日米同盟と原発

2011.10.23

*ある雑誌に寄稿する文章です。与えられている字数が少ないので、到底意を尽くせないのですが、原発問題と日米軍事同盟との密接な関連性に着目する視点がほとんど見られないので、ここにそういう視点を紹介しておきたいと思います。なお、今の字数でも与えられた分量をかなり超過しているので、編集の段階でなお削り込まなければならなくなると思いますが、ここでは原文を掲載します(10月23日記)

福島第一原発に非常事態が発生してから、日本社会では俄然原子力発電(以下「原発」)問題に対する国民的関心が高まってきた。本質的に「欠陥商品」でしかない(そう断定する根拠は後述)原発は廃止しなければいけないと常々考えてきた私からすれば、福島の事態は「起こるべくして起こった」悲劇であるが、私たちは、ただ落胆しあるいは悲憤慷慨するだけで済ませてはならないと思う。即ち、この事態・悲劇から学ぶべきことを正確に学び取り、原発のない日本・世界を実現すること、そしてより根本的には、原発を生みだしたアメリカの核政策そのものを見据えて、日米核軍事同盟そのものを清算する(その意味において戦後日本の政治のあり方を根本から立て直す)こと、そうすることによって二一世紀を子々孫々にわたる人類の持続可能な平和的発展への礎をつくり出す最大のチャンスとすること、要するに「災いを転じて福となす」ことに私たちが全英知を傾注することが今何よりも求められていることだと確信する。

<起こるべくして起こった福島の悲劇>

原発は、核分裂エネルギーを利用するという本質において原水爆(核兵器)となんら変わるところはない。唯一の違いは、核兵器が核分裂反応を瞬時かつ無制御で起こさせることで発生する膨大なエネルギー(熱線、爆風及び放射線。ただし、アメリカの公式政策では放射線をことさらに無視・過小評価してきたことは後述)を殺戮・破壊目的に利用することを目的としているのに対し、原発は、核分裂反応を人為的に制御しながら持続的に行わせることで生みだされるエネルギーを利用して電力を生産するという点にある(イタリック強調は筆者)。
 今日主流の座に押し上げられている原発(ウランとプルトニウムの混合燃料を使うプルサーマル原発については、ここでは触れない)に関していうならば、そうした核分裂反応を起こす物質(核燃料)は、ウラン235という放射性物質(ちなみに、発電用には低濃縮ウランを、兵器用には高濃縮ウランを使う)であり、また、核分裂反応は放射線を放出し、使用済み核燃料は様々な放射性物質を生みだすが、その中には長崎型原爆で使われたプルトニウム239を大量に含む。したがって、原発は本質的に核兵器拡散の契機を内在している。最近原発廃止論が高まっていることに警戒感を強めている保守政治家や評論家が、「日本が核兵器開発能力・潜在的核抑止力を持つために原発は必要」という趣旨のホンネ発言を相次いで行うようになった(例:七月一四日の石原都知事、七月一八日の櫻井よしこ、八月一六日の石破・自民党政調会長)のは、彼らの主観的意図はともかく、プルトニウムを「生産」する原発の危険を極める本質を客観的に裏付ける貴重な(?)ものではある。
 とにかくここでのポイントは、核兵器と原発は核分裂エネルギーを利用する技術であり、人体及び環境(人類の生存条件)に深刻な影響を及ぼす放射線・放射性物質を必然的に生みだすということだ。そして福島が重要な意味をもつのは、広島及び長崎においては残留放射線・低線量被曝や内部被曝による影響がことさらに無視・過小評価されてきたのに対し、今回の事態に際してこれらの問題が非常に重大な問題であることがもはや隠し通せなくなった、ということである。
 仮に原発が安全基準をクリアした確立した技術に基づいているとすれば、今回のような福島の事態は起こるはずがなかった。しかし、早くから指摘されてきたように、①核分裂反応により、人体に深刻な影響を及ぼす放射線を出すし、その放射線は無害化できない(放射線が自らを弱めていくのを待つ以外にないが、半減期の長い放射性物質であればあるほど長い期間にわたって放射線被害の危険が持続する)、②発電によって生みだされる放射性廃棄物(及び廃炉される原発)の最終的処分のめどはない(ため込むしかない)、③核分裂反応を完全に人為的に制御することは不可能、という人知では克服し得ない本質的かつ致命的な欠陥を原発は内包している。「原発は致命的な欠陥商品」と言わなければならない理由がここにある。福島第一原発のケースは、そのことを余りにも高すぎる犠牲を生みだして証明したということなのだ。

