私における陳映真と1960年代の台湾

2011.09.02

*9月15日から19日まで、私の生涯の畏友である陳映真にかかわるお話しと尖閣問題に関するシンポジウムの出席のために、約10年ぶりに台湾を訪問する予定になっています。陳映真の名前については、拙著『ヒロシマと広島』でも触れたのですが、今回お話しの原稿を準備するに当たって、改めて陳映真の私における存在の重みについても思いをまとめる機会を得ました。私の個人史に過ぎないのですが、台湾問題を考える上でも記録に残しておくことは何等かの意味があるのではないかとも思いましたので、用意した原稿を記載します(9月2日記)。

一. 私における陳映真を理解するための前置き

1.はじめに:陳映真に出会うまでの私

 私が1960年代の中頃に台湾に約2年間住み、陳映真と知り合ったことにより、私のこれまでの生き方に陳映真の存在がどれほど大きな位置を占めてきたかを知っていただくために、私自身のことについて必要最小限の範囲でお話しすることから始めさせていただきたいと思います。

<霧の中をさまよっていた私>
 私は、中学生の頃から死に対する恐怖感に襲われて夜中に飛び起きることがしばしばという体験の持ち主です。死の恐怖感と対抗するために、とにかくしゃにむに勉強するという感じでした。東京大学を受験したのも、外務省採用試験に挑戦したのも、とにかく私には手が届きそうもない高い目標を定めて、ひたすらそれに食らいつくことで、自らの存在を確かめるという気持ちが潜在的に働いていたのだ、と今にして思います。要するに、内向的な性格だったのです。
また、私は6人兄弟の5男として生まれたのですが、戦時下とはいえ、5歳になるまでは末っ子として両親の愛情をいっぱいに受けて育ったこと、小中高の時代には戦後の苦しい状況の下で両親が6人の息子の大学進学のために自らを省みるいとまもない懸命な生き様を間近に見ながら生長したことなどもあってか、自分で言うのも変ですが、他者のことを自然に自分の思考の中に入れるようになりました。
そのような生い立ちを背負った私が外務省派遣の語学留学生として台湾に来たのは1963年7月でした。台湾は、私にとって最初の外国でした。私は愛知県の田舎で高校まで過ごし、東京で生活したのは東京大学での3年間と外務省に入ってからの研修期間の3ヶ月だけの世間知らずでしたから、台湾に着いた時、私は、社会のことについてはほとんど無知、白紙の状態でした。私の現実社会とのかかわりでの体験といえば、大学入学直当時最高潮に達しようとしていた日米安保条約改定反対闘争に思想的な準備のないままに参加したことぐらいしかありません。
 正確に言いますと、私は高校生の時から反共・反平和憲法・反動的な自民党政権には、素朴な感情的なものにすぎなかったにせよ、反発を持っていました。高校2年の時に校内新聞でそういう趣旨の文章を書いたことが、かすかですが記憶にあります。自民党政権ひいては日本の政治を支配していたアメリカに対しても素朴な反感がありました。ですから、自民党政権とアメリカとを軍事的、政治的に結びつける基盤になっている日米安保条約に対してもとにかく反対という気持ちがあったのです。その関連で、アメリカが東アジアに張り巡らせていた、米華相互援助防衛条約をはじめとする反共・反中ソの軍事同盟に対しても「とにかく反対」という気持ちは持っていました。そして同時に、アメリカ覇権主義反対を全面に掲げていた社会主義・中国に対して素朴な好感を覚え、日米両国とスクラムを組んで中国との軍事的対決を呼号していた蒋介石政権には強烈な違和感、というより強い反感を抱いていました。ですから、大学に入ってすぐ反安保闘争に参加したのは、私にとってはごく自然な流れだったと言えるのです。アメリカの世界的な軍事覇権主義に反対し、戦後日本の保守政権がアメリカ追随の政策にしがみついて日本の民主化を妨げる壁になっていることについては、私は現在に至るまで反対しています。
 ちなみに、今日における台湾の政治状況と日本のそれとを比較する時、人民の政治的主体性が政治変革のカギであることを思い知らされます。即ち、反安保闘争という大衆運動が日本人民の政治的主体性を生むことはなく、人民が政治の主人公になるという意味でのデモクラシーが日本に定着することにはなりませんでした。このことは、台湾において、蒋介石独裁暗黒政治を克服し、今日の民主化の定着が台湾人民自身の粘り強い闘いによって可能になった(同じことは、フィリピン、韓国、タイなどについても言えます)ことと比較しますと、私たち日本人にとりましては、とてつもなく大きな挫折であったと言わなければなりません。「権力・権威に対して頭が上がらない日本人の主体性のなさ」という歴史的・文化的に染みついてしまった精神的障壁を徹底的に克服し得ないかぎり、日本はいつまでたっても政治的な後進国であり続けるでしょう。

