21世紀における日本及び世界の平和
-通俗的安全保障論を退ける-

2011.07.03

*ある雑誌に寄稿した文章です。前にこのコラムで載せた「日米軍事同盟「肯定」論の虚妄性-歴史の屑箱行きが運命づけられている「抑止」論-」の焦点を絞って文章にしたものです(7月3日記)。

(はじめに)

伝統的な安全保障観は、三つの基本的認識に基礎をおいて構成されてきた。すなわち、国際観に関しては、パワー・ポリティックス(権力政治)が支配する弱肉強食の世界という認識である。次に、そういう世界における国家関係は基本的にゼロ・サム(勝つか負けるか)の冷徹さが支配するという認識である。したがって、自国の利益(国益)を極大化することが最大の国家目的となる。そして第三に、国益極大化のための手段として、外交とともに「政治の継続・延長」としての戦争を正当化する認識である。また、自国の存続・利益(国益)を脅かす意思と能力(軍事力)を持つ国家(または国家群)を「脅威」とみなす認識が必然的に派生することとなった。
「脅威」という概念は、伝統的な軍事論においては、きわめて厳密な含意を持つことを踏まえておかなければならない。このことは、米ソ冷戦が終結してから世界的に、また、日本においては伝統的に、ことさらに「脅威」という用語が多義的に乱用される傾向があり、そのことが厳密な安全保障論議あるいはより本質的に21世紀世界の平和と安全のあり方に関する論議を不毛な次元に陥らせているだけに、なおさら強調する必要がある。
 念のために確認しておけば、軍事的な意味における「脅威」とは、ある国家(国家群)が特定の国家(国家群)を攻撃・侵略する意思とそれを裏付ける軍事力を備える場合に、攻撃・侵略される立場に立つ国家(国家群)が攻撃・侵略する国家(国家群)を「脅威」として認識することを指す。脅威概念の要諦は攻撃する「意思」と「能力」の有無である。 例えば、米ソ(東西)冷戦時代においては、米ソ双方が相手を攻撃・侵略するに十分すぎる能力を核戦力という形で備えていた。また、ソ連は共産主義を世界規模で実現することを究極目標として掲げていたから、アメリカがそのこと(「意思」)を警戒したのは、それなりに理由があった。また、アメリカが世界を資本主義の市場にしようとすることは今も変わらない政策であるから、ソ連がそのこと(「意思」)を警戒したこともそれなりに根拠があることであった。
しかし、米ソ冷戦終結以後にアメリカが振り回すようになった「ならず者国家」脅威論(さすがにオバマ政権になってからは「ならず者国家」という非科学的言辞は使用しなくなったが、イラン、シリア、朝鮮などを「脅威」と見なして世界規模の軍事力展開を正当化していることに変わりはない。)や日本において盛んに喧伝される中国脅威論あるいは北朝鮮脅威論についていえば、イラン、シリアや朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)がアメリカに対して先制攻撃を仕掛ける意思も能力も持ち合わせていないことはあまりにも明らかといわなければならず、また、あらゆる戦争シナリオを考えてその備えを考えておかなければ気が済まないアメリカが、中国あるいは朝鮮が、アメリカに対しては言うに及ばず、アメリカの同盟国である日本に対して攻撃・侵略を仕掛けることによって開始される戦争シナリオを持っていない一事をもってしても、両国を脅威とする主張の虚構性はあまりにも明らかだといわなければならない。
 それにもかかわらず、アメリカはこれらの国々の暴発・暴走をチェックするためには軍事的な抑止力が必要であるとし、日本国内においても、在日米軍が中国や朝鮮に対する抑止力として必要だとする主張がそれなりの市場(支持基盤)を持っている事実があることは認めなければならない。つまり、今日における世界及び日本における安全保障論議は「抑止」という概念を中心にして展開されていると言えるだろう。
したがって、本稿はまず、「抑止」という概念が優れて核兵器の登場によって成立した核戦略と不可分の関係にあることを明らかにする。次に、冷戦後にアメリカが核戦略のみに限定せず、通常戦力についても抑止効果を強調するようになった背景を明らかにする。その関連で、日本国内における中国脅威論及び北朝鮮脅威論の荒唐無稽さにも言及するだろう。その上で、21世紀の世界においてはもはや抑止概念が成り立ち得なくなっている21世紀的な特徴的要素を明らかにする。そして、21世紀の世界及び日本の平和が拠って立つべき平和観を提示し、日本国憲法が単に日本の平和にとってのみならず、世界が目指すべき方向性を指し示していることを明らかにする。

