『ヒロシマと広島』

2011.06.04

*当初7月4日出版の予定であった私の広島生活の卒論ともいうべき『ヒロシマと広島』(かもがわ出版)の出版が早まり、6月末には店頭に並ぶという連絡を受けました。私なりにヒロシマ発の普遍的な平和思想について考えたものです。このコラムを訪れてくださる一人でも多くの方に読んでいただきたいと思います。そのために、「はじめに」、「目次」及び「あとがき」を紹介します。福島第一原発の事態を生み出した原因が広島及び長崎に対する原爆投下の教訓から学ばなかった日本の戦後史に原因があることも分かっていただけると思います(6月4日記)。

「はじめに」

私の広島での生活が契約の6年終了に伴い終わりました。日本軍国主義による長年にわたる侵略戦争に終止符を打つ形で、アメリカに原爆を投下されることになった広島と長崎、その前にやはりアメリカとの地上戦による大惨禍を強いられた沖縄の地で、平和について考える機会を持ちたいという希望は前から頭の中にありました。そんなときに、幸いに広島平和研究所というユニークな、平和について考えるには格好な環境・職場で仕事をする機会に恵まれました。
被爆60年の2005年に広島に職住の中心を移し、私なりに広島を観察し、広島に学び、その観察と学びを糧として平和にこだわって考え続けてきました。広島は、海・山・川という豊かな自然に恵まれて本当に住み心地がよい、食べ物も実においしい土地柄です。何よりも私が日常的に心温まる思いがするのは、お年寄り、障がいのある人、小さい子ども連れや妊娠している人たちに対して優しいとは到底言えない市街電車(ごく一部の最新型を除けば、上り下りの階段の段差が大きく、正に障害物なのです。)の乗客が、そういう人たちが乗ってくるのを見つけると、誰かれとなく必ず起ちあがって席を譲る光景です。また、観光客が多いためということもあるのでしょうが、外からの来訪者に対しても親切です。私も道を尋ねて不愉快な目にあったことは一度もありません。この人情味こそ、広島の本当の魅力だと思います。
毎年の8月6日は役職上、市主催の今や(昔から?)形式化した、心のこもっていない平和記念式典(現在の正式の名称は原爆死没者慰霊式及び祈念式典)に義務的に参加してきましたが、被爆65年の2010年8月6日には、広島での最後の8.6だという意識から自分の気持ちに忠実に過ごしたいと思い、関千枝子『広島第二県女二年西組』(ちくま文庫)で知られている同校の慰霊碑での碑前祭に参加し、その後、被爆者相談員の会が毎年行っている被爆者の方からお話を伺う催しに参加しました。その日が終わったとき、私の広島生活もいよいよ終わりだな、という実感がこみ上げました。
被爆60年の年に広島に来て、被爆65年を迎えたあとに広島を去るということは、仕事の契約が丁度その期間だったことによるたまたまの偶然に過ぎないのですが、結果的には物事を考える上ではとても良い時期に広島に滞在することができたと、つくづく実感しています。もちろんこの間、傍観者としての観察と学びにとどまったつもりはありません。広島においても、また、広島以外の場所においても、未熟さを弁えず、機会さえ与えられれば、その時点、時点における私なりの平和理解に基づく発言を積極的に行ってきました。そんな私を疎ましく感じ、反感を口にする人びとがいることは、さまざまな形で伝わってきました。
