福島第一原発から何を学ぶべきか

2011.06.08

*6月12日及び13日にイランで軍縮及び不拡散に関する国際会議が開かれます。昨年に開かれた会議の第二回目の会議です。前回にも招かれたのですが、急病で断念せざるを得なかったいわく付きの会議なのですが、今回も駐日アラグチ・イラン大使が声をかけてくれて(2006年に広島を訪れた彼と懇談して知り合いになっていた経緯もあり、彼が招待してくれている次第です。)、わずかな期間ですが、私がとても関心があるイラン式民主(デモクラシー)の「空気」なりとも感じ取りたく、今回は是非行きたいと思っています。  前置きが長くなりましたが、その会議に提出するペーパーはすでに出しているのですが、私としては、原子力発電計画を進めているイランに対して福島第一原発の事態を踏まえて考えてほしいことを会議では率直に発言したいと思い、その発言を用意しました。その内容をこのコラムにも以下において掲載しておこうと思います(6月8日記)。

私は、福島第一原発の事態を踏まえ、「原子力の平和利用」という概念が本当に成り立ちうるのか、人類の意味ある存続を将来にわたって確保する上で、軍事的にはもちろんのこと非軍事的にも、核エネルギーは封印する以外にないのではないか、そしてイランと日本が率先して脱原子力への国際的リーダーシップをとることが人類の意味ある存続に対する最大の貢献となり、したがって両国及び人民にとっての最高の歴史的な名誉となるのではないか、という3点についてお話しさせていただきます。

<「原子力平和利用」はあり得るのか>

 「原子力平和利用」はあり得るのかという私の問題意識を皆様にご理解いただく上では、まず「原子力平和利用」という概念がどのような歴史的経緯から生み出されてきたのかを踏まえる必要があります。
 ここでは、核問題に関する著名なジャーナリストであるジョナサン・シェルの著書『第7の10年 新たな様相の核危機』("The Seventh Decade  The New Shape of Nuclear Danger")で次のように述べている箇所(pp.37-40)をご紹介します。

 「アイゼンハワーは、ソ連に対する(核兵器における)数的優位の10年を買うために将来における(核)拡散という代価を支払った。この不幸な取引の手段が「平和のためのアトム計画」だった。……
 米ソの水爆実験のもとで、軍備競争を阻止する国際圧力が高まった。アイゼンハワーは核兵器増強の邪魔になる管理協定は望まなかったが、それを望んでいるようなふりをした。ダレス国務長官の言葉を借りれば、「国際的な世論・諸政府の意見」を考慮した「その場しのぎ」として(軍備管理の)交渉をすることを望んでいる対外的ふりを示すことが必要だったのだ。国家安全保障委員会計画局がその年(1953年)後半に述べたように、軍縮交渉は「アメリカが軍縮に関心がないと示唆するようなことは、この時点での(アメリカの)政治的立場を損なうということを主な理由として」必要だったのだ。
 (しかし)アイゼンハワーは、必要としない軍備管理の提案にかかわる代案としてまったく異質なもの、即ち「平和のためのアトム計画」を持ち出した。…その公にされた目標は、核の剣を核の鋤に打ち直すということだった。……しかし…両方(アトム計画と核兵器)を進めることはまったく可能だし、それが実際に起こったことだった。……
 「平和のためのアトム」にはもう一つの隠されたコストがついていた。(つまり)その計画は、1950年代のアメリカの核兵器増強を覆い隠すことに使われただけでなく、核拡散の加速に対する技術的基礎を据えるものだったのだ。アイゼンハワーの提案によってまかれた種は、1960年代後半に核不拡散条約(NPT)交渉として有毒な果実を結ぶことになる。…(この条約により)非核兵器国家は、5カ国が核兵器を保有することが認められる世界で核兵器を保有しないことの見返りとして、原子力技術に対する完全なアクセスを獲得したのだ。
 この取引は、条約条文に書き込まれた「トロイの木馬」だった。5カ国が(核兵器を)保有し続けることにより、他の多くの国々が核兵器を取得したいという願望は確実に強くなるし、(NPT)第4条の規定(締約国の原子力平和利用の権利)は、そういう野心を満たす手段の9割を取得することを保証するものだった。(かくして)今起こりつつある核保有国と核拡散国の衝突の舞台は据え付けられたのだ。」