1.「抑止」の本質及び冷戦後の乱用の批判的検討

(1)定義及びその意味・内容

「抑止」という概念は、優れて圧倒的な破壊力を持つ核兵器登場後の産物である。そのことは例えばローレンス・フリードマン(Lawrence Freedman)の『核戦略の展開』("The Evolution of Nuclear Strategy" 1981年)、パトリック・モーガン(Patric M. Morgan)の『現段階の抑止』("Deterrence Now" 2003年)などから確認することができる。ここでは、『大英百科事典』(DVD-Rom版)の次の定義を紹介しておこう。

「一国が、敵国からの攻撃を防止するために、報復するという威嚇(threat)を効果的に用いること。「抑止」という用語は主に、核兵器の出現とともに、核兵器国または主要な同盟システムの基本戦略において使われてきた。この戦略の前提は、おのおのの核兵器国がいかなる侵略に対しても即時かつ圧倒的な破壊力を保有することである。「即時かつ圧倒的な破壊力」とは、攻撃を仕掛けて来る側(攻撃側)に対して、攻撃を受ける側(反撃側)がその奇襲を生き残った戦力によって"攻撃側が耐えられない損害を与えるに足るだけの明白で信頼できる能力"をいう。抑止が成功するか否かは、反撃側が、攻撃を受けて重大な被害を受けた場合に、攻撃側の第二撃によってさらに莫大な被害を受けることを覚悟の上で報復するかどうかについて、攻撃側が読み切れるかどうかにかかっている。したがって、核抑止戦略は二つの基本的な条件に依拠する。第一、(攻撃側の)奇襲攻撃後の(反撃側の)報復能力が確実にあると(攻撃側によって)認識されなければならない。第二、(反撃側には)報復意思が可能性としてある(必ずしも確実である必要はない。)と(攻撃側によって)認識されなければならない。」(強調は筆者)。

以上の定義について若干補足しておきたい。軍事的な意味での「抑止」という概念は、途方もない破壊力(大英百科事典に従えば「即時かつ圧倒的な破壊力」)を持つ核兵器の出現によって、上記「はじめに」で簡単に説明した伝統的な戦争についての考え方が根本的な修正を余儀なくされた結果、編み出された考え方であるということである。それでは、「途方もない破壊力」あるいは「即時かつ圧倒的な破壊力」を持つ核兵器の出現は、伝統的な戦争に関する見方をどのように変えたのか。
もっとも根本的な変化は、核兵器の使用を考慮に入れなければならない戦争は、もはやいずれか一方の勝利という結果をもたらさず、戦争当事国(同盟国を含む。)すべての破滅を招致するということ、つまり勝者はなく全員が敗者となること、したがって戦争はもはや「政治の継続・延長」としての手段(選択しうる政策の一つという位置づけ)ではあり得なくなったことが認識されるに至ったということである。
具体的には、ソ連は、アメリカが帝国主義の世界支配政策に基づいて、機会があればソ連をつぶすための戦争を始める意思があると考え、アメリカは、ソ連が世界赤化政策に基づいて、機会さえあれば西側を征服する戦争を始める意思があると考え、しかもそれぞれが核戦力という能力を保有していることにより、互いに相手を伝統的な意味における「脅威」と認識する点では変化はなかった。しかし、相手に対して先制攻撃をかけた場合に、それに対する相手からの核兵器による反撃によって自らが被る壊滅的被害を考えるとき、もはや先制攻撃を考えること自体を放棄せざるを得ないことが米ソ双方にとって明らかになった、という点で根本的な変化が起こったのである。つまり、双方が相手側に対して先制攻撃の戦争を起こすことはできないということだ。
しかし、米ソ双方ともに、相手側が世界を支配しようとする意思を持っている以上、先制攻撃を仕掛けてこないという確信を持ち得ないために、即時かつ圧倒的な報復能力を保有し、かつ、攻撃を受けた場合には断固として対抗する報復意思を相手側に確信させることを、新たな戦略・政策として追求することになる。こうして、「報復能力+報復意思」からなる「抑止力」という概念が成立することになったのである。軍事的な「抑止」という概念及び戦略・政策は核兵器の登場とともに現れた、ということが理解されると思う。換言すれば、「抑止」とは「脅威」の変形概念であると理解することも可能だろう。攻撃能力プラス攻撃意思によって構成される脅威に対して、抑止は、先制攻撃ではなく報復に立脚しており、報復能力プラス報復意思プラス核戦力によって構成されるからである。