しかし、それ以上に驚き、かつありがたく思ったのは、そういう私の未熟で広島のこれまでの複雑な歴史の歩み(その点については、追々触れることになるでしょう。)も生半可にしか弁えていない、しかも舌足らずとなることをお構いなしに思ったことを口にする発言に対して、さまざまな立場の多くの人びとが真剣に耳を傾ける寛容さを示してくれたことです。複雑な歴史を持つ広島はある意味、物事を深く考えようとする人にとってはむしろ住みにくい土地柄でさえあるかも知れません。そういう中での「騒がしい闖入者」であり、「静かな水面にあえて石を放り込む」挑発的ですらある私に対する寛容さであるだけに、私としてはますます感謝の気持ちが強くなります。とくに退職を間近にした最後の約一ヶ月の間、実に様々な人たちから私が広島を去ることを惜しんでくれる表情に接することができました。
それは、自分で言うのも変ですが、少なくとも「浅井という人間は本気で広島のことを考え、広島にとって良かれかし、という思いで物事を考え、発言しようとしている」ことを広島の人たちが理解してくれたからではないかとも考えます。懇意にしてきた人たちから「存在感があった」、「この数年間で広島の雰囲気は間違いなく変わってきた」、「このまま広島で骨をうずめろ」、「まだ広島でやること、やり残したことがあるだろう」などと声をかけてもらうことが少なくありませんでした。もちろん社交辞令であることは承知していますが、たとえそうであるとしても、そういう言葉をかけてもらえることは本当に嬉しいし、ありがたい、という気持ちになりました。自己満足に過ぎないことを十分自覚しながらも、広島にいたことはまったく無意味ではなかったのかもしれない、という手応え(?)を感じることができたのは望外の幸せでした。
私が広島で学んだこと、そして機会あるごとに発信しようとしてきたこと、その中心にあるのは「平和及び平和思想の根源にあるのは人間の尊厳である」ということです。
私は、中学生時代から死を恐れ、その恐怖に打ち勝つために必死になって人間の存在する意味を確認したいと思い悩む子供でありました。そういう恐怖感に打ち勝ちたいという気持ちが私を駆り立て、東京大学を目指し、外務省上級職員採用試験に挑む一つの動力源になっていたことは間違いありません(もちろん、他にも様々な現実的な動機はありましたが、「与えられた環境において自己の最善を尽くす」ということが死の恐怖感に対抗する当時の私が出した精一杯の答えであったのです。)。
そういう私の生き方を根本的に変えた画期的な出来ごとは、外務省に入ってすぐ語学研修で台湾に行き、蒋介石の独裁暗黒政治のもとで祖国(中国)復帰に自らの命を犠牲にする覚悟をもって真剣に生きようとしていた4歳年上の中国人・陳永善(筆名:映真)との出会いでした。台湾滞在はわずか2年弱でしたが、彼の存在そのものが、その後今日に至るまで、私の生き様を照らし測る鏡・座標軸(モノサシ)となりました。当時は他者感覚という言葉は知りませんでしたが、私は彼のまなざし・思考に触れることを通じて他者感覚を身につけましたし、個人、国家、平和などのキー・ワードも私の頭の配線構造の中に組み込まれていったのです。「個」、人間の尊厳というテーマは知らず識らずのうちに私における重要なテーマとなっていきました。死に対する恐怖は今に至るまで消えることはありませんが、人類の歴史の中で自らの存在を位置づけ、人類史の発展の方向性に即して自らの生きようを考え、決定するという陳映真の認識を私自身のものにし得たこと、人間の生き方、あり方に対して方向性を獲得したことは私の人生観そのものを変えることになりました。そして、「与えられた環境において自己の最善を尽くす」という私的な色彩の濃い考えは、今では私の座右の銘にもなっている「愚直に生きる」という考えによって置き換えられていきました。
