカのルース駐日大使に対して、オバマ大統領の被爆地広島を訪問することに否定的な姿勢というのを示した上で、謝罪を目的としない訪問自体も時期尚早であるという考え、そういったものを伝えていたことが明らかになったと。被爆地広島の市長として、このようなことがあったということについてどのような考え、感想をお持ちでしょうか。お聞かせください。
市長 そういうことがあったことに関してですね。確かにあったということで過去形だということでまず押さえたいと思うんですね。その上でこの件については外務省自身がコメントも確認もしないというふうなことを言ってますのでね、私自身は事実関係が確認できてない中でのコメントということでご了解いただきたいと思うんですけれども、そうすると事実関係が確認できてない中で過去のことをですね、今の私の市政としてどうこうというのは、あまりふさわしくないかな、というのが第一義的な答えなんです。
あえて申し上げればですね、自分自身が本当に大事なことだと思っているのは、過去の暴かれた事実についてのね、コメントを加えるよりかは、今後の核廃絶に向けてのね、取り組みというものを、今の外務省ですよ、ですから過去の次官ではなくて、今の外務省今の次官を含めて外務省とどういうふうに対応していくかと。そしてこの広島の市としての市民の思いをちゃんと受け止めてもらってですね、核廃絶に向けた真摯な取り組みをですね、してもらうようにしっかり対応するということこそ重要だというふうに思っています。
本市そのものがどういうふうにやっていくかというときに、所信表明とかいろんなところで言ってきていることなんですけれども、核保有国を始めとする世界の為政者の方にこの広島に来ていただいて、被爆の実相を見てもらってですね、そして被爆者の体験、平和への思いをですね共有してもらう、感じてもらう。そして感じることでですね、それぞれの為政者レベルでの核兵器廃絶に向けての努力をですね、してもらえるような環境を提供し続けるということが私は広島市として重要だというふうに考えています。そんな中で今申し上げた流れから考えると、やはり超大国である米国のですね大統領、アメリカの大統領が広島を訪問するということはですね、ある意味で重要なことだというふうに思っています。
記者 ちょっとウィキリークスから離れてしまうかも知れないんですけれども、米国の大統領が被爆地を訪問するということは非常な重要な意味があるということなんですけれども、市長ご自身は、オバマ大統領を含む核保有国の為政者が今広島を訪問するということは全然時期尚早ではないと、市長ご自身はウィキリークスは別として思ってらっしゃるということ。
市長 今という時点を言うかどうかっていうのは、今の判断についてはいろいろまた国政上の状況とかですね、アメリカの状況があったりするので、自分自身その判断をするだけの情報を持ってないから言いにくいんですけれども、基本姿勢として申し上げるのは、先ほど言いましたように核保有国を始めとする世界の為政者に広島の地に来て、実相を見て、共感していただくということをやり続けるべきだという立場でありますので、そういう流れから当然に核超大国のアメリカの大統領がですね、広島に来て実相を見て共有していただくようにするということは、私は重要だと。可能な限り来てくださいということは言い続けるべきだと、そういう状況を作るようなですね、対応をしていこうと、していかなきゃいかんというふうに思っています。
記者 今回広島に大統領が来るか来ないかという議論の中で、謝罪ということが一つ中に入っていたと思いましたけれども、アメリカの大統領に来ていただくことが重要なことだということで、来た場合にですね、謝罪はするべきか、もしくは市長の方から求められるか。その点についてはどうでしょうか。
市長 私は謝罪という言葉には、広島市としてこだわらなくていいのではないかなと。自分自身はちょっと置くとしましてですよ。市としてはこだわらなくていいと思いますね。
 何回も申し上げますけれど、被爆の実相に触れていただいて、広島の思いを共有していただくと。そういう対応ができればいいのですね。それはどういうことかというと、来ていただいた時点から将来に向けての話を一所懸命やりたいのです。 本当に核廃絶に向けての行動をお願いしたい。その共有していろいろな対応をしていただきたいという時に、過去についての一定のけじめをつけなければできないじゃないかという意見があることも重々承知した上ですけれど、それについては、多分そういう要求をすれば、その為政者はやはり自国の国民の中から選挙で選ばれたりしますから、国民の中のいろいろな意見との対立とか等々大変なこともあるような気もしなくもありません。
 ですから、そういったことを乗り越えて、私は将来に向けて本当に実相を実感してもらい、核廃絶に向けてのこれからの対応をしていただくということこそ重要で、その流れの中で、おのずと今言われているような問題は解決していくのではないかなと。そういう流れの中で解決していくべき課題ではないのかなというふうに思っているのですけれどね。