(2)アメリカの「抑止」政策の特徴と問題点

しかし米ソ冷戦終結後、「抑止」という概念は、核戦争に関してだけではなく、通常戦争についてもなし崩し的に拡大して使われるようになった。その背景の一端には、軍事科学技術の革命的な発展に立脚するアメリカの通常兵力(非核戦力)の破壊力が昔日の比ではなくなったという事情はある。つまり、「途方もない破壊力」あるいは「即時かつ圧倒的な破壊力」が核兵器だけの独占物ではなくなったということである。しかし、核兵器と異なり、通常兵力についてはその破壊力を政策的にコントロールできるという決定的な違いが存在する。そのことは、アメリカをして通常兵力の行使により積極的(つまり、好戦的)にさせることになったのであり、「抑止」概念を成り立たせる「報復」能力・意思とは無縁の次元にアメリカの軍事政策を導いてきた。
アメリカが自らの世界規模で展開する戦力を正当化するときに、戦争の生起を抑止する機能を言いつつ、抑止が機能しない場合には軍事力行使をためらわないとすることを強調するとき、その力点は明らかに後者にある。むしろ抑止云々は、アメリカの圧倒的な通常兵力の存在及びこれを維持するための財源確保を国内的に正当化するために編み出された「後付け」の理屈でしかない。このことは具体的に、アメリカの軍事力によって行動が抑止されているとされる中国、朝鮮、イランの行動を具体的に検証することによって直ちに明らかとなる。
例えば、中国が台湾侵攻を含めて対外的に攻撃的、侵略的な軍事力行使を考えないのは、米軍のプレゼンスが抑止力として働いているからではない。国内経済建設が至上課題、台湾が独立に走らない限り現状維持さえ確保できればOK、要するに中国の軍事政策は防衛を基本として成り立っており、他国を侵略・攻撃するという意図に立夏区するものではないからである。
この点に対しては、中国の著しい軍事力増大を指摘して、中国は軍事的脅威ではないか、という主張がある。しかし、それは米日の圧倒的な軍事力に対抗するために、もともと貧弱だった(ベース・ラインが低かった)軍事力の強化に努めているからであり、それに加えて、もともと圧倒的に強力だった日米軍事同盟が「2+2」合意で、台湾有事をも想定に入れてさらに再編変質強化されていることが、中国側の対抗措置を招く原因を作っているのである。確かに軍事力は強化されてはいるが、それはあくまでも米日軍事力にキャッチ・アップするための防衛的なものである。
しかも中国にはアメリカ、日本に対して戦争を仕掛ける意思はまったくないことは、アメリカ自身も認識していることである。その何よりもの証拠に、アメリカの対中国戦争シナリオは台湾海峡有事以外にない。台湾有事事態は、アメリカ(及び日本)が台湾の中国からの分離状態を固定化しようとする政策にのみ起因しているのであり、米日がこの政策を清算すれば起こり得ないのである。
 朝鮮が対南軍事行動を取らないのは、在韓在日米軍が抑止力として働く以前の問題である。すなわち、朝鮮経済の疲弊回復が至上課題であり、明々白々な対南軍事劣勢のため侵攻する能力も意思もない。1983年のラングーン事件、1987年の大韓航空機爆破事件などを引き起こした朝鮮の悪いイメージが残る(日本の場合は、拉致問題、不審船事件などが加わる。)が、このようなイメージは、攻撃能力及び攻撃意思によって構成される軍事的な「脅威」という次元の問題ではない。イランも、指導者のイスラエルに対する攻撃的言辞はともかく、その軍事力はきわめて限定的であり、アメリカの軍事的覇権に挑戦する意思も能力もないことは、アメリカ自身が認識している(イランの軍事的脅威が云々されるのは、その核ミサイル開発疑惑に由来するものであり、それはアメリカ(及びイスラエル)の先制攻撃を抑止するためのものである。)。ここでも、通常戦力が抑止力として機能するというアメリカの後付けの論理は成り立たない。
