中東情勢から学ぶこと

2011.03.02

*私は中東情勢にはまったく土地勘もなくまったくの門外漢ですが、2011年に入ってからの中東諸国での情勢の変化には非常に大きな関心を持っています。私の主要な関心は、これら諸国での民主化を求める動き及びそれに対するアメリカの対応から、日本人である私たちが日本の政治を真に民主化していく上で学び、参考とするポイントが少なくないのではないかということです。中東諸国での情勢がどのように展開するかについては、物事はまだ始まったばかりで成り行きを見通すことはできません(私にはその能力がまったくありません。) が、少なくともいくつかの点で私たちが学び、考えるべき点を指摘することができるのではないかと思うようになりましたので、それらの点をまとめて整理しておきたいと思います (3月2日記) 。

<マグマの所在・蓄積及び噴出>

 中東諸国(イスラム世界あるいはアラブ世界とも)においてはデモクラシーの実現は考えにくい(イスラムとデモクラシーとの間には親和性が乏しい)という説明が私の耳にはよく入ってきた記憶があります。門外漢の私には、「そういうものなのか」と半信半疑で受けとめるしかありませんでした。しかし、イランで起こっていることは「イラン式の民主化模索の動き」として捉えるべきではないのかという問題意識が常に私の頭の中でうごめいてきたことは、これまでにこのコラムでも指摘してきたことがあるところです。それは、中国において起こっていることをやはり「中国式の民主化模索の動き」として捉える可能性を考える私の中での頭の働き(デモクラシーは普遍的価値であるけれども、その現れ方には多様な顔があり得るという確信)と軌を一にするものでした。
 そういう私自身の思考の素地を前提にするとき、チュニジアに端を発する中東諸国での人民の民主化を求めるエネルギーの噴出に接したときに受けた第一印象は、とんでもない事態に出くわしたときに感じる驚愕という種類のものではありませんでした。むしろ人権・デモクラシーそしてその根源にある人間の尊厳という普遍的価値の実現を求める本源的な要求というのはさまざまな特殊的な要因の働き(妨害)を乗り越えて発現するのだな、という納得感でした。
 後追いで考えれば、米ソ冷戦の終結後のアメリカ発の新自由主義・グローバリゼーション(世界経済のマネタリズム資本主義による一体化)の流れが中東諸国をも襲い、ごく一部の特権層の富裕化の陰で大多数の人民の絶対的貧困化を招いてきたことが、広範な人民の間で現状変革を求めるマグマを蓄積させてきた結果であると理解することができます。そのマグマは、「ソ連の崩壊=社会主義の敗北=資本主義の勝利=アメリカ式デモクラシーの勝利」というそれ自体は短絡的で誤った認識が中東諸国における「独裁政治への不満」と結び付いて「人権・デモクラシーの実現」を求めるエネルギーとして噴出した、と大枠では考えることができるのではないでしょうか。
 私たちにとって決して他人事ではないのは、1980年代の中曽根政治に端を発し、2000年代の小泉政治で極端にまで走った新自由主義「改革」が日本においてもごく一部の特権層の富裕化の陰で大多数の人民の貧困化を招いてきたという厳然とした事実があることです。つまり、日本においても中東諸国と同じマグマの所在・蓄積が客観的にあるということです。
 もちろん、独裁政治が支配してきた中東諸国と曲がりなりにも人権・デモクラシーが保障されている日本とではまったく事情が異なり同日に論じることは見当はずれも甚だしい、という反論が直ちになされるでしょう。しかし私は、戦後の日本においては制度としてのデモクラシーは形式的には整えられたかもしれないけれども、それは「仏作って魂入れず」であり、実態は主権者不在の政財官癒着の集団的独裁政治(?) であったと判断していますし、個人による独裁政治ではなかったための見にくさはありますが、人権・デモクラシーそしてその根源に座る人間の尊厳の実現が求められている点で、日本の状況は本質的に中東諸国におけるとあまり違いがないのではないかと考えます。個人的独裁ではない集団的独裁という見にくさを克服するとき、日本においても人権・デモクラシーの実現を求めるエネルギーの噴出が起こる歴史的な可能性、必然性は確実に存在すると思います。

