福島原発「事故」の本質

2011.03.16

*福島原発「事故」の問題については、前回の「コラム」で取り上げましたが、3月13日付の沖縄タイムスと琉球新報及び14日付の神奈川新聞は、共同通信配信と思われる石橋克彦神戸大学名誉教授の本格的な政府・電力会社の原発推進政策を批判する評論を載せました。今朝(16日)買い求めた朝毎読三紙と中国新聞にもざっと眼を通しましたが、政府・東京電力の後手後手に回る危機管理能力の欠如、そしてそのもとにあるより危険な問題である国民に対する無責任を極める態度を正面から指摘、批判する報道や専門家の意見をようやく載せるようになりました。アメリカを始めとする海外メディアの危機感あふれる報道にはまだ遠く及びませんし、まったく遅きに失することについての日本のマスメディアの報道姿勢は厳しく指摘しておく必要がありますが、チェルノブイリ大惨事の二の舞を招致しないためには「過ちを改むるに憚ることなかれ」ですから、これからは国民の視線に立って厳しく政府・東電を監視・督励するよう、マスメディア本来の責任を自覚して行動することを要求したいと思います。  私は原発問題にはずぶの素人ですがその危険性にはかねてから重大な関心を持ってきたものとして、沖縄二紙、神奈川新聞、中国新聞及び朝毎読3紙(大阪版)に載った専門家の発言を紹介しておきたいと思います。政府、東京電力そして政府・東電御用達の御用学者・専門家の発言(前回のコラムで一端を紹介)が如何に私たちを愚弄するもので、しかも隠蔽体質に充ち満ちたものかが分かると思います。
同時に、2.の朝日新聞報道からただちに分かるように、私たちはいま、危険きわまりない原発依存の体質を清算するためにはどのような生活のあり方を自らの意志で選択するのか(物質的豊かさだけを追求することがいかにかけがえのないものを犠牲にする代償を伴うのか)、という根本的な問題に正面から向きあわなければならないときですし、まさに「災いを転じて福となす」ことができるかどうかの試練に遭遇しているのだと思います(3月16日記)。

1.政府・東京電力の責任の重大性

<石橋克彦・神戸大学名誉教授(13日付沖縄2紙及び14日付神奈川新聞)>

 「政府の地震調査委員会は、三陸沖、宮城県沖、福島県沖、茨城県沖などで別々に、たかだかM8程度の地震を想定していた。しかし、今回はこれら全部が連動してしまった。地震学という人知がまだ大自然には到底及ばない、と痛感する。
 激しい揺れ、大津波、土砂崩れ、住宅・コンビナート火災、長周期強震動被害、交通まひなどが広い範囲で生ずる「広域複合大震災」の脅威は、発生が予想されている東海地震に関して2005年の衆議院予算委員会で公述したが、東北沖の地震で起こるとは思わなかった。しかし、これが日本列島なのだ。(太字は浅井。以下同じ)
 12日未明には長野県北部でM6.7の地震が起こって被害が出たが、これは前日の巨大地震に誘発された可能性がある。ちっぽけな日本列島で4枚のプレートがせめぎ合っているから、境界のかなりの部分が破壊すれば、全体に影響が及んでもおかしくない。首都圏直下地震や、西日本沿岸に想定されている東海・東南海・南海巨大地震の発生が早まることも否定はできない。(中略)
 私は、地震による原発事故と通常の震災が複合する「原発震災」のおそれを1997年から警告し、07年の新潟県中越沖地震による東京電力柏崎原発(新潟県)被災の後は、その危険がさらに明白になったことを強調してきた。今回はまさに原発震災だ。
 福島第1原発は、原子力安全・保安院と原子力安全委員会が最新の耐震設計指針に照らしても安全だと09年に評価したばかりである。全国の原発で政府は地震を甘くみているのだが、原子力行政と、それを支える工学・地学専門家の責任は重大である。
 日本国民は、地震列島の海岸線に54基もの原発を林立させている愚を今こそ悟るべきである。3基が建設中だが、いずれも地震の危険が高いところだから、直ちに中止すべきだ。  運転中の全原子炉もいったん停止して、総点検する必要がある。」

