東日本巨大地震と福島原発「事故」に関する疑問

2011.03.14

*東日本巨大地震の惨状には本当に言葉を失いますし、被災者の人たちの表情を映し出す映像にもどうにもならないやりきれなさを味わっています。私はたまたま3月18日に広島を引き上げ、八王子に戻る準備の最中ですので、定期購読の新聞を2月いっぱいで中止したこともあり、週末における情報源はテレビしかありませんでした(近所にコンビニはあるのですが、広島市の中心から離れているので、各紙を揃えて売っていないのです)。ということで、きわめて限られた(しかも偏った可能性がかなりある)情報源に基づいてでしかないのですが、きわめて疑問に感じることがいくつか浮かんでいますので書きとめておきたいと思います(3月14日記)。

1.東日本巨大地震にかかわる疑問

<「想定を越える事態」という専門家諸氏の軌を一にする発言>

 マグニチュード9.0という東日本巨大地震及びそれによって引き起こされた超巨大津波による悲惨を極める人的・物的被害について、テレビに出演している地震、津波(そして後述する原発)の専門家は、「想定を越える事態」だと口を揃えています。私は最初のうち、「ああ、そうなのか」と思って聞いていたのですが、次々と出演する専門家が判を押したように同じ言葉を連発するので、次第に違和感を覚えるようになりました。そしてその違和感の原因が何であるかについて、13日夜のNHKスペシャルに出演した東北大学の津波専門家(名前は覚えていません。) の何気ない一言で一気に分かった思いがしました。
 その専門家が口にしたのは、東北地方を襲った「869年の貞観地震」に関する古文書の記載と近年の地質調査で分かってきた事実からすると、その時の地震も今回と同じ規模だった可能性があった、という趣旨の発言でした。私が違和感を覚えた原因は、「想定を越える事態」という判で押した発言は、起こりうる事態を低く見積もってきた自分たち専門家の責任逃れなのではないかというモヤモヤ感が募ってきた結果であったということです。
そういえば、マグニチュード9.0は日本の地震史上では最大のもの、と紹介されていたときにも、私はすごい違和感を覚えていたのです。「日本の地震史上では最大級」であることは確かとしても、その同じ報道番組では、世界での超巨大地震を大きいものから順番に並べていて、今回の東日本巨大地震を「史上4位」としていました。つまり、これだけの地震国なのですから、専門家が想定するべきは世界での巨大地震の記録であるべきであり、日本で起こりうる事態について自分勝手にレベルを低く設定する何らの根拠もないということです。
確かに、過去の経験に学んで日頃の備えをしてきたからまだこれだけの被害で食い止められた、という評価は可能かもしれません(何人かの専門家が指摘していたことですし、外国のメディアではその点に注目した報道をしているものもあるようです)。しかし、3月14日付の中国新聞が掲載した共同通信配信の「識者座談会」におけるノンフィクションライター・吉岡忍氏(いわゆる「専門家」ではない?) の次の発言でやっと、私は物事の本質を直視するものすべてが考えなければいけないことの指摘の一端を見る思いがしました。

「被災者は単に弱者ではなく、必死に生き延びようとする当事者だ。それへの敬意を持ちながら、彼らをどう救援するか。生命財産だけでなく、彼らが生きてきた漁村の歴史、文化まで失うところに直面している。そこに対する救援対策は日本は全然ない。」

専門家諸氏よ、自らの責任を直視せよ。「想定を越えた事態」という表現で責任逃れをするのは許されないことを痛切に自覚せよ。これが、私の素朴な違和感が明確な疑問に変わったいまの結論であり、問題提起です。