<「引き金」及びエネルギー噴出に関する予測困難性と確実性>

 私がさまざまな学習会などに伺うときにしばしば接する疑問、質問の一つに、「どうしたらいまの日本を変えることができるのでしょうか」というものがあります。私が中東諸国での事態の展開を目の当たりにして改めて実感したことは、物事の変化を生み出すきっかけとなる「引き金」の高度な偶然性ということであり、人民のエネルギーがいつどのような形で噴出するかは本当に誰にも分からないということでした。おそらく、チュニジアで自殺した青年は、自分の行為がその後の事態を生むとは予想すらできなかったでしょう(予想できていたならば自殺することを思いとどまった可能性が十分にあります。)。しかも、青年の自殺ということがなかったならば、果たしてその後のチュニジアでの事態の展開が起こっていたかどうかも分からないわけです。歴史の必然性と偶然性という関係を、私は改めて思い知らされた思いがします。それは、1917年のロシア革命の必然性を科学的に予見したレーニンが、しかし、それがどういうきっかけでいつ起こるかについては分かり得なかったという史実をも思い起こさせるものでした。
 しかも中東諸国における事態の進展が新しいネット媒体によって仲介されたということも、物事の予見困難性を私としてはさらに感じさせられることでした。私がとりわけ強く感じたのは、やはり私のような年取ったものの感覚で物事を推し量ることにはそもそも致命的な(越えられない)限界があるということでしたし、やはり若い世代の私などでは想像を超えるフレッシュな感覚がダイナミズムの源泉であるということでした。よく言われるように、「若い人は何を考えているのか分からない」ですし、それは往々にして批判的な意味で言われることですが、今回の中東諸国での事態の展開がマザマザと示しているのは、そういう若い人びとの私たち老人では予期し得ない行動が正に「世の中を動かす原動力」となるという事実です。
 私も日本の若い人びとが内向的な傾向が強く、社会的不正義に対して敏感でないと感じることがままあります。しかし、すでに述べたように、日本社会にもマグマは十分すぎるほど蓄積されていることはたしかですし、そういう意味で日本が変わらざるを得ない客観的条件にあるわけですので、私としては、日本の若い人びとが中心となって日本を変えるエネルギーを噴出させるときが来ること(それは歴史的な必然であることは間違いありません。) に期待を寄せたいと思います。

<大衆社会状況における民主化という難題>

 同時に、丸山眞男がつとに指摘しているように、大衆社会状況においてデモクラシーを如何にその真の姿において具現化するかという問題はいまだ答えが見つかっていない難題です。ワイマール憲法下のドイツで民主的な選挙を通じてヒトラー(ナチス)が政権を簒奪したように、また、1950年代のアメリカで反共のマッカーシーイズムの嵐が吹き荒れたように、マス化した社会における人民は往々にしてモブとして行動することがあるわけです。そういう意味では、中東諸国の動きについても手放しの楽観が許されるわけではありません。まして、民主的な市民社会という過程・経験を経ていない中東諸国の人民の場合には、人権・デモクラシーの実現という課題の困難性はより大きいと言わなければならないでしょう。
 私は、日本における状況も相当程度において中東諸国と似た状況にあると思います。先ほども述べたように、制度としてのデモクラシーは「導入」されたとしても、理念、運動としてのデモクラシーは、戦後65年が過ぎたというのに、相変わらず未成熟なままです。政治的な「市民」という名に値する人民は現れてはいますが、日本社会全体を取ればまだ圧倒的に少数派ですし、したがって「市民社会」と呼べるだけの実体は日本においてはまだ成立していないと言わざるを得ません。しかも、これまた丸山が何度も指摘しているように、「権力の偏重」という病弊を抱え込んでいる日本社会の場合、ますます人権・デモクラシー実現のハードルは高いものがあるのです。私たちが「独裁政治に苦しめられてきた中東諸国」などといった同情心で傍観者的に眺めるということにとどまるならば、それはとんでもない「了見違い」ということになります。

