日米軍事同盟「肯定」論の虚妄性
 -歴史の屑箱行きが運命づけられている「抑止」論-

2011.05.16

*最近、2カ所の憲法集会でお話しする機会がありました。私はいつも時間配分が下手で尻切れトンボに終わることが多いので、今回はレジュメを読んで頂けば、それなりに理解できる内容のものにしてみました。その内容を紹介します(5月16日記)。

(お話で私が皆様にお伝えしたいメッセージ)
我が国での安保肯定論は、かつては「在日米軍の存在が日本の平和と安全を守ってくれている」という内容のものが主流でしたが。今や在日米軍の「抑止(力)」を強調するものが主流になっています。私は、そういう安保「抑止力」論には、「抑止」とは何かという本質を踏まえない、他の多くの問題(典型的な例が「平和」論です。)に関しても共通に見られる日本的な問題点を感じています。
そこで今回は、まず「抑止」という言葉・用語・概念の定義をはっきり行うことにより、「抑止」は核兵器登場後の「脅威」の応用として生まれたことをはっきりさせます(1.(1)&(2))。次に21世紀の特徴的な条件の下では、もはや核兵器そして軍事同盟の存在自体が時代錯誤の有害無益な存在であり、「抑止」とともにお蔵入りするべき運命にあることを明らかにします(1.(3))。
ところが、唯一の超大国として世界を力尽くで支配する政策を進めるアメリカは、オバマ政権を含め、相変わらず「敵か味方か」というパワー・ポリティックスの発想にしがみついており、「脅威」を仕立て上げ、「抑止」を振り回す政策を変えていません。アメリカに付き従う日本の保守政治(自公政権及び民主党政権)も同じ言葉を乱発する政治を変えようともしません。しかし、アメリカの政策と日本の政策は、「抑止」の意味づけを含め、違うところもあります。そこで、米日の軍事政策を表にして分かりやすく比較できるようにします(2.(1))。次にアメリカの軍事政策を、「抑止」にスポットを当てながら、もはや行き詰まりであり、日米軍事同盟を含む軍事覇権政策には将来がないことを明らかにしたいと考えます(2.(2))。日本における「抑止」論が国際的に物笑いの種でしかないものであることについては、簡単に要点だけお話しします(2.(3))。
 次に、3.11後に顕在化した原発問題を日米軍事同盟という枠組みの中でとらえる視点を提起したいと思います(3.)。そして最後に、憲法9条と日米軍事同盟とは根本的に相容れないこと、憲法9条(平和憲法)こそが21世紀の世界(日本だけではない!)の道標であることを明らかにしたい(4.)と思います。

1.軍事的「抑止」

(1)定義

「一国が、敵国からの攻撃を防止するために、報復するという威嚇(threat)を効果的に用いること。「抑止」という用語は主に、核兵器の出現とともに、核兵器国または主要な同盟システムの基本戦略において使われてきた。この戦略の前提は、おのおのの核兵器国がいかなる侵略に対しても即時かつ圧倒的な破壊力を保有することである。「即時かつ圧倒的な破壊力」とは、攻撃を仕掛けて来る側(攻撃側)に対して、攻撃を受ける側(反撃側)がその奇襲を生き残った戦力によって"攻撃側が耐えられない損害を与えるに足るだけの明白で信頼できる能力"をいう。抑止が成功するか否かは、反撃側が、攻撃を受けて重大な被害を受けた場合に、攻撃側の第二撃によってさらに莫大な被害を受けることを覚悟の上で報復するかどうかについて、攻撃側が読み切れるかどうかにかかっている。したがって、核抑止戦略は二つの基本的な条件に依拠する。第一、(攻撃側の)奇襲攻撃後の(反撃側の)報復能力が確実にあると(攻撃側によって)認識されなければならない。第二、(反撃側には)報復意志が可能性としてある(必ずしも確実である必要はない。)と(攻撃側によって)認識されなければならない。」(大英百科事典)

(2)「抑止」の意味・内容

-軍事的な意味での「抑止」という概念は、核兵器登場後の産物です。つまり、途方もない破壊力を持つ核兵器の出現によって、伝統的な戦争についての考え方に修正を余儀なくされた結果、編み出された考え方です。
*「憲法こそが最大の抑止力」(社民党の福島瑞穂党首)という言い方がなされるほどに、内外において「抑止」という言葉が乱用されていますが、このような乱用は、問題の所在を曖昧にし、議論を混乱させるもとです。
*今回は、以上(1)の正確な定義に基づいて、きっちりした問題点の整理を考える機会としたいと考えます。
-まず、伝統的な「戦争」に関する考え方は、以下の①~③三つの基本的要素に基礎をおいて、④のように位置づけられてきました。
①(国際観)「パワー・ポリティックス(権力政治)が支配する弱肉強食の世界」
②(国家関係)「ゼロ・サム(勝つか負けるか)の世界」。したがって、自国の利益(国益)を伸ばすことが対外政策の最大の目的であり、そのために必要な手段として、外交とともに戦争が位置づけられてきました。
③(脅威)「自国の存続・権益を脅かす意志と能力(軍事力)を持つ国家」。

(ポイント)
「意志」と「能力」をともに備える国家であってはじめて「脅威」となります。いずれか一方が欠ける場合にも、「脅威である」とは言いません。このことは、後で述べますように、アメリカの「ならず者国家」脅威論、日本の「中国脅威」論、「北朝鮮脅威」論がいかに根拠がないものであるかを理解する上でカギとなりますので、しっかり心にとめてください。