<コメント>

 松井市長の発言内容については、いくつかコメントを必要と感じる。ここでは、彼の発言した順番に即して見てみることとする。
 まず、「事実関係が確認できてない中で過去のことをですね、今の私の市政としてどうこうというのは、あまりふさわしくないかな、というのが第一義的な答え」という発言である。これは、ウィキリークスによって公開されたような公電の真偽如何についてはコメントしない、とする外務省の常套手段(米側公式文書の公開によって明るみに出た日米核密約の存在を認めないとする外務省の論理においても長年にわたって使われてきた。)を、そのまま「はい、そうですか」と受け入れた上でのものだということだ。厚労省官僚上がりの松井市長が外務省の常套手段に楯突くことは考えられないといってしまえば身も蓋もないのだが、とにかく中央政治のやることには思考停止で臨むという松井市長の基本的スタンスを強く確認させる発言だった。
 次に、「過去の暴かれた事実についてのね、コメントを加えるよりかは、今後の核廃絶に向けてのね、取り組みというものを、今の外務省ですよ、ですから過去の次官ではなくて、今の外務省今の次官を含めて外務省とどういうふうに対応していくかと。そしてこの広島の市としての市民の思いをちゃんと受け止めてもらってですね、核廃絶に向けた真摯な取り組みをですね、してもらうようにしっかり対応するということこそ重要だ」というくだりについては、日本語として意味内容を正確に捉えることが難しい、有り体にいえば官僚特有の、言質をとられまいとする本能的防衛反応が先行した、なるべく物事を曖昧にしておこうとする発想からの発言の典型例であることを指摘しないわけにはいかない。
 強いて松井発言の趣旨を忖度すれば、「次官がアメリカ側に対して何を発言したかということよりも、広島市・市民の思いを受けとめた核廃絶への真摯な取り組みをしてほしい」ということになるのだろうか。しかし、これまでの外務省が広島市・市民の思いに如何に冷淡・無関心であったかについては、松井市長としても知らないはずがあるまい。それなのに、こうした「その場しのぎ」の発言でその場を納めようとする同市長からは、核廃絶に本気で取り組むという彼自身の決意は垣間見ることもできない、という批判は免れないだろう。
 そういう松井市長の核問題に対するおざなり性を前提とすれば、次の「本市そのものがどういうふうにやっていくかというときに、所信表明とかいろんなところで言ってきていることなんですけれども、核保有国を始めとする世界の為政者の方にこの広島に来ていただいて、被爆の実相を見てもらってですね、そして被爆者の体験、平和への思いをですね共有してもらう、感じてもらう。そして感じることでですね、それぞれの為政者レベルでの核兵器廃絶に向けての努力をですね、してもらえるような環境を提供し続けるということが私は広島市として重要だ」という長ったらしく、いいわけがましい発言も、要するに、松井市政において核廃絶を目指す本気の取り組みは考えられてもいない、ということを間接的に白状したものと理解するよりほかないだろう。あげつらうようだが、「被爆の実相を」「世界の為政者」に「共有してもらう、感じてもらう」というが、市長がいう「被爆の実相」とは具体的に何なのか、どういうことなのか。私も広島滞在中、折に触れ、「被爆の実相」という言葉に接したが、「被爆の実相」という言葉はいまや、「ノーモア・ヒロシマ」と並ぶ、内実を伴わない「キャッチ・フレーズ」に成り下がってしまっているというのが偽りのない実感だ。松井市長の猛省を促したい、と思うのは私だけではないと考える。
 オバマ(あるいはアメリカ大統領)の広島訪問に関しては、松井市長は次ような発言をしている。