 長い引用になりましたが、要するに「原子力の平和利用」という概念は、アメリカが自らの核政策を正当化するために持ち出した、本質的に人の目を欺く言葉(のもてあそび)であり、NPTは正にその延長線上の法的産物だということです。即ちNPTは、5大国の核独占という本来あってはならない国際的な不平等を固定化することの見返りとして、核兵器国が非核兵器国に原子力の「平和利用」の権利を認めることによって不平等性に対する不満を解消することを狙ったものであるということです。このことからは、二つの結論が導かれます。
 一つは、「原子力の平和利用」はアメリカ自身が言い出したことであり、NPTはその法的な産物である以上、イランがその権利を行使することは法的には正当であり、これを妨げることは許されないということです。非核兵器国である日本が核濃縮をはじめとする核燃料サイクルを確立することが国際法上の権利として認められているように、イランもその国際法上の権利が認められています。そのことは、IAEAの前事務局長だったエルバラダイの著書『ごまかしの時代』("The Age of Deception")において繰り返し述べているとおりです。日本の核計画は認めるが、イランについてはこれを認めない、ということは典型的な二重基準であり、主権国家の対等平等性を根本原則とする国際社会においてあってはならないことです。  今ひとつは、「原子力平和利用」という概念はアメリカの核政策・戦略を正当化するために作り出されたきわめて恣意的な用語・政策的産物であり、そもそも'核エネルギーを平和的に利用するということがあり得るのか'という根本問題に関する科学的な、同時にまた人類の意味ある存続と両立しうるのかという観点からの厳密な検証を踏まえたものではないということです。この点がしっかり検証されない限り、私たちは「原子力の平和利用ありき」の前提に立って議論を進めるべきではないと、私は強調したいと思います。

