孫娘から学んだこと

2011.03.13

*全国障害者問題研究会(全障研)の「全障研第46回全国大会広島」(2012年8月開催予定)の準備委員会が3月13日に開かれ、名前だけの大会準備委員会準備委員長を承る羽目になっている私に何か話してほしいという求めを断り切れなかったこと、しかしせっかくのことなので、この広島における6年間の自分にとっての孫娘(ミク)についてきちんと整理して考えておくべきではないかとも思い直したこと、で次のような原稿を準備してお話しすることにしました。一つの区切りとして載せておきたいと思います(3月13日記)。

<強い反省>

ミクのことについてお話しすることを求められるときに、いつも感じる戸惑いとためらいがありました。
ミクを「話題」にすること自体がミクの尊厳に対して土足で踏み込むことではないのかということです。ミクが知ったら、おそらくいやがることであるに違いないのです。それは、私自身が自分自身のきわめて私的な部分にかかわることについて話すことには大変な抵抗感があることを考えれば明らかなことです。ミクのことについて語るかどうかを決める権利があるのは本人自身であって、祖父でしかない私がしゃしゃり出る資格・権利はないのです。
しかも、私がミクのことをどれだけ理解しているというのかといえば、まったく無知に等しいのです。ミクのことを理解して話すことができるものがいるとすれば、それはミクの母親であり、私の娘でもあるのりこ以外にないでしょう。
また、「ミクについてお話しする」ということは、「ミクが障がいを持っている」ということがなかったならば通常であればあり得ないことなのですが、ミクが自分の障がいについて「なぜ自分が?」という疑問の気持ちを抱いて向きあっていることが分かっているのに、そのようなミク自身にとって重い問題を私が軽々しく取り上げるというようなことは許されないことだと思うのです。
ミクは、早い時期から「なぜ自分が?」と常に考えてきていることは、のりこから聞いてきました。ミクは、早くも小三の始めの時に新一年生から自分が「小さい」ということを言われて、家に帰ってからのりこに「小さいのイヤだ」と泣きながら訴えたことがありました。小六になってからはもっとまっすぐに自分を見つめていることを窺わせる出来事が2回、のりこの話から理解することができました。一回は、自分のことを「かわいそうね」と言ったのりこの友達(大人)に、「かわいそうじゃないよ」と抗議したというのです。もう一回は、小六である自分が「赤ちゃんみたいね」と言われていることについて、自分自身の指芝居を通じて見つめている姿でした(のりこのブログで詳しい描写があり、私も「ミク」のページで再録しました)。これらのことから分かることは、ミクがいつも自分自身のことについて向かい合っているであろうということです。常々他者感覚の重要性を語り、他者の尊厳を重んじているはずの私が、上記のことが分かっているのに「それでもなおお話しする」という自分はどう見ても重大な矛盾があるし、そんな私に他者感覚を語る資格はないと思います。

<「障がいという問題」について語る資格がない私>

「障がいを持っているミクの祖父」というかかわりから、「障がいという問題について何か話す」ことを求められるときにいつも感じる戸惑いとためらいもありました。
私は「障がいを持って生まれたミク」のことについてはいつも頭の中のどこかで考えている自分を意識していますけれども、「障がいという問題」についてはまったくの素人であり、何も語る資格はないことも自覚しています。そういう私に「何か話すように」と求められるとき、私に誘いをかけてくださる人たちは、私に何を話すことを求めておられるのか、何を話せばその人たちは納得してくださるのか、私の心ない発言がその人たちの気持ちを傷つけたりすることはないのか、といつも考える自分がいるのです。
そもそも、私にこういう求め・依頼が来るようになった発端は、私が自分のホームページで「ミク」のページを設けて折々のミクとの出来事を書くようになったことが全障研『みんなのねがい』の編集者の眼にとまり、私がその誘いで1年間(2007年4月号~2008年3月号)の短い連載のエッセーを書くことに応じたことにあると思います。そもそもの私の間違いは、この誘いに深く考えもせずに応じたことにあるのではないかと思うのです。なぜならば、ホームページでミクのことを記すのはあくまで私個人の気持ちをプライベートに記すことに主眼があったからです。その点について、私は「初心」を次のように述べていました。