結論として、「米軍の世界的なプレゼンスは軍事紛争に対する抑止力として不可欠」というアメリカの主張には根拠がなく、説得力を持たない。現実に例えば在日米軍は、アメリカがグローバルに部隊を急展開するために日本を拠点としているのであり、アメリカにとっての日本の軍事的価値は発進・兵站基地としての役割なのである。
日本国内における「日米軍事同盟は日本の平和と安全を確保する抑止力として不可欠」という主張に関して一言すれば、すでに明らかにしたように、脅威とされる中国及び朝鮮の虚構性が明らかである以上、なんら説得力を持たない。脅威が存在してのみ、抑止を云々することができるのであって、脅威が存在しないときに抑止力を云々するのはナンセンス以外の何ものでもない。ましてや「殴り込み」部隊としてのみ存在理由を持つ在沖米海兵隊が日本の安全を確保するための抑止力として機能しているとする議論に至っては、国際軍事常識的には噴飯ものでしかない。
核抑止力という伝統的な抑止概念の今日的妥当性はどうか。アメリカに対して第一撃能力を持つのは依然としてロシアのみだが、社会主義を放棄したロシアにはもはやアメリカを攻撃する意思がないことはアメリカ自身が認めている。ところがアメリカは、将来的にロシアがアメリカに対して敵対的になる(攻撃する意思を持つようになる)可能性を排除できないとして「潜在的脅威」(攻撃意思はともかく攻撃能力を持つ存在)に分類している。しかし、そういうアメリカの伝統的なパワー・ポリティックス的な発想に基づく対ロ不信こそが逆にロシアを対米警戒に走らせ、核兵器固執政策を維持させるという悪循環を生み出す原因になっているのだ。アメリカがそのことを承認せず、パワー・ポリティックスにしがみつくことに最大の問題があり、核兵器廃絶へのプロセスが進展しない根本的原因になっている。
アメリカはまた、中国が対米第一撃能力を保有しておらず(中国の核戦略は「最小限核抑止」と呼ばれる、報復能力を維持することに自己限定している。)、したがって対米攻撃の意思はないことを認識している。しかしアメリカは、急台頭する中国が将来的に、核戦力を含め、かつてのソ連に匹敵する対米脅威となる可能性を排除できないとして、やはり「潜在的脅威」とする。このアメリカの旧態依然としたパワー・ポリティックスの発想プラス台湾政策こそが中国を軍事的に身構えさせる原因であることをアメリカが認識しようとしないことこそが最大の問題である。
 米ソ冷戦終結後、アメリカはソ連に代わる「脅威」として大量破壊兵器(核兵器を含む。)を持つ(持とうとする)「ならず者国家」として、イラク、イラン、朝鮮などを脅威と名指しするに至った。しかし、イラク戦争において、イラクには大量破壊兵器がなく、アメリカが開戦理由とした「証拠」はすべてでっち上げであることが、アメリカを含めて国際的に確認されることになったのは公知の事実である(ひとり認めていないのは、主要国では日本のみ)。イランの主張は、NPTで認められた「原子力平和利用」の範囲内の権利の行使であるということにあり、軍事的「脅威」として論じる以前の問題だ。確かに、イランがことさらに曖昧な政策をとっていることが西側諸国の疑念を強めているのだが、イランからすれば、イランを「脅威」扱いする西側に対する弱者としての精一杯の対抗策であり、その点を認識しない限り、問題解決への道筋は開かれないだろう。
朝鮮の核開発は、朝鮮戦争当時からのアメリカの核恫喝政策、1996年の米朝枠組み合意のブッシュ政権による破棄、6者協議諸合意の米日による不履行に対する「ハリネズミ」としての精一杯の自己防衛であるに過ぎず、朝鮮には核攻撃の「意思」「能力」ともに欠けており、「脅威」ではあり得ない。抑止を論じる余地があるとすれば、対米軍事的圧倒的劣勢にある朝鮮にとってであり、アメリカではない。朝鮮に核兵器を放棄させる最善の道は、アメリカが朝鮮に戦争を仕掛けない保証を与えること、つまり、休戦協定を平和協定に変え、米朝国交樹立に応じることである。