<核エネルギーは封印しなければならない>

 そこで、'核エネルギーを平和的に利用するということがありうるのか'という問題について考えてみたいと思います。
核エネルギー(原子力)とは、核分裂によって生じるエネルギーのことです(このほかに核融合反応によって生まれるエネルギーもあいますが、この問題には立ち入りません)が、その特徴そのものに由来するもっとも深刻な問題は、核エネルギーを生み出す'燃料'ともいうべき放射性物質が放射線を出すという性質(放射能)を持っているということです。放射性物質及び放射線が人体に及ぼす深刻な影響については、放射線が発見された19世紀においてすでに認識されていましたが、1945年にアメリカが広島及び長崎に原爆を投下した結果、即時的に20万人にも達する死者を出しただけではなく、数十万人の被爆者を生み出すことによって余すところなく明らかになりました。そして、「原子力平和利用」の中心をなす原発が核兵器と同じ被害を生むことは、スリーマイル(1979年)、チェルノブイリ(1986年)の原発事故そして本年3月に起こった福島第一原発の事態によって明らかとなっているのです。
 福島第一原発の事態が私たちに改めて教えているのは次のことです。
 まず、原発が生み出す放射性物質には実に様々なものがあり、その放出する放射線の半減期は数日のもの(例えば、特に幼少児に甲状腺がんを引き起こすβ線及びγ線を出すヨウ素-131の半減期は8日)もありますが、数十年(例えばβ線及びγ線を出すセシウム-137は30年、β線を出すストロンチウムは29年)から数万年(α線を出すプルトニウム-239は2万4千年)に及ぶものがあるということです。β線及びγ線を出すヨウ素-129に至っては、半減期は1570万年です。ちなみに、劣化ウラン弾から放出されるウラン-238及びウラン-235はα線による深刻な内部被曝を引き起こします(出所:NPO法人「原子力資料情報室(CNIC)」ホーム・ページ)。そしてもっとも重要な事実は、放射性物質から生み出された放射線を人智によってコントロールし、減らし、無害化することは不可能であるということです。つまり、いったん汚染された地域は長い期間にわたって人間が住むことを不可能にします。そのことから次のような深刻きわまる問題が出てきます。
 外部被曝の場合は除洗するという手段がありますが、内部被曝及び、低線量被曝であっても累積的に被曝することによって人体は確実にむしばまれ(細胞の中のDNAが損傷を受け)、数年さらには数十年にわたり、つまり、被曝者は生きている限り、いつがんその他の致死的な病に見舞われるか分からないという恐怖に常に襲われながら過ごさなければならないのです。それが正に広島及び長崎で被爆した人々が1945年から今日まで経験していることです。ところが私たちは、原爆を投下したアメリカによる「平和のためのアトム計画」キャンペーンと「原子力平和利用神話」によって、広島及び長崎から教訓を学ぶことを妨げられました。しかも、戦後の歴代日本政府がそういうアメリカの政策を丸呑みし、アメリカに追随することで広島及び長崎の原爆体験を圧殺してきたために、広島及び長崎の人類的体験から深刻に学び、放射能及び放射線についての知見を生かすことが妨げられてきたのです。核兵器のみならず原発がある限り、私たち人類は放射能及び放射線の恐怖から逃れるすべはないのです。
 以上の指摘に対しては、原発の安全性を徹底的に追求すれば、放射能汚染の問題を起こすことはないという主張があります。私たち日本人の大多数も、1950年代以来、そういう原発安全神話を信用するように洗脳され、「日本の原発技術は世界一安全」という原発推進論者のご託宣に思考停止して、日本という狭い国土にいまや54基の原発を抱え込み、現在2基が建設中、そしてさらに12基が建設を計画されているという事態を招いてきました。しかし福島第一原発の事態はこの神話とご託宣がいかに根拠のないものであったかということを白日の下にさらしたのです。福島第一原発の事態は、少数ではあるけれども、一貫して原発の危険性を説いてきた科学者の以下のポイントが正しいことを余すところなく明らかにしています。
 一つは、原発の安全な立地条件はあり得ないということです。地球は常に地殻変動を続けています。ましてや、イラン及び日本は世界有数の地震国です。福島の事態は、経済的コストと両立する限りでのマグニチュードの地震及び高さの津波が起こることを想定して建設された原発が如何に脆弱であるかを示しています。しかも、いったん安全神話が破産してしまうと、深刻を極める問題が次々に発生します。福島の事態を収拾するめどはまったく立っていません。大惨事が起きる可能性(最悪の場合は、狭い国土の日本にひしめき合う1億3千万人が世界難民になる事態も排除できません)があるのです。そのようなことになったならば、この相互依存を深める世界に対する打撃は計り知れないものになるでしょう。イランが進めている原発計画についても、また、世界各地の原発についても同じことを考えなければならないのです。
 今ひとつは、原発は大量の放射性廃棄物を生み出しますが、その安全な処分方法はあり得ないということです。福島の事態は劇的な形でこの問題の深刻さを示しています(放射性廃棄物の貯蔵庫も低温に保つことが不可欠ですが、冷却系統の故障は放射性廃棄物の危険性を改めて明らかにしました)が、より一般的に、放射能を無害化する「核燃料サイクル」なるものはあり得ません。半永久的に放射線を出し続ける廃棄物を最終的に処分する方法はないのです。地中深くあるいは深海底に貯めておくぐらいの方法しかありませんが、先ほども述べたように地球は常に地殻変動を続けていますから、そこに安全性の保障はないのです。そして、原発を続ける限り、放射性廃棄物は増え続けるのです。私たちは、現在の私たちの利便性を優先することによって、その深刻を極めるツケを子孫に回そうとしているのです。そのようなことが許されるでしょうか。
 このような指摘に対しては、そうはいっても急増する地球人口の需要をまかなうためには、少なくとも過渡期的な電力の需給ギャップを埋める手段として原発に頼るほかない、という主張があります。この点については様々な議論が行われていますし、いわゆる代替自然エネルギーの可能性についての科学的知見を早急に、世界あげての取り組みによりまとめ上げることによって、正確な判断を得ることが必要です。
 しかし、少なくとも次のことは指摘しておく必要があります。
 まず、これまでの原発必要論は「原子力の平和利用」が可能だという何らの根拠がない主張に立っていたということです。これまで述べたように、原子力の「安全かつ平和的な利用」という考え方が成り立たない以上、原発必要論がよって立つ根本が崩れ去っているということです。
 次に、原発による発電コストは他のエネルギー源に比べて安価であるという主張があります。しかし、福島の事態が改めて示していることは、発電コストだけで判断することは誤りであるということです。放射性廃棄物の貯蔵コスト(廃棄物は増え続け、しかも半永久的に存在し、核燃料サイクルも答えにならないことを考える必要があります)、事故が起こったときの天文学的な補償費用(しかも、汚染された地域は再び人間が住むことを不可能にするという経済的コストではとうてい推し量れない取り返しのつかない被害をもたらします)を考えた場合、原発発電による電力は決して安いものではありません。
 第三に、自然エネルギーを利用する発電コストは高すぎるという主張がありますが、この点については少なくとも3点を指摘する必要があります。
一つは、これまでの議論は「原発ありき」の前提に立っており、自然エネルギーについては現状における初期投資にかかるコストが高いことが強調されてきたということです。原発による発電コストがトータルに見た場合には決して安くはなく、かつ、人体及び自然環境を破壊する危険性を認識するとき、自然エネルギーの可能性を最初から否定してかかるのはおかしいのです。
次に、自然エネルギーを利用することに本格的に取り組めば、そのコストを引き下げる技術を開発することは、過去における幾多の例に鑑みても十分に可能であるということです。その近年における典型的な例は、ガソリン車を電動自動車によって置き換える技術が急速に開発ピッチを上げていることに示されています。このようなことはほんの十年前には遠い将来のこととしてしか考えられていませんでした。しかし、地球温暖化の危機という切羽詰まった課題に直面して、電動自動車開発が待ったなしの緊急課題となっています。
代替自然エネルギーについてもまったく同じ考え方からの新しいアプローチが行われるべきです。ドイツや北欧諸国ではすでに脱原発が明確に掲げられるに至っていることは、この可能性がすでに現実となりつつあることを物語っています。幸い、イランも日本も自然エネルギー資源には恵まれています。両国は特に、原発に固執するのではなく、発想を切り替える好条件に恵まれていることを強調しておきたいと思います。
第三番目に、私たちは地球環境を破壊することは許されず、子孫たちが生存可能な地球を引き継いでいかなければならないということです。私たちはこれまで、欧米主導の物質文明万能主義に支配され、地球環境が壊されることにお構いなしに物質的な生活条件を引き上げることのみに突き進んできました。そのツケがもっとも深刻な形で現れたのが地球温暖化の問題です。また、アメリカ発の利潤・市場至上主義(新自由主義)のグローバリゼーションが世界の貧富の格差を無制限に拡大してやまない病理を生み出していることも、物質文明におぼれかかっている人類に対する警鐘にほかなりません。
原発もまた、地球温暖化、グローバリゼーションとともに、人類の意味ある存続を不可能にする、地球環境を破壊する元凶です。この点については、正にイスラームの教えがきわめて根源的な答えの一つを示していることを、私は最近になって、日本における二人のイスラーム研究者(井筒俊彦と黒田寿郎)の研究成果を読むことで学んでいます。私たちは地球環境の保全と両立する身の丈に合った生活様式を確立することが必要です。脱原発そして代替自然エネルギーの活用は人類の意味ある存続にとって不可欠です。