<小出裕章・京都大学原子炉実験所助教(15日付琉球新報&16日付毎日新聞)>

 「安全装置の電源がなくなる危険性をさんざん指摘してきたのに、国も東電も聞く耳を持たなかった。そのツケが来た。
 「とにかく水を入れること。それができなければ、チェルノブイリと同じことが起きる。」
 (以上、琉球新報)
 「(今回の事態は)すでに米スリーマイル島の事故(79年)をはるかに超えている。もし2号機の炉心が解け落ちてしまえば、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故(86年)になりかねない。1,3号機もその危険を抱えている。
 「風向きや地形などの影響も考慮しないといけないが、チェルノブイリの場合で想定すると、放射性物質が日本列島をほぼ覆ってしまうことになる。住民は被ばくをしないように逃げることしかできない。(政府や東電は)海水でも、泥水でもとにかく原子炉に入れて燃料棒が解け落ちることを防ぐ一方、時々刻々知っている情報を国民に開示しないといけない。」
 (以上、毎日新聞)

<桜井淳氏(原子力の安全に詳しい技術評論家。16日付毎日新聞)>

 「86年のチェルノブイリ原発事故は一つの原子炉の事故だったが、今回は複数の原子炉で連鎖的に起きている。今後2号機に加えて1~6号機に保管された使用済み核燃料でも問題が起きると、悲惨な事態になりかねない。

<安斎育郎・立命館大学名誉教授(15日付琉球新報)>

 「一番の心配は大量の放射線が出て、首都圏まで含めた大惨事になりかねないことだ。これまでの政府の対応は、被害状況を過小評価しているのではないか。

<吉岡斉・九州大学大学院教授(15日付琉球新報)>

 「スリーマイルのときは緊急炉心冷却装置(ECCS)が動いていたが、今回は弱いポンプで海水を入れているだけで、より深刻。なぜ津波が来る前にECCSを作動させて水を中に入れなかったのか。」

<小林英男・横浜国立大学客員教授(15日付琉球新報)>

 「政府も東電も「心配ない」なんて言っている場合じゃない。何の手立てもできていない。」

<宮林正恭・千葉科学大学副学長(15日付琉球新報)>

 「そもそも炉心に冷却水を入れるポンプ担当の職員が、どうしてパトロールを兼務しなければならない状況だったのか。」

<亀井克之・関西大学教授(15日付琉球新報)>

 「現場レベルでも詰めが甘かったと言わざるを得ない。この事態を招いた東電を国民が信用できなくなるのは当然。」

<竹内敬二・朝日新聞編集委員(16日付朝日新聞)>

 「「避難は原発から20キロ圏内」。福島第一原発事故による住民避難は、日本の原子力防災指針の想定を簡単に超えてしまった。想定は、原発事故でも避難を含む重点対策をとる範囲は8~10キロまでというものだ。日本では長い間、「原発の大事故は起きない」と聞かされてきた。今回の原発事故はこれが神話だったことを示した。
 日本の原子力草創期、原発をつくる側が「原発の大事故は絶対に起きない」という表現をしばしば使った。これは科学の言葉ではなく、地元を説得するための方便のようなものだったが、原子力行政の中にも反映された。
 「大事故は起きない」という言葉が、これまで事故の怖さへの想像力を失わせていたのではないか。
 専門家も多くの人も、日本が技術先進国であることと一緒にして、知らず知らずのうちに、その言葉にとらわれていたと感じる。」

<井野博満・東京大学名誉教授(16日付朝日新聞)>

 「「念のため退避して」「ただちに影響はない」
 連日のように学者らがテレビで説明するが、翌日には爆発が起こったり、炉心が露出したり、事態が深刻化することが多い。「想定外」という言葉が、その想定が適切だったのかの判断も反省もなく使われている。同じ学者として情けない。
 東京電力も政府も、日々何度も説明をするが、正確な情報が足りない。爆発によって周辺の放射線量の数値が上がったと言っても、気象条件で変化するもので、上記が上空に立ち上ったときと、低く広がったときでは当然違いが出る。数値が小さいから大丈夫とは限らない。…
 これからどうなるのか。最悪の事態を含めて、それを防ぐために何をしているのか、現場を知る人間がもっと分かりやすく疑問に答えるべきだと思う。大丈夫と言いながら、起こってから説明するのでは、国民を愚弄することになりはしないか。…」