④(戦争)「国益実現・達成のための「政治の延長」としての手段」。
-次に考える必要がある問題は、「「途方もない破壊力」あるいは「即時かつ圧倒的な破壊力」を持つ核兵器の出現は、伝統的な戦争に関する見方を変えたのか、変えたとするならば、どのように変えたのか」ということです。
*核戦争は、もはやいずれか一方の勝利という結果をもたらさず、戦争当事国(同盟国を含む。)すべての破滅、つまり勝者はなく全員が敗者となること、したがって戦争はもはや「政治の継続」という手段(選べる政策の一つという位置づけ)ではあり得なくなったことが認識されるに至りました。
*具体的には、ソ連はアメリカが帝国主義の世界支配政策に基づいてソ連をつぶすための戦争を始める「意志」があると考え、アメリカはソ連が世界赤化政策に基づいて西側を征服する戦争を始める「意志」があると考えましたし、しかもそれぞれが圧倒的破壊力である核戦力という「能力」を持っていることにより、互いに相手を伝統的な意味における「脅威」と認識した点では変化はありませんでした。

(ポイント)
ソ連は共産主義を世界規模で実現することを1920年代までは掲げていましたから、アメリカがそのこと(「意志」)を警戒したのは、それなりに理由がないことではありませんでした。また、アメリカが世界を資本主義の市場にしようとすることは今も変わらない政策ですから、ソ連がそのこと(「意志」)を警戒したこともそれなりに理解できることでした。
 しかし、後でお話しする「ならず者国家」とされるイランや朝鮮、そして中国は、そういうような野心を持っていないのですから、「脅威」と見なすことそのものが根本的におかしいということです。
 「何をするか分からない」という漠然とした不安感は、いわば「お化け」を怖がる心理と同じであって、「脅威」について考える場合の「意志」ということとはまったく別物です。

  *しかし、相手に対して先制攻撃をかけた場合に、それに対する相手からの核兵器による反撃によって自らが被る壊滅的被害を考えるとき、もはや先制攻撃自体を考えることが無意味であることが米ソ双方にとって明らかになった、という点で重要な変化が起こりました。つまり、戦争を起こすことはできないということです。
*とはいえ、相手側が世界を支配しようとする意志を持っている可能性はある以上、先制攻撃を仕掛けてこないという確信が持てないために、「即時かつ圧倒的な第二撃破壊力」としての「報復能力」を持ち、かつ、攻撃を受けた場合には断固として対抗する「報復意志」を持つことによって、「報復能力+報復意志」からなる「抑止」という考え方が生まれることになったのです。軍事的な「抑止」という考え方、政策は核兵器の登場とともに現れた、ということが理解されると思います。

(ポイント)
  脅威:攻撃能力+攻撃意志
  抑止:報復能力+報復意志+核戦力

(3)21世紀の世界と「抑止力」

-では、21世紀の世界においても「抑止」という考え方は引き続き意味がある(現実の国際関係を動かす)のでしょうか。
*20世紀までの世界を支配してきたパワー・ポリティックス的(弱肉強食)な国際観は歴史的遺物として歴史の屑箱に入れるべきであり、国家関係もプラス・サム(ウィン・ウィン)を本質とする関係に変わっており、自国の利益は、他国との共存共栄を通じてこそ実現する、という認識は今や国際常識です。そのことは、次の三つの「21世紀の世界の特徴」ともいうべき要素によって確かめられます。
①普遍的価値である人間の尊厳(人権民主)を基準(モノサシ)にして国際観・国家関係を作り直すことが人類的課題になっていること。具体的には、
+20世紀に一国単位で基本的に確立したこと(人権・民主を国内で実現しない国家は国際社会の一員としては認められない。例:ミヤンマーの軍事政権)を、21世紀において世界的に確立すること(国際的な政治経済文化の仕組みを、人権・民主の基準で作り直すこと)
+国家の位置づけ:「国家>個人」→「個人>国家」(国家が「国益」を名目にして個人の尊厳を犠牲にする戦争を行うことをもはや許さないこと)
国際的相互依存が後戻りのきかない形で進むにより、戦争の被害が直ちに我が身に跳ね返る度合いはこれまでとは比較にならないこと。今回の大震災、福島第一原発の事態は次のことを教えています。
+東日本大震災で被災し、操業中止に追い込まれた工場の存在によって、世界の自動車生産をはじめとする経済活動が中止に追い込まれました。
+東日本大震災の被害は世界経済そのものに対して深刻な影響を及ぼすことが認識されました(G8/G20会合)
+戦争になれば、原発はもっとも「効果的」な攻撃対象ですが、福島第一原発の事態は、戦争になれば、放射能禍がもっともっと世界規模で拡散することを教えています。
地球的規模の諸問題の深刻化は、一国単位での取り組みでは解決のすべはなく、世界あげての取り組みを緊急課題としています(もはや戦争を考える余裕はないのです。)。
+地球温暖化をはじめとする環境問題は、先進国、途上国あげての協力した取り組みなくしては解決し得ません。
++各国の軍事費をこの問題の解決に振り向ける必要があります。

(ポイント)
スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)は4月11日、2010年の世界全体の軍事費が前年比実質1・3%増の 1 兆6300 億ドル(約138 兆円)だったという推定データを公表しました(共同通信社)。
国際エネルギー機関(IEA)の推計では、2050年までに必要とされる地球温暖化排出ガスの規制のためのコストは45兆ドル(世界のGDPの1.1%)とされています。世界の軍事費をすべて振り向けてやっと対処できる大変な課題であることが分かります。