(3)21世紀の世界と「抑止」

では、21世紀の世界において「抑止」を論じることはなお意味がある(現実の国際関係を動かす)のか。結論から言えば、20世紀までの世界を支配してきたパワー・ポリティックス(弱肉強食)的な国際観は歴史的遺物として歴史の屑箱に放り込まれる運命にあり、国家関係もプラス・サム(ウィン・ウィン)を本質とする関係に変わっており、自国の利益は、他国との共存共栄を通じてこそ実現する、という認識は今や国際常識である。つまり、21世紀の世界においては、脅威あるいは抑止という概念が成立するための前提条件が消失しているのだ。そのことは、次の三つの「21世紀の世界の特徴」ともいうべき要素によって確かめられる。
まず、21世紀においては、普遍的価値である人間の尊厳(人権・民主)を基準(モノサシ)にして国際社会・国際関係を構築することが人類的課題になっている。具体的には、20世紀に一国単位で基本的に確立したこと(人権・民主を国内で実現しない国家は国際社会の正統な一員としては認められない。例:ミヤンマーの軍事政権)を、21世紀において世界規模で確立すること(世界大で人間の尊厳(人権・民主)を基準にした政治経済文化の仕組みを構築すること)が基本的な方向性である。20世紀までの伝統的な国際社会が主権国家を中心として構成されていたとすれば、21世紀の世界は普遍的価値である個人の尊厳を基軸として構成されなければならず、国家は個人の尊厳の実現に奉仕する機能的役割においてのみ存在理由を持つことになる。
21世紀はまた、20世紀から進行し始めた国際的相互依存が不可逆的かつ加速度的に進展することにより、「政治の継続・延長」としての戦争はもはやいかなる理由をもってしても正当化できない状況を生み出している。ほんの一、二例を挙げれば、福島第一原発の事態は、核戦争のもとにおいては放射能禍が世界規模で拡散し、人類の有意な存続が不可能になることを教えるに十分なものがある。欧州の小国ギリシャの国家財政破綻が世界経済の安定を損なった事例も記憶に生々しい。
また、21世紀を迎えて、地球温暖化を筆頭とする地球的規模の諸問題の深刻化は世界各地に深刻な被害を生み出しており、一国単位での取り組みではその解決のすべはなく、世界あげての取り組みを緊急課題としている。しかもそれに要するコストは半端なものではない。もはや戦争などを考えている余裕はないのであり、各国の軍事費を地球規模の諸問題の解決に振り向ける必要がある。例えば、スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)は4月11日、2010年の世界全体の軍事費が前年比実質1・3%増の 1 兆6300 億ドル(約138 兆円)だったという推定データを公表した。他方、国際エネルギー機関(IEA)の推計では、2050年までに必要とされる地球温暖化排出ガスの規制のためのコストは45兆ドル(世界のGDPの1.1%)とされている。世界の軍事費をすべて振り向けてやっと対処できる大変な課題であることが分かる。
さらに、パワー・ポリティックスの所産以外の何ものでもない核兵器の登場は、逆説的であるが、すでに述べたとおり、パワー・ポリティックスの存在理由そのものを否定することになった。実は、問題は核兵器だけに留まらない。核エネルギー(「原子力の平和利用」)そのものが、半永久的に存続する放射性廃棄物を生み出すその本質故に、人類の意味ある存続とは両立し得ないことがチェルノブイリ及び福島第一原発の恐るべき事態によって証明された。人類は核兵器と共存できない、だけではない。人類は核そのものと共存できないのである。21世紀の人類は、意味ある存続を可能にするための自然との調和ある共存のあり方を真摯に追求することを迫られている。
以上の21世紀の特徴的要素を前提とするとき、パワー・ポリティックスの「脅威」という時代遅れの概念(その典型が日米軍事同盟)が世界を支配することはもはや許されないし、したがって「脅威」を前提として生まれた「抑止」という考えそのものの意味が失われた、と結論づけるほかないのである。

