第2回イラン軍縮・不拡散国際会議

2011.06.15

*イランという国を一度見てみたい、そんな思いが、イラン政府・外務省の付属団体IPIS主催の「第2回軍縮・不拡散国際会議」への参加招請を受けて実現しました。この会議は、2010年4月17日―18日に第1回会議が開かれたのですが、第1回の会議の時は、最高指導者・ハメネイ師のメッセージが送られ、アフマディネジャド大統領及びイランの核問題に関する西側との交渉のトップであるジャリリ氏が開会式で演説し、モッタキ外相(当時)が閉会式で演説するなど、イランのこの会議に寄せる期待と意欲が並々ならぬものであることが窺われました。
ジャリリ氏は、その演説の中で、この会議に先立って広島を訪問し、「広島の最も重要なメッセージはアメリカの軍縮である」と記帳して、今回の会議の重要性を強調したと述べており、彼の広島訪問がこの会議と結びつけられた行動であったことを明らかにしました。また、上記4人の指導者からは直接言及されませんでしたが、2010年4月に開かれたこの会議が同年5月に開催されることになっていた2010NPT再検討会議の直前に開催されたことも、この会議が単なる学術会議ではなく、イランの核外交の重要な一環と位置づけられていることは明らかでした。
ただし、第2回の今回の会議は規模も縮小されましたし、開会挨拶は外務副大臣、閉会演説は国家安全保障会議の次官ということで、明らかに事務的な会議という位置づけであることが見て取れました。もうひとつ、今回出席してみて理解したのは、イラン政府は今後も毎年この会議を続ける計画をしているということでした。この会議を主催し続けることにより、イランは核兵器開発を意図しているのではなく、その原子力政策は平和利用(具体的には原子力発電)にあり、核軍縮・不拡散問題に真剣であるというメッセージを国際社会に伝えようとしているのだと思います。
ともあれ、核問題に関するイラン側の考え方の一端を直接自分の目と耳で確かめることができたのは収穫でした。ここでは、会議にかかわって得た知見をまとめておこうと思います(6月15日、テヘランで記す)。

1. イランの核政策

核問題に関するイランの基本的立場については、原子力平和利用、特に原子力発電は核不拡散条約上の権利として行う、核兵器は史上最悪の大量破壊兵器であり、1980-88年のイラン・イラク戦争で化学兵器という大量破壊兵器による被害を体験したイランが化学兵器以上の大量破壊兵器である核兵器を開発することはあり得ない、そしてより根本的に核兵器はイスラムの教えに反するからイランが保有するに至ることはあり得ない、というものであることは知っていましたが、今回の会議でもそのことが繰り返し強調されました。私が今回のイラン側発言と昨年の会議での最高レベルの指導者たちの発言から特に強く印象づけられたことは以下の諸点です。

<大国支配の国連安保理及びIAEAに対する不信感>

アメリカを筆頭とする西側諸国、さらには国連安保理で結託して行動することが多い5大国(核兵器国)に対するイランの不信感は、私の理解していたレベルを超えた、「すさまじい」という形容がまったく誇張でないほどに激越なものであったということでした。  イランからすれば、同国はNPT加盟国として、IAEAの査察に対しても十分に協力的にやってきているのにもかかわらず、今やアメリカ(及びその同調国)の使い走り、言いなりに堕したIAEAは、IAEA憲章で予定されていた機能を果たすことができない状態であり、また、5大国が牛耳る国連安保理はアメリカ以下の大国の思い通りにしか動かない機関に成り下がっており、イランとしては非同盟諸国を中心とした途上諸国の理解と支持をバックに、あくまでもNPT上の原子力の平和利用の権利を行使していく決意であり、この点に関してはイラン側から譲歩、妥協をする余地はないということでした。