「私も、ミクとのふれあいについて、ときおり心に残ったことを書き残しておきたくなりました。ミクのことについては、のりこが詳しく紹介していますので、私 が何かを書くのはまったく自己満足にすぎないのですが、それでも、祖父の目から見たミク、という角度があっても害にはならないでしょう。題して「ミクとイエイエのぺージ」です…。お孫さんがおられる方や、障害を持っているお子さんが身内におられる方で、少しは関心をお持ちの方はのぞいてください。」

しかし、『みんなのねがい』にエッセーを書くということは、私が好むと好まざるとにかかわらず、ミクのことをパブリックな形で持ち出すという意味を持たざるを得ないわけです。仮に私自身がそうは思わなくても、読者はそう受けとめる可能性があることを私は認識するべきでしたし、私はその点を明確に認識した上で、書くことに応じるかどうかを考え、そして今から思えば、お断りするべきだったと思うのです。ところが私はそこまで深く考えずに書くことに応じてしまいました。たしかに書くことにためらいは感じました。しかし、その「ためらい」の意味を深く掘り下げなかったのです。
しかも私はさらによく考えもしないで「深入り」していってしまったのです。私は外務省で多国間条約の締結事務を担当する国際協定課の課長を務めたことがあります。国際人権規約の批准についての国会承認事務も担当しました。私が広島に来てから、障害者権利条約が2006年12月に採択されました。それがきっかけとなって、多国間条約である子どもの権利条約と障害者権利条約という二つの条約について、私は障害児であるミクとのかかわりという視点から「研究」してみたいという興味を持ったのです。しかし、それはあくまで障がい問題に素人の私の生半可な問題意識にすぎません。ところが私は、自らの分・身の程を弁えず、これらの条約についてお話しする求めにも応じるようになってしまいました。本当に分不相応な領域にまで足を踏み入れてしまった、と今は赤面の至りです。

<ミクに分かってもらいたいこと>

他方で、ミクが私にとって、年とともに重みを増す圧倒的な存在であり続けてきたことは間違いありません。
なによりも私自身にとって大きいことは、ミクがいなかったならば、今の私の物事に対する視点・まなざし、他者感覚、人間の尊厳を核とする普遍的価値にかかわる確信、「力によらない平和観」、要するに私を私であらしめているものに至ることはおそらく不可能だったということです。のりこが時々「ミクがいなかったら今の私はあり得ない」と口にすることがありますが、のりこには遠く及ばないことを自覚しつつ、私も「ミクがいなかったら今の自分はあり得ない」と実感していますし、ミクが私の孫娘として生まれてきてくれたことに感謝、感謝の気持ちです。おそらく、ミクにとってははた迷惑なことでしょうけれども。
特に、私が人間の尊厳という普遍的価値を自分の身体の一部のように我がものにし得たのは、ミクの存在を抜きにしては考えられないのです。先ほど「ミクの存在の大きさ」と言いましたが、それは優れて「障がいを持っているミクを通じて人間の尊厳ということについて真正面から考えることができるようになった」ということです。
たしかにミクが生まれてくる前から、頭の中では「人間の尊厳」という普遍的価値を考え、理解しようとしてきた自分はいました。しかし今にして思えば、それはしょせん観念的な次元であったにすぎず、人間の尊厳という価値が私の「身体の一部になっていた」わけではありませんでした。
誤解を恐れずに申し上げれば、ミクが障がいを持って生まれてきたからこそ、私は人間の尊厳ということの意味について真正面から向き合う機会を客観的に与えられたのだと今にして思います。それにはたしかに時間は必要でした。ミクが先天的な障がいを持っていることを2001年11月26日に宣告されたときには、「なぜミク(という自分の孫娘であるという人間存在)が障がいを背負わなければならないのか」と嘆く気持ちに襲われました。また、ミクが障がいを持って生まれてきたという事実を素直に受け入れることができないで、ミクを不憫にしか思うことができず(今でもミクが自分の「小さいこと」と向きあっているということが私の胸を締め付けることがよくあります)、くよくよしていました。その後も、ミクが重い病気になったときなどは、浅はかにも、また、これほどミクの尊厳を冒とくすることはないのですが、「ミクが大きくなって、自分の障がいについて思い悩むようになる前に亡くなった方が幸せなのかもしれない」とすら考えたこともあります。私は2002年5月に突然鬱になりました。原因はハッキリしないのですが、振り返ってみれば、ミクの障がいがハッキリしたことと無縁とは言えない気がします。
しかし、広島に来る前まで時間さえ空きさえすればミクに会いに行っていた私の中で、ミクは確実になくてはならない存在になっていきました。広島勤務の話があったとき、私が一番ためらったことはミクと離れなければいけないということでした。私の気持ちが他者の存在によってこれほど影響されたことはありません。そしてミクを通じて、人間の存在にとって障がいがあるということはどういうことなのかをいつしか考えるようになっていきました。分かってみれば「コロンブスの卵」なのですが、ミクに障がいがあるかないかは私のミクに対する気持ちにとって何の意味も持たないことが私のハッキリした認識として座るまでには、それほど時間はかかりませんでした。それどころか、ミクが存在してくれていること、そのことが私にとってとにかくかけがえのないことだということがはっきり分かってきました。しかし、そういうことを私に考えさせてくれたのは、ミクが障がいを持っていたからこそだったことを改めて確認しなければなりません。
ミクは、いろいろなことを考える材料も与えてくれます。二つだけ例を申し上げます。ミクと一緒に街に出かけると、必ずと言っていいほどどこからも違和感を覚えずにはすまない視線を感じます。それは、ミクが日々常に感じているに違いないあの視線です。日本人社会は、なぜそういう視線を向けなければ気が済まないのでしょうか。異質なものを異端視し、排除しなければ気が済まない日本社会独特の空気。このことも私の問題意識を深めさせてくれました。この空気は、人間一人ひとりの尊厳が承認される社会ではよどむ余地もないものです。しかも、ミクと一緒にいなければ、私はおそらく感じることがないままにいたでしょう。そんな私は、人間の尊厳という問題に対して活発に脳を働かせることもなかったに違いありません。ミクには迷惑な話でしょうが、私が人権感覚を研ぎ澄ませるようになり、人間の尊厳ということにこだわりを持って考えられるようになったのは正に「ミクのおかげ」なのです。
もう一つの例は、私が皆さんとのつながりを持つことができたのもミクのおかげであるということです。私は、広島での6年の間、きょうされんや全障研とのつながりを持つことができましたが、これもある意味ではミクのおかげです。『みんなのねがい』に短文のエッセーを連載していなかったならば、こういう縁はもたらされなかっただろうからです。冒頭に述べましたように、ミクには申し訳ないことをしたのですが、私の考え方が大いに膨らみ、私なりに良い方向で充実したということで、ミクにも許してもらえるような気はしています。

