原発に関する世論調査結果に反映される国民的問題

2011.04.23

*福島第一原発の事態を受けて行われた各種世論調査結果についてはご紹介しましたが、そこからは、丸山眞男がつとに指摘した日本人の様々な問題点(精神構造)が浮き彫りになっているというのが私の偽りのない感想です。それは、「個」がない日本人、したがって徹底した自己責任による意志決定能力(=「自由」)を欠く日本人、したがって心情を政治的意志に昇華できない日本人ということです。心情は容易に「現実」への諦め(日本的「現実主義」)によって置き換えられ(「既成事実への屈服」)、政治的行動は「権力の偏重」によって支配される状況はなんら改められません。そのことは「個」の確立が当然の前提になっている外国人には理解不能なことであり、彼らは彼らのプリズムを通じてしか日本人行動を理解・認識し得ないが故に、「驚嘆すべき日本人」像を見出してしまうのです。
 私は、日本人が現在の大災難を前にして「個」を確立する(他によって犯すべからざる尊厳を我がものにする)営みなしには、この困難(考え方によっては、明治維新、第二次大戦敗戦に続く「第三の開国」のチャンス)を生かすことはできないと思います。
 金大中はこう書いています。「大韓民国はアジアで唯一、国民が民主主義をたたかい取った。言ってみれば、自生の民主主義国家だ。中国はまだ、「できない」状態にあり、インドはイギリスから「習って」やり、日本は敗戦後、マッカーサー将軍に「させられて」している。こうして民主化をなし遂げるにあたっては数多くの犠牲者がいた。」(『金大中自伝Ⅱ』p.351) 中国及びインドについての金大中の分析・判断が正鵠を射ているかどうかについてはともかく、自生の人権・民主を実現するためには、それぞれの国の人民が権力を相手に闘う決意を我がものにし、かつ、それを実践しなければならないことは、アメリカ独立戦争、フランス革命以来の歴史の鉄則です。金大中の以上の言葉はそのことを確認しています。韓国との対比において日本にいちばん欠けているもの、それは正に権力に対して果敢に闘いを挑む人民的な意志です。  以上を踏まえ、私の考えることを記します(4月23日記)。

 なお、前回紹介した各種世論調査の結果の原資料及びGIAの分析については、以下のPDFを参考にしてください。

原子力発電所建設に関する世論調査と国際比較
原子力に関する特別世論調査(2009)
原子力発電所に関する国際世論調査結果(GIA)
原子力発電所に関する国際世論調査結果分析(GIA)

 47カ国の世論調査について日本での調査を担当した日本リサーチセンター(JRC)に対して、私は次のような問い合わせをしました。

 ギャラップ・インターナショナル・アソーシエーション(GIA)の「東日本大震災が世界の原子力発電に対する考え方に与えた影響」の結果に関してですが、日本での回答状況(原発支持率が34%からマイナス7%に逆転)は、朝日、読売、毎日その他各社の世論調査結果と比較しますと、非常に異なる印象を与えます。私自身は、この違いは主に設問方法の違いに起因するものではないかという印象を受けているのですが、貴社のお考えをお聞かせ願いたく、よろしくお願いします。

JRCからは、早速次のような回答に接しました。

ギャラップで実施した設問内容は以下のようになっております。
Q1.今の時点でのあなたのお考えをお知らせください。あなたは、現在、世界のエネルギー供給源のひとつとして、原子力を使用することについてどのように考えていますか。
1.賛成 2.やや賛成 3.やや反対 4.反対
(Q4「日本での震災が起こる前のあなたのお考えについておうかがいします。あなたは、世界のエネルギー供給源のひとつとして原子力を使用することについて、以前はどのようにお考えでしたか。」)

お送りいただいた各社様の設問内容を拝見しますと「原発を推進すべきか」「維持するべきか」「減らすべきか」という聞き方になっています。データの見方については、様々なご意見があろうかと思いますが、ギャラップの設問は、「増やすべきか・減らすべきか」という意見や判断を問うよりも、どちらかというと心情的な側面にフォーカスした聞き方になっているため、各新聞社様の調査と異なる結果になっているのではないかと思います。

