中東情勢から学ぶこと -シリアとヨルダン-

2011.05.07

*中東における民主化闘争から私たちは何を学び取る必要があるか、という問題意識に自分なりの答えを引き出したいと思って進めている基礎作業としての事実関係の整理ですが、今回はシリアとヨルダンです(ただし、ヨルダンについては、4月以後の展開を「中東・エネルギー・フォーラム」のHP で見つけられませんでしたので、3月までの事実関係に留まります。)。シリアは、イランと親しい関係があり、またレバノンのヒズボラ(アメリカがテロ組織として警戒している。)にも影響力を持つ国として、アメリカが他の中東・北アフリカ諸国とは異なる対応を示しています。他方ヨルダンは親米国家であり、イスラエルとも良好な関係を維持してきたという大きな違いがあります。事実関係は、今回も「中東・エネルギー・フォーラム」のHPに依拠しています(5月7日記)。

1.シリア

<民主化を求める動きと政権側の対応>

シリアでの民主化を目指す最初の動きは、モスレム同胞団に所属する政治犯として1980年代に収監されていたガッサン・アル・ナジャラ(75歳)が2月1日にフェイスブックで、非常事態状況に終止符を打ち、腐敗を終わらせることを目的として2月4日(金)、5日を「怒りの日」として抗議行動を起そうと呼びかけたことのようです。彼は、「シリア革命2011年」の名で「怒りの日」と題するページで、「チュニジア国民が激怒し、エジプト国民も激怒した。今やシリアの自由を求める人たちが激怒する時が来た」「一緒になって抑圧と腐敗に人員を動員しよう」と書き込んだそうです。このフェイスブックには1万2000もの反応があったということですが、ナジャラは3日に逮捕され、4日にはデモが起こることはなかったとされます。ただし、政府は9日に、過去3年にわたって禁止されていたフェイスブックとツイッターの使用を解禁する措置も執りました。
 ナジャラが呼びかけを行ってから3週間経った2月28日、反政府組織のウェブサイトAll for Syria(すべてシリアのために)が声明を発表し、反政府諸組織やその他勢力に、「国家民主変革ダマスカス宣言」の枠内で参集し改革を実現することを呼びかけました。また、「バシャール・アサドに対するシリア革命2011年」と題するフェイスブックのページが、3月15日にシリア全土で反政府デモを行うことを呼びかけました。そして3月15日には、首都ダマスカスの旧市街で、お昼の礼拝の終了後、最大200人の若者が「シリア、自由を」「平和的に、平和的に」「非常事態法の撤廃を」と叫びながら、アサド大統領やバース党の一党支配に抗議し政治改革を求めるデモを行いました(警官隊に解散させられ、6人が逮捕されました。)。同様のデモは、ハレブやデイル・ア・ズルでも発生しました。また、18日(金)にも、首都ダマスカスを含む5都市で合計数千人が民主化を求める反政府デモを行いました。南部ダラアでは、反政府デモ隊と治安部隊が衝突し、少なくとも2人が死亡し、数百人が負傷しました。反政府デモは3日連続で行われ、19日のデモでは、ダラアで少なくとも4人が死亡したと伝えられました。20日、21日、23日にも南部ダルアでデモが行われ、20日には1人、23日には37人が死亡しました。
 3月24日にはシリア政府が懐柔策を発表します。すなわち、ブサイナ・シャアバン大統領顧問が「アサド大統領は、警察官はデモ隊に発砲すべきではないと命じていた」「市民の要求には正統性がある」「シリアを混乱させようと考える外からの扇動者が存在する」「外国のメディアは正しい姿を伝えていない」等と述べるとともに、「アサド大統領下のバース党が本日、次の決定を下した」と語り、非常事態宣言(1963年布告)の解除の検討、政党の許可、逮捕者の釈放、報道の自由の促進、市民への発砲の責任の追求、市民の要求に耳を傾ける委員会の創設、汚職の防止の強化を国民に約束しました(26日に服役中の260人の政治犯を釈放)。
 しかし、翌日の3月25日は「尊厳の日」と名付けられたイスラム世界の休日であり、南部ダルアや近くのサナメイン、首都ダマスカス及び近郊のドウマ、テル、北西部ラタキア、バニヤス、中部ホムス、ハマ各地で合計数万人が反政府デモに参加し、バース党による事実上の一党独裁からの脱却を訴えました。この日には、南部ダルアや近くのサナメインで約20人、北西部ラタキアで10人超が死亡した模様と報道されました。28日にも、南部ダルアで約4000人が「尊厳と自由を!」「非常事態法は不要だ!」と叫びながら反政府デモを行ったため、治安部隊が催涙ガス弾等を発砲したことが伝えられました。
 アサド大統領は3月30日に人民議会で演説し、1)国民の要求は正当なものである、2)改革には賛成であり、改革は政府にとっての義務と考える、3)失業や汚職の問題に真剣に取り組む、4)反政府デモはシリアの不安定化を狙う外部勢力による企てである、5)非常事態令の解除は長年に亘り検討されてきた、などと述べ、翌31日には非常事態令の解除を検討する司法委員会の設置を命じました(同令に代わる新法を検討し、4月25日までにまとめる予定、とされていました)。
 しかし4月1日の金曜日には、金曜礼拝の終了後、首都ダマスカス北方15kmのドゥマ、北西部ラタキア、北部ホムス、南部ダルア近郊のサナメン、北東部カミシリ及びアムダ(両市は少数民族であるクルド人が多く居住する)等で、デモ隊が「自由を!」「屈辱より死を!」等と叫びながら各地で反政府デモを行いました。クルド人居住区でのデモの発生は3月中旬以降の反政府デモでも初めてのことでした(アサド大統領は、7日、国内居住のクルド人に市民権を認めることを明らかにしました。)。同日の治安部隊との衝突で、ドゥマで7人、ホムスで1人(少女)、サナメンで3人がそれぞれ死亡しました。1週間後の8日(金)にも、南部ダルア、北西部ラタキア、北西部バニアス、北部カミシュリ、北部アムダ、中部ホムス、中部ハマのほかドゥマ、モアサマイア、ダラヤ、タル等とシリア全土で反政府デモが発生し、シリアの人権団体によれば、判明しているだけで42人が死亡し、140人余りが負傷したと伝えられました。12日、15日(金)にもデモが行われたことが報道されました。特に15日のデモは、首都ダマスカス(数千人)、北部アレッポ、南部ダラア(数万人)、西部バニヤス(1500人)、中西部ホムス(4000人)、北東部カミシリ(5000人)等で、数百人から数万人規模でした。その後も、17日(全土で数万人規模。アル・ジャジーラは25人が死亡と報じました。)、18日(ホムスで2万人以上参加)、19日(ホムスで20人が死亡)、21日とデモが伝えられ、22日(金)にはインターネット上で「偉大な金曜日」と名付けられた反政府デモが主要都市で行われ、鎮圧に当たった治安部隊との衝突での死者数は100人を超え、3月15日以降の反政府デモでの1日の死者数としては最大となりました。さらに29日(金)のデモでの死者は全国で少なくとも62人に上ったと伝えられています。シリアの人権グループは、28日までに治安部隊などの攻撃による死者が500人に達しているとしていますので、29日の死者数を加えると、600人近くの犠牲者が出たことになります。
 シリア政府は、このような事態に硬軟織り交ぜた対応を行いました。4月19日の閣議は、1963年以来施行されてきた非常事態令を解除する法案を承認しましたが、同時に、デモを内務省の許可制とする新たな法案も承認しました。21日には、アサド大統領が非常事態令を解除し、最高治安維持法廷を廃止する大統領令を出しましたが、同時に、集会の権利を制限する大統領令も発出しました。

