福島第一原発「事故」を日本再生の歴史的転機に(沖縄タイムズ)

2011.08.12

*沖縄タイムスからの誘いに応じて書いた文章です。8月9日、10日及び11日に連載されました。ここではまとめて掲載します(8月12日記)。

第1回 学び取られなかった原爆体験

 有史以来の未曾有の自然災害である東日本大震災は、人智をもってしては如何ともしがたい大自然の巨大な破壊エネルギーのすさまじさを改めて思い知らせるものだった。しかし、福島第一原発で起こった事態は「事故」ではなく、いかなる意味においても人災以外の何ものでもない。まず、起こりうる地震及び津波の規模を経済的コストの必要に基づいて人為的に低く設定したことにおいて(その点は、ここでの主題ではないので深入りしない)。そして、広島及び長崎の原爆体験から何らの教訓をも学び取らず、むしろその体験を封じ込めてきた戦後政治のツケを集中的にかつ招くべくして招いたという点において。
 広島及び長崎の原爆体験は必ずしも完全に無視されたわけではない。原爆(核兵器)の登場は、人類の意味ある存続を脅かす現代の戦争をもはや容認してはならないことを教えた。恒久平和の実現を最終的目的とする点では共通する国連憲章と日本国憲法が、国際紛争解決の手段として軍事力行使を認めるかどうかに関し、これを認める前者と認めない後者との違いを生んだのは、核戦争前の産物であるか核戦争後の産物であるかにある。つまり、国連憲章は二〇世紀までの平和のあり方に関する支配的な思想(戦争肯定の「力による」平和観)を継承しているのに対して、日本国憲法は人類史を画する平和思想(戦争否定の「力によらない」平和観)を体現しているのだ。
 しかし、原爆体験そのものに関しては、日本の戦後史において国民的な負の遺産として生かされることが徹底的に妨げられ、抑圧されてきた。原爆(核兵器)は、大量破壊兵器(反人道兵器)としての本質において、生物兵器及び化学兵器を圧倒する。とくに、熱線、爆風及び直接大量被爆による死を免れて辛うじて生き残った人々(被爆(曝)者)を苛む放射線(内部被曝と累積被爆)による後障害を生む点で、核兵器は究極的な反人道兵器である。しかし、核政策を推し進めたアメリカは、核兵器の反人道性を覆い隠すべく、戦争直後(一九四五年九月一九日)にはプレス・コードによって原爆にかかわる一切の言論を封殺した。被爆者の存在自体を含めた原爆体験は一九五五年の原水禁世界大会まで一〇年間も闇に葬られる、という我が国戦後史で痛恨を極める後遺症を生むことになった。
 米軍占領下の日本にも重大な問題があった。日本政府がアメリカの占領政策に忠実に従ったということだけではない。日本軍国主義の抑圧・弾圧政治に呻吟していた人々の間では、米軍を「解放軍」として歓迎する雰囲気が支配し、アメリカによる原爆投下という犯罪行為に対する批判の視点を奪われていた。広島自身、「国体護持」に執着して敗戦受諾を引き延ばした昭和天皇の重大な戦争責任を問う姿勢は欠落し、その広島巡幸(一九四七年一二月)を熱狂的に歓迎する有様で、原爆体験を戦後日本のあり方に生かそうという問題意識は、詩人・峠三吉等ごく一部の人々の思想及び活動を除いては存在しなかった。
 放射能の恐るべき影響が国民的に知られたのは、一九五四年の第五福竜丸事件以後であり、この事件で広島及び長崎の原爆体験の記憶が呼び覚まされてからである。しかし、独立回復と引き替えに日米核安保条約(及び沖縄切り捨て)による対米追随を選択した戦後保守政治は、対米核抑止力依存(「核の傘」)政策を維持する必要からも、放射能被害を無視、矮小化し、他の戦争被害と同列視する「受忍」論政策を徹底的に推進した。また放射線被害の研究は一貫してアメリカの強い影響力下に置かれ、アメリカが開設した原爆傷害調査委員会(ABCC)をもとに設立された日米共同の放射線影響研究所は、内部被曝及び累積被曝の影響を無視し、過小評価する「科学的」役割を担ってきた。こうして、放射線被害に関する正確な認識の国民的共有が妨げられ、原発容認の「世論」が醸成されてきた。