   ++原発はこの問題に解決をもたらす答えではなく、正に深刻な環境汚染をもたらす問題そのものであることが、福島第一原発の事態によって白日の下にさらされました。
+世界規模で拡大する貧困・格差の問題は、資本主義(利潤及び市場)に立脚する国際経済システム(WTO/IMF体制)が生み出しており、このシステムに留まる限り、根本的な解決は導き得ませんし、そのことが世界各地の紛争の原因になっています。尊厳に立脚する新国際政治経済秩序を作らなければなりません。
+自然災害の問題もまた、もはや一国単位での事態発生後の対応では足りず、国際的な予防重視の取り組み、事態発生に対する国際的取り組みを現実か課題とするべき段階に来ていることが、やはり東日本大震災及び福島第一原発の事態によって明らかにされました。
④核の危険性は今や人類の意味ある存続そのものを危殆に瀕しめていることです。
+まず、核兵器は再び使ってしまったら、人類の存続にとって取り返しがつかない結果をもたらすことは、今や広く知られているとおりです。
+原子力のエネルギーの「平和利用」なるものも実は虚構であり、あり得ないことであることがチェルノブイリに続く福島第一原発の事態で明らかにされました。
++核分裂によって生み出される放射能は半永久的に続くものであり、それを減らし、無害化することは不可能です。
++原発運転によって生まれる放射性廃棄物を安全に処分することは不可能です。
++地球は常に地殻変動を続けていますから、安全な立地ということはあり得ません。
+原発に依拠するエネルギー浪費を前提とする文明のあり方は破産しているのであって、私たちは「原子力平和利用」神話と決別しない限り未来はないことを認識しなければならないのです。
+原子力エネルギーを計画的・段階的にゼロにもっていき、自然エネルギー(再生可能なエネルギー)にシフトしていくことが喫緊の課題となっています。
-以上の21世紀の特徴的要素を前提とするとき、パワー・ポリティックスの「脅威」という古くさい考え方(その典型が日米軍事同盟)に留まっていることはもはや許されないし、したがって「脅威」を前提として生まれた「抑止」という考えそのものの意味が失われた、と結論づけるほかありません。東日本大震災と福島第一原発の事態に対する日本及び世界の対応ぶりからも、次のことが分かります。 *昔であれば、このように日本が弱体化したときこそ、他国は、日本を侵略・征服する絶好機としてとらえていたに違いありません(例:欧米列強の植民地征服、日本の中国侵略戦争)。
*政府が10万人体制の自衛隊災害出動(総兵力は24万人)を組むということ自体、外患(外国からの脅威)があるならば考えられないことです。
**「本当に軍事的脅威が存在するのか」という基本的問いに対して、日頃脅威論を声高に叫ぶ政府自体が客観的な答えを出しているのです。
**高額な武器調達のために防衛費が支出されていることの無意味さも、今回の自衛隊の活動そのものが客観的に証明しました。

(ポイント)
防衛関係費(2011年度予算額)は4兆6625億円で、そのうちの物件費2兆5975億円に在日米軍駐留関連経費3597億円+SACO関係費101億円+米軍再編関係経費1161億円を加えると3兆834億円になります。自衛隊という軍隊ではなく、緊急事態出動組織として生まれ変わるべきであるということが何よりもの教訓ですし、在日米軍のための巨額の費用をやめることが平和憲法を活かすことにもなります。今回の事態における自衛隊員の献身的活動を手放しで評価する傾向が強いですが、私たちは、彼らがもっとやり甲斐を感じるゆえんは、「人殺し」の組織ではなく、「人助け」の組織に生まれ変わることにこそあることを説く必要があると確信します。
ちなみに、企業の内部留保金(『当期純利益』から『配当金』を差し引いたもの。利益剰余金+資本剰余金+引当金等)が2009年度には252.4兆円ありました(共産党の佐々木憲昭議員が2010年9月に衆議院財務金融委員会で配付した資料)。大企業が、復興国債の大部分を引き受けることは、その繁栄が国民経済及び電力会社の支持なくしてはあり得ないことを考えても、決して私たちの「法外な要求」ということにはならないと思います。

  **私たちが脅威と教え込まれている中国と朝鮮は、大震災に際して何をしたでしょうか。
+中国(出所:外務省HP)
(3/14~3/20活動)救助隊員15名、岩手県大船渡市で活動(ちなみに、中国に限らず、すべての救助隊派遣国が、福島第一原発の事態発生後に、派遣隊を引き上げました。)。
第1陣の支援物資(テント900張り、毛布2000枚、手提げ式応急灯200 個)は3月14日に羽田空港到着、宮城県登米市に提供。
第2陣の支援物資(ミネラルウオーター6万本、使い捨て手袋325万組、)は3月28日に成田空港に到着、ミネラルウオーターは茨城県、使い図手手袋は日本赤十字社に提供。
第3陣の支援物資(ゴム手袋1万組、仮設トイレ60個、スニーカー25000足)は3月31日に到着後、宮城県に提供。
香港は全体で500万香港ドルの物資支援を行うことを表明、第一陣は4月9日に到着し、福島県いわき市に提供される。
+朝鮮(出所:朝鮮中央通信社。外務省HPには記載がありません。)
 金正日は、3月24日に在日同胞に50万ドルを送る。
朝鮮赤十字会は、3月25日に日本赤十字に10万ドルの慰問金を手交。
*なお、在日米軍が「トモダチ作戦」を展開したことを手放しで歓迎し、褒めそやす傾向が顕著ですが、私たちは、この作戦そのものが日米軍事一体化の進行であり、共同作戦及びそのための演習の一環として行われているという事実を直視しなければなりません。この「成果」を根拠に在日米軍基地の正当化を説こうとした米軍に対して、沖縄(県知事を含む。)が毅然とした態度(「在沖米軍は要らない」)を示したことから、私たちは深く学ぶ必要があると思います。
-それでもなお、相変わらず「抑止」論が花盛りなのはなぜでしょうか。以下2.でさらに考えます。