<アメリカなどの動き>

 2月12日に、クローリー国務省報道官が「アメリカは、ブロガーのタル・アル・マロヒ女史の極秘裁判を強く非難する」「根拠のないアメリカとの関係がスパイ容疑となっている」との声明を発表し、シリア政府を非難しました。3月18日のデモを受けて、ホワイトハウスのトミー・ビーター国家安全保障担当補佐官が、①アメリカはシリア政府に対して、平和的なデモを認めるよう求める、②本日の暴力的な取締りの責任者は責任を取らねばならない、と述べました(またバン・キムン国連事務総長も、平和的なデモへの発砲や恣意的な逮捕は受け入れられないと述べました。)3月30日のアサド大統領の演説(前述)に対しては、同日、トナー国務省副報道官が、演説は国民の求める改革に関して不十分であるとコメントしました。
4月18日のワシントン・ポスト紙(電子版)は、国務省が2006年以降、ロンドンのシリア反政府グループに活動資金として約600万ドル(約5億円)を提供していたと報じました。19日には、マーク・トナー国務省報道官が、①シリアの反政府デモで20人が死亡したことについて、シリア政府は緊急に改革を行い、平和デモへの暴力行為を停止する必要がある、②19日に発表された新法は非常事態令と同じように厳しい可能性がある、と語りました。22日には、オバマ米大統領がシリア情勢に関して声明を発表し、①武力での平和的なデモの鎮圧は直ちに止めるべきである、②アサド大統領は自由を求める国民の声を無視し、抑圧を継続してきた、③アメリカは享受すべき普遍的権利のために戦い続ける、と述べるとともに、「同盟者であるイランが使ったのと同じ残忍な手段で市民を弾圧するため、イランに支援を求めている」と非難しました。さらにオバマ大統領は、29日、シリアの反体制デモ弾圧に関し、人権侵害に関与した人物や組織に制裁を科す大統領令に署名しました(ただし、アサド大統領は制裁対象に含めず。)。
4月27日には国連安保理が開かれ、英仏など欧米諸国はシリアを非難する報道機関向けの声明を発表するよう求めましたが、ロシアや中国の同意を得られませんでした。声明採択は全会一致が前提のため、発表は行われませんでした。外交筋によると、英仏などが、アサド政権に対し、市民の弾圧の即時停止や表現の自由の尊重を求める声明案を作成し、他の理事国に同意を求めたのですが、ロシアが「外部の内政干渉によって真の脅威が生じる」として難色を示し、中国など複数国がそれに同調したということです。しかし29日にジュネーヴで開催された国連人権理事会は、「平和的なデモ参加者を出したシリア当局による暴力を強く非難する」との決議案を賛成多数で採択し、「シリア政府は人権侵害を直ちにやめ、表現と集会の自由を含む基本的人権を尊重すべきだ」と強調、アサド政権による市民への武力行使の即時停止を訴えました。

