韓国のデモクラシー:『金大中自伝』から学んだこと

2011.05.17

*『金大中自伝』は、いろいろな意味で刺激に富む内容です。正直言って、その記述内容に全幅の信頼を置くことには抵抗がありますが、彼の歴史認識は非常に正確です。また、朝鮮民主主義人民共和国(特に金正日)に対する分析や見方も傾聴に値すると思います。同じことは米朝関係に関する分析についても言えます。特にブッシュ政権時代の米朝関係悪化の原因と責任は朝鮮にはなく、ブッシュ政権にあるという率直な指摘、同じく李明博政権下の南北関係悪化の原因は李明博にあるとする指摘は、私もまったく同感です。
また、韓国内政に対するアメリカの関与に関する金大中の指摘も、彼が当事者であったが故にきわめて示唆に富んでいます。そこからは、現在の中東情勢に対するアメリカのダブル・スタンダードと同質の内容が浮かび上がっています。今回はその点を含め、韓国のデモクラシーがなぜ本物であるか(そして日本のデモクラシーがなぜ本物になっていないのか)についての金大中の指摘の部分をまとめておきたいと思います。この作業は、私の頭の中では、「中東情勢から学ぶこと」という作業と密接に関連するものであり、私たちが日本社会の民主化を真剣に考える上で有益な示唆を与えるものだと思います(5月17日記)。

1.韓国におけるデモクラシー確立への歴史的出来ごと

 金大中は、韓国におけるデモクラシーが本物になる上での歴史的な出来ごととして、1960年の「4.19革命」、1980年の光州の「5.18民主化抗争」、1987年の6月抗争の三つを韓国における「民主化運動の金字塔」(上、p.416)と位置づけています。他の箇所では79年の「釜馬抗争」を加えています(上、p.373)。しかも、金大中においては、韓国にはデモクラシーの思想的礎(いしずえ)があるという確信が根底にあります。

<韓国デモクラシーの思想的礎>

 金大中は「わが民族の歴史には、民主主義が可能な要素があまりにも多い」として、4つのポイントを指摘しています(pp.372-373)。

 「第一に、檀君神話をはじめとする建国神話のなかに民主主義の根本精神の一つである民本精神を垣間見ることができる。檀君神話に出てくる弘益人間思想は、民衆を根本にするべきだということを前提にしている。新羅や伽耶の建国神話を見ると、民衆が集まって王をおしいただいている。どの国の建国物語にもあまり例がないことだ。東学の「人乃天」は、人がすなわち天であるということで、人に仕えるに天に対する如く、とする「事人如天」を基本思想にしている。
第二に、最近100年の歴史はつまるところ、権威主義に対する闘争の記録だった、朝鮮王朝が滅んで9年後に起きた「3.1運動」で王政復古を主張した人はほとんどいなかった。フランスが大革命後も長期間、根強い王政復古の歴史をくり返してきたのと比べてみても、驚くべきことだといわざるをない。60年の「4.19革命」、79年の「釜馬抗争」、80年の「光州抗争」などは、いずれも民主精神に立脚した闘争だった。
 第三に、朝鮮王朝を支配した儒教の根本精神は民本主義だった。したがって、よく言われる、儒教的伝統を持つ国に民主主義はなじまないとする主張は間違っている。驚くのは孟子の主張だ。孟子はこう言った。「君主は天の子だ。その天子は天に代わって民に善政を施す使命を授かった。しかし、天子が天の意に背いて民に虐政をすれば、民は決起して君子を追い出し、新しい君子をよそからもってくる(易姓革命)権利がある」
 そして、朝鮮王朝の500年間、表現の自由は最高の価値として尊重された。政府の機構にも司諫院(サガムウオン)[王に対する諫言を司った官庁]と司憲府(サホンプ)[官吏の非行を調べ、責任をただした官庁]があった。これらの機構は王と高官の誤りを指摘して是正を求め、糾弾までした。史官が書いた歴史の記録は王といえども見ることはできなかった。
 第四は、国民の教育水準が世界のトップレベルにあるということだ。民主主義は国民の教育水準が高くないと達成できず、教育を受けた国民だけが主権意識と責任意識を持って民主主義を守っていくことができる。
 このようなことがらは、わが民族が決して民主主義と無縁な民族ではないことを物語ってくれている。私たちの歴史には民主主義的な原理と要素が厳然と存在してきた。」

