「原子力平和利用」神話

2011.04.14

*私は今、広島での6年間の滞在の中で学び、考えたことをまとめて一冊の本にする作業を進めています。福島第一原発の事態を、政府、原子力保安院、東京電力が「レベル7」であることをようやく認めざるを得なくなりました(4月12日)が、事態の深刻性はすでに早くから分かっていたことで、今回の政府・東電の行動はその隠蔽体質がいかに犯罪的であるかということを改めて確認させたものに過ぎません。また、情報開示について誠実でない日本に対する国際的な不信感をさらに助長することは間違いありません。こういう不誠実を極める対応こそが、様々な「風評被害」を生むことにつながっているわけで、このような事態を招いた点でも菅直人政権の責任は本当に重大であると考えるほかありません。しかし、朝日新聞(12日付)によれば、保安院から「レベル7相当」との説明を受けた際の菅首相の反応は「まあ、仕方ないのか」という、にわかには信じられないほどの、他人事でしかないという受け止め方であったとか。
 私たちは、菅政権の統治能力のなさに対して厳しく批判を行い、同政権が目の色を変えて事態に取り組むことを強く要求しなければならないことはもちろんですが、より根本的に、「政権交代」というマス・メディア発の軽々しいかけ声に乗せられて民主党が政権につくような投票行動しかできなかった主権者としての自らの政治意識についても猛省することが必要ではないでしょうか。これだけ閉塞状況に陥った日本の政治を変えるためには、私たち主権者はよほど思いきった政治決断をして、戦後保守政治及びその亜流とは決別しない限り、前途への明るい展望を切り開くことはできません。「自民党がダメだから民主党」、「民主党もダメだったから、みんなの党(あるいは地域主権を唱える諸政党)」というような発想で現実を糊塗するような生半可な対応に終始する限り、日本政治を根本から生まれ変わらせることはできません。
 私たちの生半可さは、「原子力の平和利用」という問題についても徹底的な見直しが迫られています。核は、兵器であろうとなかろうと、危険きわまりないのです。そして、「原子力の平和利用」という考え方は、「核=キノコ雲(原爆)」という負のイメージを消し去るためにアメリカが世界規模で大々的に行ったキャンペーンの一環として押し出されたフィクション(虚構)なのです。
 私は、今書いている本の中で、この問題についても取り上げています(ただし、別の脈絡においてですが)。日本政府だけではなく、世界的に、福島の問題を極力「安全上の瑕疵」に過ぎない(よりしっかりした安全対策を講じることで、原発は安全になる)という方向で収拾を図る動きが見えてくる中で、私は、そもそも「原子力平和利用」神話がどのように作られ、日本人の中にすり込まれたかを原点に戻って考えることが、私たちが福島の事態から痛切な教訓を学び取り、「人類は核(核兵器だけではない!!)と共存できない」という認識を確立する上で重要ではないかと思い、その一節をここで紹介しておきたいと思います(4月14日記)。

 ケネス・オスグッド『全面的冷戦』("Total Cold War")は、アメリカ政府が核にまつわるキノコ雲のイメージを払拭し、原子力を美化するために、早い時期から「原子力平和利用」のPR作戦を展開していたことを、次のように明らかにしています。

 「核時代の夜明けから、アメリカ政府は、「アトム」を国際社会に売り込むために数々の宣伝戦略を用いてきた。…1940年代後半には、原子力委員会(AEC)は、「アトム」と「爆弾」とを関連づけさせることを和らげるために、キノコ雲ではなく健康と繁栄を想起させるような積極的なイメージをつくり出そうとした。アイゼンハワー政権は、そうした努力を強化し、核絶滅に関する世界的な恐怖心をコントロールし、原子力の科学及び産業への平和的利用を宣伝するための努力を強化した。このキャンペーンは、1953年12月の賑々しい「アトム・フォア・ピース」提案で開始された。」(p.154)

 このアメリカの政策が大きな成功を収めたことは、1951年に出版された長田新編『原爆の子』(この本は、反原爆を訴えた輝かしい金字塔としての評価を確立した古典的存在です。)の次のような文章にも明らかでした。

「原子エネルギーは、一方では人類を破滅に導くほどの恐るべき破壊力を有ってはいるが、一度それを平和産業に応用すれば、運河を穿ち、山を崩し、忽ちにして荒野を沃土に変え、更に動力源とすれば驚くべき力を発揮し得るということを吾々は聞いている。…原子力の平和産業への応用は、平和的な意味における所謂「原子力時代」を実現して、人類文化の一段と飛躍的な発展をもたらすことは疑う余地がない。」(p.34)
「人間の道徳の力は、原子力の二重の性質の一つである「悪をもたらし得る性質」を排除して、「偉大な善をもたらす」道を進むことに、結局は成功することを私は固く信じて疑わない。」(p.38)
「広島の街々に原子エネルギーを動力とする燈火が輝き、電車が走り、工場の機械が回転し、そして世界最初の原子力による船が、広島港から平和な瀬戸内海へと出て行くことを。実際広島こそ平和的条件における原子力時代の誕生地でなくてはならない。」(p.39) 「原子力はおそろしい。悪いことに使えば、人間はほろびてしまう。でも、よいことに使えば使うほど、人類が幸福になり、平和がおとずれてくるだろう。」(p.137)

その神話の浸透ぶりのすさまじさは、日本被団協の結成大会宣言において、次のように述べられていることからも窺うことができます。

「私たちは今日ここに声を合せて高らかに全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたとふたたび繰り返してはなりません。破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を、決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向かわせるということこそが私たちの生きる日の限りの唯一の願であります。」(1956年8月10日日本原水爆被害者団体協議会結成大会宣言)

核兵器廃絶を訴える国民的な訴えが原水禁運動に結実したわけですが、「核兵器廃絶」は「核廃絶」にまでは向かいにくい状況があったことを、詩人・栗原貞子は次のように鋭く、皮肉を込めて指摘しました。

「被爆者たちは、原子力の平和利用によってユートピアが出来るならば、まず原爆被害者である広島、長崎こそ最初に平和利用を受ける権利があると、何の疑いも持たなかった。
このようにして、戦争が終ると恐怖の兵器は、バラ色の平和の夢に包まれて、被爆者の怒りと呪詛を解消させる役割を持ったのである。当時は中央の総合雑誌も、広島、長崎の悲惨にふれることなく、恒久平和の理想や、原子力ユートピアについて書きたてた。」(栗原『核時代に生きる ヒロシマ・死の中の生』 p.142)

日本における「原子力平和利用」神話の浸透ぶりについては、オスグッドが次のように手放しで自慢しているとおりです。

「アメリカ情報局の担当者は、アトム・フォア・ピースの日本における効果についてはさらに楽観的で、その努力が日本人の核に対する態度に著しい変化を生み出したことについて次のように評価した。「1954年から55年にかけての核に対する意見の変化はめざましいものだった。情報局の集中的なキャンペーンにより、核ヒステリーはほとんど消滅し、1956年初には原子力平和利用を広く受け入れるように日本の世論が変わった。…(その結果)アメリカに対する日本の世論は著しく改善し、日本政府の親米政策に対する圧力をある程度弱めることになった。」(前掲書 p.179)

このように「原子力平和利用」神話が国民的に定着させられたことによって、その神話の代表格ともいうべき原子力発電は受け入れられ、そのことが2011年3月11日の福島第一原発の恐るべき事態につながっていったということなのです。

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