台湾訪問

2011.09.21

*9月15日から19日まで、作家・陳映真に関する私の理解をお話しする報告会に出席(16日)し、また、1971年に始まった釣魚島(尖閣列島)「保衞」運動(大陸、香港及び台湾では「保釣(運動)」と略称)の40周年に際してこの運動の中国現代史における意義と今後の課題を討議するシンポジウム(17日及び18日)にパネラーとして出席するために久しぶりに台湾を訪問しました。前回訪問したのは、陳映真がまだ元気で、彼と私にとっての共通の友人であった李作成が亡くなったので、桃園にある彼の墓を陳映真が案内してくれるということで、確か1992年に娘ののりこを伴って訪れたのが最後でしたので、ほぼ10年ぶりの再訪ということになります。陳映真の言動の今日的意義を研究テーマにしている台湾・交通大学の陳光興教授が今年2月に広島にいた私にインタビューしに来訪し、それがきっかけで私の台湾訪問を彼がアレンジしたというのが経緯でした。
 羽田空港-松山空港(台北市内)の便(飛行時間3時間弱)ということで時間的にとても効率がよく、到着後2時間ほど陳教授が私が台北時代に住んでいた辺り(羅斯福路3段と師範大学界隈)を案内してくれましたし、翌朝(報告会は午後でした)も陳教授の助手役の若い二人の院生が台湾大学を案内してくれて、ちょっとしたsentimental journeyも楽しむことができました。私が住んでいた平屋は影も形もありませんでしたが、日本の植民地統治時代の平屋がまだあちこちに残っていましたし、台湾大学などはわざわざこれらの平屋が集中する地域を保存地区としているなど、大通りから路地裏に入ると、結構1960年代を思い出せるような雰囲気が残っていたのは感激でした。さすがは歴史の民だけのことはあります。また、講演会は台湾・清華大学の台北事務所でしたが、シンポジウムは新竹の同大学キャンパスで行われましたので、台北から新竹への移動に際しては新幹線に乗車する機会にも恵まれました。台湾の清華大学にしても交通大学にしても、元々は大陸の同名の大学に由来するのですが、大陸と台湾のそれぞれの大学の関係についてはまったく異なる説明を受けました。陳教授は、今や両地の大学間には緊密な協力関係があり、相互に学生を受け入れていて、単位も相互に認め合っていると言っていましたが、私に付ききりで世話をしてくれた院生・胡清雅さんは、大陸側は台湾側の存在自体を認めておらず、どちら側も相手からの留学生を受け入れてはいるが、別に清華大学生、交通大学生だからといって特権・別枠が与えられるわけではない、とまったく別の話でした。どちらの説明が事実なのかは確かめることはできませんでしたが、大学・大学院レベルで活発な相互受け入れ体制が動いていることは将来の安定的な両岸関係(台湾海峡をはさんだ大陸と台湾との関係のこと)を展望する上ではとても重要なことだと思いました。
 ここでは、報告会とシンポジウムにかかわる雑感を中心に気づいたことをまとめておきたいと思います(9月21日記)。