2.ヨルダン

<民主化を求める動きと政権側の対応>

 ヨルダンでの民主化を要求する動きは早い段階から起こり、金曜礼拝後にデモが行われるという大きな特徴を持っています。1月19日にイスラム行動戦線(IAF)のザキ・バニ・ルシェイド指導者が国王の権限を制限することを要求したのに続き、21日(金)には、首都アンマンや地方都市のザルカ、イルビッドで、金曜礼拝後、首相の辞任や社会正義・自由を求める約5000人による最初の抗議運動が発生しました。デモの参加者はイスラム主義者や左翼、貿易組合員等であったそうです。参加者たちは、この日を「怒りの日("Day of Rage")」と名づけ、首都アンマンでは、「社会正義と自由を要求する」「抑圧にノーを、変革にイエスを」「我々は救国政府を必要としている」等々と書かれたプラカードを掲げ、「リファイ首相は退陣しろ」「ヨルダン国民は屈服しない」「我々の要求は合法的なものだ。我々はパンと自由を欲している」と叫びました。
 1月26日には、反政府組織ムスリム同砲団のジャミル・アブ・バクル報道官が、週末にも再度抗議運動を展開し「経済課題を克服できるように明確で透明性のある政治・経済改革を進める必要がある」として、政治・経済改革が実現されるまで抗議活動を続ける意向を表明し、週末にも再度抗議運動を展開すると語りました。翌28日(金)には、リファイ首相の退陣を求める大規模なデモが行われ、ムスリム同胞団の支持者や貿易組合員等の約3500人が参加しました。このような動きに直面したアブドゥラ国王は、2月1日、リファイ首相(43歳)を更迭して内閣を総辞職させ、以前首相を務めていたマルフ・バヒト元首相(64歳)を後継首相として指名して、懐柔策をとりました。
しかし2月4日(金)には首都アンマンで、金曜礼拝後に、ムスリム同胞団の政治部門である野党の「イスラム行動戦線」の呼びかけに応じる形で、ムスリム同胞団等の参加する反政府デモが行われました。デモの参加者は「我々は改革と変革を求める」「我々が欲しいのは自由であって戒厳令ではない」「我々は貧者のための政府を欲している」「老若を問わず満足させうる選挙法を欲している」と叫びながら首相府まで行進しました。また8日には、国王にとってもっとも重要な支持基盤である部族の代表者36人が、政治改革の要求や王妃の権力乱用を諌める内容の書簡を送りました。この書簡に署名した一人は、電話インタビューで、「我々は国王を大切に思い、ハシュマイト家がヨルダンを統治して欲しいと思うからこそ警報を鳴らした」「都市に住むベドウィンであるかテント生活をするベドウィンであるかに関わりなく、我々の状況は耐えがたくなった。腐敗・縁故主義・官僚主義が蔓延し、金持ちはますます富み、多くのベドウィンのように貧乏人はますます貧しくなる、という若いヨルダン人の見解を反映している」(AP通信 2月7日)と述べました。この書簡は、ヨルダンでもっとも人気のあるウェブサイトで紹介されました。
2月18日(金)には、7週目を迎えた反政府派の金曜デモで、イスラム保守派や左派、学生等の約2000人(推定)からなる反政府派がいつものように憲法改正、議会解散による自由・公正な選挙の実施、国王の権限の抑制、賃金の引き上げ、雇用の付与等を求めてデモを行っていたところに、約200人(推定)の親政府派の集団が棍棒やパイプ、石などを持って襲い掛かり、8人が負傷する事態に発展しました。25日(金)には、イスラム行動戦線が「怒りの日」と名付けた反政府デモが行われ、過去8週間で最大の約6000人が参加します。「腐敗の根絶」「民主化の徹底」「イスラエル和平条約の破棄」等が叫ばれました。野党のハムザ・マンスール代表は、政府の改革への取り組みが遅いことで国民の忍耐も切れつつあると警告しました。また同代表は、国民の政治参加の拡大の早急な実現、国民による首相の選出に向け速やかに手段を講じるよう求めました。28日には、民族主義者と独立系イスラム主義者が「立憲君主イニシアチブ」と名付けた24人で構成される委員会を結成し、ファイスブック上に最初の宣言を掲載し、次のような声明を発表しました。