<外交官を志望した動機>
 話を元に戻します。反安保闘争の嵐が過ぎ去ったあと、私はいわば荒野で方向感を失って立ちすくんでいる感じでした。もともとそこに東大という最難関があったから挑戦した(登山家が言う「そこに山があるから登る」というのと同じ感覚でしょうか)に過ぎず、大学に入って何をしようという問題意識があったわけでもなかったのですから、方向感を失ったのはいわば必然であったといえます。一時はそれでも気を取り直してまじめに大学の講義を受けようと気持ちの切り替えを図ったことがあります。しかし、「勉強する」という高校生時代までの幼稚な発想のままでしたし、「学問する」ということの本当の意味を考え、理解し、認識するという次元からは遠かったので、秀才揃いの東大ではすぐに壁にぶち当たりました。ちなみに、学問することの楽しさを意識するようになったのは、正確に言うと、外務省時代の最後に1986年に約1年間イギリスの国際戦略問題研究所(IISS)で特別研究員生活を過ごした時になってからですから、私は知的にはかなり「奥手(中国語:成熟的晩)」と言わなければなりません。
大学の講義だけでなく、大学生活そのものに積極的な意義を見いだせなかった私は、早く大学を抜け出したいという気持ちと、何か挑戦できる具体的なものを求める気持ちから、大学3年でも受験できる、難関と言われていた外交官試験に挑戦することにし、運良く合格したのです。当時は今日と異なり、大学中退がハンディにならない職種としては、外交官試験か、弁護士資格が得られる司法試験しかありませんでした。どちらも難関であることには変わりなかったのですが、司法試験はとても受験科目が多く、しかも私も一応法学部生でしたが、法律は苦手で政治系に進んでいたほどですから、最初から選択の余地はなかったし、私はどちらかといえば政治・外交には興味があり、しかも受験科目の内容からいっても短期決戦(約1年弱)で勝負ができるかも知れないとも思えたので、外交官試験にしぼったのでした。私は「金儲け」的なことにはまったく関心がなかったので、民間企業という選択肢ははじめからありませんでした。
 しかし、「山があるから登る」的な動機が主ですから、合格すること自体が目的であり、外務省に入って何をしようとするか、ということまでは深く考えていませんでした。私の内向的な性格から見て外務省に入るのは再考した方がいい、と忠告してくれる大学の友人もいましたが、とにかく大学を抜け出したかった私には再考する余地はありませんでした。要するに、深い考えもなく、外交官としての「人並みの立身出世」を漠然と考えながら外務省に入ってしまった、というのが正直なところでした。

<なぜ台湾に行ったのか>
 外務省に入ってまず受ける語学研修で中国語を選んだのは、高校生の頃から、毛沢東、周恩来が率いた中国革命の成功と社会主義・中国の新鮮なイメージがなんとなく私の中に育っていたためもあって、私は外務省では中国問題にかかわりがある仕事をしたいという気持ちがあったという単純な理由からでした。中国関係の仕事にかかわりたいならば、志望者が多い英語やフランス語ではなく、中国語を選んだほうが中国関係の仕事に就く確率が高くなるというアドヴァイスを、大学では一年先輩で外務省では一年後輩になる、今自民党の代議士をしている加藤紘一から受けたのです。
私としては親近感が強かった中国で語学研修をしたかったのですが、国交もない「敵性国家」であった中国に行けるはずもなく、行き先は当時国交関係のあった台湾しかありませんでした。「蒋介石の支配する台湾か」と思うと、まったく気乗りしませんでしたし、台湾での生活には何の期待感も抱けなかったというのが正直な気持ちでした。とにかく中国語を習得するためと割り切るしかない、と自分自身に言い聞かせた記憶が残っています。
 台湾での生活に関しては、単に語学としての中国語を習得するだけで時間を過ごすのは味気なく、社会主義・中国について理解、認識を深めたいと思いました。大学在学中から読みかじっていたレーニン選集、マルクスとエンゲルスの主要な著作(文庫版)、日本語版の毛沢東選集、魯迅の二、三の著作に加え、中国語の勉強にもなるからと思って、中国語版の毛沢東選集を買い求めて持って行きました。蒋介石独裁のもとではこれらの本は禁書だという程度の知識はありましたが、いわゆる外交特権で入国に際して携帯品をチェックされることはないからかまわない、という軽い気持ちでした。
外務省に入って3ヶ月間、外務省の研修所で初歩の中国語の訓練は受けましたが、ピンインが分かる程度になったぐらいで、台湾に着いたときは聞き取ることも話すことも何一つできない、まさに白紙の状態だったのです。中国語は師範大学「国語中心」で学び、また、一応籍をおいた台湾大学で好きな課目を受講する(大学3年中退という学歴しか残っていない私の場合、正規の学生ではなく「傍聴」生でした)というのが当時の外務省派遣語学留学生のお決まりのパターンでしたが、私には、もともと三民主義を学ぶのは勘弁してほしいという気持ちが強かったので、台湾大学には最初に数回顔を出した程度で、ほとんど通った記憶はありません。当時の台大の教授陣は大陸各地から台湾に来た外省人が多く、標準語(普通話)をまったく話さないのでますますついて行けませんでした。

