3人目の東北出身ゼミ生

2011.04

私はこの「コラム」で明治学院大学時代のゼミ生は二人と書いたのですが、昨日(4月1日)メールが飛び込んできて、もう一人宮城県石巻出身のゼミ生がいたことを知らされました。私は、すごくバランスがとれた思考をし、他者感覚を自然に備えている彼のことはとても良く覚えているのですが、彼が宮城県のしかも大被害に遭った宮古出身であることは、彼から話を聞いたことがあるのかもしれませんが、まったく覚えておらず(彼からのメールを見た時も、「エッ、ホントに?」とびっくりしたのが正直なところでした。)、慌てふためいた次第です。彼もまた盛岡出身の元ゼミ生同様、私のホーム・ページを読んで私にメールをくれることになったのでした。ともあれ、とても嬉しかったですし、彼の実家の窮状には心が痛んでなりませんが、とにかく家族全員が無事だったという知らせがなによりでした。
 普段はまったく音信不通ですが、こういうときに私のことを思い出してくれるゼミ生がいるということは、私の父(戦前愛知県師範学校附属小学校の校長まで務めた経歴の持ち主)が、教え子が自宅を訪問してくれたり、季節の挨拶を寄せてくれたりするたびに、「教師冥利に尽きる」と語っていたとおりであり、私としても、そういう教え子に恵まれたことに感謝、感謝の気持ちです。
 彼には、近々この「コラム」でお詫びと訂正の文章を載せると伝えましたし、私自身が今回の大震災を通じてのゼミ生とのふれあいを記録することは、あるいはこのコラムを訪れてくださる方たちにも心温まる知らせとして受け取っていただけるのではないかとも思いますので、彼とのメールでのやりとりの内容(ただし、個人情報に当たる部分は削ったり、ぼかしたりしてありますので、ご了承ください。)を記させていただきます。

Sさんからのメール

明治学院大学(xxks)浅井ゼミ生のSSです。覚えてらっしゃいますでしょうか?
先生のホームページを拝見しました。私も東北(宮城県)出身ですよー!
私はxxxx年に宮城に戻り、最近は仙台市内で働きながら資格取得の勉強をしておりました。3月11日は会社におり、ビルの5階で被災しましたが、幸い怪我もなく無事でした。たまたま仙台に来ていた弟と、当日の夜だけ避難所で過ごし、翌日の午後から電気が復旧したため市内にある一人住まいの自宅へ帰りました。水道もほどなくして復旧しましたが、ガスはまだ復旧していません。以降弟と二人暮らしの毎日を送っています。
私の実家は石巻市で、両親はそれぞれ石巻市内の仕事先で被災しましたが、幸いにも無事でした。実家がある地区は海岸からだいぶ離れたところにありますが、それでも車が隠れるほど冠水し、自宅1階はすべて水に浸かってしまいました。私も週末には復旧作業の手伝いで石巻へ帰っていますが、ひどいありさまです。大量のヘドロが運ばれてきているところを見ると、おそらく近くを流れる運河から水が押し寄せたのではないかと思います。
石巻市内の◯◯地区には父の会社があり、重要書類が保管されていた金庫を探したいと父が言うので、27日の日曜日に一緒に探しに行きました。しかし海岸沿いの◯◯は津波の被害をもろに受けた地区で、一帯が瓦礫の山になっていました。父の会社もブロックの基礎だけを残し、あとはどこから来たかも分からない瓦礫しかありませんでした。周辺もある程度は探しましたが、金庫は結局見つけることができませんでした。 父は会社の惨状に大変ショックを受けており、頬がこけてきているようだったので、体調面が心配です。
以上、まことに勝手で一方的ですが、私と私の家族の被災状況をお知らせしました。浅井先生は東京に戻ってこられたようですね。体調面だけは十分に留意していただいて、これからは奥様ともミクちゃんともゆっくり過ごしてくださいね。
ホーム・ページについて、今後は続けるかどうかまだ未定とありましたが、続けられるのであれば拝見したいと思います!

私の返信メール

ごめんなさい。Sさんが地方出身であること(確か大学の近くに住んでましたよね?)はしっかり覚えているのですが、宮城県石巻市出身だったとはまったく覚えてなかったです。あなたから故郷の話を聞いた記憶が全くないんですよね。申し訳ない。しかし、思慮深いあなたのことはとても良く覚えていますよ。ミュージシャンを志すって、ゼミ合宿の時に話してくれたこともありましたよね?ゼミ長を、副ゼミ長だったあなたが目立たないようにしっかりフォローしていてくれたこともね。そうですか。でも、無事でなによりでした。
ご両親のことについては、なんと申し上げたら良いのか言葉も浮かびません。「命あっての物種」と昔からいいます。お父様には物事をポジティヴに見ることで、何とか一日も早く精神的に立ち直っていただきたいものです。
今日の夕方のニュースの中で、三陸の港町の被災状況を特集していましたが、300隻近くあった漁船で無傷で残ったのは、沖に出て操業中だった底曳き船14隻だけだと伝えていました(沖にいると、津波ではないのだそうですね?)。それでも、その残った船でだけでも操業を再開させて、市場を復活させるんだ、と力強く語る漁業関係者の発言を紹介しているのを見て、本当に頭が下がりました。あの強さを支えるのは、盛岡出身の新聞記者をしているもう一人のゼミ生が言った「結い」なんだろうな、と感じ入りました。
お父様の場合は、会社の惨状によるショックということなので、「結い」という伝統的共同体の力がお父様を支える可能性は考えにくいし、ここは長男のあなたがお父様をしっかり支えてあげることがなによりもの支えになると思います。
なにかお役に立つものがあるならば遠慮なく言いつけてください。とは言っても、運搬手段が回復しているのかどうか確かめる必要はありますが。
広島から引き上げてきて、メール・アドレスを整理しようと見ていたら、各学年度のゼミ生の名前とアドレスが残っていることを発見して、とても懐かしかったのですが、その中にあなたの名前もあって、「どうしているのかな?」と思っていたばかりです。あなたが校外実習の時に、薄っぺらなデジカメをもっていて、当時ではとても先進的な構造だったことまで記憶しています。その後に私も同じものを買ったのです。でも買ったきりで、ほとんど使わなかったけど。
ホーム・ページのことは、仕事人生が終わる時がけじめの時だと思っていたのですが、このホーム・ページのおかげ(?)で二人の元ゼミ生がこうして便りをくれることにつながったのだし、この大震災・福島原発の後遺症は今後長年にわたって私たちに試練を課すことになることは間違いないので、私なりの発信は続けなければ、と思い直しています。とくに、政治の貧困の目を覆いたくなる状況と、この未曾有の試練に対して上記のような個々の頭が下がる雄々しさを見ることはあっても、全体的にはやはり旧態依然とした群集心理によってしか動かされない日本人の「個」の欠如ぶりとを見ていると、一人だけこぢんまりとしていることは許されないと思うようになっているのです。もう今年には70歳になる身ですので、いつまで発信するだけの脳力(?)が保てるかは保証の限りではありませんし、これまでのような頻度では更新できないと思いますが、時々覗いてやってください。
とにかく、元気でいてくれることを知らせてくださって、本当に感謝しています。あなたから抗議(?)のメールがあったことは、近々「コラム」でお詫びの文章を書きますので、それで許してください。
お父様をくれぐれもいたわってあげてくださいね。

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