2.「力によらない」平和観に基づく世界の平和と安全の構築

(1)21世紀を支配する平和観

世界においては、古くから二つの平和観が競ってきた。私流に言えば、「力による」平和観と「力によらない」平和観の対決である。国際政治においては長い間、「力による」平和観に基づくパワー・ポリティックスが伝統的に当然視されてきた。しかし、ルネッサンス、宗教改革以来、そして特にアメリカの独立宣言及びフランス革命を契機にして、人間の尊厳、具体的には自由が普遍的価値として承認されるに至った。国家主権から人民主権への移行・転換の開始である。「力によらない」平和観のみが人間の尊厳と親和性を持つ平和観として理念的に確立した。そして国連憲章及び世界人権宣言の成立により、人間の尊厳を否定することを本質的内容とする「力による」平和観はもはや存立基盤を失うことになり、すでに述べたように、人間の尊厳(人権民主)の実現を標榜しないかなる国家も国際的に正統性を主張し得なくなった。
ただし、21世紀に入った今日までの中央政府のない国際社会はまだ過渡期にある。戦争は、国連憲章(第2条4「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」)によって基本的に違法化された。しかし、国連憲章(第51条)は、個別的及び集団的自衛権行使の権利を認めている。日米軍事同盟は、この規定に自らの正当化の根拠を求めている。つまり、戦争が一般的に違法化されたにもかかわらず、「力による」平和観はなお国際関係を支配している。
また、大量破壊兵器のうち、生物化学兵器は違法化されたが、核兵器については「自衛のための使用」が違法であるかについては結論が出ていない。1996年7月8日の国際司法裁判所の勧告的意見は、「本裁判所は、国際法の現状および利用しうる事実の証拠に立って考えると、国家の存亡が危険にさらされている自衛の極端な状況において、核兵器の威嚇または使用が合法であるか、違法であるかについて、確定的に結論を下すことができない。」と述べるに留まっている。核兵器が存在し続ける限り、それを正当化する抑止論がはびこる状況は変わらないだろう。
しかし、21世紀の世界を支配するべき必然性を備えているのは「力によらない」平和観である。すでに述べたように、人間の尊厳が普遍的価値として国際的に確立したことにより、人間の尊厳と根本的に矛盾する「力による」平和観は歴史の屑箱に放り込まれる運命にある。つまり、戦争の違法化は人類史の流れであり、生物化学兵器が違法化された以上、これらに勝る残虐性、反人道性を特徴とする核兵器も違法化される運命にあることは間違いない。すでに述べたとおり、国際的相互依存の不可逆的進行により、戦争はもはや国際紛争の有意な解決手段としての性格を失い、地球的規模の諸問題の圧倒的存在は、一国単位で取り組むという伝統的発想では対処不能であり、パワー・ポリティックスの旧思考を克服することを人類的な喫緊の課題としている。戦争という「浪費」「贅沢」はもはや許されないのだ。
私たちにとっての課題は、「力によらない」平和観が全面的に貫徹する世界を実現する上で制約として働いている要素をどのように克服するかということである。具体的に言えば、主権国家を主要な成員(メンバー)として成り立ってきた国際社会を尊厳ある個人を主要な成員(メンバー)とする世界に転換していく上で解決するべき問題は何か、と言い換えることもできる。もちろん、解決するべき問題は多岐にわたる。しかし本質的な問題は2点に集約できる。
一つは、国家を主要なメンバーとする「中央政府のない国際社会」(どの国家に生を受けるかによって人間の尊厳の実際的な実現の度合いが異なるという根本的矛盾を抱える社会)という基本的性格は予見しうるかなり長期にわたって不変であるという前提を踏まえつつ、いかにして国境という人為的障害を克服するかという課題だ。方向性ははっきりしている。それは、人間の尊厳を規範(モノサシ)として、政治原理における国家主権(権力政治)から人間主権(人権・デモクラシー)実現への転換(国家の役割・機能の抜本的変化)であり、経済原理における市場至上主義(利潤)から人間至上主義(尊厳)への転換である。すでに20世紀後半から21世紀初頭にかけて、国家主権主義及び市場至上主義の弊害はあまりにも明確になっている。
この課題と密接にかかわる今ひとつの課題は、「力による」平和観に固執して軍事力行使を正当化する大国の行動を民主的にコントロールし、「力によらない」平和観に立脚する国際秩序を形成することである。国連をはじめとする国際機関の役割強化(国連安保理の民主的改革を含む。)、国際紛争の外交的解決メカニズムの整備、今なおきわめて原始的段階に留まっている国際法の整備・充実による法の支配の強化(国際司法裁判所及び国際刑事裁判所の強制的管轄権の拡大を含む。)など、要すれば一国単位では基本的に実現している「法治」を世界レベルで実現していかなければならない。簡単に言えば、国家関係の民主化と人権・民主の国境枠を越えた世界的普遍的実現である。