2.「抑止」についての問題整理

(1)アメリカの「抑止」政策の特徴と問題点

-冷戦終結後、「抑止」が核戦力だけではなく、通常戦力にもなし崩し的に拡大して使われるようになりました。
*それは主に、アメリカの圧倒的な通常兵力の存在及びこれを維持するための財源確保を国内的に正当化するために編み出された「後付け」の理屈です。
*特にアジアに関しては、冷戦終結後においても日(韓)・米同盟(在日(韓)米軍)を維持し、強化することを正当化する理由、つまり台湾海峡有事及び朝鮮半島有事の発生に対する「抑止力」としての意味づけが意識的に行われるようになりました。しかし、以下の事実は、通常戦力を「抑止力」として位置づける試みがまったく根拠のないことを示します。
**中国が台湾侵攻しないのは米軍のプレゼンスが抑止力として働いているからではありません。国内経済建設が至上課題、台湾が独立に走らない限り現状維持さえ確保できればOK、台湾が独立に走れば軍事行動を辞さない、したがって中国の軍事政策は防衛を基本として成り立っているからです。

(ポイント)
中国は軍拡しているから脅威ではないか、という反論があります。しかし、それは米日の圧倒的な軍事力に対抗するために、もともと貧弱だった軍事力の強化に努めているからであって、もともと圧倒的に強力だった日米軍事同盟が「2+2」合意でさらに再編強化されていることが、中国側の対抗措置を招く原因を作っているのです。仮に「能力」は強くなっているとしてもあくまでも米日軍事力にキャッチ・アップするための防衛的なものであり、中国にはアメリカ、日本に対して戦争を仕掛ける「意志」はまったくないことは、アメリカ自身も認識していることです。
 この点で、アメリカの中国の核戦力に着目した「中国脅威」論と日本の何が何でも「中国脅威」論との間には大きなギャップがあります。

       **朝鮮が対南軍事行動を取らないのは在韓在日米軍が抑止力として働く以前の問題です。すなわち、朝鮮経済の疲弊回復が至上課題、対南軍事劣勢のため、侵攻する能力も意思もないということなのです。

(ポイント)
1983年のラングーン事件、1987年の大韓航空機爆破事件などを引き起こした朝鮮の悪いイメージがどうしても残ります(日本の場合は、拉致問題、不審船事件などが加わります。)が、これらはいわゆる軍事的な「脅威」という次元の問題ではない、いうならば訳の分からない「お化け」という主観によって支配される心理的な次元の話に過ぎないことをはっきり認識する必要があります。

       **イランその他の地域紛争に対する抑止力としての米通常戦力の正当化も根拠がありません。結論として、通常戦力が抑止力として機能するというアメリカの後付けの論理は成り立たないのです。

       (ポイント)
「在日米軍はアジア・太平洋地域の軍事紛争に対する抑止力として不可欠」というアメリカの主張には一切の根拠がありません。在日米軍は、アメリカがグローバルに部隊を急展開するために存在しているのであり、アメリカにとっての日本の軍事的価値は発進・兵站基地としての役割なのです。

       -核戦力にかかわる「抑止」という言葉も、米ソ冷戦後には乱用ぎみですが、その破綻は、以下のように、ますます明らかになっています。
*アメリカに対して第一撃能力を持つのは依然としてロシアのみですが、ロシアは確かにアメリカを核攻撃するに足る「能力」は維持しているけれども、アメリカを攻撃する「意志」がないことはアメリカ自身が認めているのです。
ところがアメリカは、将来的にロシアがアメリカに対して敵対的になる(攻撃する意志を持つようになる)可能性を排除できないとして「潜在的脅威」に分類しているのです。
そういうアメリカの対ロ不信が逆にロシアを対米警戒に走らせ、核兵器固執政策を維持させる原因になっています。
アメリカがそのことを認識しようとしないで核抑止力保持にこだわることに最大の問題があり、核兵器廃絶へのプロセスが進展しない根本的原因になっています。 *アメリカは、現在の中国が対米第一撃能力を保有しておらず(中国の核戦略は「最小限核抑止」と呼ばれる。)、したがって当然に対米攻撃の意志もないことを認識しています。
しかしアメリカは、急台頭する中国が将来的に、核戦力を含め、かつてのソ連に匹敵する対米脅威となるとして「潜在的脅威」とするのです。
この「アメリカの旧態依然としたパワー・ポリティックスの発想+台湾政策」が中国を身構えさせる原因であることをアメリカが認識しようとしないことこそが最大の問題です。

     (ポイント)
核兵器廃絶を妨げている最大の原因は、核超大国・アメリカがロシア及び中国の「脅威」をあげつらい、自らの核固執政策が震源地であることを認めないことにあります。「誰が猫(アメリカ)に鈴(核兵器断念)をつけるか」がカギとなる問題です。そのカギを握るのが日本であることを後でお話しします。

     *米ソ冷戦終結後、アメリカはソ連に代わる「脅威」として大量破壊兵器(核兵器を含む。)を持つ(持とうとする)「ならず者国家」(代表格がイラク、イラン、朝鮮。イラクは最初の攻撃対象になりました。)を掲げました。
**イラク戦争によって、イラクには大量破壊兵器がなく、アメリカが開戦理由とした「証拠」はすべてでっち上げであることが、アメリカを含めて国際的に確認することになったのは公知の事実です(ひとり認めていないのは、主要国では日本のみ)。
**イランの主張は、NPTで認められた「原子力平和利用」の範囲内の権利の行使(イランは、日本が認められていることをイランに認めないのは典型的な二重基準だ、としています。)であるということにあり、軍事的「脅威」として論じる以前の問題です。
確かに、イランがことさらに曖昧な政策をとっていることが西側諸国の疑念を強めているのですが、イランからすれば、イランを「脅威」扱いする西側に対する弱者としての精一杯の対抗策であり、その点を認識しない限り、問題解決への道筋は開かれないでしょう。
**朝鮮の核開発は、朝鮮戦争当時からのアメリカの核恫喝政策、1996年の米朝枠組み合意のブッシュ政権による破棄、6者協議諸合意の米日による不履行に対する「ハリネズミ」としての精一杯の自己防衛です。朝鮮には核攻撃の「意志」「能力」ともに欠けており、「脅威」ではあり得ません。