<核兵器開発問題>

 今回の会議でも、外務副大臣及び国家安全保障会議次官は繰り返し、イランが反人道的で国際法違反の核兵器を開発することは、尊厳を重視するムスリムの教えからあり得ないことを強調していました。発言内容自体は新しくはないのですが、改めてこれほどにきっぱりした発言を聞いて、私がとっさに思ったのは、「これほど明確に核兵器の開発及び保有を否定する発言をしている以上、仮に開発・保有に踏み切った場合にはその前の発言との折り合いをつけようがないのではないか。前言を翻して核兵器開発を正当化する理屈を編み出す余地は、少なくとも私の想像力をはるかに超える。ということは、やはり、イランはあくまで原子力発電に関心があるのであり、核兵器開発そのものを考えていないのではないか(ただし、いつでもその気になれば核兵器の開発に着手しうる能力を獲得するという「灰色」の選択肢を確保することは、外交戦略上の必要として追求することはあり得ることです。)」ということでした。また、今回の会議に際しては、2010年の会議に際しての最高指導者ハメネイ師のメッセージ、アフマディネジャド大統領及びジャリリ国家安全保障会議書記の演説が収められた記録集が配布されましたので、イランの核政策に関する基本的立場をより包括的かつ深く理解する材料を手にすることができましたが、アメリカ以下の二重基準政策を口を極めて批判しながらも、イランが核兵器開発に歩みを進めることを窺わせるような発言はまったくありません。
特にハメネイ師のメッセージは、原子力の平和利用を全面的に肯定する発言で始まっていますが、その点は後で取り上げることにして、核兵器に関して次のように述べています。これは、アフマディネジャド、ジャリリなどの演説内容の攻撃的なまでの内容(両者が提起している「具体的な提案」の中身は、イランの心情は分かるけれども、アメリカが真剣に耳を傾けるようにするなどとの手心を加えるというものではなく、極端な言い方をするならば、アメリカの身勝手きわまる二重基準の政策を余すところなく暴露することに狙いがあることが見え見えです。)と比べると、最高指導者としての矜恃を感じさせる冷静な内容です。

「'アトム'という言葉は、人類の知識の進歩を意味すると同時に、歴史におけるもっとも悲しむべき出来事、もっとも恐ろしいジェノサイド、人類の科学的達成物のもっとも深刻な形での利用ということについて思い起こさせる。…アメリカ合衆国という国家だけが、究極的な核攻撃を行った。広島及び長崎の無辜の人々が対等でなく残酷な戦争で原爆の攻撃を受けた。
アメリカ政府によって原爆が広島と長崎で爆発してとてつもない人的大惨事を引き起こしたとき以来、全人類の安全が脅かされ、これらの兵器の完全な廃絶の必要性ということは国際的なコンセンサスとなった。核兵器の使用は人命の大量の損失と破壊を生み出しただけではなく、軍民、老若、男女を問わず完璧なまでに無差別だった。その無慈悲な結果は、政治的及び地理的な境界線を超え、次世代にまで取り返しのつかない損失を被らせた。これらの破壊的な諸影響の結果として、核兵器の使用さらには核兵器使用の脅迫すら議論の余地のない人道法諸規則に対する深刻かつ具体的な侵害であり、まがうことのない戦争犯罪のケースである。いくつかの国々がこれらの兵器を手に入れた後、核戦争における勝者はなく、核戦争を起こすことは非合理的で非人間的であることが明々白々となった。しかし、こうした単純で、道義的、人道的さらには軍事的な事実と証明そしてこれらの兵器の完全廃絶を求める国際共同体の声を限りに繰り返し表明される願望にもかかわらず、他国の安全を犠牲にした自らの安全という幻想を作り上げてきた少数の国々は、この世界的な声を無視し続けている。(中略)
近年には、国によっては、他の核兵器国に対して「相互確証破壊」戦略の先にまで進んでいるものもある。つまりその核戦略においては(核)拡散競争において他の国々を圧倒しようとしているのである。彼らは、ジオニスト政権(浅井注:イスラエルのこと)を核兵器で武装することを助け、同政権の政策を支持することによって核兵器拡散に直接的な役割を担っている。これは、彼らのNPT第1条に基づく義務に違反し、中東及び以遠に対する深刻な脅威となっている。横暴で侵略的な政権であるアメリカはこうした動きを先導している。」