そして、約25年間の外務省での外交実務を通じて、私の他者感覚は確実に育ったと思いますし、個人と国家の関係、平和観のあり方について私なりの考え方を育むことにも外務省での経験はとても大きな糧となりました。外務省時代の私は中国問題に関心が深かったこともあり、レーニン、毛沢東の著作(マルクスやエンゲルスはとうとう歯が立たず、挫折しました。)を通じて弁証法的思考様式に親しんだことは物事を観察し、分析する思考様式を形作ることに大いに役立ちました。人民日報はそういう思考様式を鍛錬する格好の教材でした。私のことを「親中派」だと揶揄する向きもありますが、陳映真の存在、『毛沢東選集』なしに今の私はない、という意味として、私は喜んで「親中派」というレッテルを受け入れます。
外務省を終の棲家とすることは考えていなかった私は、当初考えていた40歳代前半からは数年遅くなりましたが、46歳の時から大学の世界に身を置くこととなり、それからは、外務省での実務体験に基づく私の荒削りな考え方を私なりに洗練することができるようになりました。特に、『丸山眞男集』をはじめとする丸山との出会いは、私がそれまで外交実務を通じて身につけてきた考え方が方向性において本道を行くものであることを確信させてくれましたし、その方向性に沿ってさらに考え方を発展させていく大きな指針となりました。「他者感覚」という言葉に出会えたのも丸山のおかげです。また、丸山が弁証法を踏まえつつ展開する政治思想の世界には本当に魅了されました。
ただし、私の読み込みが足りないのかもしれませんが、丸山が「人間の尊厳」について正面から論じたことは記憶にありません。この問題に対する私の関心の切実な高まりは、障がいを持って生まれた孫娘を得てからのことでした。孫娘のこと、障がいのことについては後で詳しく書こうと思います。
以上のような背景のもとで、私が日本の戦後政治を、「力によらない」平和観及び「個人を国家の上におく」国家観に立つ日本国憲法と「力による」平和観及び「国家を個人の上におく」国家観に立つ戦後保守政治との対決の構図として最初にとらえたのは2004年8月でした(拙著『戦争する国 しない国』第3章)。そしてその中で、前者の平和観・国家観こそが「人類の歴史の歩みにおいて生み出され、育まれてきた普遍性を備えた考え方である」(「結びに代えて」)という確信を文字にしました。
しかし、その時点では、「個人」「国家」「平和」というキー・ワードを統一的に理解する認識は私の中には生まれていなかったと思います。ましてや、人間の尊厳とこれらのキー・ワードを結びつけて考えるということはなく、それぞれが私の頭の中で別の道を歩んでいたように思います。広島は、それぞれが別々の道を歩んでいた、いわば星雲状態にあった様々な私の問題意識を凝集させるための求心力となる原石がごろごろしている土地柄、物事を深く考えるために必要な養分をふんだんに提供してくれた源泉でした。原爆体験を持つ広島は、人間の尊厳という問題に真正面から向き合うことの重要性を教えてくれました。「力によらない」平和観は、人間の尊厳という基準(モノサシ)を通じてはじめてその真髄をつかむことができること、「個人を国家の上におく」国家観もこの基準(モノサシ)を抜きにしては理解できないこと、他者感覚も人間の尊厳のもっとも重要な一部としてあること等々、要するに広島での6年間なしには私の人間観、国家観、平和観、戦争観は皮相で中途半端なものに終わっていたと思います。
この本は、私がほぼ6年にわたって広島の地で特に平和について学んだこと、考えてきたこと、発言してきたことをまとめて、問題提起してみようという試みです。つまり、広島生活のまとめであり、広島を愛する私の広島に対する心からのメッセージ、エールです。