<何故「原子力平和利用」神話か?:アメリカの核政策を見きわめる>

 紙幅が限られているので結論をいえば、アメリカの核政策の根っこにあるのは、核(原子力)エネルギーを解放したことは正しかった、広島・長崎に対する原爆投下は正しかった、したがって将来的にも核兵器使用が正当化される場合がある、しかも核兵器・核エネルギーを野放しにすることはアメリカの安全保障を脅かすからできるだけアメリカのコントロール下におきたい、ということだ。そのために日本を含めた同盟国に対して拡大核抑止(「核の傘」)政策を行う(日米安保が核軍事同盟である所以)ことになる。つまり、1945年以来の核政策を将来にわたって堅持するという結論が先にあり、そのためには広島・長崎に対する原爆投下は「犯してはならない誤りだった」ことを絶対に承認しないのだ。逆に言えば、アメリカをしてその核政策を改めさせるための出発点は、アメリカをして広島・長崎に対する原爆投下の誤りを承認させることである。
 多くの被爆者が生存して広島、長崎に放射線被害に苦しんでいることを認めざるを得なかったアメリカがとった政策は、その事実を隠す(原爆がもたらす放射線被害の残酷を極める、犯罪的・反人道的な本質が明らかになれば、そのような兵器を使用したアメリカの戦争責任が国際的に問われることを恐れた)とともに、「核=キノコ雲」のイメージを払拭するために「原子力平和利用」計画(1953年にアイゼンハワー政権が打ち出したatom for peace提案)によって原子力発電を本格的に推進することだった。国際問題研究者の新原昭治氏がアメリカ側の文献に基づいて明らかにしているように、その際に原発の安全性に関する検討が行われた形跡はない(『非核の政府を求める会ニュース』10月15日号)。つまり、軍事核戦略を正当化するための「イチジクの葉」として利用されたのが「原子力平和利用」計画だった。本質的な欠陥商品を「原子力平和利用」の目玉として売り込む政策の必然的な帰結がスリーマイル、チェルノブイリそして福島だったということだ。
 この点でどうしても指摘しておかなければならない事実は、オバマ政権のもとにおいても、以上のアメリカの核政策は微動だにしていないことだ。世界、特に日本においては、オバマのいわゆるプラハ演説(2009年4月5日)以来、オバマは「核のない世界」の実現を目指す大統領というイメージが作り上げられた(その点に関する日本を含めたマス・メディアの責任は実に重い)。しかし、オバマ政権3年余の実績が雄弁に証明している事実は、「核のない世界」はせいぜいビジョンに過ぎず、核抑止力を堅持し、原発推進をはじめとする「原子力平和利用」政策を推進する点でオバマ政権は従前の政権となんら変化はないということだ。

<アメリカの犯罪的政策に加担した日本と私たちの責任>

日本の戦後保守政治は、平和及び核にかかわって、いくつかの致命的な犯罪的政策を選択・遂行してきた。それは「仕方なし」の平和憲法・国民主権・民主化の受け入れに始まったが、米ソ冷戦激化を受けたアメリカの対日政策の180度の転換による、日米安保条約締結を引き替えにした独立回復、アメリカの核政策(「拡大核抑止(核の傘)」)の積極的受け入れに集中的に具体化された。原爆体験に基づいて戦争放棄を定め、平和立国の方向性を打ち出した日本国憲法は、戦後保守政治によって一貫して目の敵扱いされてきた。1年余の政権運営が余すところなく明らかにしたように、民主党政治も核・安保政策において自民党政治と何ら変わるところはない。
しかし、広島・長崎が人類に残した最大の歴史的教訓は、戦争はもはやあり得ない・あってはならない政策的選択肢であるということ、福島が今改めて語っていることは「原子力の平和利用」もまたあり得ないということだ。広島・長崎を体験した私たち日本人がなすべきは、アメリカをして核固執政策を改めさせること、そのためにも「核兵器の使用は正当化される場合がある」とする出発点にある発想の誤りをアメリカ自身に認識させることである。そして、「原子力平和利用」という考え方は成り立ち得ない神話であり、私たちは脱原発によってのみ21世紀以後の人類の明るい展望を切り開くことができるということを、日本こそが世界の先頭に立って実践して証明することでなければならない。そのためには、日米核軍事同盟を清算し、平和憲法に基づいて戦後日本政治のあり方を根本から改めることが求められる。福島の悲劇的教訓を生かすのはこの道をおいてほかにはない。

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