第2回 アメリカの核政策と原子力「平和利用」神話

 放射能被害を含む広島及び長崎の原爆体験が国民的に真摯に学び取られていたのであれば、日本において原発が林立する状況、そして福島第一原発の事態を招くということはなかっただろう。しかし、日本が原発推進の波に呑み込まれたのはもう一つ大きな力が働いた結果だった。それは、アメリカが核兵器について回るキノコ雲の不吉なイメ-ジを払拭するために推し進めた原子力「平和利用」神話(及びその法的産物である核不拡散条約(NPT))が原爆体験の教訓を脇に押しやったということだ。
 私が広島で味わったショックは少なくないが、その中でもとくに大きいものの一つは、広島及び被爆者が極めて早い時期から原子力の「平和利用」という考え方を丸呑みにしていたことである。即ち、反原爆を訴えた輝かしい金字塔としての評価を確立した古典である、一九五一年に出版された長田新編『原爆の子』では、原子エネルギーが「人類文化の一段と飛躍的な発展をもたらすことは疑う余地がない」と述べている。一九五六年に結成された日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の結成大会宣言においても、「破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を、決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向かわせるということこそが私たちの生きる日の限りの唯一の願」と述べているのだ。
このような認識の滲透は、第二次世界大戦直後からアメリカ政府が世界規模で大々的に推進した原子力「平和利用」キャンペーンによるものだった。その間の事情を、ケネス・オスグッド著『全面的冷戦』は次のように活写している。

「核時代の夜明けから、アメリカ政府は、アトムを国際社会に売り込むために数々の宣伝戦略を用いてきた。…一九四〇年代後半には、原子力委員会(AEC)は、アトムと爆弾とを関連づけさせることを和らげるために、キノコ雲ではなく健康と繁栄を想起させるような積極的なイメージをつくり出そうとした。アイゼンハワー政権は、そうした努力を強化し、核絶滅に関する世界的な恐怖心をコントロールし、原子力の科学及び産業への平和的利用を宣伝するための努力を強化した。このキャンペーンは、一九五三年一二月の賑々しい「アトム・フォア・ピース」提案で開始された。」

このキャンペーンが日本で大きな成果を収めたことについて、彼は「(アメリカ)情報局の集中的なキャンペーンにより、(日本国内の)核ヒステリーはほとんど消滅し、一九五六年初には原子力平和利用を広く受け入れるように日本の世論が変わった」と述べている。確かに日本の原発政策の本格的出発点は、一九五五年一一月の原子力基本法及び日米原子力研究協定の成立だった。
 しかし、アメリカの核政策正当化のために編み出された原子力「平和利用」神話、とくに原発推進政策は重大な本質的欠陥を抱えていた。一つは、エネルギーを生み出す'核燃料'が、人体ひいては生態系に深刻な影響を及ぼす放射線を放出する、大量かつ様々な放射性物質を作り出すということだ。そして、放射性物質から出る放射線を人知によってコントロールし、減らし、無害化することは不可能であるということだ。もう一つは、いったん産み出された放射性廃棄物は半減期が半永久的なもの(例:プルトニウム239の半減期は二万四千年、ヨウ素129に至っては一五七〇万年)を含み、その安全な処分及び貯蔵技術はないことだ。要するに、原発を推進することは、現在の我々の世代の目先の利益のために将来に向けて地球環境を破壊し、人類の意味ある存続に対する脅威を作り出すということだ。福島第一原発の事態は正にそのことを教えているのだ。我々は原子力「平和利用」神話によって思考停止するのではなく、後世に禍根を残さない意志決定を行う必要がある。