<政治を「司る」ものの行動>

 私たちにとっての最大の不幸は、政治を「司る」能力のないものたちがいまの日本の政治を動かしていることにあるわけですが、東日本巨大地震に直面した日本はまたしてもその不幸を味わわされている、というのが地震発生以来の永田町、霞ヶ関の動き、そしてその動きについて報道する第4の権力・マスメディアを見ていての私の偽りのない実感です。「想定を越える事態」という隠れ蓑は、上記の専門家諸氏だけではなく、政官財(日本の政治を担っているはずのものたち)によっても乱発されていますし、マスメディアも鵜呑みにして垂れ流しています。私の記憶にとどまっているいくつかのものを順不同に並べておきます。
-地震発生後、今になっても被害の全体像すら把握できないというお粗末さ。被災地に取り残されている人びとの実情もつかめないなんて、どうなっているのでしょうか。救出、救援体制も本当に泥縄式という印象を強く感じずにはいられません。よほど痛切に教訓を汲みとらないと、今後必ず起こるであろう東海地震や南海地震に際しても、同じお粗末さが繰り返されるだけでしょう。しかし、今の政治担当者を見ていると絶望的な気持ちになります。
-菅首相は、12日にヘリコプターで福島原発「事故」(カギ括弧を使っている理由は後述)を視察しましたが、その後にヘリコプターに乗ったままで被災地を「視察」してそのまま東京に戻ってくるというお粗末さ。私がその時思い出したのは、あの史上最低の大統領と言われたブッシュですら、9.11が起こった後に現地に入って人びとを激励したことでした。そう言えば、菅首相は記者会見をしても一切質問に応じようとしないのも異様です。
-党首会談で自民党の谷垣総裁が事態に対応するための財源として「増税」を提案したという異常を極める感覚、問題意識。この人の頭の中にあるのはお金のことだけで、私たちがどのような思いでいるか、あるいは如何にしたらこの困難を国民的に乗り切ることができるのかという発想のひとかけらもないのではないかと思わされました。
-東京電力の「計画停電」という名の無計画停電の暴挙を追認するだけの政府のお粗末さ。たちどころに明らかになったように、公共交通機関までがストップし、ATMの稼働に支障が生じ、医療機関の正常な医療活動にも支障が出るということは、要するに東京電力の都合(供給電力量が需要量に見合わない)だけで物事が決まっており、その結果起こる事態にどう対応するかについてはまったく住民へのしわ寄せで知らぬ顔、という政府の無定見、無能力がさらけ出されています。しかも「計画停電」初日の大混乱ぶりにはもはや怒りを通り越して、あきれてものも言えません。

<秩序ある国民の沈着な行動?>

 中国のメディアでは、今回の事態に際しても日本人が沈着冷静に秩序ある行動をしていることを賞賛していると報道しているということです。「秩序ある日本人」というイメージは以前から中国のメディアが時に触れて強調することです。それは、類似の事態が起こったときに、政府当局にくってかかる中国人が多いことに手を焼く経験をもつ中国政府やメディア、という事実を踏まえたときに、はじめて「そういう受け止め方もあるか」と理解できることです。それはそれで一つの受け止め方かもしれませんが、私が強烈な違和感を持ったのは、そういう報道をされていることを紹介する日本のメディアが、中国側の評価を額面どおり真に受けているということです。
 私の受け止め方は、ある意味まったく逆です。私にいわせれば、権力に対してくってかかり、もの申す中国人の方がはるかにまっとうな人権感覚(中国人的には「人権」という形では理解・認識されていないでしょうが)を持っているのであって、以上に述べたようなお粗末を極める対応しかしない日本の政治を「司る」面々に対して何ももの申さず、ただひたすら「お慈悲」を待つだけの日本人は要するに尊厳・人権・デモクラシーの何たるかをまだ我がものにしていないことを再確認させるものなのです。そういう日本人だからこそ、いつまでも日本の政治はよくならないとも言わなければならないのだ、と私は強く思います。ほかの国だったら政治のていたらくに対して「ノー」が突きつけられなければおかしい状況があるのです。その状況であることを自覚せず、立ちあがることもできない私たちを相手にしていられるからこそ、政官財の「エリート」たちはいつまでも安眠を貪り、私利私欲に走り続けているのです。私は今回も、日本の政治の貧困の根本的な原因は主権者である私たちの政治的な未熟性・未自覚性にあることを再確認せざるを得ない思いでいます。

