福島原発の放射能「漏れ」(?)から考えること

2011.04.04

*福島第一原発からの放射能「漏れ」は重大な問題を内包していると思うので、私自身の考えることを記しておきたいと思います(4月4日記)。

 今回の福島第一原発による「放射能漏れ」は、主に三つの原因によるものであることは素人でも理解できます。ひとつは、爆発、火災発生した原子炉から噴出した蒸気中に放射性物質が含まれていることです。もう一つは、爆発した原子炉本体内部で破損しあるいは溶融した燃料棒の一部が壊れた格納容器から漏れ出し、その結果、空中に飛散する放射性物質が存在していることです。今、福島第一原発周辺地域住民を強制的に避難させ、あるいは自主避難勧告で生活設計も立てなくさせているのも、各地の放射線量を高めて農業に深刻な影響を及ぼし始めているのも、これらの放射性物質によるものです。これらの危険性については、原子力事故が起こってしまった場合の必然の結果として早くから指摘されていたものであり、それ故にこそ原発に反対する人びとが早くからその危険性が現実化する前に脱原発路線の政策に転換するべきだと訴えてきたのだと、私は理解しています。
 そして今や第三の放射能「漏れ」の原因が明らかになりました。それは、原子炉を冷却するために大量の海水をかけた結果、汚染された水が大量に海に流れ出ているというものです。設計した冷却システムが津波によって破壊されてしまった中で、とにかく原子炉内の核燃料棒の溶解、核分裂反応発生、核爆発という最悪の事態を防ぐためには、とにかく冷却することが最優先の課題であることは、素人の私にも理解できます。しかし私は、海水による冷却の試みが始まったというニュースを知った時に、瞬間的に感じた疑問がありました。それは、大量に注がれる海水は当然放射能汚染されることになるはずですが、放水された後はどのように回収、処理されるのだろうか、という素人ならだれでも抱く疑問です。本来の自己循環的冷却機能が津波によって機能しなくなったための緊急避難とはいえ、放射能汚染の危険性を知り尽くしている、プロである東京電力としては周到な対策を講じているのだろうと考えて自分自身を納得させたのでした。
しかし、今や誰の目にも明らかになっているのは、東京電力は放水の結果当然に起こることについて何らの見通し、対策もないままに、とにかく冷却ということでしゃにむに海水の注入を行ってきたとしか考えられないということです。まったく考えられないことを東電はしでかし、政府はその危険性を当然チェックしなければならなかったのに、その最低限のチェック・監督機能も果たさなかったというお粗末さだったということです。その結果が、大量の放水された海水が行き場のないままに原子炉周辺にたまり、あふれ出てしまった放射能汚染された海水が大量に海に流れ出てしまっているという背筋が凍り付く映像を私たちは見せつけられるという結果でした。その結果、今や農業者ばかりではなく、漁業者も、「買い控え」に走る消費者によって深刻な打撃を被るに至っているのです。このような垂れ流しは、絶対に起こってはならないことですし、政府、東電としては万全の事前の措置を講じることによって垂れ流しが起こることを防止することができたはずです。
 福島第一原発については、津波に対して抵抗力・十分な備えがなく、早急な改善措置の必要を指摘されていたのに、それを無視してきた東電の脳天気・無責任を前提とすれば、今回の放水した海水の垂れ流しを招いてしまっている事態も「またか」ということなのですが、それにしても対策が後手後手で、目をおいたくなる惨状です。それが東電だけの問題で収まるならば何をか言わんやですが、原発についてつとに指摘されてきたことは、なにかが起こってしまったら、その影響は計り知れないということであったし、それが現実になったということなのです。これを汚染「漏れ」と称して片付けることができるのか、ということです。「漏れ」と公言する政府、東電の感覚には、もう怒りを通り越して、あきれ果ててものも言えません。
私は、今は(といっても政府自体、事態収拾に最低数ヶ月かかることを認めざるを得なくなっています。)とにかく最悪の事態(日本全土が放射能汚染で全土が避難対象に陥る事態)が回避されることを心から願いますし、回避実現のために政府、東電が全力を挙げることを要求します。しかし、幸いにして最悪の事態の回避が実現したとしても、東電及び監督者としての原子力保安院(その後ろにいる経済産業省)の重大な責任は徹底的に追究しなければならないということを指摘しておく義務を感じます。避難生活を強いられた住民、経済的損失を被った農業者、漁業者への補償は当然なこととして、東電及び政府(原発政策の旗振り役だった自民党政権を当然含みます。)の法的、政治的責任を、私たちは徹底的に追究するべきだと考えます。
それだけではありません。前にも言及しましたが、より根本的な問題として、原子力発電に依存するこれまでのエネルギー政策そのものを今こそ真剣に俎上に乗せるべきです(その点については、4月4日付朝日新聞社説(「岐路に立つ電力文明 持続可能な暮らし求めて」)もおずおずながら問題提起するようにはなっています。)。しかし、G8/G20の今年の議長国として訪日した原発大国・フランスのサルコジ大統領と菅首相は、福島第一原発問題(原子力発電問題)を今年のサミットの議題にすることを約束しましたが、報道から窺わざるを得ないのは、原発推進を前提としながら、世界的にその「安全強化の取り組み」について話し合う(つまり、原発依存という前提を外さない。)というのがその方向性であるということです。しかし、福島の事態が教える最大の教訓は、サミット等で真剣に議論し、決めるべきは、人類の意味ある、持続できる存続を確保する方途を求めるという出発点の認識を共有することでなければならないし、市場経済任せの成長万能主義を徹底的に改める、ということでなければならないはずです。人類の意味ある存続を危うくする現実の危険性を持つ原子力発電推進路線は、日本でだけでなく世界規模でスクラップされるべきです。そういう方向での国際世論が起きなければならないと思うのです。「核兵器廃絶」から「核廃絶」に向かって、人類がしっかりと歩みを進めること、それが福島第一原発の事態を無駄に終わらせない唯一の答えだと確信します。

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