(ポイント)
日本では、「北朝鮮が攻めてきたらどうする?」式の「北朝鮮脅威」論にみんなが浮き足だつ状況があります。しかし、朝鮮は、そんなことをしたら次の瞬間にはアメリカが「これ幸い」と朝鮮を国ごと灰にすることを知り尽くしていますから、そんな愚かなことをするはずがありません。広島・長崎の原爆体験は、金正日を含む世界の共通の負の遺産なのです。
延坪島事件をもって朝鮮の好戦性を主張する向きがありますが、これはまったく筋違いです。この事件の性格は盧溝橋事件と同質です。
 「金正日なら何をしでかすか分からない」と思ってしまうのが私たち日本人ですが、それは、勝ち目のない対米戦争に成算ないまま踏み切った東条英機という不名誉な先輩を持っているからです。しかし、東条でも、1941年当時にアメリカが原爆を開発していたら、対米戦争に踏み切ることはなかったでしょう。
 こう言うと、「では、やはり核抑止力は必要ではないか」と反論材料にする人がいますし、弱者である朝鮮にとっては「対米抑止力としての核武装を必要としている」わけですが、圧倒的な軍事力を誇るアメリカは、放射線をまき散らす核兵器を使用するまでもなく、朝鮮を叩きつぶすことができるのです。
 朝鮮に核兵器を放棄させる最善の道は、アメリカが朝鮮に戦争を仕掛けない保証を与えること、つまり、休戦協定を平和協定に変え、米朝国交樹立に応じることです。

  **オバマ政権は「ならず者国家」という言葉そのものを使用しないことになったという事実そのものが、その「脅威」論の破産を何よりも雄弁に証明しています。

(2)日本で行われている「抑止」論の特徴とその問題点

   (おことわり)
日本で行われている日米安保必要論や自衛隊必要論は、「中国脅威」論と「北朝鮮脅威」論に基づいていますが、それらの点については、すでに(2)でお話ししました。ここでは、アメリカで行われている抑止論と比べてもおかしい(国際的に通用しない)日本のガラパゴス的な「抑止」論に限ってお話しします。

  -「在沖米海兵隊は抑止力として必要」?
*中国も朝鮮も(そして世界中の軍事について基本常識を踏まえた人なら誰でも)、在沖米海兵隊がにらみを利かせているから、両国が日本に対する侵略を思い止まっているなどと私たちが言ったら、笑い転げるか、それとも、私たちが正気なのか疑うでしょう。私たちが日本語の世界で生きている(日本国内の議論が世界に伝わらない。)から、まだ赤っ恥をかかないですんでいるのです。
*アメリカ自身が海兵隊の役割は「殴り込み」にあると公認してきたのですから、抑止力であるわけがありません。しかも、近年のアメリカ軍の機動力の飛躍的な発展により、「殴り込み」の役割を担う海兵隊の存在理由そのものが再検討される状況が出ています。アメリカ議会で、在沖海兵隊のグアム移転が真剣に議論される世の中になっているのです。
-「在日米軍は抑止力として必要」?
*ここでは、アメリカ政府と日本政府とはいわば呉越同舟の関係にあります。
**アメリカは、世界を股にかけて行動する上で日本全土を出撃拠点、兵站拠点として利用することが死活的に重要ですし、台湾海峡有事、朝鮮半島有事を牽制するためにも最前線基地としての日本を絶対に必要と考えていますから、在日米軍を対中「抑止力」として正当化しようとしていますが、しょせん後付けの理屈です。しかも、それはあくまでもアメリカの「国益」に即したものであって、日本を防衛するためではありません。

(ポイント)
アメリカはありとあらゆる有事を想定して準備を怠らないようにしなければ気が済まない国ですが、外国が日本に対して先制攻撃をかけて始まる「日本有事」の戦争シナリオはありません。

       **日本政府もアメリカの本音は知り尽くしているのですが、そういう「ぶっちゃけた話」をしたら、いくらお人好しの日本人であっても、「何でアメリカのために、基地提供をはじめとする様々な負担を耐えるいわれがあるのか」、「アメリカの都合のために戦争に加担するというのはいかがなものか」ということになりますから、「在日米軍は抑止力」という議論をでっち上げているのです。
**多くの国民に必要なのは、「安保があった方がなんとなく安心。でも、自分のところに米軍基地が来るのは絶対イヤ」(総論賛成・各論反対)という「ただ乗り」の心情を徹底的に清算することです。その心情を見直してもらうには、在日米軍抑止力」論が根も葉もない作り事であり、在日米軍は私たちすべてにとって有害無益だけである(お守りにもならない)ことを分かってもらうことが不可欠です。