 この回答内容は正しく私が考えていたことを裏書きするものでした。正確に言えば、GIA調査は、「心情的な側面」、つまり、「原発に賛成か反対か」という、他の要素への考慮を抜きにしたストレートな問題意識を問うたものであるということです。そういう設問であったが故に、福島第一原発の事態に直面している日本人の多くが、事態発生前の心情を翻し、「反対」の心情を吐露したのです。福島の事態は日本だけの問題でなく国際的に重大な事態ではありますが、日本人の答えが他の国におけるよりも突出していたのは、やはり直接の原発「事故」の被害者であり、しかも、「原子力平和利用」神話がもっとも浸透していた国だけにその反動も大きかったことを考えれば、十分理解できることでした。
 しかし、日本国内で行われたマス・メディア各社の世論調査の設問に共通しているのは、「他の要素への考慮を抜きにしたストレートな問題意識」を問うものではなく、日本に54基の原発が稼働しているという「現実」を踏まえることを回答者に誘った上で、日本における今後の電力供給問題に対して「現実」的な判断を問うたものであるということです。ここまで「現実」が押しつけられれば、日本人の多くが、心情的反対の気持ちをのみ込み、「現実」的な答えで応じることはいわば必然なのです。
私が朝日新聞の調査結果を極めて遺憾だと思ったのは、原発を「現状程度にとどめる」答えが51%に達したということ(そういう結果が出ることは、日本人の「既成事実への屈服」「現実主義の陥穽」を前提にすれば「想定内」です。)に対してではなく、「これほど自らに直接降りかかっている危機があるにもかかわらず、そして、GIA調査に示された強い心情的拒否感を原発に対して持つに至ったというのに、相変わらず(懲りることなく)「現実」と折り合いをつける日本人であることが示されていることに対してだったのです。
 ここでは設問を行ったマス・メディア側の問題と回答者である日本人の側の双方の問題を考える必要があります。4月22日付の朝日新聞に載っているように、「日本のメディアは今回、抑制的だ。韓国なら世論もメディアも、もっと激しく政府や東電を追及するだろう」(韓国・東亜日報のユン・ジョング記者)、「日本人は議論を好まないのかもしれないが、ドイツであれば、推進派だけではなく反対派も声を上げ、メディアも双方の意見を併記するだろう」(ドイツ・南ドイツ新聞のクリストフ・ナイハード記者)という指摘は、なにも今回の大震災・福島の事態だけに限られたことではありません。マス・メディアと政官財学との癒着の構造が今回も再び露呈されたに過ぎません。しかし、権力批判にこそ「報道の自由」の本質がある以上、日本のマス・メディアの権力へのすり寄り構造は、もはや「つける薬がない」末期症状に陥っていることが、今回の世論調査における設問の「現状」維持誘導の画一性において改めて示されました。私は彼らの自浄作用にはまったく期待を持たなくなって久しい(個々の記者について言っているのではなく、日本的組織としてのマス・メディアについて言っています。)のですが、先ほども述べました史上最大級の危機(「第三の開国」のチャンスに転換できる、明治維新、敗戦に匹敵する危機)という痛切な歴史的認識を持ち合わせないマス・メディアに何かを求めるのは正に「木に縁りて魚を求む」の類でしょう。
 そうであるとすれば、日本を真の意味で人権・民主の国に生まれ変わらせるには、主権者である国民一人ひとりの覚醒を待つ以外にないわけです。私は、歴史的な楽観主義者として、韓国、台湾、フィリピン、タイなどで起こった人民パワーが日本でも起こらないはずはないと確信しています。しかし、そのための前提条件は、一にも二にも「個」の覚醒(人間存在の尊厳の自覚)であり、集団的我に埋没・安住するのではなく、徹底した自己責任における意志決定能力(=「自由」)を我がものにすることが必要です。そうしてのみ、丸山眞男が指摘した、自らの思考をがんじがらめに縛り付けている「権力の偏重」(上にはぺこぺこ、下には横柄)の卑屈な精神構造を退治することが可能となりますし、「現実主義の陥穽」(現実の所与性、一次元性、権力性)に基づく「既成事実への屈服」の奴隷根性を清算することへの展望が開けるのです。そうであってのみ、大震災・福島に対する「政官財学+マス・メディア」という権力の傲岸・無為無策という「現実」に頭を垂れるのではなく、敢然と異議申し立てを行い、人間としての尊厳と人権の保全・回復を要求することができるようになるのだと思います。