<最初の親しい友人・李作成>
私は、「国語中心」で語学として中国語を習うことに気持ちが入らず、台北生活半年を経ずして(という記憶があるのですが)、羅斯福路三段25号に一軒家(比較的に大きな居間と3つの個室付)を借りて、私が一室、その前後に友人になっていた李作成に他の一室にマン・ツー・マンの家庭教師として住んでもらい、自分の興味・関心に即して実践的に中国語を学ぶ環境を作りました。李作成にとっては家賃負担がなく、食費もかからないというメリットはあったのだと思いますが、それにしても、日本の中国侵略戦争の惨禍を体験し、親とも離ればなれになって子どもの身で台湾に移ってきたという過酷な戦争体験を背負った彼にとって、日本人である私と一緒に一つ屋根の下で生活することにはかなり違和感、葛藤があっただろうと、今にして思います。
李作成は、いわゆる外省人で、年齢も私より十歳は上だったと思います。彼は、私の記憶に間違いがなければ、台北で学校の教師をしていたように思います。台湾には一人の身寄り、親戚もなく、自ら天涯孤独と言っていました。ただ、国民党軍の高級将校の娘であるかなり年下の、とても内気で、美人で、気立てがよい彼女(確か姓は「萧」でした)がいて、時々遊びに来ていましたが、彼女の親が強く反対したために、結局彼女とは一緒になることはできなかったそうです。はじめての異国ですぐには溶け込めず、しかももともと内向的だった私にとっては、快活で話し好きな李作成はいうならば「兄貴」のような存在でした。私の家では一人阿姨を雇って、掃除洗濯のほか食事も作ってもらっていたのですが、李作成は料理が得意で、時々彼が腕をかけて作ってくれた手料理がおいしくて楽しみでした。
私が李作成と知り合うようになったきっかけは残念ながら思い出せません。外務省から派遣されて台湾に語学留学していた先輩諸氏は、当時の台湾の知識分子たちと交流し、その交流関係を代々後輩に引き継いでいくという流れができており、私も一年先輩の池田維に誘われて、彼の家で開かれていたそういう集まりに顔を何度か出したことがあります。この知識分子の中心にいたのは、確か国民党高級幹部の子息である包亦明という男で、後に西ドイツ(今日のドイツ)に留学したと聞きました。池田の家に、いちどきに十数人~二十数人が集まってワイワイがやがや、国民党批判を含めてさまざまなテーマについて議論するといったサロン的な雰囲気で、私は中国語がまだ付いていけないこともありましたが、なんとなくこの集まりの醸し出しているスノビッシュ(snobbish 中国語:假充正经)な雰囲気、また、特権階級の子息たちが集まってつかまる心配もなく無責任に(と私には感じられた)放談して溜飲を下げているという自己満足的な感じは性に合わず、すぐに寄りつかなくなりました。しかし、李作成と知り合ったのはこの集まり、会合の席であったかも知れません。というのは、そのほかに彼と知り合えるような機会、状況はほかに思い出せないからです。しかし、すでに述べたような彼の身の回りのことを考えると、こういう虚勢を張って粋がっている(中国語:摆虚架子)高級幹部子弟中心の集まりに彼が参加していたということも考えにくいことです。会場にいる皆さんの中で李作成の当時の事情をご存じの方がおられたら、是非教えてください。
李作成はいつの日にか大陸に戻りたいとよく話していました。ただし、思想的に社会主義に共鳴するということでは必ずしもなかったと思います。陳映真と仲がよかったということは、当時から社会主義・中国に対する拒否感とは無縁だったということではないでしょうか。彼が1968年に逮捕されたのは、陳映真と仲がよく、そのグループの一員と見なされたからでしょうが、彼自身は「思想犯」ではなかったと思います。
私が陳映真と知り合ったのは、彼が李作成を私たちの住んでいた家を訪問してくれたのがきっかけだったと思います。李作成のおかげで私は陳映真と知り合うことができたのです。しかも、一軒家で居間もまずまずの広さがあった空間は、陳映真を慕う友人たちも時折顔を覗かせ、陳映真がリラックスして、時折、ギターを弾きながら「ムーン・リヴァー」をバスのよい声で私たちに歌って聴かせてくれる格好の場になるのにそんなに時間はかからなかったと思います。

2.当時の台湾の政治情勢

 蒋介石(-1975年)、蒋経国(1975年-1988年)、李登輝(1980年-1990年:総統代行、1990年-1996年:総統)、陳水扁(1996年-2008年)、馬英九(2008年-)と、国民党政権による一党独裁政治から民進党と国民党の二大政党による競合による民選総統政・代議政デモクラシーへと漸進的に歩みを進めてきた台湾政治のあり方につきましては、「台湾式デモクラシー」として私は注目しています。このような台湾内政の歩みは、私が台湾にいた1960年代前半のころには想像もつかないことでした。それは、私の想像力が不足していたこともあるでしょうが、当時を記憶している方であるならば、おそらくほとんどの方も同意されることではないか、と思います。台湾社会の民主化は、東西対立の緩和・解消、中国における政治優先から経済建設中心(改革開放)への路線転換という外的環境の好転を背景として、大陸反抗を呼号した国民党政権の行きづまりと世界的な民主化傾向の波及などの要因によるものだと思いますが、1960年代にはこれらの要因は影も形もなかったのです。
 このことを強く申し上げたいのは、陳映真という人間とその思想、活動を正確に認識し、評価する上では、今日的な視点、判断のモノサシを機械的に適用するのではなく、陳映真が自らの人間性を形成し、思想を鍛え、かつ苦悶した当時の台湾の政治状況の中において彼を知ろうと意識的に努力することが不可欠であると考えるからです。これは、日本の高名な政治学者である丸山眞男が「他者感覚(中国語では「換位思考」という言葉がこれに当たると聞きました)」、「歴史感覚」という言葉で強調していることです。