(ポイント)
福島第一原発の深刻きわまる事態を受けても、原子力発電について、「やめるべきだ」11%(2007年には7%)、「減らす方がよい」30%(同じく21%)、に対し、「現状程度にとどめる」51%(53%)、「増やす方がよい」5%(13%)という世論調査の結果でした(4月18日付朝日新聞)。「国内の原発を今後どうするべきか」という問いに対する東京都内有権者の回答も、「やめて、別の発電方法をとる」14.1%、「いったんやめ対応を検討する」25.2%、「運転しながら安全対策を強化していく」56.2%でした(3月19日付東京新聞)。同じ問いに対する全国世論調査でも、「すべてなくすべきだ」12%、「減らすべきだ」29%に対し、「現状維持すべきだ」46%、「増やすべきだ」10%でした(4月4日付読売新聞)。今後の電力供給体制のあり方に関する問いに対して、「安全対策を強化し、原発を推進すべきだ」が49%、「将来的に脱原発」が41%、「ただちに脱原発」が6%でした(3月21日付北海道新聞)。
 以上の数字を見て暗澹とするのは、多くの日本人が深刻を極める事実と正面から向き合うことを避ける、既成事実に弱い、現状を思い切って変えることには消極的である、ということです。そういう心情が「在日米軍抑止力」論をも下支えしていることを踏まえ、そうした心情にも届くような働きかけの工夫をする必要があります。

       -「核の傘」(拡大核抑止)について言えば、元々の発端は、通常兵力では劣る(と考えられていた)NATO軍が、通常戦力でのワルシャワ条約軍(ソ連軍)の侵攻に対しては、戦術核兵器の使用で対抗するという戦略を採用したことに始まります。それまでのアメリカは、米ソ間で直接核攻撃の応酬をする戦争を考えていたのですが、この段階でアメリカの同盟国も核兵器で守るということで「拡大抑止」という考え方が生まれ、採用されたのです。
  アメリカは世界戦略の一環として日本を含めた東アジアにも戦術・戦域核兵器を配備することになりましたが、欧州正面と違い、東アジア正面ではアメリカの軍事力がソ連を圧倒していましたから、ソ連がこの地域で戦争を仕掛けることは考えられず、したがって、「拡大核抑止」は軍事的には東アジアでは無意味でした。
 すでに述べたように、アメリカは、中国及び朝鮮を脅威扱いしていますが、本来的な軍事的な意味で脅威を感じる立場にあるのは、高圧的な軍事政策を行うアメリカに直面している中国と朝鮮であり、アメリカの軍事侵攻を抑止するために核兵器政策をとっているのです。その中国及び朝鮮からの核攻撃から身を守るために、日本政府はアメリカの拡大核抑止(「核の傘」)に依存すると言っている、という、なんとも様にならない醜態をさらけ出しているのがわが日本なのです。

(ポイント)
アメリカが中国、朝鮮を攻撃しないとはっきり約束しさえすれば、中国、朝鮮が身構える必要はなく、したがって日本に核攻撃することなどを考えるはずがありません。問題のカギは、日本がアメリカ軍の日本の基地使用をさせないこと。日米安保をやめること。そうすれば、アメリカの「核の傘」が必要などというばかげた主張も自然に雲散霧消すること請け合いです。

  3.原発問題と日米軍事同盟の根っこは同じ

(1)アメリカの核(原子力)政策とその破綻

-アメリカの核政策の根っこにあるのは、核(原子力)エネルギーを解放したことは正しかった、広島・長崎に対する原爆投下は正しかった、したがって将来的にも核兵器使用・原子力利用が正当化される、という認識です。
*原爆を開発する(核エネルギーを解放する方法を確立する)過程においても、日本に対して使用するに際しても、そのことに対する賛否両論がありましたが、反対論は終始少数派で、アメリカの政策を支配したのは圧倒的に推進派でした。放射線被害の恐ろしさは問題として意識されてはいましたが、被爆者が生き残ることは「想定外」とされました。
*広島、長崎に多くの被爆者が生存していることを知ったアメリカが取ったのは、一方で厳しい報道管制を敷いて事実を隠し通すこと(事実が明らかにされれば、原爆の反人道的本質及びそのような兵器を使用したアメリカの戦争責任が国際的に問われることを恐れたのです。)、他方で「核=キノコ雲」の暗いイメージを払拭するために核エネルギーの軍事利用を推進することを可能にするための土壌作りの世界的なキャンペーンを行うこと及び、その不可分の一環として、原子力平和利用計画(1953年にアイゼンハワー政権はatom for peaceと名付ける提案を出しました。)すなわち原子力発電を本格的に推進することでした。  *アメリカの核エネルギーの軍事利用に関しては、核兵器の開発とともに重要なのが原子力潜水艦(1954年のノーチラスが最初)、原子力空母(1960年のエンタプライズが最初)における推進力として原子炉を使うものでした。
-アメリカ発の核(原子力)エネルギー利用政策の根本的な見直しを迫る事態
*核兵器の反人道的・犯罪的な本質は、広島及び長崎の被爆者が1955年の第1回原水爆禁止世界大会で声を上げてから国際的に明らかになりましたし、核兵器国の度重なる核実験の被害(1954年の第五福竜丸乗組員を先頭に、マーシャル群島、ネヴァダ、サハラ、オーストラリア、カザフスタンなどの核実験場所在地住民の被害が世界に知れ渡ってきました。)、さらには劣化ウラン弾被害などによっても明らかになってきています。
*原子力平和利用という美名のもとでの原発推進についても、スリーマイル(1979年)、チェルノブイリ(1986年)そして福島第一原発(2011年)を含め、その危険性が明らかになってきました。
-「人類は核と共存できない」
*今、アメリカを含めた世界が問い直さなければならないのは、人類の意味ある存続にとって、放射能そのものである核(原子力)エネルギーの「利用」を考える余地はあり得ないのではないか、ということです。
*特に放射線が人体に与える影響に関しては、直接被爆の恐ろしさは早くから認識されていましたが、残留放射線、内部被曝、低線量被曝など、半減期の長い放射線の恐ろしさ(安全の目安となるような「閾値」はないこと)も明らかになってきています。
*この問題の出発点としてはっきりさせなければならないのは、広島及び長崎に対する原爆投下は、いかなる理由によっても正当化され得ない反人道の極みの誤りであることをアメリカに承認させることです。その出発点の認識を正すことによってのみ、私たち人類は核兵器廃絶及び脱原発による人類の意味ある存続を可能にする出発点に立つことができます。