<河田惠昭・関西大学教授(14日付神奈川新聞。共同通信配信記事と思われる)>

 以下の発言は津波防波堤の効果に対する疑問に反論するものですが、原発問題にも十分当てはまるものと思います。
 「釜石の防波堤は地震マグニチュード8.5を想定したものだ。それが9.0だったから、設計波高以上の津波が来たという言い訳は通らない。そんなに余裕がないのは困るのである。…わが国では防災事業を公共事業とみなすことから、コスト重視の評価方法で安全性を切り売りしてしまっている。「無駄な公共事業はやらない」が、いつの間にか「公共事業は無駄だからやらない」と変わってしまった。だから、比較的まとまった財源が必要な防災事業は、政府も自治体も先送りしてしまっている。災害情報で命を守れても、家や財産は無くしてしまっては元も子もない。持続可能社会とは、私たちの大切なものを失わないという社会であるはずだ。だから、防災・減災の実現は哲学なのである。」

<住田健二・大阪大学名誉教授(16日付朝日新聞)>

 「長年、原子力の研究・開発に携わってきた人間として、今回の福島第一原子力発電所の事故には、何よりも国民の皆様に申し訳ないとの思いを抑えきれない。…  海水を注入して原子炉を冷却するという前例のない方法に、廃炉覚悟で踏み切ったことは、設置者の判断としては正しい。だが、判断のタイミングはいかにも遅かった。すべてが後手後手に回っている。発表はさらに遅れていた。
 2号機の燃料棒が、核反応停止から2日経った後とはいえ、数時間も完全に露出したのは、絶対にあってはならないことだ。設置者の危機管理能力の欠如が露呈した。
 …問題は、放射性物質を閉じ込める圧力容器と格納容器がどうなっているかだ。周囲の放射線量だけでは判断できないとはいえ、明らかに閉じ込め機能が瞬間的には危うくなっているといえる。2号機の圧力抑制室が損傷した可能性があるという発表があったが、おそらくそこから漏れているのではないか。容器が壊れ、内部の物質が大量に出てくるところまではいっていないようだが、非常に深刻な状況だ。…
 私は、原子力を規制する保安院が、推進する立場の経済産業省の傘下にあることが問題だとかねて主張してきた。その弊害が、今回も出てしまったように思えてならない。…東電の危機管理体制の弱体ぶりと同時に、日本の原子力安全行政の制度的欠陥という、一番心配していたことが露呈してしまった。

<長滝重信・長崎大学名誉教授(16日付読売新聞)>

 「今回の福島第一原発事故に対する東電や政府の対応には、「住民の健康が第一」という視点が欠けている。
 現場には放射線の健康影響の専門家も多く行っているはずだが、その人たちの声が聞こえて来ず、専門家ではない人ばかりが説明している。総理談話も全く中身がない。
 当初、政府はわずかな数値だけを示して「健康に影響ない」という言葉を繰り返していたが、もっと根拠のある言い方をすべきだった。数字の評価は何と比べるかで、どうとでも言える。「1000マイクロ・シーベルト」を一般人が年間に被曝する放射線量と比べて「問題ない」と言っていたが、チェルノブイリ原発事故の4年後に実施した汚染地域の調査結果と比べると、「全く問題ない」とも言い切れない。
 避難区域も、なぜ周辺20キロ・メートルとしたのか、根拠が不明だ。どんな放射性物質が、どのくらい放出されたか、風向きはどうかで、対応は全く違ってくる。…
 ミリシーベルト単位の放射線が測定されて、ようやく格納容器の破損の恐れを認めたが対応が遅すぎる。その危険性があることは、もっと早くから分かっていたはずだ。今のような状況にいたる可能性が1%でもあったなら、それを早く示した上で、どうすべきかを住民に伝えるべきだった。結局、住民を守るよりも、炉心溶融についてなるべく知らせずに済ませたいという願望の方が強かったように思えてしまう。
 あらゆる情報をすべて開示したうえで、どうすべきかを示すべきだ。もし、情報を隠した方が住民はパニックにならないと考えているなら間違いだ。隠せば隠すほど住民の不安は高まることを、過去に起きた原発事故の教訓から学んでいないのではないか。…」