<蒋介石政権>
私の孫文及び三民主義に対する認識は、正確な歴史認識及び三民主義思想の現代中国史における位置をわきまえない独断と偏見に基づくものであったことをようやく近年、大学の世界に身を置くようになってから、認識することになりました。しかし、国共対立の中国の近現代史についてはほんの少しは学んでいたとはいえ、思想的には何の素地もないままで20歳代前半に台湾で生活し、社会主義・中国に素朴な親近感を抱いていた私には、孫文にも三民主義にも何の理解もなく、したがってまったく関心は持てませんでした。台湾大学でまじめに勉強する意志が湧かなかったのは、そういう私の当時の思想水準の反映だったのです。
また、1947年に起こったいわゆる二・二八事件の記憶は当時の台湾社会では生々しいものがありました。二・二八事件によって民心を完全に失い、アメリカ(及び日本)の庇護に頼って大陸反抗(「光復大陸」)の夢にしがみつき、そしてなによりも民間の経済的活力を引き出すよりは国民党による主要経済部門(重工業)の支配にのみ関心があった蒋介石政権は、自らを「台湾人」「本省人」と名乗る多くの人々にとって、植民地支配をしていた日本軍国主義に勝るとも劣らない忌むべき存在であることが、私のような外国人の目から見ても明らかでした。要するに、さまざまな権力的暴力装置によってのみ辛うじて政権の座にあったのが当時の蒋介石政権でした。

<1960年代前半期の社会的雰囲気>
したがって、当時の台湾社会の雰囲気は、私のような一外国人の目から見ても、重苦しい空気が沈澱していたように常に感じられました。二・二八事件の再発及び共産主義の浸透を未然に防止するべく社会の隅々にまで配置された特務機構の監視の目は厳しく、政府批判することはもちろん、政治的な話題を口にすることさえ憚られる、そんな状況でした。台湾独立を唱えることも共産主義に共鳴することも、思想犯罪として厳しく取り締まられていたのです。言論の自由はまったくありませんでした。
もちろん、台湾社会が完全に沈黙に追い込まれていたというのは必ずしも正確ではないと思います。私は台湾に住むようになってからそれほど時をおかないで、彭明敏らの台湾独立論の存在を知りました。アメリカや日本などに拠点をおいて台湾独立運動を模索する動きが存在するという話を聞き及んだ記憶もあります。
また、すでに触れましたように、包亦明を中心としたいわゆる外省人の特権支配階級の子弟を中心とした、国民党による独裁政治を批判する議論を行っている知識人青年のグループの会合に顔を出したこともあります。台湾到着後間もないころだったので、私の当時の語学力ではほとんどその内容は理解できませんでした。しかし、特権支配階級の子弟で、つかまる心配もない安心感を前提にした彼らの議論には、私はなんとなく「白々しさ(中国語:装傻充愣)」を感じてならなかった記憶がありました。私は、包亦明の弟の包亦洪とはしばらくつきあった記憶がありますが、彼は、兄たちの反体制気取りに反発して徹底したすね者(中国語:脾气别扭)の悪ガキに徹していました。いずれにせよ、当時のこれらの外省人の青年層の中には明らかに自らを本省人と区別する意識がありましたし、本省人に対する微妙な(時には露骨ですらある)差別意識が働いていたと思います。この点においても、私には陳映真と李作成の省籍には無関係の交友関係に新鮮な驚きと強い共感を覚えたものです。二人を結びつけていたのは、なによりも「中国は一つであるべきだ」というナショナリズムだったと思います。
私は、どういうきっかけで知り合ったかは残念ながら思い出せないし、名前すらも思い出せないのですが、基隆に実家がある勤勉家で慎重な言動を心掛ける台大生(私が借りた平屋に一時一緒に住んでいてくれたことがあります)と嘉義に実家がある、ストレートで頭の回転の速い台大生(客家人でした)の二人の友人もいました。二人の実家にも遊びに出かけ、夕食も招待してもらったかすかな記憶があります。そういうごくごく断片的な記憶をつなぎ合わせてみる時、本省人(台湾人)の政治意識というのは、日本の占領支配が終わった直後には解放感と将来に対する強い希望があった、しかし大陸から逃げ込んできた国民党軍が支配者然として居座り、腐敗を極め、しかも横暴かつ傲慢だったので、期待感が大きかっただけにその反動としての幻滅感、失望感は激しく、裏切られたという思いが外省人一般に対する反感を植え付けた、と大ざっぱにまとめることができるのではないかと思います。「犬(日本)が去り、豚(国民党)が来た」、「豚(国民党)に比べれば犬(日本)の方がましだった」という例えをしばしば聞いた憶えもあります。