(2)21世紀世界の指標である日本国憲法

日本国憲法、特に9条の思想的源泉は四つの要素からなっている。侵略戦争の過ちを二度とくり返さないという国際的公約という点については広く認識されていることなので、多言を必要としない。今ひとつは、すでに述べたように、人間の尊厳(人権・民主)が普遍的価値として確立したことにより、「力による」平和観は根本的に成り立たないことが確認され、「力によらない」平和観のみが人間の尊厳の実現を担保する平和観であることが確認されたことである。9条は正に「力によらない」平和観を体現している。第三に、これまたすでに述べたように、核兵器の登場により、「政治の継続」としての戦争を正当化する根拠が根本的に否定されたことである。広島及び長崎に対する原爆投下前に作成された国連憲章が、戦争一般を否定しながら、なお「力による」平和観に最終的に依拠しようとしていたのに対し、原爆投下を受けた日本国憲法が徹底した「力によらない」平和観に立脚しているのは正に広島・長崎を教訓としたからこそである。第四にそして以上の結果として、国家を主体として営まれてきたパワー・ポリティックスが個人の尊厳を中心におく世界政治においては、個人と国家の関係が最終的に逆転しなければならず、「国家を個人の上におく」国家観は、「個人を国家の上におく」国家観に席を譲らなければならない。日本国憲法は正に、そういう国家観を体現しているのである。
特に本稿の主題である21世紀における日本及び世界の平和と安全という点に即していえば、日本の課題と世界の課題とに即して考える必要がある。日本に関していえば、「9条か、日米安保か」という古くて新しい課題を根本的に問い直すことである。また、世界の平和と安全に関して考えれば、パワー・ポリティックス的発想に代わる平和と安全を確保するための世界的な仕組みをどのように構築するのかという課題に正面から取り組むことが必要である。
まず日本の課題についていえば、「安保も9条も」という今日の多数派「世論」は、長年にわたって積み重ねられてきた解釈改憲で異常に歪められてきた「9条理解」(平和観の政治的曖昧化)の産物であることを改めて認識しなければならない。解釈改憲の手法は、戦争体験に基づく国民的な平和願望・9条支持(「力によらない」平和観)と戦後保守政治による対米追随的なパワー・ポリティックス的発想・日米安保路線(「力による」平和観)との間の妥協の試みであり、米ソ冷戦時代には「現実的」な選択であったと解される余地を仮に認めるとしても、米ソ冷戦が終わり、平和憲法前文が前提する国際環境が現実になった21世紀の今日、両立し得ない二つの平和観の共存という精神分裂状況を解消し、「力によらない」平和観に立つこと、具体的には日本国憲法に立脚することこそが、日本の平和と安全を確保するゆえんであることは明らかであると言わなければならない。
21世紀における世界の平和と安全を展望するに当たっては、20世紀において一国単位では基本的に確立した「暴力装置の中央政府への集中(個人による暴力行使の否定)」という仕組みを世界的に確立することが中心的な課題となる。中央政府(世界連邦政府)が存在しない国際社会という基本的なあり方は、予見しうる将来的にも変わらないことを考えざるを得ない(アメリカを筆頭とする大国が自らの主権を進んで放棄することは考えにくい)もとにおいは、いかにして大国を民主的にコントロールするか(端的に言えば、その軍事力行使をいかに押さえ込むか)、そして、世界規模の警察・司法機能をいかにして整備・強化するか、が中心的な課題となるだろう。
