東日本大震災と福島第一原発について思うこと

2011.03.30

*東日本大震災の被害の巨大さ、したがって復興への道のりの気の遠くなるむずかしさが明らかになるにしたがい、本当に被災者の皆さんのお気持ちはいかばかりかと想像するだけでも気が滅入る思いでいます。他方、福島第一原発の事態に関しては、とうてい許されない(また考えもできない)人為的ミス・手抜きが今日の状況を招いていることが明らかになっており、政府(稚拙きわまる対応しかできていない民主党政権は当然のこととして、原発政策を国策として推進してきた自公政権時代の両党の責任が当然に含まれます。)・東電・原発推進に旗を振った御用学者にはやりきれないほどの怒り心頭の気持ちです。
 そういう中、かつての明治学院大学時代のゼミ生で東北地方出身の卒業生からメールが入り、また、広島での知人からもそれぞれの思いを記した便り・メールを受け取ることとなり、私として個人的に思うことが重なりましたので、ここで書き留めておこうと思います(3月30日記)。

<東日本大震災の被災者に関する元ゼミ生のメールに触発されて考えたこと>

 明治学院大学時代のゼミ生で東北地方出身はたしか二人でした。しかし迂闊なことに、地名とゼミ生とが結びついて私の硬直した頭の配線構造の中にインプットされていたためか、地震直後に思い出したのは気仙沼出身の一人のことだけで、盛岡出身の元ゼミ生については、盛岡という地名が私の目の中に飛び込んでこなかったせいだと思うのですが、まったく記憶がよみがえることにはなりませんでした。気仙沼出身の彼については数日を経ずして家族を含めた安全が確認できてほっとしたのですが、盛岡出身のもう一人については、彼からメールが飛び込んできて「おお、そうだった」と思い出した情けない次第でした。その彼は、卒業後地元の新聞社に就職して記者として活動しているのですが、震災後は被災地に入って取材を続けていることをそのメールで知りました。
 彼は、私が今回の大震災についてどういう考えをしているのかが気になって私の「コラム」を覗いたと前置きの上、「秩序ある日本人」という外国メディアの手放しの賞賛を込めたとらえ方(私も批判を込めてこの点を指摘していたのですが)に違和感を覚えるとして、彼自身が被災者の取材を通じて被災者の人たちの中に見出すものを「結い」である、と書いていました。すなわち、「避難所で生活する住民の力」「助け合う心や優しさ、思いやる心」「おにぎりを家族で分け合って食べる姿」など、「例を挙げたらきりがありません」とあり、「これまで培われた地域の「結い」が、住民同士が励まし合って生きていることにつながっていると感じています」というのです。
私は、正直この言葉についてはかすかに記憶がある程度で、彼自身の生々しい実感に基づいた認識の中身についてかなり考え込まされました。とにかく、彼の無事を喜んでいること、それに彼が重要なことを書いてきてくれたことについて一刻も早く反応しなければ、との焦りにも似た気持ちから正に「とりあえず」の返信メールを送ったのですが、それからは新聞における被災地に関する様々な報道を読む時に、「結い」という彼自身の座標軸が他の取材記者の目においても共有されているのかどうか、という問題意識が加わることになりました。
私が彼へのとりあえずの返信メールで記したのは次のとおりです。

「「結い」という特徴付け・性格付けはあなたならではだ、と思いました。そういう日本の「古語」をもってのみ性格づけることができるのかと思いました。よく言われるように、自然(優しさと猛々しさの両面を含めた自然)と共生しつつ日本人の「日本人らしさ」がはぐくまれてきたのでしょうし、今回の圧倒的な自然の力に直面して、長い間意識下に追いやられていた自然に対する畏敬の念、大自然の前における人間存在の小ささの自覚が先祖返りして被災した人たちの意識・行動を支配するようになっているのではないか、それが「結い」とあなたが形容するものの中身ではないか、と想像しています。そういうものであるからこそ古語でしか性格づけることができないのではないですか。正直言って、「結い」という言葉には意表を突かれた思いがしました。しかし、以上のような理解があなたの想いを裏切っていないとすれば、私にも被災者の人たちの心情を想像することができるように思いますし、そういう視点を提供してくれたあなたに感謝、感謝です。」