 「超大国である米国のですね大統領、アメリカの大統領が広島を訪問するということはですね、ある意味で重要なことだ」
 「私は謝罪という言葉には、広島市としてこだわらなくていいのではないかなと。自分自身はちょっと置くとしましてですよ。市としてはこだわらなくていいと思いますね。」
 「被爆の実相に触れていただいて、広島の思いを共有していただくと。そういう対応ができればいいのですね。それはどういうことかというと、来ていただいた時点から将来に向けての話を一所懸命やりたいのです。本当に核廃絶に向けての行動をお願いしたい。その共有していろいろな対応をしていただきたい」
 「過去についての一定のけじめをつけなければできないじゃないかという意見があることも重々承知した上ですけれど、それについては、多分そういう要求をすれば、その為政者はやはり自国の国民の中から選挙で選ばれたりしますから、国民の中のいろいろな意見との対立とか等々大変なこともあるような気もしなくもありません。」
 「私は将来に向けて本当に実相を実感してもらい、核廃絶に向けてのこれからの対応をしていただくということこそ重要で、その流れの中で、おのずと今言われているような問題は解決していくのではないかなと。」

 松井市長のわかりにくい発言を強いて分かりやすいようにまとめるとするならば、①アメリカの大統領が広島を訪問すること自体が、広島の実相を実感し、広島と思いを共有してもらうという点で重要な意義がある、②広島訪問をステップとして核廃絶に向けての行動に踏み出してほしい、③個人的にはともかく、謝罪という言葉に広島市としてこだわる必要はない、という三点に要約できるのではないか。
 まず、米大統領の広島訪問自体が積極的な重要な意義があり、広島訪問をステップにして核廃絶に踏み出してほしいとする認識に関しては、すでに述べたように、日米両政府は日本に対する「核の傘」を前提とする拡大核抑止政策を堅持する前提の上で、その政策に資する限りでの米大統領の広島訪問という構想を考えている可能性が極めて大きい以上、「とにかく広島に来て下さい」とする情緒的アプローチもそうだが、松井市長の発想にある「来てもらうことが核廃絶への第一歩になるはずだ」とする考え方は、結果的には「広島が日米両政府が共謀する核肯定政策を是認したことを意味する米大統領の広島訪問」という政治的「陰謀」に利用されることに終わる危険性が極めて大きい。
 次に「謝罪」云々に関しては、原爆投下に関して踏まえておくべきもっとも重要なポイントは、「広島、長崎に対する原爆投下は正しかった」という立場をアメリカが改めない限り、アメリカが「今後も場合によっては核兵器を使う必要が出て来る場合があり得るので、核戦力を堅持する」という政策を改めさせることはできない、ということにある。つまり、「いかなる理由にせよ、反人道の極致である原爆(核兵器)の使用はいかなる状況でもあってはならず、広島、長崎に対する原爆投下はあってはならない行為であった」ということをアメリカに認識させてこそ、世界における核廃絶は可能になるための基礎的条件を得るのだ。したがって、原爆投下に関してアメリカが謝罪するかどうかが根本の問題ではない。
もちろん、広島、長崎への原爆投下があってはならない反人道的行為であったことを認めるとき、アメリカが自発的に謝罪することになる可能性はあるだろう。しかし、この点では松井市長が珍しくまともな認識を示しているように、「(日本側が)そういう要求(謝罪応急)をすれば、その為政者はやはり自国の国民の中から選挙で選ばれたりしますから、国民の中のいろいろな意見との対立とか等々大変なこともあるような気もしなくもありません」というのは現実問題として考えるべき要素だろう。つまり、核兵器の使用はどんなことがあってはならないとする認識をアメリカ人の多数が共有する状況になるとしても、広島及び長崎に対する原爆投下という歴史的事実に対してどういう立場をとるかという問題については引き続きアメリカ世論が分裂を続けるということは十分あり得るわけで、アメリカの為政者としては「謝罪」という問題については国内政治によって縛られる面があることは十分あり得るからである。

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