(ポイント)
私がお話ししていることはあまりに理想論だと感じる方が多いと思いますが、ドイツは現実に、ドイツ領内からの戦術核兵器の撤去をアメリカに要求し、福島を受けて脱原発政策に舵を切っています。私がお話ししていることは、ドイツにおいては現実の政策方向なのです。日本とドイツが共同歩調を取ったら、巨大な国際的な力が生まれ、アメリカを追い詰めることは明らかです。

  (2)日本政府の核政策と日本人の核意識
   -日本政府の「二枚舌」政策

*日本政府は、戦後一貫して核問題に関する「二枚舌」政策を行ってきました。その集約的な表れが非核三原則を「国是」としながら、アメリカの「核の傘」(拡大核抑止)を積極的に受け入れ、核密約によって非核三原則をねじ曲げる政策を追求してきたことです。

(ポイント)
非核三原則を唱えながらアメリカの「核の傘」に入るということは、国際的には理解不能なことです。そんな身勝手な国を、どうしてアメリカが我が身を犠牲にしてでも守ろうとするでしょうか。そういう「政策」を臆面も口にする政府だけでなく、主権者である私たち自身も、国際的に信用されません。

      *民主党政権は、日米軍事同盟路線を自公政権からまるまる引き継いだだけではなく、非核三原則を2・5原則化または2原則化する方向へ舵を切る(自公政権でもできなかったことをする)ことで、「二枚舌」政策を改めようとしています。

(ポイント)
アメリカのオバマ政権は核兵器の海外再配備の可能性を政策として打ち出しており、民主党政権としては、アメリカの意向に沿う方向で「二枚舌」政策を「清算」しようとしています。

      -日本人全体としての反核感情は、広島及び長崎の原爆体験を国民的な負の遺産として共有する営みに根ざすものではなく、第五福竜丸の被爆及びマグロの放射能汚染に対するパニックに基づくものであるだけに、様々な弱点を抱えています。この弱点を克服し、世界的な核廃絶(核兵器・原子力空母・原潜だけではなく、原発をも含む核廃絶)に向けての先頭に立つ力強い運動を起こすためには、これらの弱点を見極め、改め、国民の間に深く根を下ろした骨太の反核平和思想を鍛えることから始めなければならないと思います。
*国民的な弱点としては、次の3点が重要です。
①被爆者が被爆体験の継承を訴え、原子力空母母港のある神奈川県民が原子力空母の危険性を訴えて母港化反対を訴えるのは出発点としては理解できますが、その段階に留まる限り、広範な国民を巻き込んだ世論として政治を動かすことはできません。それは、被爆者の被爆体験を国民的な原爆体験に高め、原子力空母・原潜反対をその中に統合することができなかったことが原因です。要するに、多くの日本人を支配しているのは感覚的「天動説(自己中)」の見方です。
②日本人の多くはあまりにも既成事実に弱いという弱点(「既成事実への屈服」)がありますし、「お上」に弱いという弱点(「泣く子と地頭には勝てぬ」)も顕著です。これらの弱点は優れて風向きに流されやすい傾向(「赤信号、みんなで渡れば怖くない」)に基づいています。その原因をたどれば結局一人ひとりが「個」を確立することを押しつぶす社会(「出る杭は打たれる」)に問題の根っこがあります。つまり「集団的自己中」なのです。
③多くの日本人にとって「現実」とは、与えられたもの(所与性)、一つしかないもの(一面性)、そしてお上が決めるもの(権力性)であり、私たちの働きかけによっていくらでも変えられる「可能性の束」として現実をとらえることができません。ですから、今ある現実に働きかけてよりよい方向に変えていく、という発想に立てないのです。

(ポイント)
私たちにとって厄介なのは、①、②、③がバラバラにあるのではなく、互いにがんじがらめになって一つになっていることです。

   *東日本大震災に際しての日本人の「秩序ある行動」は世界的に驚きをもって賞賛され、日本のマス・メディアは大喜びで報道しましたが、私からすれば、それは本質的に上記②及び③の現れに他なりません。その何よりもの証拠に、人目につかないところではパニック買いに走る集団的なエゴ丸出しがあり、人目をはばかるところでは「自主規制」がまかり通る①の働きがあったのです。
*福島第一原発の事態がこれほど深刻な広がりを示しているというのに、すでに紹介しましたように、相変わらず半数近く(あるいは過半数)の世論が原発の現状維持を選択しているのは、私に言わせれば、①、②、③が合わさった働きの表れとしか考えようがありません。

(ポイント)
原発5基が稼働しているスイスでは、原発廃止を望む意見が87%(2009年調査では73%)(3月21日の共同通信が報道した20日付「ル・マタン」紙掲載の世論調査)、原発世界第2位大国のフランスでは脱発依存を望む意見が83%(4月6日の時事通信が報道した5日付「フランス・ソワール」紙掲載の世論調査)、タイでは原発導入反対が72.7%(タイ国立開発行政研究院が3月17,18日に対全国で行った世論調査)、アメリカでは原発反対が52%(2010年10月には44%)、賛成が39%(同45%)(ピュー・リサーチ・センターが3月17~20日に行った世論調査)と、福島の事態を受けて大きな世論の変化が見られることと比較したとき、お膝元の日本における現状維持の世論の状況はいかに異常かが分かると思います。