<星正治・広島大学原爆放射線医科学研究所教授(16日付中国新聞)>

 15日に3号機付近で毎時400ミリ・シーベルトの放射線量を観測したことに関し、400ミリ・シーベルトの放射線を被曝するとどうなりますか、という質問に対し、
 「発がんのリスクが上がり、血液中のリンパ球が減少するなどの急性症状が起きる。広島原爆に当てはめると、爆心地から約1.6キロで被爆したのに相当する被曝線量だ。原爆の場合と違って熱線や爆風の被害はないが、とんでもない数値といえる。1986年のチェルノブイリ原発事故に次ぐ深刻さだ。
 400ミリシーベルトの数値が発表されたが、その後の細かな数値の変動は伝わってこなかった。これでは私たち専門家も判断できない。結果的に不安をあおることになる。」

<ラコスト・フランス原子力安全局局長(15日に共同通信の取材に対する発言。16日付中国新聞)>

1979年の米スリーマイル・アイランド原発事故は「レベル5」とされており、それを超える重大事故との認識。86年のチェルノブイリ原発事故はもっとも深刻な「レベル7」。局長は、15日に2号機で発生した原子炉格納容器の圧力抑制プール損傷などを受け、「事故の現状は前日(14日)と全く様相を異にする。レベル6に達したのは明らかだ」と述べた。また「原子炉格納容器は、もはや密閉された状態にない」として、放射性物質が放出された可能性に言及した。

(参考)-原子力事故の国際評価と具体例-(3月16日付中国新聞による)

レベル7(深刻な事故):旧ソ連のチェルノブイリ事故(1986年)
レベル6(大事故)
レベル5(所外へのリスクを伴う事故):米スリーマイル事故(1979年)
レベル4(所外への大きなリスクを伴わない事故):東海村臨界事故(1999年)
レベル3(重大な異常事象):東海再処理施設火災爆発事故(1997年)
レベル2(異常事象):美浜2号機蒸気発生器細管破断事故(1991年)
レベル1(逸脱):もんじゅナトリウム漏えい事故(1995年)、美浜3号機死傷事故(2004年)

2.「原発立国、岐路に」と題する16日付朝日新聞報道

「東京電力の福島第一原発の事故で、国のエネルギー政策の中心に原子力発電を置く「原子力立国」路線の見直しは必至だ。…
 「原子力は供給安定性と経済性に優れた準国産エネルギーであり二酸化炭素を排出しない低炭素電源」-経済産業省が主導してつくった昨年のエネルギー基本計画は、原発をそう位置づけ、国家戦略として着実に推進することをうたった。そして、54基稼働する原発を、2030年までに14基以上新増設することを掲げていた。
だが、今回の事故で原発の安全性に対する国民の信頼は失墜。海江田万里・経済産業相は14日夜、「被害を小さくするよう懸命の努力をしている」と国民に理解を求めたが、事態がさらに深刻になった15日は、記者らの質問に、ほぼ無言を通した。
 経産省にとって今回の事故は原発に絡む国家戦略の抜本的見直しを迫られる。例えば、エネルギー安全保障。1973年の第1次石油危機時に発電量の3%に過ぎなかった原発の割合は、08年度に26%まで上昇。中東への石油依存からの脱却や世界的な資源獲得競争の中で、同省は原発への期待感を強めていた。
 原発推進にストップがかかると、「2020年までに温室効果ガスを1990年比で25%削減」との政府目標の達成もままならなくなる。発電過程で温室ガスが出ない原発は、太陽光や風力などの再生可能エネルギーの普及とともに地球温暖化対策の柱とされたからだ。基本計画は、08年度には発電量の35%だった原発や水力、再生可能エネルギーなどの比率を、20年には50%以上、30年までに70%を目指すと掲げた。しかし、その大部分を原発が占めている。
 今回の事故で、そうした原発「依存」戦略が問われる。通産相(現・経産相)を務めたことのある与謝野馨経済財政省は5日朝の会見で「我が国の経済、我が国の国民生活を支えるには、原子力を利用していくことは避けて通れない」と語ったが、国民の原発を見る目は、以前の比ではない。」

RSS