-ヨルダンにとって解決策は国王の統治しない立憲君主制への移行である。 -国王は様々な勢力の均衡役及び治安の保証者として参考人(REFERENCE)にとどまらねばならない。

当初は首相罷免を掲げ、国王の処遇について発言を控えていた反政府派は、首相交代を国王に飲ませてからは、国王の権限の制限にまで踏み込んだ徹底した民主化を求めるようになったことが窺われます。また、25日のデモではイスラエルとの和平条約の破棄が叫ばれるなど、親米路線に対する批判の色合いも込められるようになりました。
3月4日(金)には数千人が首都アンマンで体制変革を訴えて反政府デモを展開しました。また6日には、約600人のジャーナリストが独立した自由なメディアを求めて首都アンマンで抗議デモを行いました。デモ隊は「検閲にノーを!」「治安機関が我々の手を縛っている」と叫びました。注目されたのは、デモにターヘル・アドワン情報相も参加したことです。同相はアル・アラブ・アルヨウム紙の元編集者でした。
国王は事態を沈静化することを狙い、3月14日、選挙法や政党法を3ヶ月以内に改正するための「国民対話委員会」を創設させます。この委員会にはムスリム同胞団も参加を求められましたが、同胞団は、憲法改正を前提にしなければならないと主張して代表者を送り込みませんでした。ただし、ムスリム同胞団の政治組織であるイスラム行動戦線のザキ・バニ・ラシッド党首は、1週間後の3月21日、「アブドゥラ国王は真の改革の意味をご存知であるので、対話を始めるための委員会は必要ない」「モロッコ国王が(ヨルダンの)見習うべき好例である」「同国王は万遍ない改革を発表した」「委員会が憲法改正を協議するならば参加する用意がある」「政府には改革の意思はなく、時間を稼いでいるだけのように見える」「それ故、政権が反応するまで圧力をかけ続けることを決意した」(AFP通信 2011年3月21日)と述べ、アブドゥラ国王にモロッコに習って全面的な改革に乗り出すことを求めました。
ところが3月25日(金)に、政治改革を求める約6000人の反政府派のデモ隊に200人強の親政府派が投石を行い、衝突に発展したことから、約3000人の警察官及び治安部隊が取り締まりに乗り出し、その過程で2人が死亡し、警察官58人を含む120人以上が負傷する騒動に発展しました。死者が発生したのは初めてのことでした。バヒト首相は同日、「デモを率いて混乱を招いたムスリム同胞団に責任がある」「デモ隊はエジプトやシリアから支持を得ていた」と語り、大きな騒動に発展した背後に外国勢力のいたことを示唆しました。他方、反政府勢力は26日、事態の責任をとってバヒト首相は辞任すべきと主張しました。イスラム行動戦線のハムザ・マンスール代表は記者会見で、「イスラム運動は、政府の解散あるいは罷免により、国民の生命を守り要求に耳を傾ける改革主義の統一政権を樹立することを求める」「どのような政府であれ、国民を殺すような政府に正統性はない」(アラブ・ニューズ紙 2011年3月27日)と述べ、新政府を作るよう迫りました。また、国王肝いりで作られた国民対話委員会の16人の委員が、治安当局によるデモ隊への武力使用に抗議して辞任することを明らかにしました。辞任したのは、左派のサイード・シハブ・人民統一党書記長やムニール・ハマルネハ・ヨルダン共産党書記長等です。

<アメリカの対応>

 2月11日から12日にかけてバーンズ米国務次官(政治担当)がヨルダンを訪問し、アブドゥラ国王、バヒト首相と会談し、包括的政治・経済改革の支援を約束します。そして3月2日には、マイケル・ポスナー国務次官補(民主主義・人権・労働担当)がアンマン入りし、国王、首相と会談し、政治・経済改革を支持する米国の考えを伝えました。同次官補は、「ヨルダン及びヨルダン国民の持つ大きな潜在力を実現するには、アブドゥラ二世国王の唱道する継続的で真剣かつ包括的な政治・経済改革が鍵を握る」(アラブ・ニューズ紙 2011年3月3日)と述べ、アメリカ政府がヨルダンの改革を支持することを強調しました。

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