2.福島原発「事故」

<「事故」?>

 原子力発電(原発)に関する重大な問題点(素人の私でも挙げられるのは、核兵器の原料になるプルトニウムを副産物として生み出す原発であるということ、放射性廃棄物の処分の可能性は放射能の持続性から言ってほぼゼロ、そして地球は動いている以上立地的に安全な場所はあり得ない等々)は多くの良心的な人びとによる指摘、警告があったにもかかわらず、日本の政官財の「エリート」たちは原発の安全性を強調して野放図に建設を推進してきました。特に日本製原発は高度な安全基準を満たしているのだから問題が起こることはあり得ない、という宣伝が幅を利かせてきたのです。そこに起こった福島原発一号機及び三号機の爆発でした(二号機についても14日の今日、緊急事態宣言が出されました。)が、東京電力や政府そしていわゆる「専門家」は、ふたたび未曾有の津波という「想定を越える事態」によって起こってしまった「事故」と言い抜けようとしているわけです。しかし、原発が抱え込んでいる重大な問題点を正確に踏まえているのであれば、今回の問題は正に起こるべくして起こった事態であると言わなければなりません。「事故」であるわけはないのです。
 私は、チェルノブイリと同様なことが起こらないことを心から願いますが、電力会社(プラス原発製造会社)、政府及び電力会社・政府の旗振り役を務めてきた「専門家」諸氏に対しては、これまで国民をだまし続けてきた事実を率直に認め、このような事態を引き起こしてしまった重大を極める責任について明確に謝罪し、これまでの原発推進政策を徹底的に再検討することを約束することを要求します。そのことが、今回の事態を受けての最初のステップとならなければなりません。

<「原子力平和利用」神話>

 そもそも原発が大手を振ってまかり通るようになった出発点は、原爆を開発したアメリカ(アイゼンハワー政権)が、原爆による「キノコ雲」のイメージを払拭するために世界規模で推し進めたatom for peaceキャンペーンでした。「原子力平和利用」の最大手が原発だったというわけです。そのキャンペーンのすさまじい威力については、原爆を投下された広島においても早い時期から「原子力平和利用」ということを無条件に受け入れてきてしまった(例えば、1951年に出版された長田新『原爆の子』は原爆の悲惨さを訴えた最初期の作品ですが、その中で長田自身が原子力の「平和利用」を無条件に肯定しています。それは、アイゼンハワー政権の世界規模のキャンペーンよりも前のことです。また、1956年に結成された日本被団協の結成宣言でも、「破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向わせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」と述べているぐらいです。1959年に出版された今堀誠二『原水爆時代(上)』も、核兵器の廃絶を説きながら、原子力の「平和利用」については無条件で肯定しています。) ことにも反映されているのです。
 原発安全神話は、こういう歴史的経緯を利用しながら推進されてきたものであることを、私たちはいま一度再確認するべきだと思います。つまり、原子力は安全だという主張は、優れて政治的な必要に基づいてつくり出されたきわめて意図的なものであり、何ら客観的な科学的根拠に基礎をおくものではないということです。

<政府の対応>

 政府の初動段階での異常な対応の遅さ、その後の枝野官房長官の記者会見での「奥歯に物が挟まった」としかいいようのない曖昧な発言ぶり、東京電力の「計画停電」に対する"迅速を極める"対応ぶり、いずれを取っても「何かある」と感じるほかないものがあります。先ほど紹介した共同通信配信の「識者座談会」でも、京都大学原子炉実験所の宇根崎博信教授が次のように発言しています。

 「(政府の)情報発信が不十分だ。本当のことを隠しているのではないかと疑われても仕方がない内容だった。」

 他の箇所での同教授の発言はともかく、この発言はおそらく私たち多くの疑問を的確に反映していると思います。要するに、民主党政権は信用できないということが今回においても確認せざるを得ないということであり、民主党政権は国民に真摯に向きあうのではなく、政官財の一翼でしかない、ということです。

<メディアの報道姿勢>

 私が強い違和感を覚えたことは、メディアは今回の事態を「事故」として徹底して報道していること、しかし、放射能漏れという事態に対して、あたかも地震・津波の大惨劇と同レベルの大きな比重を置いていること、というちぐはぐさでした。このちぐはぐさは何に原因するものなのか考え込まされました。
 一つ確かであろうことは、1954年の第五福竜丸事件以来の国民的な放射能に対する恐怖感が今日もなお底流として根強く存在していなければ、このような報道ぶりにはならないだろうということです。逆に言うと、国民的な反核感情はやはり政官財及びマスメディアの「エリート」としても無視できないほどになおしっかりした根を張っていることだと思います。
 しかし、問題の本質に迫ろうという気配すら感じさせない報道ぶりには、非核三原則を言いながらアメリカの核抑止力に依存することを肯定する、あの二重基準と同質なものを感じないわけにはいきません。このような報道姿勢を改めるメディアでなければ、結局は「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ことになってしまうだろうと思います。しかし、日本のマス・メディアの権力との一体化・癒着構造を考えるとき、その自浄作用に期待するのはほぼ絶望的であり、よほど私たちが声を大にしてその問題点を厳しく追及しないと展望は開けないでしょう。

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