ずいぶん前置きが長くなりましたが、私に関して最低限以上の予備知識を踏まえておいていただかないと、私における陳映真という人物の位置・重みを正確には認識していただけないと思い、お話ししたことを理解していただきたいと思います。

二.陳映真と私と台湾・中国

1.陳映真と私

 私の生き方・人生そのものは、陳映真との出会いによって大きく方向づけられたというのが一番の実感です。外務省に入って世間的な「立身出世」のこと程度しか頭にないままに、中国語習得の味気ない台北生活を覚悟していた私でしたが、陳映真の誠実な人柄、他者のことを思いやる温かい眼差し、しかも、台湾という当時の厳しい思想環境の中で私利私欲には無縁で、自らの生命に危険が及ぶことを承知、覚悟し、ひたすら台湾の祖国復帰という目的のために自分の人生を捧げようとする決意を25歳の若さですでに明確に持っていることを、知り合ってから比較的短時間で知ることになって、私は本当に目が見開かれる思いを味わいました。当時から彼は、自らの生命の脅威・危険ということには意にかけない澄み切った心境にあったと思います。そのこと自身が、21,2歳の私にはとてもすごいことでした。私の知る彼は、作家・陳映真ではなく、陳永善でした。私は彼が作家であることすら当時は知りませんでした。しかし、以下では陳映真として彼を呼ぶことにします。
陳映真は私よりわずか4歳年上(私が1941年生まれで、彼は1937年生まれ)でしたが、あらゆる点で私にとっては「かなわない」、一目も二目もおかずにはいられない存在でした。陳映真及び彼の生き様を知ったことにより、私は、日本人の通弊である「所属する組織(私の場合は外務省)に政治意識も価値観も一体化させる」運命共同体意識に囚われることから、早い段階で自由になることができました。一言で言えば、彼はその後の私の生き方をチェックせずにはいられない「生き鏡」となったのです。私が外務省を早期退職したのは、外務省にいたのでは自分の考え方を全うできないと考えたことが主な理由でしたが、そのような決断ができたのは、私の妻があっさり理解してくれたことも大きいですが、陳映真という心の鏡に照らして自分の生き様を考え、実践することを心掛ける自分になっていたということも大きいのです。 ちなみに日本では、私のことを「親中派」と揶揄する向きがあります。私は、陳映真をはじめ、劉広志(中国外交部のソ連専門家で、私が1973-75年にソ連在勤中に公私にわたってお世話になった人物)、靳海東(中国勤務の1980年に知り合って今日まで続く、義兄弟の契りを結んだ親友)など、私たち日本人とはスケールが違う、個性豊かな尊敬すべき少なくない中国人と知己を得る機会に恵まれました。彼らなくして今の私はあり得ない、という意味において、私は「親中派」と言われることをむしろ勲章だと受けとめています。
陳映真が何故に私のような未熟な人間と親しくしてくれるようになったのかは、聞く機会もありませんでしたので、今でも分かりません。彼も外務省の私の先輩たちとも面識はあったようで、「浅井は彼らとは違う」という言葉を口にしたことがある記憶はあります。冒頭に述べましたような私の内向的な性格、温かい家庭環境・両親の愛情、他者感覚など、陳映真は私の中に自らと類似したものを感じ取ってくれたのかも知れません。また、私が、明らかに客観的には不用意に、陳映真たちの前で蒋介石独裁に批判的に言辞を隠さなかったこと、さらにまた、毛沢東選集を含めた共産主義思想に関する文献を若干持っていることを知ったこと、資本主義に批判的で社会主義に共感する発言をこれまた不用意に発言したことなどが、陳映真にとっては「面白い奴」という受け止めを生んだのかも知れません。
とにかく、私の台湾生活は、思いもよらず、きわめて充実したものとなりました。私の平屋は、こぢんまりとしたものではありましたが、陳映真が連れてくる彼の友人たち(私が記憶している名前としては、呉耀忠、丘延亮、蒙韶などがあります)も時々加わった交流の場となりました。私の部屋にある社会主義関係の文献は、外に持ち出すのは危険すぎるので、彼らは私の部屋で個人、個人で読むという感じだったと思います。彼らに共通していたのは、外省・本省という区別(差別感情)からは無縁で、中国統一という志・ナショナリズムにあった、というのが当時の私の印象でした。