1.報告会

 報告会では、陳映真を慕っていて私の平屋を何度も訪れたことがある丘延亮とも再会しました。1963年に陳映真に連座して台湾大学1年生という若さで逮捕されて3年あまり服役し、出獄後はアメリカに留学し、台湾に戻ることが認められなかったのでずっと香港の大学で教え、6年前にやっと台湾への帰国が認められたということです。彼は1989年の天安門事件に際しては、香港で中国の学生に対する支援運動で重要な役割を果たしたために大陸側ににらまれ、それ以来大陸側のブラック・リストに載っていて大陸訪問はできないでいる、と笑いながら話していました。ちなみに彼の話で、私たちが「石門景象文明」(年齢の順番に李作成、呉耀忠、陳永善、浅井、陳述孔、邱延亮)の契りを結んだこと、6人のうち今生き残っているのは、病床にある陳映真を除けば今や二人だけであることを今更ながらにしみじみと確認し合い、時の流れを実感しました。彼とは実に46年ぶりの再会でした。
 また、陳映真が出獄後にさまざまな活動を行い、その中で知り合い、活動を共にしてきた老中青の各世代の人たちの参加者もあり、とても暖かい雰囲気が充ち満ちていました。私の世話をしてくれた胡清雅さんもそうですが、陳映真の温かい人柄、ヒューマニズムに満ちたその思想に深く共感する若い人々の出席が少なくなかったことは、もっとも印象深いことでした。私は用意した原稿(その内容はこのコラムで紹介しました)をほぼそのまま読み上げる形でお話しした(通訳を介しながらだったので約2時間かかってしまいました)のですが、胡さんが1968年の警備総司令部の陳映真たちに対する判決書(判決は同年12月31日だったようです。私は外務省にいた時にざっと読んだ記憶はあるのですが、当時は戒厳令下で極秘文書だったこの文献も、民主化が進んだ台湾では今や公開されるまでになっているのでした)のコピーを到着した夜の非公式な食事会の席上で渡してくれましたので、その判決書の内容でいくつかの事実関係に関する私の記憶違いを訂正・補足しました。私の最大の記憶違いは、判決書が私を事件の黒幕としつつ名指しはしなかったと記憶していたのですが、実際には「浅井××」と明記していることでした。また、李作成と一緒に住むようになった時期は台湾到着後の1963年内のことだと記憶していたのですが、判決書によれば、1963年に知り合って1964年になってから一緒に住むようになった、とありました。その彼を介して陳映真たちと知り合ったとありますので、陳映真との交流は1964年になってからのことだったようです。
 ちなみに、私が李作成と知り合った経緯についても、丘延亮が報告会後の食事会の席上で教えてくれました。李作成は包亦明の友人で、包と一緒に住んでいたことがあり、その過程で私と知り合い、包が西ドイツ(当時)に留学した後、私と一緒に住むようになったのではないか、というのでした。他の参加者の説明では、丘延亮の姉は蒋緯国(蒋介石の次男で、蒋介石死後に台湾総統になった蒋経国の弟)の妻で、彼も包も国民党高級幹部の子弟である点で共通していたのです。しかし、陳映真自身は包とはほとんど面識もなく、陳映真を尊敬した丘延亮が彼に近づいていったということだったようです。これも丘延亮の教えてくれたところによると、私は李作成が当時の彼女と一緒になることを彼女の親に反対されて果たせなかったと思っていたのですが、実際は結婚したとのこと。しかし、1968年に李作成が逮捕されたために、彼女は離婚を強いられて実家に戻ったということでした。
 私の長い報告の後、約1時間半の質疑応答及び討論の時間が設けられましたが、これまた非常に興味深いものでした。思い出すままにまとめると、次のような内容がありました。
<陳映真の1960年代当時の思想状況に対する台湾での受けとめ>
 参加者の中には、陳映真が当時既に共産主義思想にかなり蓄積を持っていたのではないかという認識を前提に、彼と私との間では毛沢東やレーニンの個々の文章に関する突っ込んだ意見交換や討論が行われたのではないか、という質問が提起されました。私は、私が持ち込んだ毛沢東選集やレーニン選集に接するまでの陳映真はそういう文献を読む機会はなかったことは明らかで、また私自身もこれらの文献を読みかじった程度で突っ込んだ議論ができるレベルからは遠かったので、そういうことはなかったということを紹介しました。彼が思想、認識を深め得たのは、私が持ち込んだ文献を私の後任者に引き継いで、陳映真らが引き続き読む機会を確保できたからだ、ということです。「偉大な人物」に対する評価は往々にして過剰になる傾向があるのが常ですが、陳映真についても例外ではないことを確認した思いでした。
<陳映真の三つの思想的ブレークスルーの契機>
 陳映真を研究している一人の参加者は、彼には三つの思想的なブレークスルー(「突破」)の契機があったという説明をしました。最初の契機は、彼が21歳の若さで作家デビューをしたこと。二つ目は私との出会い、三つ目は緑島での監獄生活時代に「老政治犯」(国民党統治下の台湾で共産党員として地下活動をして逮捕・収監されていた人々)と知り合ったことです。私はもっぱら陳映真と知り合ったことでその後の私という人間形成があったと感謝しているのですが、その人によると、私と知り合ったことは陳映真にとってもその後の彼の人生・思想形成において重要な転機となったことは間違いない、ということでした。思いもしなかったことだったので、大変おもばゆい気持ちになるとともに、素直に「光栄だな」とも感じました。もちろん、私自身の存在というより、私が持ち込んだ文献が重要な役割を果たしたということであるのでしょうが。また、三つ目の「突破」というのは、政治的信念を貫いている無名の人々の存在に気づかされ、陳映真が自らの信念・確信に忠実であろうとする立場を確立する契機になったということでした。
<陳映真たちの逮捕のきっかけ>
 私は単純に、1968年に私が台湾を再訪して陳映真と会ったことが彼らが逮捕される直接の原因だったのだろうと思っていたのですが、実は彼らに関する情報を密告した存在があったことが原因であったということを陳映真自身が後に書いており、また、密告者とされている楊蔚(「政治犯」「思想犯」として監獄生活を送った経歴の持ち主)と結婚した(後に離婚)経歴を持つ作家・季季がその著書『行走的樹』(今回の訪問の際に入手できました)でも断定的に書いています。季季自身もこの報告会に出席しており、私にいくつかの質問をしていました。季季の本によると、楊は出獄後も国民党の厳しい監視下にあり、深い交友関係にあった陳映真らに関する情報提供を行うことを強いられていたということのようです(ちなみに、この本には当時の台湾の若いインテリ達と吉田重信、池田維、そして私の3人の外交官補との交友関係についての記載もありましたが、事実関係を十分踏まえていないお粗末な内容です)。
<陳映真の思想的立場に対する評価>
 陳映真に対しては、「中国にのめり込みすぎた」「親大陸派」というレッテルが貼られていますが、丘延亮などによりますと、陳映真は改革開放政策以後の中国に対しては、そのかくかくたる経済的成果そのものは評価するけれども、改革開放政策そのものが果たして社会主義の本道を行くものであるかどうかという点については留保があったし、特に天安門事件以後の中国政府の思想的取り締まりに対しては厳しい批判を公開された論評などで容赦なく行っていたのであって、以上のレッテル貼りはおかしいというものでした。私自身も関心のある点ですので、今後機会があれば陳映真の発表した論評などを読んでみたいと思いました。