<方向性・進路提示・リーダーシップの重要性>

 私が、中東諸国における動きを見ていて、一つだけ日本とはちがうなと感じることがあります。それは、極端な言い方かもしれませんが、中東諸国の場合は人権・デモクラシーの実現という課題・目標への道は正に「ゼロからの出発」であるのに対して、日本の私たちには日本国憲法というこれ以上ないどっしりした依拠するに足る方向性・進路を具体的に示す座標軸を持っているということです。先ほど、大衆社会状況でのデモクラシーの実現はいまだ答えが見つかっていない難題といいましたし、日本国憲法が大衆社会状況に即した日本のデモクラシーの方向性・進路を提示していないことはそのとおりですが、しかし、人権・デモクラシーそしてその根源に座る人間の尊厳の本質は日本国憲法の土台としてしっかりあるわけですから、私たちの場合は、その本質を如何に大衆社会状況という現実の中で具現化するかという課題に取り組めば良いという好位置にあるのです。

<暴力装置(軍隊・警察)その他の伝統的権力機構の去就>

 エジプトでは、警察・治安系統は腐敗した権力機構の一部であったのに対して、イスラエルと中東戦争を戦った軍隊が人民の間で信頼を得ており、ムバラクを追放した後の暫定的権力機構として機能することが人民の間で許容されていると伝えられています。リビアの場合は流動的ですが、正規の軍隊が反政府派に合流するという動きも伝えられています。
 私たちとして考えなければならないのは、私たち主権者である人民(国民)が日本の政治を変えるべく行動するときに、警察機構・自衛隊さらには官僚機構、経済界が少なくとも中立を維持することを確保しなければならないという課題です。もっともこの問題を考えるに当たっては、最近出版された金大中の自伝である『金大中自伝Ⅰ 死刑囚から大統領へ』『金大中自伝Ⅱ 歴史を信じて』という格好の材料があります。私も読みかけたばかりですが、中東情勢の動向に注目しつつこの2冊を読むということで、伝統的権力機構の問題について考える上でより豊かな視点が得られるかもしれません。

<外的要因(特にアメリカ)>

 中東情勢及び韓国の民主化のプロセスを考える上で忘れてはならないのはアメリカの動向です。金大中の大統領就任時にアメリカの大統領であったクリントンは金大中に対して全面協力を約束しましたが、中東情勢に対処するオバマ政権の動きについては要注意です。エジプト及びリビアの人民の行動を支持することは明言していますが、エジプト軍に対する働きかけを強め、また、カダフィから離反した軍隊などに近づこうとしているオバマ政権の動きは単純にこれら諸国の人民の行動を支持するという動機だけに出るものとして理解するだけでは足りない要素の存在がちらつきます。なんといってもアメリカの中東政策の中心にあるのはイスラエルであり、資源としての石油であることは間違いないところです。アメリカの利益に合致した方向でのソフト・ランディングを誘導したいというのがホンネであることは間違いありません。
 アメリカの世界戦略にとって死活的重要性を持つ日本に対するアメリカの関心も単純ではあり得ないことは、すでに民主党政権誕生からのオバマ政権の対日働きかけを見れば明白です。この点では、それなりに明確な政治哲学を持って行動した金大中が存在した韓国とアメリカとの関係というケースよりも、まともなリーダーシップが存在しないために将来が見通しにくい中東諸国の情勢にアメリカがどのように関わっていこうとするのかということを観察する方が、政治的貧困を極める日本の私たちにとってケース・スタディとしては学び、分析する価値が大きいと思われます。

RSS