 私には、金大中が指摘する一つ一つについて検証する知識もありませんが、彼が「アジアにも西欧に劣らず、深奥な民主主義哲学の伝統があることは確実である」と確信していることは、彼が『フォーリン・アフェアーズ』94年11~12月号に「文化は果たして宿命か」と題する論文を寄稿して、権威主義的政治を行っていたシンガポールのリー・クアンユー首相(当時)の論理に次のように反論したと述べていることから間違いないところです(上、p.517)。

 「ロックの理論よりほぼ2千年も前に、中国の哲学者孟子は、それと似た思想を説いていた。…韓国の土着思想である東学はさらに進んで、「人間は即ち天(人乃天)」であるとし、「人に仕えるに、天に仕える如くせよ」と教える。このような東学の精神は1894年、封建的で帝国主義的な搾取に対抗し、ほとんど50万人にもなる農民が蜂起するにあたり、その動機を提供することになった。このように、儒教と東学の教え以上に民主主義の根本と相通じる思想が、どこにあるというのか。アジアにも西欧に劣らず、深奥な民主主義哲学の伝統があることは確実である。」

 金大中の主張の正否を判断する知識・能力は私にはありませんが、日本の政治思想史の中にデモクラシーの思想的礎となるものがあるとすれば、日本政治思想史の権威である丸山眞男が注意を向けなかったはずはないことは言えるでしょう。また、金大中が重視した孟子の思想の部分は、万世一系の天皇制を奉じてきた日本においてはせいぜい異端として扱われてきたのではないでしょうか。
 また、金大中は、韓国におけるデモクラシーは自らの「血と汗と涙」で勝ち取ったものであるが故に「ほんもの」なのだという確信を早くも1980年3月26日に、「民族の精神」というテーマでの講演で次のように明らかにしました(上、p.309)。

 「私たちは民主主義に、二度にわたって失敗しました。「8.15解放」後の民主主義は米国がくれたもので、私たちの力で成し遂げたのものではなかったがために李承晩博士が踏みにじってしまいました。「4.19」後の民主主義は国民全体でなく学生が中心になったものだったが、学生が学園に戻ると、主体のいない民主主義になり、朴正煕将軍がこれを簡単に奪い取ってしまいました。私たち国民は維新治下でついに反省し、目覚めました。「自分の力でやらない民主主義はほんものではない。自分が血と汗と涙をささげない民主主義はほんものではない」と。
 こうして多くの人たちが、牧師、神父を先頭に監獄へ行き、外で祈祷会を開いてたたかい、直接参加できない国民は心からこれを声援しました。「10.26事態」(浅井注:朴正煕暗殺が起こったこと)は7年間にわたるわが民族の粘り強い反維新、反独裁闘争の延長線上で起きたのだといえます。」

<韓国における民主化闘争の主な出来ごと>

1960年4月19日の「4.19革命」:4月19日から26日までのデモが、流血の事態を生みながらも李承晩大統領の下野をもたらした事件。金大中は、「学生革命がこれほどまでに完璧に成功した例は、どこの国にもなかった」としつつ、「革命がこうも偉大な成功をおさめた背景についても忘れてはならない」として、「不正選挙に対する挙国的な抵抗の中心には野党の民主党がいたこと」、「中産階層が積極的にデモに参加したこと」、そして「国軍が中立を守り、軽挙妄動しなかったこと」の三点を挙げています(上、p.83)。
1980年5月18日の「5.18民主化抗争」:朴正煕がクー・デターを起こし金大中を逮捕したことをきっかけにして光州市民が5月18日から27日まで民主化を求めて立ち上がり、政府発表でも148人の民間人が死亡して弾圧された事件(上、pp.318-9)。
1987年の「6月抗争」:全斗煥政権の圧政に対する民主化要求闘争で、2人の大学生が犠牲になりました(上、pp.405-416)。

