福島原発「事故」と日本政治

2011.03.22

*福島第一原発の「事故」による放射能汚染の広がりは、マス・メディアで大きく取り上げられています。この取り上げ方そして再び出てくる「専門家」諸氏の「解説」に、私は強烈な違和感を覚え、日本政治の病理を見る思いを深くしています。私の思うところを記しておきたいと思います(3月22日記)。

<「人体には影響がない」?>

 「専門家」諸氏が口をそろえて言うのは、これまで(22日現在)の放射能汚染の程度あるいは放射線量の程度であるならば人体には影響がない(だから安心して良い、という含意)ということです。そして口をそろえて例に出すのがCT検査の時の被曝線量や東京-ニューヨーク間を飛行するときに浴びている被曝線量との比較です。特に私が見逃すことができないのは、かつて放射線影響研究所(放影研)理事長を務めていた人物が得々として「人体無害」説を解説している姿でした。彼は、自らが現地調査したチェルノブイリ事故の実例を「踏まえ」、子どもに甲状腺ガンが多発したことは認めるのですが、それ以外にはあたかも大して深刻ではなかったかのように「解説」していました。彼の話どおりだとすると、チェルノブイリ事故もあたかもなんでもないことであるかのようであり、欧州全体が放射能汚染で深刻な事態に陥ったことがまるで嘘のように感じられてしまいます。
 もちろん、私は専門家でもなんでもないので、これら「専門家」諸氏の発言に科学的に反論する力はありません。しかし、次の二つの事実については指摘することができるし、「専門家」諸氏には是非正面から責任感を持った発言をしてもらうことを要求したいのです。一つは、アメリカのオバマ大統領が、福島第一原発から80キロ以内にいるアメリカ人に避難勧告を出したことについて、これら「専門家」諸氏はどう説明するのかということです。そして第二には、低線量被曝の危険性の問題については、肥田舜太郞先生や海外の研究家による警告がつとに行われているということについても、「専門家」諸氏は何も言わないのはなぜか、ということです。そして、オバマ大統領の避難勧告は低線量被曝の危険性を考慮したからのことではないかと考えれば、以上二つの事実は実は同じ問題である可能性があるのではないか、ということなのです。
 そういえば、放影研の「得意」な議論の仕方の一つは、放射線被曝と人体への影響については「有意な因果関係が認められない」という「科学的」説明の仕方です。低線量被曝の問題にもそういう言い方が用いられてきたと記憶しますし、被爆二世、三世への影響の有無については明確にそういう言い方が使われてきたことを私は知っています。今回の放射能汚染、放射線被曝においても「専門家」諸氏は同じ言い方をしているのです。原子力発電という「平和利用」政策に加担してきた日本の「専門家」諸氏の発言には、私は放影研とグルになっている広島医療界の現実を知るだけに、とても素直にしたがう気持ちにはなれません。

<「放射能は排泄されるから大丈夫」?>

 これらの「専門家」諸氏も、外部被爆よりも内部被曝の危険性が大きいことを認めます。しかし、昨日(21日)から今日(22日)にかけてのテレビ番組での「解説」では、体内に入った放射能も大部分は排泄される(だから心配はない、という含意)という説明が堂々と行われていました。こういう式の「解説」は、外部被爆の危険に対しては、「身体を洗う」、「雨合羽を着る」、「マスクをする」などの対応を取ればたいしたことにはならないという説明と軌を一にするものです。
 思い出すのは、消防庁がモデル案を作り、全国の都道府県、市町村が作成した「国民『保護』計画」でも、核攻撃に際しては、風上に逃げると並んで、「マスクをする」、「雨合羽を着る」、「屋内に留まる」などが指示されています。政府の御用学者はとにかく放射能被害、放射線被曝の危険性を過小評価するのです。

<広島、長崎を直視しなかったことの後遺症?>

 以上のような「専門家」諸氏の発言を見聞きしていて痛感せざるをえないのは、アメリカの放射線被害隠蔽政策の下で、広島及び長崎の体験から痛切な教訓を学び取らなかった日本のゆがんだ戦後の後遺症が今日に至るまで続いているのではないかということです。敗戦直後には都築正男のように米占領軍に対して敢然と立ち向かった良心的な科学者もいました。また、私が個人的に知る安西育郎・立命館大学名誉教授、沢田昭二・名古屋大学名誉教授、鎌田七男・広島大学名誉教授のような方もいます。しかし、そういう良心的な科学者が主流を占めることができず、アメリカの顔色ばかりを窺う日本の政治に迎合することを何とも思わない「学者」「科学者」「専門家」がかくも大手を振ってまかり通る状況が許されているのは、広島と長崎の体験が国民的な負の遺産として正しく受け継がれることを妨げてきた戦後日本政治のゆがみ故だと考えるしかありません。
 私は、広島にいた6年間で、広島と長崎が日本全体の中で政治的孤島として隔離され、沖縄とともに政治的辺境化されている現実を目の当たりにしました。その根源的な理由は、広島、長崎、沖縄を直視すれば、軍国主義・日本の過去を直視することにならざるをえず、しかし、それは思想的・組織的・人的に過去と連綿とつながっている戦後保守政治にとってはなんとしてでも避けたいことであるが故に、過去を隠蔽するために広島、長崎、沖縄をどうしても国民的記憶として定着することを妨げてきたことにあるのです。
 福島原発「事故」に関する政官財学(そしてマス・メディア)の言動・一挙手一投足を見ていて、私は改めて日本は過去から学び取るべきことを学び取っていないことを確認する思いを深くしています。このままでは、「事故」はあくまで「事故」として「処理」されてしまうでしょう。国民的一致団結の必要性が叫ばれ、日本的「和」の美徳が強調される動きも、権力・権威に対する挑戦を未然に封じ込めようとする巨大な政治的意図の働きを見るのは私だけでしょうか。
 また私は、前に指摘したことと関連するのですが、私たち日本人の二面性、二重人格性にも触れざるを得ません。東日本大震災の直後に「秩序だった」行動をとり、その後の東京電力の「計画」停電によって引き起こされた公共交通機関の大混乱に際しても「忍耐心」を発揮している日本人に、外国のメディアは驚嘆と賞賛を惜しみません。しかし、人目につくところでは整然と行動するその日本人は、人目につかないところではモノの買い占めにパニック的行動になりふり構わず走る自分本位の日本人でもあるのです。要するに「人の目につくかどうか」で自らの行動をがらりと変えるのが私たち日本人なのです。
私は『竹内好全集』を読む中で、竹内がきだみのる著『日本文化の根底に潜むもの』(1956年)を絶賛していることを知り、読んだのですが、今日現在の日本人はこの本で描き出されている日本人そのままなのです。つまり、私たちの二面性、二重人格性は少しも変わっていないのではないか、ということです。丸山眞男は、「自由」を定義して、「徹底した自己責任による意思決定能力」「理性的な自己決定能力」と述べたことがあります。「自己責任」という言葉は、新自由主義のもとで見にくくゆがめられて使われるようになってしまいましたが、自らの意思決定について理性的に責任を負う態度としての「自己責任」という意味において使われていることを確認した上で、私は、私たち日本人の多くに今日なお決定的に欠けているのは、丸山の定義する「自由」の意識(私流にいえば、「個」としての意識)だと思います。だからこそ各人の言動が決定的に問われるこういう危機的状況において、昔ながらの二面性、二重人格性が噴出するということになるのではないかと思います。このような日本人であり続ける限り、私たちはこの国を根本から変える主権者としての自覚と責任感をいつまでたっても我が物にすることができないのではないでしょうか。

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