大震災救援募金と路上生活者

2011.04.04

*私は最近、買い物の必要があって、八王子駅前の中心街に二度続けて出かけた(2日及び3日)のですが、その2回とも、東日本大震災救援募金を呼びかける様々なグループが呼びかけをしているすぐ近くの同じ場所で座り込んでいる一人の路上生活者らしい人に気がつきました。最初に見かけた時はそのまま通り過ぎたのですが、2回目の時に同じ人が同じ場所に座り込んでいることに気がついた時は、いろいろなことを考え込まされました。私が考えたことについて、この「コラム」を訪れている方たちにも考えていただきたいと思って記す次第です(4月4日記)。

<路上生活者と思われる人の気持ちは?>

 路上生活を送るようになった(送らざるを得なくなった)人たちの圧倒的に多くは、資本主義(とくに新自由主義)市場経済システムの犠牲者だと、私は理解しています(個々人によってはそうでないケースもあるでしょうが、湯浅誠氏が指摘しているように、新自由主義政策のもとで社会的・政策的・法律的な滑り止めの仕組みが人為的に奪われた日本社会(「すべり台社会」)が路上生活者を多数生み出しているのは間違いないことです。リーマン・ショック後の2008年末には派遣切れの人たちのための「年越し派遣村」が話題になりました。
 八王子の街頭で見かけた人がそういう人であるかどうかは知るよしもありません。しかし、私が考えざるを得なかったのは、彼は大震災救援を呼びかける多くのグループを見てどんな気持ちでいるのだろうか、ということでした。私が気がつかなっかただけのことかもしれませんが、確か最初に見かけた時は、彼はうつろな表情でただじっと座っているだけでした。しかし、2回目に見た時は、彼の前に空き缶が置いてあり、そこには100円玉と10円玉がいくつか入っていました。私はそのことにはっとした気持ちにさせられたのです。その変化(空き缶が置かれたこと)は、ひょっとすると、「義援金募集に応じる人たちは、その気持ちを自分にも示してほしい」という意思表示ではないか、と思ったのです。
 彼の立場から、今回の大規模な救援募金活動はどのように受け止められているのだろうか。それが私の頭の中を占めたことでした。彼の場合は政治の貧困(意識的切り捨て、無為無策の労働政策)の犠牲者であり、被災者の場合は自然災害の被害者という違いがあることは、彼もおそらく認識しているでしょう。しかし、例えば厚生労働省の2009年5月報告によると、2008年10月から2009年6月までの間に雇用調整の対象になった、または対象になる予定とされているのは3,500余事業所 21万人以上に及んだとされています。今回の大震災及び福島第一原発の事態によって避難生活を強いられている人びとは約35万人です。この35万人の中には福島関連が十数万人含まれますから、その数を引くと、新自由主義の犠牲者の数は大震災によって生活基盤が奪われた被災者の数とあまり大きな差はないことが分かります。路上生活者の問題はそれほど重大な問題であるということが分かります。彼がそのことを知っているかどうかは別として、彼が空き缶を置いたということは、なんらかの意思表示であることは確かだと思います。
とくに、福島第一原発の事態によって避難生活を余儀なくされた人びとは、人為的な政策によってもたらされたという意味で、むしろ性格的には路上生活者に近い人災の犠牲者です。もちろん、路上生活者の多くは意識的な政策によって切り捨てられたのだし、福島で避難生活を強いられた人びとは、原発推進政策の悲惨を極める破綻によって今の生活を強いられたという違いはあります。しかし、後者が国の適切な支援を得ることが当然の権利であるならば(私はもちろんそう思います。)、路上生活者がその窮状から脱するために国の適切な施策を要求する権利があると考えるとしても当然ではないでしょうか。少なくとも、空き缶を置くという行為にはそういう訴えが客観的に込められているのではないでしょうか。

<募金活動のあり方から思うこと>

 募金活動のあり方にかかわっても感じることがありますので、記しておきます。
 八王子で募金活動をしている人たち(子供、青年、大人が入り交じり、競い合って募金を連呼しています。)は、すぐ傍らでうずくまっている路上生活者のことを少しでも意識しているでしょうか。少しでも意識したならば、彼の存在を無視して募金に声を張り上げるという行為について何も感じないで済ませることができるのでしょうか。それはあまりにも二重基準であるのではないでしょうか。そのことに気がつくものであったならば、募金キャンペーン(これまでの例に鑑みて、一過性のものとして終わる可能性が高いでしょう。)で満足するのではなく、路上生活者の問題を含めた日本政治のあり方そのものを見つめ直す契機にしてほしい、と私は心から願うのです。
 このような行動パターンとの関わりでついでに(?)もう一つ気になることを書いておきます。それは、昭和天皇が重病に陥った時に全国を包み込んだあの異様な「自粛ムード」が今また頭をもたげつつあることです。一人一人が自らの意思と判断に基づいてある状況の下においてある行為を取るかどうかを考え、自らの判断でその行為を取ることを控えるという決定を行う場合が「自粛」であるはずです。ところが、今この社会で再び進行しつつあるのは、権力・権威が旗振り役を務める「自粛」の押しつけなのです。それは、「自粛」ではなく、「他粛」(?)です。こういう権力・権威の顔色を窺う(あるいは権力・権威の言いなりになる)行動の仕方が積極面に誘われると、群れをなす募金活動という形を取るのです。だから、それらの根っこは同じです。
今日の未曾有の困難に見舞われている日本に必要なのは、そういう他力本願の善意ではなく、被災者、路上生活者を分け隔てしない、人間一人一人の尊厳を尊重し、大切にする気持ち(他者感覚)をみんなが育み、そういう大本から日本の政治文化を変えなければならないという自覚を一人一人が我が物にし、それを「非政治的市民の政治的行動」として積極的に表明することではないでしょうか。

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