2.韓国の民主化闘争に対する米日両政府の対応に関する金大中の観察

 金大中は、韓国における民主化闘争に対する米日両政府の対応についても、興味ある観察を行っています。特にアメリカ政府の対応は、今日の中東における民主化を目指す各国における運動に対するアメリカ政府の対応ぶりを見る上でもきわめて示唆に富む内容があると感じます。日本に対する鋭い批判の発言にも、私たちは謙虚に接する必要があると思います。

<アメリカ政府の対応>

「4.19革命」:中間層の参加に関して金大中は、「中間層が参加するかどうかはデモの成敗を分ける。このことは即、米国側の支持が得られるかどうかとも関係してくるからだ。「4.19」で中産層が動いたのは非暴力、非容共、非反米のデモであったからだ。平和的なデモが中産層を引っ張り出し、その中産層が米国を動かした」(上、p.81)という観察を行っています。
1974年の金大中のKCIAによる拉致事件:金大中は、「私が劇的に生還できたのは米国の介入があったからだ。在韓米大使館は私が拉致された8月8日、午後3時の段階で情報を入手した。米国のCIAがまず、フィリップ・ハビブ駐韓大使に知らせた。ハビブ大使は韓国内のすべての情報チームを召集した。…ハビブ大使は集めた情報を分析し、直ちに韓国政府高官らに拉致の事実を知らせた。併せて、米国の憂慮を明確に伝えた。…キッシンジャー長官はすべての組織を動員し、真相を把握するよう指示した。…私を拉致して殺害しようとした朴正煕政権を窮地に追い込んだ。」(上、pp.247-8)と記しています。
「6月抗争」:金大中は、「反米・反核のスローガンが登場すると、米国側も大きく緊張した。これは全斗煥政権が望むところだった。」(上、pp.397-8)、「外国メディアは何よりも「6.10大会」(浅井注:民主党党大会と大統領候補指名大会)の大変な熱気と中産層の変化に注目していた。それまで暴力デモに批判的だった市民がデモに同調したり、志願したりしたというのは驚くべき変化だった。世論がそうなっていくと、米国政府はリリー駐韓大使を崔侊洙外相のもとに送り、暴力で対応することを自制するよう依頼した。併せて明洞聖堂に立てこもったデモ隊に公権力を投入することにも反対する立場を伝えた。」(上、p.412)、「米国が態度を変えたのは、市民と中産層が民主化闘争を積極的に支持したからだ。…米国は当時にあって最後まで、この三つ(非暴力・非容共・非反米)に関して総合的に判断したと思われる。そして最後に、中産層の動向を見て全政権に圧力をかけた可能性が高い。…全斗煥政権は崖っぷちに追いやられていた。」(上、p.413)と観察しています。

<日本政府の対応及び日本のデモクラシー>

 金大中は自身の拉致事件に関する日本政府の対応などに関連して、日本政府及び日本のデモクラシーに対して鋭い観察をしています。
金大中拉致事件:「事件の真相が明らかになったというのに、政治決着で真実を隠蔽しようとする韓国と日本のレベルの低い政治家らのふるまいには、いまだ怒りを覚える。」(上、p.247)
 「日本は何の措置もとらなかった。政府レベルの「憂慮表明」など、単なるポーズだった。私はいわゆる民主国家だという日本がこのように人権に鈍感で、約束を重視しないことに憤慨し、落胆した。「日本は血を流して民主主義をたたかい取っていないので、人権問題にこのように脆弱なのではないか」と考えたりもした(上、p.326)。
1993年にオックスフォード大学で講演した際に、日本人の学生が「第二次世界大戦前、多くの国がイギリスやフランスの植民地でした。しかし、それらの国々はいま、宗主国と仲良くやっています。ところで、なぜ韓国は過去に縛られ、いまもって日本と和解しないのですか」と質問したのに対する答え