以上のとりあえずの感想については自分自身でも不足・間違いがあったことを認めないわけにはいきません。「結い」が先祖返りして被災者の意識・行動を支配するようになったのではないかというのは、東北地方、とくに被災地、における被災前の人びとの意識を知らない私の勝手な思い込みである可能性があります。「結い」はこれらの地域では昔も今も人びとの中にでんと座っているものなのかもしれません。この大災害に際して、「結い」が人びとの言動の中心に座ったということなのかもしれません。そうであるとするならば、「結い」は古語でも何でもなく、今もなおこれらの地域で人びとのつながりを規定し続けている大切な生活規範であるということになるでしょう。
しかし、被災した現実からの事態改善を模索する動きの中で、現実が被災した人びとの間の「結い」を引き裂きかねない兆候が早くも現れているのではないか、と感じないわけにはいかない報道を目にするようになっています。集団避難している地域住民の中で、個人的に他の地域に転出する人たちに対して、残る側の住民たちから、そういうものは帰ってきたいといっても受け入れない、という反応が出ているという記事がありました。みんなが苦労しているのに自分だけが(転出して)楽をするわけにはいかない、という人たちも少なくないという報道もありますが、これは「結い」が持つ拘束力の働きを感じさせるものではないでしょうか。
この後の点に則していうと、メールをくれた彼は、「秩序という言葉は一見聞こえはいいですが、時に恐ろしさを秘めていると思います」として、外国人のほめはやす「秩序」が日本人の行動を権力・権威的に縛る無言の圧力・拘束力として働く可能性を鋭く指摘しているのですが、「結い」もまた個人に対する圧力・拘束力として働く可能性を示唆しているように感じます。つまり、「結い」を損なう言動を取るものに対して伝統的に働く「村八分」という排除の論理・ルールです。
以上のことは、次のような連想を私の頭の中に生じさせます。これでもか、これでもかという勢いで流されるAC(公共広告機構?)コマーシャルに共通して底流としてあるのは「和」「団結力」「日本は一つ」というメッセージであると感じます。私もそれらの重要性を認識することにはやぶさかではないつもりですが、その重要性は一つの大前提を承認してのみ肯定的に位置づけることができるのだと思います。それは「個」の確立ということです。一人一人が自分自身の立ち位置を認識するということを前提にしてのみ、その個人の集合体としての団結力が今の日本に必要なものだと思います。個を抜きにした団結は所詮戦前への回帰でしかありません。
今回の事態における自衛隊の活動が高く評価されています。その自己完結的な組織力が今回の緊急事態に対する高度な対応力を可能にしていることは事実です。しかし、その評価が即自衛隊肯定論の補強に結びつけられていることには、私としては強烈な違和感を覚えずにはすみません。常に緊急事態に対応する組織を整備していればいいことで、自衛隊を手放しで礼賛するマス・メディアの報道姿勢にも、うさんくささを感じるのですが、それは私だけのことでしょうか。
要するに、こういう未曾有の緊急事態なればなるほど、日本人の伝統的に形作られてきた個の欠如の上に成り立つ「権力の偏重」「既成事実への屈服」という問題(丸山眞男がつとに指摘したもの)が露呈してしまうのだと考えないわけにはいきません。「災いを転じて福となす」機会は、今回もまた活かされそうにない勢いが加速的に増幅されています。

<福島第一原発の事態に関する知人のメールと便り>

 広島で知り合った放射線被曝研究に関する専門家及び被爆者治療に長年当たってきた医師である二人の友人から次のような内容の認識を伝えてきました。放射線被曝研究の専門家の友人の便りは、福島第一原発では最悪の事態を覚悟しておかないといけない、日本中が放射能汚染に見舞われる事態になっても不思議ではない、というものでした。また、被爆者治療に当たってきた医師は、第3号炉がプルサーマルでプルトニウムを燃料に使っている日本最初の原子炉であることから、事態が悪化するとチェルノブイリ事故どころではなくなる、と指摘しています。私も素人ながらそういう認識と恐れを抱いているのですが、親しくしてきた二人の本当の意味での専門家の立場から「だめ押し」的に言われて、改めて事態の深刻さに襟を正す思いで、恐怖感を新たにせざるを得ません。そのような深刻な事態であるのに、政府(原子力保安院を含む。)、東京電力そして国会の無責任を極める脳天気ぶり(本当の脳天気ならまだしも(国会議員の多くは本当に脳天気なのかもしれません。)政府・東電の場合は愚民政策としてやっている意図的脳天気ですから、本当にこれまで自分でも感じたことがない怒りが募ります。
 アメリカ発の情報の一つに、アメリカ科学アカデミーが2005年に出した報告の中で、「放射線被曝においては、これ以下なら安全という「閾(しきい)値」はないという結論が示されているということを読みました。何とかしてその報告の原文に当たってみたいと検索している最中ですが、この結論は要するに低線量被曝でもがんなどを発症させる働きがあるという、肥田舜太郞氏などのかねてからの指摘を確認するものになります。さればこそ、オバマ大統領のアメリカ政府による在日アメリカ人や在日米軍対する「手厚い」勧告・措置が理解できるというものです。それに対して、政府・東電の日本に住む私たちに対する無責任極まる「対応」を徹底的に批判し、住民の安全第一の観点からすべての政策・行動を取るように迫るべき立場にある「専門家」諸氏及びマス・メディアが相変わらず傍観者的(あるいはこれまで原発政策を容認し、原発安全神話を振りまくコマーシャルを垂れ流してきた自らを防衛するための自己保存的)言論に終始していることは本当に許せません。

 何もなし得る力がない自分を歯がゆく、そして情けなく思うばかりです。

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