 最後に、前に次のように書いたことがあります(「福島原発「事故」と日本政治」)。

 私たち日本人の二面性、二重人格性にも触れざるを得ません。東日本大震災の直後に「秩序だった」行動をとり、その後の東京電力の「計画」停電によって引き起こされた公共交通機関の大混乱に際しても「忍耐心」を発揮している日本人に、外国のメディアは驚嘆と賞賛を惜しみません。しかし、人目につくところでは整然と行動するその日本人は、人目につかないところではモノの買い占めにパニック的行動になりふり構わず走る自分本位の日本人でもあるのです。要するに「人の目につくかどうか」で自らの行動をがらりと変えるのが私たち日本人なのです。
 私は『竹内好全集』を読む中で、竹内がきだみのる著『日本文化の根底に潜むもの』(1956年)を絶賛していることを知り、読んだのですが、今日現在の日本人はこの本で描き出されている日本人そのままなのです。つまり、私たちの二面性、二重人格性は少しも変わっていないのではないか、ということです。丸山眞男は、「自由」を定義して、「徹底した自己責任による意思決定能力」「理性的な自己決定能力」と述べたことがあります。「自己責任」という言葉は、新自由主義のもとで見にくくゆがめられて使われるようになってしまいましたが、自らの意思決定について理性的に責任を負う態度としての「自己責任」という意味において使われていることを確認した上で、私は、私たち日本人の多くに今日なお決定的に欠けているのは、丸山の定義する「自由」の意識(私流にいえば、「個」としての意識)だと思います。だからこそ各人の言動が決定的に問われるこういう危機的状況において、昔ながらの二面性、二重人格性が噴出するということになるのではないかと思います。このような日本人であり続ける限り、私たちはこの国を根本から変える主権者としての自覚と責任感をいつまでたっても我が物にすることができないのではないでしょうか。

 外国の特派員は相変わらず「秩序ある日本人」を賞賛し、日本のマス・メディアはそれを得々として報道しているわけですが、私は、ここには非常に危険な落とし穴が潜んでいることを指摘しないわけにはいきません。それは、外国人の日本人観と日本人自身の自己観との誤った認識に基づく相乗作用ということです。
 日本に派遣される(あるいは乗り込んでくる)外国人特派員の多くは「個」を確立した者たちでしょう。彼らにすれば、日本もまた人権・民主主義の国であり、日本人は当然「個」を備えた者として行動しているに違いない、という先入主が働いているでしょう。「秩序ある日本人」像は、「個」を備えた日本人の驚嘆すべき克己精神だと認識され、したがって賞賛の対象となるのです。  しかし、日本人の多くの行動を規律するのは他人の目であり、目立たないように集団の中に溶け込むことであり、とりわけ「お上」に対する奴隷根性なのです。だからこそ、そういう力が働かないところでは赤裸々な自己防衛本能の赴くままにパニック買いに走る日本人となってしまうわけです。本当に「徹底した自己責任に基づく意志決定能力」を備えた個人としてあるならば、パニック買いという現象が起こるはずがありません。
 しかし、「他人の目を気にする」日本人としては、外国人特派員が褒めそやしてくれればとにかく気持ちが良い、彼らがいかなる判断(誤解?)に基づいて賞賛しているかなどと考えることもできない。なぜならば、「個」という価値尺度(モノサシ)が日本人の多く(マス・メディアも例外ではない。)には備わっていないから、賞賛の意味することも分かりようがないのです。  外国人特派員に必要なことは、上っ面をなぞるだけではなく、日本における人権・民主の未成熟という本質を把握することです。彼ら自身、日本政府やマス・メディアの彼らにとって理解不能な言動には鋭い批判を展開する目をもっているのです。彼らが「コロンブスの卵」として理解・認識いなければならないことは、理解不能な日本政府及びマス・メディアの言動を支配する日本社会の精神構造が日本人の精神構造でもあるということです。
 マス・メディアを含めた多くの日本人にとって必要なことは、外国人特派員の賞賛に酔いしれることではなく、彼らが真相を理解したら自分たちは赤っ恥をかくということに謙虚に向き合うことでしょう。善意の誤解に基づく日本人像が世界にばらまかれたら、いずれそのツケは回ってくるのです。私たちは、この賞賛を裏切らないだけの人権・民主の国、そしてその国の主権者として生まれ変わらなければなりません。繰り返しですが、今回の事態を「第三の開国」のチャンスと心得て、大変身を遂げてほしいものです。

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