第3回 核廃絶(脱原発)・脱軍事同盟で日本再生の歴史的転機を

 日本における原発推進政策は、戦後保守政治が日本国憲法と根本的に矛盾し、両立し得ない日米核安保路線を追求し、その必要から、一方で、広島及び長崎の原爆体験を封じ込め、貴重な負の遺産として国民的に共有することを妨げ、他方で、アメリカ発の原子力「平和利用」神話を積極的に売り込む政策が奏功することによって可能となった。したがって我々は、福島第一原発の事態を一過性の問題(原発の是非)としてのみ扱うのではなく、優れて戦後日本政治のあり方を根本的に問い直す歴史的なチャンスとしなければならない。
 まず原発政策に関していえば、その本質的かつ致命的な技術的欠陥が克服できない(原発は克服不可能な欠陥商品である)ことは明らかである以上、脱原発を出発点に据えることを国民的総意としなければならない(具体化の議論は第二段階)。ドイツ、北欧諸国などが脱原発を現実政策として決定したことからいっても、「日本は脱原発できない」という結論はあり得ない。そもそも広島及び長崎の原爆体験を持つ日本は、戦後保守政治を含めて「唯一の被爆国」を標榜してきた。この自己規定を真に意味あるものにするためには、日本は脱原発で世界をリードするべき立場・責任があるという認識を、我々は痛切に我がものにする必要がある。そして、日本が原爆体験に立脚した脱原発政策を確立することは、アメリカ発の原子力「平和利用」神話の虚構性を突き崩す意味を持つ。
 しかし、日本が原爆体験に立脚する政策を確立することの意義は、脱原発、原子力「平和利用」神話に引導を渡すという個別的問題だけに止まらない。前に述べたように、日本国憲法の拠って立つ「力によらない」平和観は原爆体験(及び沖縄戦を含む現代戦争の破壊的本質に対する深刻な認識)に由来する。そのことを真剣に考える限り、我々は、日本国憲法の立場とは両立し得ない日米核安保体制を根本的に問い直すという課題に向き合うことを避けては通れない。それは、「憲法も日米安保も」という矛盾を極める我々日本人の多くに巣喰っている、世界に通用しない平和観のあり方に再考を迫るものだ。
 このような問題提起に対しては、「現実問題として、軍拡路線に走る中国や核開発に邁進する北朝鮮の軍事的脅威を考えれば日米安保は必要」という主張や反論がなされるのが常である。私はここで不毛な神学論争をするつもりはない。むしろ、最近の二つの具体的事例を示したい。これらはこのような「脅威論」の荒唐無稽さ、したがって日米安保(軍事同盟)の無用性を、何よりも雄弁に明らかにしていると思う。
第一、東日本大震災の復旧作業に政府は自衛隊の実員総数約二三万人の約半数に及ぶ一〇万七千人を動員した。このようなことは、中国からの軍事的脅威が現実のものであったらあり得ないだろう。逆にいえば、この事実そのものが、政府自身が「中国脅威」論の虚構性を認めていることの何よりもの証左ではないか。
 第二、佐賀県の玄海原発の再稼働問題は民主党政権の腰の定まらない対応によって二転三転しているが、この問題を朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の軍事的脅威にかかわらせて論ずることは、「北朝鮮脅威」論を声高に叫ぶものを含め、私は聞いたことがない。仮に朝鮮の軍事的脅威が本物であるならば、玄海原発はもっとも標的とされやすいはずだ(費用対効果というドライな軍事的観点からいうとき)。そういう議論が皆無ということは「北朝鮮脅威」論もまた虚構であることの何よりもの証左だろう。
人類を破滅に追い込む現代戦争はもはやあり得ない。二一世紀は「力による」平和観を歴史の屑箱に放り込み、「力によらない」平和観を確立する時代である。平和憲法を持つ日本こそはその時代的歴史的使命を実現する世界的な取り組みの先頭に立つべきだ。

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