「目次」

第一章 広島で学んだこと

一 この本を書く動機
 二 沖縄と長崎
 三 広島の今日的な状況
 四 広島は日本の縮図
 五 国際問題に無関心な広島

第二章 平和とは

一 「平和」の定義
    <人間の尊厳>
    <「人間の尊厳」か、「命(生命)の尊厳」か>
    <「力による平和」観と「力によらない平和」観>
  二 障がいと尊厳
    <孫娘・ミク>
    <広島と障がい>
  三 人間の尊厳と人権
   <死刑問題と日本人の尊厳感覚>
   <「人間の尊厳」と「人権」との関係>
   <人間の尊厳と「力によらない平和」観>
   <人間の尊厳と民主(デモクラシー)>
    -理念としての民主(デモクラシー)-
    -制度としての民主(デモクラシー)-
    -運動としての民主(デモクラシー)-
   <「民主主義」ではなく「民主(デモクラシー)」とする理由>

第三章 ヒロシマの思想化を妨げてきた広島

一 ヒロシマ論の歴史
 二 敗戦直後から独立回復までの思想的「空白」を生んだ要因
   <戦争が終わったことに対する喜び>
   <戦後広島における「よそ者」の支配>
   <たたきのめされた被爆者>
   <昭和天皇の戦争責任を直視しなかった広島>
   <原爆投下を受け入れた広島>
   <問題提起側の主体的問題>
   <広島自身にも欠落していた加害意識>
 三 独立回復後における認識の曖昧さ
   <1955年までの国民的無知・無関心>
   <反核運動におけるトータルな歴史認識の欠落>
   <被爆を隠さざるを得ない社会的偏見>
   <被爆者に対する日本政府の敵視と「受忍」論の押しつけ>
   <「原子力平和利用」神話の影響>
   <国家主導の歴史観・戦争観への順応>
   <「思想の不毛地」>
   <「原爆自閉症」・「原爆ローカリズム」・「被爆ナショナリズム」>
   <被爆者エゴ>

第四章 思想としてのヒロシマ

一 先覚者・栗原貞子の平和思想
   <人間の尊厳>
   <「力によらない平和」>
   <被爆体験に止まらない原爆体験というとらえ方>
   <加害責任>
   <昭和天皇の戦争責任>
   <差別>
   <平和憲法>
 二 ヒロシマ:日本発の普遍的平和思想
   <人類の歴史の特徴>
   <21世紀の世界的課題と日本>
    -国際関係の民主化-
    -人権・民主(デモクラシー)の世界的実現-
    -大衆社会状況下の人権・民主(デモクラシー)-
   <力によらない平和」観の確立・支配>
   <日本国憲法>

 