<陳映真の人となり>
 陳映真については、「親中派」「共産主義者」というレッテルから由来する、彼自身の人格そのものまで否定する言説が、特に台湾独立を唱える人々の間であるらしいことを聞き及んでいます。しかし私は、陳映真の本質にあるのは他者感覚にあふれた温かい眼差しのヒューマニズムであることを確信しています。私が最初に出会った1963年当時の彼は、ウィキペディアにおいて彼自身の言葉として紹介されているように、「對自己走過道路進行了認真的反省,對社會現實有了更深刻的認識,開始由一個市鎮小知識分子走向一個憂國憂民的、愛國的知識分子」でした。「憂国憂民」「愛国」の感情は何にもましてヒューマニズムに基礎をおくものでした。
 そういう彼の人となりは、優れて彼の育った家庭環境によるところが大きいと思います。後日(確か1968年)に外務省中国課に勤務していた時に台湾出張の機会があり、陳映真と再会する機会がありました。その時、彼に誘われて台中の彼の父親にもお目にかかったことがあります。キリスト教会の牧師であったお父さんは、正しく「この親にしてこの子あり」と納得がいく慈愛あふれる人格者でした。日本には、「子は親の背を見て育つ」という言い方もありますし、私自身そういう一面があることは前に申し上げましたが、陳映真も同じなんだな、ととても嬉しく、納得した気分になった覚えが鮮明に残っています。
 彼の他者感覚が本物であることは、彼が友人に接する姿勢、態度にも明らかでした。じっくりと相手の発言、主張を聞く。自分の考え方を述べる時も、決して威圧的に押しつけるのではなく、静かに、考え考え、言葉を慎重に選びながら語る。そんな彼を友人たちも敬意をもって接する。25歳にしてすでにカリスマ性を備えていたことは確かですが、他者に接する姿勢はあくまで謙虚でした。
 私は外務省を退職してからの1990年代初期に一度、娘を伴って台湾を訪れたことがあります。すでに出獄していた陳映真は台北市内に居を構え、愛妻と暮らしていました。陳映真に案内してもらって確か桃園にある李作成の集団墓地になっているところを訪れ、彼の未亡人と娘さんにも会うことができました。陳映真の李作成に対する少しも変わらない友情の念をひしひし感じました。またその際、彼のかなり年齢の離れた、とても優しい顔立ちの妻である麗娜さんにもはじめてお会いし、夫妻の案内で台北生活時代のゆかりの地なども案内してもらったのですが、彼の麗娜さんに対する接し方も、愛情に満ちあふれた、しかも彼女の人格をごくごく自然に尊重しているという感じのものでした。正に似たもの同士の相思相愛の間柄でした。
 また、いつだったか覚えていませんが、陳映真が訪米する前か後かに日本に立ち寄った際、彼を囲むなにかの会合に私も参加したことがあります。彼が出獄してから最初の出会いだったと思いますので、私が娘と一緒に台湾を訪問する前のことだったでしょうか。その際に李作成が亡くなったことを彼から知らされ、それで台湾訪問を思い立ったということだったかもしれません。いずれにせよ、20数年ぶりの再会だったのですが、彼は私のことをよく覚えてくれていて(後で述べますように、彼や李作成をはじめとする友人たちの逮捕、投獄は私とのかかわりが大きかったのですから、陳映真にとっても私の存在は記憶から消し去ることができないものだったのかも知れません)、その人となりには、約8年の苦しい牢獄生活を経たというのに、何らの変化もありませんでした。彼自身の述懐によれば、絶海孤島の緑島での隔離を含め、特に肉体的、精神的に追い詰められることはなかった、というのです。彼らが逮捕され、投獄の憂き目に遭ったことについてずっと罪責感を抱いていた私の気持ちを知った彼の思いやりの言葉だったと思います。
 以上、きわめて断片的なのですが、陳映真の人となりについてはご理解いただけたのではないか、と思います。彼の思想の根底にあるのは、その一生を貫く暖かいヒューマニズムなのです。