前者に関しては、イラン及び朝鮮問題に対する国際的な外交的取り組みが奏功するかどうかが一つの大きなポイントとなるだろう。軍事力行使が事態の破局を生み出すことは明らかである以上、「6+1」(イランの場合)及び6カ国協議(朝鮮の場合)が問題解決を生み出すことが不可欠の要請になる。また、中東・北アフリカ諸国における民主化を求める民衆的な動きがいかなる結果を生み出すかも注目される。事態は流動的で予断を許さないが、人間の尊厳(人権・民主)の実現を希求する民衆のエネルギーがアメリカなどのパワー・ポリティックス的な事態収拾を不可能にする成果を生み出すことができれば、世界の平和と安全にとって大きく局面が開かれることが期待されるのである。
もちろん、21世紀においても様々な原因に基づく地域紛争あるいは内戦・内乱の生起は不可避であろう。しかし、イラン問題、朝鮮問題そして中東・北アフリカの民主化運動において、軍事力の介入を許さない積極的な成果が生み出されれば、脱パワー・ポリティックスに向けた巨大な流れが生み出されることは大いに期待できるだろう。
後者、即ち大国を民主的にコントロールするという課題も、実は前者と不可分である。というより、前者の課題そのものが後者の課題をも内包している。大国が世界政治を支配することを許さないという流れは、2010年のNPT再検討会議における、非同盟諸国主導による最終文書の採択という大きな成果によってさい先のよいスタートを切った。パワー・ポリティックスそのものだったアメリカのイラク戦争及びアフガニスタン戦争がアメリカを苦しめており、オバマ政権をして「アメリカの意思の押しつけは問題解決を生まない」認識を明らかにせざるを得なくしている。イラン問題、朝鮮問題については、「6+1」、6カ国協議が行われているが、一見大国主導に見えるこれらの外交に対しても、非同盟諸国の圧力が働いている。ロシア及び中国が欧米諸国の意のままにならないこと自体が非同盟諸国の存在を抜きにしては理解できないのである。中東・北アフリカの民主化運動に関しても、オバマ大統領をして「過去6ヶ月の出来ごとは、抑圧と関心を他に向けさせる戦略はもはや機能しない」、「普通の人びとのより広範な願望に話しかけることに失敗するならば、アメリカは彼らの犠牲のもとに自国の利益を追求してきたという彼らの疑念をかき立てるだけだろう」(5月19日の中東・北アフリカに関する演説)と言わせるに至っており、そういう認識が彼をして、イスラエルに対して1967年の国境線受け入れを要求する発言をさせるに至っているのである。
以上は代表的、典型的な事例に過ぎない。世界は21世紀に入って確実に新しい平和と安全のあり方を目指す胎動を始めている。私たち日本に住むものに求められるのは、狭い日本語の世界に閉じこもって、アメリカ発の情報によって思考停止することに安住するのではなく、正に世界大の視野をもって世界の出来ごとに関心を持ち、その世界の中での日本の位置づけを考えることである。そうすれば、日本国憲法が正に21世紀の世界の平和と安全の指針・方向性を提供していることを確信を持って認識することにもつながるだろう。

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