「あとがき」

 私がこの本を書き始めたのは2月でした。広島にいる間中、気になる発言や文章を書き留めてきましたし、「あるべきヒロシマと現実の広島」とのギャップを埋めることは、とりもなおさず曖昧を極める日本の平和をめぐる状況に対して一石を投じる意味があるだろう、という自分なりの感触はつかんでいましたので、広島を去るまでには書き終えるだろうと思っていました。しかし、3月11日に起こった空前の大自然災害である東日本大震災及び人為的大災害として歴史に名前が刻まれることになるであろう福島第一原子力発電所の事態を受けて、私はあまりのショックにとても平静に書き続けるどころではなくなりました。ようやく気持ちを取り直し、ふたたび執筆に取りかかったのは4月に入ってからのことです。
 大震災については、自然の猛威に対して人間は謙虚さを失うことは許されないことを改めて学ばされる思いを味わいました。しかし、復旧に対する民主党政権の信じられない危機意識の欠落及び被災者の尊厳を踏みにじって恬として恥じない厚顔さ、無為無策には心底あきれ果てるとともに、そういう政治のありように対して多くの国民が怒りを爆発させることもなく、権力に対して従順になされるままである姿に底知れぬ絶望感を味わいました。いったいこの国の人びとはいつになったら、そもそもどれだけの無責任政治を目の当たりにしたら、人間の尊厳に目覚め、人権・民主(デモクラシー)を我がものにした、政治の主人公としての行動を取る人民に生まれ変わるのだろうか、そんな日はいつまで経ってもやってこないのではないか、とやるせない気持ちに襲われました。 そんなときに読んでいた『金大中自伝』で、金大中が「自分の力でやらない民主主義はほんものではない。自分が血と汗と涙をささげない民主主義はほんものではない」(上、p.309)と言って、血と汗と涙を流して我がものにした韓国の民主(デモクラシー)に確固とした信頼を寄せながら、日本の民主(デモクラシー)に対しては、自らがKCIAに拉致された事件に際して、「日本は何の措置もとらなかった。政府レベルの「憂慮表明」など、単なるポーズだった。私はいわゆる民主国家だという日本がこのように人権に鈍感で、約束を重視しないことに憤慨し、落胆した。「日本は血を流して民主主義をたたかい取っていないので、人権問題にこのように脆弱なのではないか」と考えたりもした」(上、p.326)と述べて突き放していることに、「確かにそうだよな」とつぶやかざるを得ませんでした。
 「人間の尊厳が普遍的価値として確立するまでには長い道のり、それこそ幾百万、幾千万の尊い人間の命が奪われ、血が流されるという代償を払った上でのものである」(p.54)のですが、日本においては、幸か不幸か、そういう国民的体験を経ていないために、今回のような深刻な事態に直面してもなお、私たちは人間の尊厳、したがって人権・民主(デモクラシー)を基軸に据えた行動を取り得ないままでいるのではないでしょうか。外国のメディアは、こうした事態下において「秩序だって行動する日本人」に感嘆の声を惜しみませんでしたが、私に言わせれば、「個」したがって尊厳を我がものにしていない日本人の体制順応の昔ながらの行動パターン以外の何ものでもありません。福島第一原発の深刻きわまる事態に際して「避難指示」を出された地域住民が、あたかも運命を受け入れるかのように「指示」に従う姿にも、同じ思いを味わうしかありません。
 しかし、こと福島第一原発の事態に関して言えば、これは徹頭徹尾人災以外の何ものでもありません。本文でも書きましたように、原発を筆頭とする「原子力の平和利用」神話は、原爆・核兵器の恐ろしさを隠蔽するために作り出されたものです(pp.142-144)。しかも、発電の結果大量の危険きわまる放射性廃棄物を生み出すこと、その放射性廃棄物は半永久的に放射線を放出し続け、科学技術の知見をもってしてはコントロールできないこと、したがって廃棄物はどんどんたまる一方であって地球環境を確実に汚染すること、しかも、放射性廃棄物は核兵器の原料となるプルトニウムを生み出すこと、そして、地球は常に地殻変動をくり返しており、原発の安全立地はあり得ないこと等々、要するに原子力発電という形を取る核エネルギーは、核兵器と同じく、人類の意味ある存続を脅かすもの以外の何ものでもないのです。福島第一原発の事態から私たちが学び取るべき最大の教訓はそのことなのです。日本の原発技術の安全性は世界トップクラスという政官財学が作り上げてきた神話が完全に崩れ去ったいま、私たちは脱原発に舵を切り替えなければなりません。
 実は、私たちが広島・長崎の原爆体験に基づく教訓を正確に学び取っていたならば、原子力発電に手を染めるという選択はあり得なかったでしょう。広島・長崎の最大の教訓は、その制御不可能な放射線の作用によって人体が長期にわたってむしばまれ、人間の尊厳が根底からかつ全的に否定されるということであり、人類の歴史的発展にとって不可欠な調和ある自然環境に対して計り知れない危害を及ぼし続けるということだったのですから。その教訓を学び取ることを妨げたのはほかでもなく、放射線被害を徹底して隠蔽しようとしたアメリカの政策であり、「原子力平和利用」神話の推進だったのです。