 「あなたに質問を返します。イギリスやフランスはたくさんのかつての植民地と仲良くやっているのに、どうして日本は植民地だった韓国とは仲が悪いのでしょうか。その責任は韓国と日本の、どちらにあるのでしょうか。
 では、イギリス、フランスと日本を比較してみましょう。…日本は韓国に入ってきて、朝鮮民族が生命のように大切にする姓を日本式に替えさせました。また、朝鮮語を使えなくし、歴史を学べなくしました。毎日、天皇が住む東の方に向かってお辞儀をするよう強要しました。しかし、フランスとイギリスは植民地の自尊心を踏みにじることはしませんでした。
 次にドイツと日本を比較してみましょう。両国は第二次世界大戦で同じく戦争犯罪をおかしました。ところが、ドイツは過去について徹底して謝罪しました。ユダヤ人とイスラエルに数十億ドルの賠償または補償をしました。半面、日本はどうだったでしょうか。韓国にわずか三億ドルを渡すことでケリをつけました。ドイツは彼らの罪状を、子どもたちを含めて全国民に徹底して教育していますが、日本は過去のことを隠し謝罪するフリをしているだけです。あなたも過去の惨状をきちんと知らないからこのような質問をするのです。
 それだけでなく、ドイツは戦争に負けたことを「敗戦」と認めているのに、日本は「終戦」と呼びます。ドイツは当時の連合国軍を「占領軍」と言ったのに、日本は「進駐軍」と言いました。日本のやり方だと、だれが戦争に勝って、だれが降伏したのかわかりません。日本がこうした態度を取るのに、どうして許すことができるでしょうか。それに超強大国に成長した日本が反省しないのに、周辺国である韓国が、どうして警戒せずにいられるでしょうか。下心を疑い、よく観察してみるのは当然のことです。したがって、このように日本の態度がドイツとはっきりと違うのに、どうして過去にフタをすることができますか。」(上、pp.494-5)

1998年の大統領としての訪日に際しての参議院本会議場での国会演説

 「奇跡は、奇跡的に訪れるものではありません。韓国の民主化、特に憲政史上初の平和的政権交代は、韓国国民の血と汗によって実現した奇跡であります。わが国民と私は、このようにして手に入れた尊い民主主義を揺るぎなく守り抜く考えであります。」(下、p.90)。
 「過去を直視するということは、歴史的事実をありのままに認識することであり、未来を志向するということは、認識した事実から教訓を得て、よりよい明日をいっしょに模索するという意味であります。日本には過去を直視して歴史を恐れる、真の勇気が必要であり、韓国は、日本の変化した姿を正しく評価しながら、未来の可能性に対する希望を見出す必要があります。」(下、p.91)

同じく大統領として訪日した際の発言

 「韓国人は、姓を命より大事なものと考えます。ところが、日本は私たちの姓を日本式に変えるようにし、韓国語を禁止しました。また、韓国の歴史を学べないようにし、韓国語の新聞を廃刊させ、韓国語で文学を書けないようにしました。そして、しまいには、純真な娘たちを挺身隊に引っ張っていき、軍隊で「慰安婦」にさせました。そのような文化的、人権的な問題がいまも傷跡として残っているのです。日本人はほとんど大部分、このようなことを知らずにいます。知らないから反省をせず、反省をしないから、心からの謝罪ができないのです。」(下、p.94)

韓国のデモクラシーとの比較における日本のデモクラシーに対する見方

 「大韓民国はアジアで唯一、国民が民主主義をたたかい取った。言ってみれば、自生の民主主義国家だ。中国はまだ、「できない」状態にあり、インドはイギリスから「習って」やり、日本は敗戦後、マッカーサー将軍に「させられて」している。こうして民主化をなし遂げるにあたっては数多くの犠牲者がいた。」(下、p.351)

2002年の小泉訪朝後の日朝関係に関する発言

 「(訪朝)後、日朝関係はいろいろな悪材料で、停滞してしまった。日本国内で起きた右傾化の流れは、ことあるごとに、日朝関係をのっぴきならぬ状況に追い込んだ。」(下、p.418)

2007年5月、キッシンジャーが日本の未来について尋ねたことに対する答え

 「急激な右傾化は憂慮すべき状況ですが、それより、若者や若い国会議員らの右傾化がもっと心配です。彼らは過去の侵略を否認し、被害国だった韓国や中国人は敏感な反応を見せています。右傾化の根本原因は、日本人が過去の侵略についての教育をきちんと受けて来なかったところにあります。日本はドイツと違って65歳以下の世代では、90%にあたる人たちが過去を知らず、したがって、反省もしていません。最近、フランシス・フクヤマは、このままでは日本は国際的に孤立するだろうとまで言っています。」(下、p.467)

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