4.憲法9条は日米軍事同盟とは共存できない

(1)21世紀を支配するべき平和観は何でしょうか

-二つの平和観の闘い:「力による」平和観対「力によらない」平和観
*この闘いは一国レベルでは基本的に決着済みです。「人間の尊厳」を承認するということは、暴力の支配を認めないということだからです。「銃社会」であるアメリカを除けば、個人の暴力は否定されました。
*ただし、今日までの中央政府のない国際社会はまだ過渡期にあります。
**戦争は、国連憲章(第2条4「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」)によって基本的に違法化されました。
**しかし、国連憲章(第51条)は、個別的及び集団的自衛権行使の権利を認めています。日米軍事同盟は、この規定に自らの正当化の根拠を求めています。
**大量破壊兵器のうち、生物化学兵器は違法化されましたが、核兵器については「自衛のための使用」が違法であるかについては結論が出ていません(1996年7月8日の国際司法裁判所の勧告的意見:「本裁判所は、国際法の現状および利用しうる事実の証拠に立って考えると、国家の存亡が危険にさらされている自衛の極端な状況において、核兵器の威嚇または使用が合法であるか、違法であるかについて、確定的に結論を下すことができない。」)
-21世紀を支配するべき必然性を備えた「力によらない」平和観
*人間の尊厳の普遍的価値としての国際的確立により、人間の尊厳と根本的に矛盾する(人間の尊厳は「力によらない平和観」のみを許容する)「力による」平和観は歴史の屑箱に放り込まれる運命にあります。
**戦争の違法化は人類史の流れです。
**生物化学兵器(大量破壊兵器)の違法化は核兵器の違法化に行きつかざるを得ません。
**私たちの課題は、日米軍事同盟を終了させることによって歴史を前進させるという人類的な意味を持つ壮大なものです。
*国際的相互依存の不可逆的進行により、戦争はもはや国際紛争の有意な解決手段としての性格を失いました。
*地球的規模の諸問題の圧倒的存在ということは、一国単位で対処できない人類的課題が目白押し(一国単位の発想を克服することが急務)であるということです。戦争という「浪費」「贅沢」はもはや許されないのです。
*核兵器の出現が「力による」平和観に引導を渡すことになったという弁証法が働いています。
**「核兵器の秘密が分かってしまった以上、核のない世界に戻すことはできない」という主張がありますが、そういう議論は成り立ちません。なぜならば、生物化学兵器は現に禁止されたという先行例があるし、人類の破滅をもたらす科学的知見は人知で元に戻す(「パンドラの箱」の中に戻す) ことは可能だし、そうしなければならないのです。
-「力によらない」平和観の全面的な実現にとっての制約要素についての考え方
*国家を主要なメンバーとする「中央政府のない国際社会」(どの国家に生を受けるかによって人間の尊厳の実際的な実現の度合いが異なるという根本的矛盾)という基本的性格は長い過程を経てのみ変更できるものです。私たちは、人間の尊厳を規範(モノサシ)とする、政治原理における国家主権(権力政治)から人間主権(人権・デモクラシー)への転換(国家の役割・機能の抜本的変化)、経済原理における市場至上主義(利潤)から人間至上主義(尊厳)への転換という人類史への確信を持ちましょう。
*「力による」平和観に固執する大国の行動を民主的にコントロールする仕組みの実現も長期にわたる忍耐強い取り組みが必要です。私たちに求められているのは、「とにかく諦めない」ということです。人類の歴史は紆余曲折は免れないとしても、確実に進歩・前進するということに確信を持つことが肝要です。

(2)21世紀的視野において平和憲法を考える意義
 -9条の思想的源泉の確認

*侵略戦争の過ちを二度とくり返さないという国際的公約
*人間の尊厳(人権・デモクラシー)の普遍価値性が確立したことにより、「力による」平和観は根本的に成り立たないことが確認され、「力によらない」平和観のみが人間の尊厳の実現を担保する平和観であることが確認されたこと
*核兵器の登場により、「政治の継続」としての戦争の位置づけが根本的に否定されたこと
*(以上の結果として)個人と国家の関係が最終的に逆転したこと:「国益」を理由にした人権の制約はもはや正当化され得ないのです。
-「9条か、日米安保か」を問い直す今日的意味
*「9条も日米安保も」とする多数派世論に潜む曖昧な平和観を根本的に清算する必要性
**出発点における致命的な躓き:日本に民主(デモクラシー)が機能していたのであれば、「平和憲法に基づく全面講和」か、「憲法「改正」による日米安保と抱き合わせの片面講話」か、をめぐって総選挙・国民投票という憲法上の手続きによる国民的選択・進路決定を行うべきだったのですが、成算を見込めなかった戦後保守政治は、解釈改憲による平和観の曖昧化作業という手段に訴えたのです。これが日本の民主(デモクラシー)にとっての最も重大な躓きのはじめでした。
**「安保も9条も」という今日の多数派「世論」は、長年にわたって積み重ねられてきた解釈改憲で異常に歪められた「9条理解」(平和観の政治的曖昧化)の産物です。
**米ソ冷戦が終わり、平和憲法が前提する国際環境が現実になった今、改めて「9条(平和憲法)か日米安保か」を問い直し、日本に立憲デモクラシーを実現する好機です。そういう国際観、歴史観を踏まえた憲法論を我がものにしたいものです。
*「9条か、日米安保か」を問うことの歴史的意味 **日本が、日本国憲法の予定した、真の人権・民主(デモクラシー)の国家になるかどうかの試金石
**日本という国家を21世紀国際社会にどのようにかかわらせていくのかについて主権者としての責任ある態度決定を行うということ
**1.及び2(1)を踏まえた私たちの平和観、人間観の確かさを確認する作業
-憲法を選択するのか、日米安保を選択するのかということは、ひとり日本の私たちだけの問題ではなく、優れて国際的、人類的な課題、21世紀をどうするかという課題なのです。

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