<これからのミクと私>

私が広島にいた6年間はちょうどミクが小学校生活を過ごした時間と重なります。私が東京・八王子に戻ってすぐ、ミクは小学校の卒業式を迎え、4月からは中学校に入ります。私が18日に八王子に戻ろうと決めたのは、24日にミクの小学校の卒業式があるからです。またミクの中学校に関しましては、ミクの希望を第一にして八王子市教委と真っ向から渡り合ったのりこの頑張りもあり、ミクは特別支援学校ではなく一般の中学校の特別支援クラスに入学することになっています。のりこは必ずしもこだわっているわけではないのですが、ミクが希望したから、ミクの尊厳と人権を第一に頑張ったのです。そんなのりこを、私は親子関係を離れて賞賛したいし、誇らしく思っています。
私のささやかな願いは、ミクの中学・高校の6年間、何とか元気な体調を維持して、ミクとのりこが必要とするときになんらかの役に立ちたいということに尽きます。足手まといになるようなことは絶対に避けなければならないと戒心しています。しかし、私の体は、広島生活の最後の2年間でずいぶんがたが来てしまいましたので、私の希望どおりには事が運ばない可能性も覚悟しておかなければならないとも感じています。
ミク自身は、ゆっくりとではあるし、あくまでマイ・ペースででしょうが、しっかりとした歩みを示してくれるだろうと思っています。ミクの障がいの原因であるMOPD-Ⅱ(小頭性骨異形成性原発性小人症)の患者で20歳を大幅に超えて生存しているケースは報告例があまりないということですので、いつ何が起こっても覚悟しておかなければならないのですが、正直そういうことは考えたくない自分がいます。のりこも今年には40歳になるのでだんだん無理が利かない身体になるでしょうし、それも大きな心配です。のりこが倒れるようなことになったら、ミクのことをケアできるものはいないからです。日本の福祉政策の絶望的な貧困、さらにいえば政治自体の救いのなさを考えますと、本当に気持ちが暗くなるのですが、革命的楽観主義で気持ちを奮い立たせていくしかない、と思っているところです。

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