<イランと日本は核廃絶の国際的リーダーシップをとるべきである>

 私は、イランと日本が核廃絶の国際的なリーダーシップをとることは、アメリカによる世界支配の構図を終わらせ、世界の平和と安全を確立する上で不可欠な要請であると確信します。イランはアメリカと力尽くで対抗するのではなく、核兵器だけではなく原発も含めて核廃絶の道を選択するということでその尊厳のあり方を示すことによって、また、日本はアメリカ追随をやめ、原爆体験に立脚した核廃絶と平和憲法第9条に立脚した非武装の道を示すことによって、アメリカのパワー・ポリティックスに代わる世界が進むべき方向性を明らかにすることができます。イランと日本が決然とこの立場をとれば、核兵器に固執し、しかも核拡散を招かざるを得ない原発を世界的に押し広めるという、矛盾を極める政策を進めているアメリカを国際的に孤立させ、その傲慢な世界政策を改めさせることにつながります。
 イランと日本が核廃絶の道を選択することは、NPT体制を根幹から揺るがし、核兵器国の核独占を続けることを正当化する根拠を失わせます。1945年以来の核時代から、21世紀を脱核時代に転換させることになるのです。そしてイランと日本が自然エネルギーを積極的に推進することにより、地球温暖化の進行を押しとどめ、地球環境を保全し、子孫に対して責任を果たすことができます。アメリカの世界的覇権を不可能にするという国際政治的な意味に留まらず、人類史にこれ以上ない貢献を行うことによって、イランと日本は永久に名誉ある地位を占めることになるのです。

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