<陳映真の当時の思想>
 すでに触れた点もあるのですが、私が理解している範囲内で、1963-65年当時の陳映真の思想状況について、まとめてご報告しておきたいと思います。あくまで私自身の理解なので、間違いも多々あると思いますが、皆様のご参考になれば、と思います。
 1963年当時には、特務機関の監視の目はきわめて厳しく、陳映真は、大陸の放送による断片情報以外、共産主義や毛沢東思想について理解する手段はなかったと思います。蒋介石独裁政治を批判し、「二つの中国」「一中一台」に反対し、台湾の祖国復帰を目指すという考え方は明確でしたが、先ほども述べたように、それはあくまでも「憂国憂民」「愛国」のナショナリズムに基づくものでした。彼が共産主義及び毛沢東思想に直に接することになったきっかけは、私の部屋にあった文献を通じてであることは間違いないのではないかと思います。そのように私が考えるのは、私が台湾を離れる時に、これらの文献を後輩に託し、陳映真たちはその後もこれらの文献にアクセスしていたことが、彼らに対する判決書の中で記載されていたことを覚えているからです。
 ウィキペディアには、陳映真たちが逮捕された時の罪名として、「組織聚讀馬列共黨主義、魯迅等左翼書冊及為共產黨宣傳等罪名」とされていますが、私が台湾にいる間に彼らが組織的に読書会を行ったということはありませんでした。彼らはあくまで一人一人が私の部屋で用心しながら文献を読む程度でした。あるいは、私が後輩に託した文献を彼らが危険を冒して引き取り、読書会を行うようになったかも知れません。しかし、私が理解するかぎりでは、彼らが逮捕された後に、後輩が引き継いでいた文献を在台湾日本大使館が没収したとも聞いていますので、そうであるとすれば、読書会を組織したという罪名はやはり台湾当局のでっち上げだったのではないか、と思います。
 もちろん、台湾社会が民主化されていく中で、陳映真が共産主義についての理解、認識を深めていったことは当然だと思いますが、それはあくまで後のことであり、1960年代初期の彼について当てはまることではないと思うのです。
 私は、陳映真たちが逮捕されたことを、彼と台中で会ってから帰国してすぐ知ることになりました。つまり彼らが逮捕されたのは、私が出張で台湾に行き、彼と親交を暖めて帰国した直後のことだったという記憶があります。首謀者とされた陳映真が懲役10年とされた(死刑などもっと重い判決を免れた)ことには、二つの事情があったのではないでしょうか。一つは、陳映真たちの思想及び行動が国民党政権を脅かすほどのものではなかったと国民党政権自体が認識していたいうことです。言葉を換えれば、彼らの思想状況は「まだその程度」の段階にとどまっていたということではないでしょうか。
もう一つは、国民党政権が陳映真たちの背後に私という存在があったことを重く見ていたのではないか、ということです。後日、判決書を読む機会がありましたが、名指しはなかったものの、私を黒幕・首謀者として扱っていた記憶が残っています。ひょっとすると国民党政権は、微妙な日台関係を背景にして、私の背後にさらに日本外務省さらには日本政府の「陰謀」をすら疑心暗鬼で感じ取っていたかも知れません。
今はもう時効になっていると思うのでご紹介しますが、当時、国民党政権はかなり強烈に、私の扱いについて外務省にプレッシャーをかけたようです。私自身辞職を覚悟しましたし、上司に辞職を申し出た記憶があります。私の上司が剛胆な人で国民党政権のプレッシャーをはねのけてしまい、私は中国課から配置換えということで台湾側の要求に一定の配慮を示しつつ、外務省内の人事としては、「出世コース」といわれていた条約局条約課に「転出」することで私に「傷がつかない」処置がとられて一件が終わりました。もし日台国交関係が1980年代まで続いていたら、私が外務省中国課長になることはあり得なかったでしょう。
いずれにせよ、1960年代までの陳映真の思想状況は「真っ赤」というにはほど遠い程度のものだったと思うのです。もちろん、ここには当時の彼を熟知し、1968年の事件に連座された方もいると思いますので、私の間違いについてはご指摘いただきたいと思います。私としては、私の不用意で幼稚を極める行動が陳映真以下36人もの人々の逮捕を引き起こしてしまったということについて、本当に申し訳ないことをしてしまったという後悔と謝罪の気持ちでずっと過ごしてきたということを、ここで申し上げます。陳映真は寛恕してくれたことは先ほど申し上げましたが、彼以外の無辜の罪に問われた方々には改めて謝罪の気持ちを述べさせていただきます。