 ハメネイ師の発言については、私は次の諸点に引っかかりました。
-広島及び長崎に対する理解がごく一般的なレベルに留まっているということです。これは実は他のイラン側の発言からも窺われることなのですが、原爆・核兵器に対する理解がその大量性、無差別性に留まっており、放射能・放射線の後々まで続く影響の深刻性、恐怖性については、まったくと言っていいほど彼らの念頭にないと思われることです(確かにハメネイ師は、「その無慈悲な結果は、政治的及び地理的な境界線を超え、次世代にまで取り返しのつかない損失を被らせた」とも言っていますので、放射線被害の問題にまったく無知であるということではないことは窺われるのですが、これも私の推測の域を出ません。)。そのことが、後述しますように、原子力の平和利用の可能性に対する過度なまでの楽観的見方につながっていると思います。
-私の「深読み」なのかも知れませんが、ハメネイ師(そして他のイラン側要人の誰も)核兵器の使用・威嚇については明確に批判していますが、核兵器の開発、製造、保有という問題については、私の気がついた限りでは、何も述べていないということです。たとえばすでに引用した文章の中でハメネイ師は、「核兵器の使用さらには核兵器使用の脅迫すら議論の余地のない人道法諸規則に対する深刻かつ具体的な侵害であり、まがうことのない戦争犯罪」であるとは言っているのですが、そこで留まっているのです。この点が曖昧なままですと、前に私は、イランが核兵器開発に踏み出すにはそれまでの彼ら自身の発言が足かせになる(特に核兵器開発はイスラムの教えに反するとするもの)と指摘しましたが、やはり曖昧さが残るという感じは否めないと思います(正に「戦略的曖昧性」という政策的観点からは、こういう選択があり得ることはすでに指摘したとおりです。)。

<原子力の平和利用(原子力発電)>

 「原子力の平和利用」特に原子力発電に対するイランの積極的な姿勢は、今回の会議でよりも、前回の会議におけるイラン側指導者の発言から理解することができます。指導者の発言を紹介します。

(ハメネイ)
 「アトム及び核の科学は、人類の最大の成果物に入るものであり、全人類社会の福祉と発展に役立てられなければならない。核科学の応用分野は、医療、エネルギー、産業用に及び、それぞれが不可欠な重要性を持っている。そのため、核技術は我々の経済生活において卓越した地位を占めており、その重要性は我々が前進するに伴い増大するのみである、と正しく言うことができる。産業、健康及びエネルギー諸分野の需要が増大するにつれて、核エネルギーをより多く使用するための努力が強められるだろう。(強調は浅井。以下同じ)」

(アフマディネジャド)
 「核エネルギーは、世界で知られているエネルギーの中でもっともきれいで安価なものの一つであることは誰もが知っている。化石燃料によって引き起こされる気候変動や汚染そしてこれらのタイプの燃料は再生可能ではないという性質を持っており、我々としては、以前のどんなときにもまして核エネルギーの利用を考えることが求められている。
 しかも、核技術は、医薬品生産、医療診断及び治癒がむずかしい病気の治療さらには工業、農業その他の分野でも広く効果的に利用することができる。
 核兵器国が犯した最大の裏切りは、核兵器及び核エネルギーという概念を同じ範疇に入れるという政策である。彼らは、核兵器を製造するためのプロセスは核エネルギーを適切に利用するプロセスとはまったく違うということを十分に知っていながらそうしたのだ。彼らが実際に望んだのは、彼らの意思を国際共同体に引き続き押しつけるという利益のために、核兵器及び核エネルギーの利用を独占しようとすることなのだ。」

(ジャリリ)
 「イランイスラム共和国がNPTの活動的なメンバーとしてその権利を擁護することは、NPT全加盟国の権利を防衛するということである。…国際共同体、とりわけ非同盟運動の120の加盟国に対し、イランの核に関する権利を多くの機会に支持したことについて心から感謝する。我々は、すべての国々が核エネルギーの平和利用から利益を得る権利を持っていることを確信する。」

(アリ・アクバル・サレーヒ副大統領)
 「核エネルギーの応用が発見されてから65年以上が過ぎた。もし適切に利用されるならば、世界はより進歩し、より安全で、より確実な状況の下で生きていることができたであろう。不幸なことに、不正義で差別的な行動、核保有国の勝手な行動と約束を守らないことにより、人類に奉仕し、平和目的のために利用できたはずの技術が人間社会に対する最大の脅威になってしまった。元々は核計画の平和的利用を容易にすることを目的にして作られたIAEAが…安保理の常任理事国の政治的利益に奉仕する監視施設に変質してしまった。
 不幸なことに、広島及び長崎に対する原爆投下という形で核エネルギーが軍事使用されたために、世界世論にはこのエネルギーのマイナスのイメージが残された。…
 核兵器競争と平和的な核エネルギーの利用にかかわる二重基準政策によって、世界は深刻な挑戦に直面している。差別、選択的アプローチ、威嚇的言辞の使用、不正そして二重基準が速やかに除去される措置がとられなければ、NPTは近い将来にその正統性と有効性を失うであろう。」