2.シンポジウム

 1971年に在米の台湾、香港の中国人留学生を中心にして起こった釣魚島(尖閣列島)に対する中国の主権を守ろうとするいわゆる保釣運動に関しては、私はこのシンポジウムに出席するまではほとんど関心もなく、無知の状態でしたが、シンポジウムには運動発足当時からの活動家(「老釣」)も何人か出席して報告、発言を行いましたし、陳光興教授など研究者による報告などもあったので、個人的には収穫が多いものでした。私の印象に残った点を中心にまとめておきます。
<領土問題と民間運動の意義と限界・課題>
 1971年に保釣運動を在米中国人留学生が中心になって起こしたのは、国交関係が微妙になりつつあった日台関係のもとで動きが鈍かった台湾政府、日中国交正常化前でまだ領土問題に本腰を入れるまでになっていなかった中国政府に対して、沖縄返還問題で動いていた日米関係に危機感を抱いたことが発端だったようです。生のナショナリズムを刺激する領土問題なので、運動参加者はさまざまな思想背景の持ち主だったようですが、ナショナリズムが運動の求心力として働いたということでした。日本の21箇条の要求を契機にして起こった五・四運動に匹敵する意義を持っていたという評価も行われました。しかしその後運動は複雑な経緯を辿り、特にこの問題が日中両政府間の主題に登るとともに、民間の運動としてのエネルギーは失われることになり、今回のシンポジウム自体が示すように、運動そのものをどのように総括するのか、民間運動としての方向性・存在理由をどのように位置づけるのか(そもそも積極的に位置づけることは可能なのか)、運動の担い手となるべき若い世代の問題関心を惹き付けることができるのか等々、正に存在理由そのものが問われているというのが私の受けたもっとも強い印象でした。
<私の発言>
 私は、シンポジウム最後の綜合討論に出席して発言したのですが、次のようなことを述べました。
-尖閣諸島(釣魚島)の領有権問題は、植民地主義・帝国主義時代の権力政治によって作り出された歴史的に積み残された問題ということが本質であり、両国の狭隘なナショナリズム感情を刺激するものとして、理性的に解決することが難しい。しかし、21世紀の人類史の流れ(人間の尊厳という普遍的価値の世界的確立、相互依存の不可逆的な進行、環境問題を始めとする地球規模の諸問題の山積、福島第一原発で改めて露わになった人類の生存そのものを脅かす核の脅威)の中に位置づけ冷静に対応するという視点を確立することが重要であるし、そうしてのみ生産的な解決への道筋を考えることができるはずだ。
-尖閣問題について考える時には、アメリカというファクターを抜きにして考えることは非現実的になることを免れない。台湾の領土的帰属未決論自体がアメリカの中国封じ込め政策の産物であると同じように、尖閣問題についても、日中両政府の主張とは別に、カイロ宣言、ポツダム宣言、対日平和条約などで第二次世界大戦終結に際して領土問題が扱われた際に、中国も参加した国際的解決の可能性があったにもかかわらず、アメリカがことさらに自国本位の考慮から問題を曖昧にした(もっとも尖閣問題の存在自体が明確に意識されたことがなかったというもう一つの問題もある)ことを忘れるわけにはいかない。アメリカ政府は、日米安保条約は尖閣に適用があるとすることによって中国を牽制することを忘れないが、尖閣の領土的帰属については日中間で解決されるべきでアメリカとしては発言しないとしているが、これは正に日中関係に障碍をおく意図に出るものであることは明らかだ。アメリカの対アジア政策に振り回されることを許す限り、台湾問題同様に、尖閣問題を解決する展望は生まれにくい。
-会場からも指摘があったように、尖閣問題を含む歴史的に残された課題の解決を考える場合、日本人の「過去を水に流す」式の国際的に異常な歴史感覚を根本的に改めることが不可欠である。第二次世界大戦後の日独比較ということがよく提起される(このシンポジウムでも提起されました)が、両国の違いの一つの重要な要因は歴史感覚の問題にある。日本人が歴史問題を直視する感覚を身につけることも、尖閣問題(及び韓国との竹島問題)の円満な解決にとって重要な要素となるにちがいない。

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