2.陳映真と台湾・中国

 最後に、私としては、陳映真という存在が台湾及び中国にとってどういう意味を持っているのかについて、個人的な感想を述べさせていただきたいと思います。特に私は、国際政治及び21世紀の世界の人類史的な方向性という大きな脈絡の中で陳映真の思想と行動を評価する必要があるのではないか、と強く感じていますので、そういう観点からの視点の提起として受けとめていただくことを願っています。おそらく陳映真自身がそういう観点に立脚しながら、現実政治に対して発言し、行動してきたのではないかと思うからです。
 本省人である陳映真が1988年に「中国統一聯盟」を組織し、その主席に就いたこと、その後しばしば中国を訪問し、中国側から重視されてきたことに対して、台湾独立を標榜する民進党及び台湾独立を支持する人々からは厳しい批判、非難が浴びせられてきたことは聞き及んでいます。しかし、私は、「台湾独立」の主張については、国際政治特に21世紀の人類史の流れの中で位置づけることが必要だと思います。陳映真とは直接意見を交換したわけではないし、陳映真がこれまでにどのような発言を実際にしてきたかについては知りませんので、あくまで私の推論なのですが、私はこれから私が述べる内容については、陳映真が膝をたたいて、「浅井よ、よくぞ理解してくれた」と言うのではないかとかなり自信を持って言うことができる思いなのです。
 まず、国際政治とのかかわりについて。台湾独立という主張は、アメリカ及び日本の支持なしには成り立ち得ません。台湾独立を唱える人々は、「いや、台湾人の民族自決(人民自決)の要求であり、この要求は国際的に正当だ」と主張するでしょう。しかし、アメリカ及び日本の国内に根強い台湾独立支持論者は、中国を牽制し、押さえ込むために台湾を自らの影響下においておくことが死活的に重要だ、と判断するが故に支持するのであって、民族自決論支持は、自らの台湾に対する権力政治的な野心を覆い隠すための「イチジクの葉」にしか過ぎません。
また、「民族自決の主張は国際的に正当だ」という点について言えば、国際連合憲章その他で国際法上認められている法的権利であることは間違いありませんが、第二次世界大戦後の国際政治のもとにおける実例を見ても明らかなとおり、それは関係大国が支持し、承認する場合(1960年代のアフリカ諸国やソ連崩壊後の独立国家の誕生や東チモール独立達成の場合)にのみ、あるいは大国が無関心である(エリトリアの場合)か大国間の相互牽制で動きがとれない場合(旧ユーゴ構成諸国の独立)に辛うじて「実現」するに過ぎません。要するに、国際政治の動き如何という要素を抜きにして、民族自決(人民自決)という国際法上の権利の実現はあり得ません。台湾の場合も例外ではないのです。
 したがって、問題は台湾独立を支持するアメリカ及び日本の立場が「後ろ指を指される」ことのないものであるかということに帰着します。この点に関しては、すでに述べましたように、アメリカ及び日本は中国の台頭を牽制し、押さえつけることが目的で、そのためには台湾を中国から引き離しておくことが戦略的に重要だと考えているのですから、動機不純と言わなければなりません。
 また、中国が拡張主義の野心を持っており、アジア・太平洋地域の平和と安定に対する脅威であるから、それをチェックするためにも台湾独立は意味があるという主張もなされます。しかし、この点については、中国自身の戦略課題実現上の要請という要素を考えなければなりません。即ち、中国は経済発展を長期的戦略課題としています。この戦略を実現するためには、長期にわたる国際環境の平和と安定が不可欠です。中国が台湾問題で戦争を仕掛けるという選択肢はあり得ないのです。
しかも、現代の戦争は、特に台湾問題が絡むような大国間の戦争は、途方もない犠牲と破壊を伴うものであり、中国にとっては1980年代からの経済成果を一気に灰にすることを意味するのです。中国からすれば、アメリカ(及び日本)が機会さえあれば台湾独立を支持し、画策する現実的な危険があると認識する(そう認識するのは彼らの被害妄想ではなく、現実的な根拠があると思います)からこそ、軍事的に身構えているのであって、それはあくまで防衛的なものです。
 中国からすれば、アメリカ及び日本が台湾問題に対する政策を改めさえすれば、中台間の問題は政治的に解決する100%の用意があるということは間違いありません。チベットに対する中国の政策を見ると安心できないという主張もあるでしょう。しかし、チベットをめぐる国際政治環境と台湾を取り巻く国際環境とは違うことを、中国自身が一番よく承知しています。台湾問題で手荒な振る舞いにでることは、中国自身の国際的イメージに致命的な打撃を与え、そのことは中国の経済的発展はもちろん、国内に多くの不安定要因を抱える中国の国家的存立そのものを危うくすることを中国は誰よりも理解し、認識しているはずです。
 台湾独立論に執着している人たちに求められるのは、他者感覚を働かせて、中国の立場から国際関係を見て、その中で台湾問題を中国自身がどのように位置づけているか、ということを考えて見ることだと思います。いずれにせよ、アメリカや日本の支持に頼る形で「独立」しても、それは名前だけのことであり、いつまでたってもアメリカの意向に振り回される従属国でしかないのです。戦後60数年間、そういう惨めな、やりきれない体験をしてきた日本人の一人である私としては、台湾の皆さんにもよく考えていただきたいと希望します。
 21世紀の人類史的流れのもとで台湾問題を位置づける視点も同じように重要だと思います。21世紀の人類史的流れとしては、大きくいって4点あります。一つは、大量殺戮破壊を意味する戦争は、もはや「政治の継続」としての伝統的意味を失ったということです。とりわけ台湾海峡有事は、大国の利害が直結するだけに、核戦争、即ち人類の意味ある存続を犠牲にする覚悟なしには、あり得ないことです。
第二は、国際的相互依存の不可逆的進行ということです。ギリシャのような小国の経済危機が世界経済を不安定に陥れる時代です。台湾海峡有事を含む情勢の不安定化が世界経済にもたらす影響は計り知れないものがあります。それはもはや、台湾及び中国だけの問題にはとどまり得ないのです。
第三は、地球環境問題です。すでに温暖化の進行で地球環境は深刻な破壊が進んでいます。台湾海峡有事を発端とする環境破壊はすさまじいものになるでしょう。もちろん、海峡両岸の多大な人命が奪われますが、人類の意味ある存続そのものが脅かされるのです。
第四は、21世紀は人間の尊厳という普遍的価値の確立を目指す時代であるということです。民族自決(人民自決)という原則が曲がりなりにも国際法上の権利として承認されるに至ったのも、人間の尊厳が普遍的価値として世界的に承認されたことの一つの結果です。台湾独立論自体も、人間の尊厳という普遍的価値に照らして検証されなければならないと思います。  以上のことは、中国側においては十分に認識されていると考えます。私はむしろ、台湾独立論を掲げ、支持する人々が自らの主張を以上の四つの基準に照らして検証していないのではないか、という不安を隠せません。なぜならば、台湾独立論を支持するアメリカ及び日本の人々においても、これらの人類史的流れの中で台湾問題を位置づける視点は欠落しており、もっぱら歴史の遺物でしかない権力政治の視点でしか台湾問題を位置づけないでいるからです。
 陳映真が台湾独立論を批判し、中国との統一を唱えてきたのは、「中国にいかれている(中国語:入迷)」からではなく、以上のような国際情勢認識、人類史的発展の方向性を踏まえた上での理性的判断・認識に基づくものであることは間違いないと思います。それは、何度も繰り返しますように、彼の社会主義・共産主義へのコミットメントが彼のヒューマニズムに基づくものであるからです。そういう観点から、陳映真に対する正当な評価が行われることを、私は台湾社会に望みたいと思います。

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