 私が改めて驚いたのは、イラン国内における「原子力平和利用」に関する理解の程度は、極端な言い方をするならば、1950年代の日本のそれとまったく変わらないということです。そういう意味では、きわめて皮肉なことですが、アメリカ政府が1950年代初期に編み出した「原子力平和神話」はイラン国内においてそのもっとも強固な支持基盤を得ているということです。スリーマイルも、チェルノブイリもそして今回の福島第一原発の事態も、イランの核政策にはなんの影響をも及ぼしていないのです。
 以上に紹介したのは福島の事態が起こる前の2010年会議でのイラン指導者の発言ですが、今回の会議でも福島のことはそれなりに話題にはなりましたが、イランの原子力政策と結びつけて考えようという雰囲気は皆無と言っていいほどでした。

2. 初歩的な感想

 私自身は、このコラムに載せましたように、「原子力の平和利用」という言葉はアメリカ発の核政策正当化のための目くらましであり、安全な原発立地条件はありえないこと、原発は必然的に大量の放射性核廃棄物を生み出し、たまる一方だから、私たちは後世に放射能汚染の付けを回すという無責任は許されないこと、原発は安全で安価であるという主張(アフマディネジャド大統領)はまったく成り立たないこと、イランが原子力の平和利用を含めあらゆる核計画をやめることこそが、直接的にはアメリカの核政策に対するもっとも大きな痛撃を与えることになるし、より根本的には、政治的意思力と使命感に基づいて行動するイランの国際的声望は必ずや高まるに違いない、ということを会議で主張しようとしたのですが、議長が時間配分を間違えて結局私の発言時間は3分ということになってしまって、思いを十分に伝えることはできませんでした。
 しかし私は、イランと日本はアメリカの世界政策を改めさせる上で極めて大きな可能性(潜在力)を持っていると思います。イランの場合は、自ら進んで核開発計画をきっぱり清算することによって、イランに狙いを定めたアメリカの諸々の政策の不当性を世界に証明し、そのことによってアメリカの核固執政策を国際的に追い詰める立場に立つことができます。日本の場合は、対米追随の外交・軍事政策(拡大核抑止政策を含むことはもちろんです。)をきっぱり清算し、アメリカの在日米軍基地をすべて撤退させることによって、アメリカの世界政策を根本的に見直させることができるのです。
ただし、日本の場合、飼い慣らされた行動しか取ることのできない「国民性」(震災者や原発近隣住民の避難行動における政府の理不尽、無為無能に対する従順性-「個人が国家の上に立つ」国家観を我がものにしておらず、昔ながらの「国家が個人の上に立つ」国家観に縛られている-、震災・福島後の周囲の目を気にするだけの「自粛」の広がり、そうかと思うと、買い占めに走り、「風評被害」に我先と自己防衛に走るエゴ丸出しの行動パターンなどは、要するに私たち日本人は個・尊厳を我がものにし得ていない前近代的な存在に留まっているということです。)が一気に変わるという可能性は残念ながら極めて望み薄ですから、こういうチャンスを生かし切ることは現実政治としては、起こるとしてもまだまだ先のことでしょう。
これに対してイランの場合は、日本よりもはるかに可能性は大きいと思います。何といっても、日本人がすぐに頭を垂れてしまうアメリカに対して敢然と自己主張をする国家・国民・民族としての気概(尊厳)を持っています。尊厳こそはイランの人達が何よりも大切にする価値なのです。したがって、アメリカといえども、その誤った、理不尽な政策に対しては正面から立ち向かうという政治的意思をイランは持っています。しかも、国際政治に対して責任を持つという使命感が必要なのですが、イランの場合は、イスラムに基づく強烈な使命感を持っています。イランは、最高政策決定責任者が、原子力平和利用という考え方の誤りを認識しさえすれば、世界を揺るがす平和攻勢をかける可能性・条件を十分に持っていると、私は確信し、期待するのです。

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