 スリーマイル、チェルノブイリそして福島第一と続いた原発事故は、改めて核エネルギーの危険性を私たちに教えるものでした。私たちが福島第一の悲劇を無駄にしないためには、「人類は核と共存できない」という真理を学び取ることです。人知(テクノロジー)をもってしては完璧に制御できない核エネルギーを「パンドラの箱」に封印することです。
 この点に関しては、1975年に森瀧市郎が唱えた「核絶対否定」の思想をもう一度真剣に再評価する必要があると思います。本文でも触れました(p.26)ように、森瀧の主張は、当時においては社共対立の争点化されてしまいました。当時の共産党は、「わが党は、原子力そのものの開発、平和利用を核兵器と同列におき全面的に廃止すべきであるというような「反科学」の立場はとっていません」(1977年8月11日付「赤旗」主張)、「最近、核兵器も原子力平和利用も同列において、"核絶対否定"一般を原水禁運動の目標にしようとする傾向があらわれているが、これも、核兵器禁止、核戦争阻止の根本目標をあいまいにするものである」(1977年10月17~22日の第14回党大会決定)として、「核絶対否定」の考え方は「反科学」的であり、運動論としても正しくない、という立場でした(上記二つの文章は、日本共産党中央委員会出版局『核兵器廃絶を緊急課題として 原水禁運動の統一と日本共産党』によっています)。
 しかし、2011年5月14日付の「赤旗」に載った不破哲三の「「科学の目」で原発災害を考える」という文章では、原子炉の構造そのものが不安定、使った核燃料の後始末ができない「未完成の技術」だとして、「日本共産党は、安全性の保障のない「未完成の技術」のままで原子力発電の道に踏み出すことには、最初からきっぱり反対してきました」と述べています。そして、原発の建設は「原子力研究の基礎、応用全体のいっそうの発展、安全性と危険補償にたいする民主的な法的技術的措置の完了をまってから考慮されるべきである」(1961年の「原子力問題にかんする決議」)を引用しています。
 不破の文章を注意深く読めば、技術が完成すれば原子力発電も選択肢の一つであるという認識が潜んでいることを読み取ることは難しくありません。とはいえ、原子炉の構造を100%リスク・フリーにすることができることは予見しうる将来においてあり得ない、使った核燃料の後始末に関する技術が確立することも見込まれないことを考えれば、不破自身が限りなく核否定の立場に近づいているのではないでしょうか。「絶対」否定という表現そのものは非科学的・反科学的であるとしても、原子力が、気候変動、グローバル化した金融市場とともに、「限界のないリスクをはらんでいる」(2011年5月13日付の朝日新聞に掲載されたドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックの発言)ことは明らかである以上、広島・長崎の原爆体験を持つ日本こそが、脱原発を目指す世界の先頭に立つことが何よりも求められていると確信します。
 ところがこの期に及んでもなお、エネルギーの需給バランス、電力生産のコストを考えれば原発は必要であるとする主張が執拗に行われています。エネルギー需要のピーク時の必要をまかなうためには原発しかない、割高な電力コストによって日本経済の国際競争力が低下する、などの議論です。しかし、こういう主張の根底にある発想は、人類の限りない物質的な欲望を満たすことを無条件に正当化し、肯定する思想です。しかし、地球規模の諸問題が提起しているのは、正にこういう発想・思想がもはや維持できるものではなく、私たちの生活スタイルを地球の自然環境を破壊せず、保全するように、「身の丈に合った」ものに切り替えなければならないということなのです。
 私は、2011年の東日本大震災と福島第一原発の事態は、1868年の明治維新及び1945年の第二次世界大戦敗北に匹敵する近現代日本にとっての最大の試練であると思います。それは、日本における人間の尊厳及び人権・民主(デモクラシー)確立という開国の歴史にとっては、第三の開国のチャンスでもあります。第一の開国のチャンスであった明治維新及び第二の開国のチャンスであった第二次世界大戦敗北を主体的に生かし切れなかった私たち日本人は、この不幸な事態を「第三の開国」のチャンスとして生かし切ることができるかどうかで、日本の将来が大きく左右されることになることは間違いないと思います。血は流したくありません。しかし、私たちが血涙と血汗を流す覚悟は不可欠です。そうしてのみ、日本人民は、自らの尊厳を我がものにし、人権・民主(デモクラシー)を実現することができるでしょう。その時にこそ、「力によらない」平和観を体する日本国憲法を世界に向かって発信することができ、日本発の普遍的平和思想を世界に届けることができるのです。巨大な歴史的責任を担っている私たち自身の主体的力量に自信を持とうではありませんか。
 この本を、畏友・陳映真と孫娘・ミクに贈ります。

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