広島離任インタビュー(3)

2011.02.23

*広島離任を前にして、朝日新聞広島支局から申し出があって、平和問題に関して連続3回のインタビューに応じることになりました。第3回目のものが2月23日付の広島版に掲載されましたので、ここにも載せておきます(2月23日記)。

広島に来る前、「思い込み」があったとか

私の以前の広島のイメージは、大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」(1965年刊)の域を出ていませんでした。広島には熟考、整理された「平和思想」があると。しかし広島に来てから「どうも違う」と思うようになりました。いくら皮をむいてもこれといった思想の芯が見えてこなかった。舟橋喜恵・広島大名誉教授は「広島は疲れている」とおっしゃる。「ああ、そうか」と思い始めました。

なぜでしょう

60年代初めまでの広島には、佐久間澄(きよし)、今堀誠二、森滝市郎ら、広島大を中心にした知識人グループがいました。しかし63年に原水禁運動が分裂し、彼らも政治の波にのみ込まれました。詩人の栗原貞子は発言を続けましたが、孤立していました。要するに、広島発の平和思想を展開する営みが継続しなかったのです。栗原が批判したヒロシマ・ノートがいまだ広島のバイブルとされる状況が、問題を象徴しています。

平岡敬・元広島市長は昨年1月6日付の当欄で、冷戦終結後、広島の核の悲惨さの訴えが世界に届きにくくなった、と指摘しました

社会主義国の核保有を認めるかどうかで分裂したように、原水禁運動では「原水爆は絶対悪」とする広島、長崎の視点が正統の地位を占めませんでした。運動分裂後の広島の平和運動はもっぱら被爆者団体に「おんぶにだっこ」。訴えも念仏のような「ノーモア ヒロシマ」になってしまった。戦争・平和の問題を総合的にとらえ、核廃絶もその不可分の一部と位置付ける根本的視点が欠落していました。

県被団協も二つに分かれたままです

両団体の会員を合わせても県内の被爆者の1割強にとどまります。原水禁運動分裂のあおりで両被団協に分かれた歴史にとらわれず、多くの被爆者が背を向けている現状を早急に打開すべきで、統一は急務です。また例えば、呉や福山の空襲被害者が国の援護を求めている運動に、被団協の豊富な経験は大きな貢献ができるはず。両団体には「死中に活」を求めたい。

土山秀夫・元長崎大学長は1月12日付当欄で、広島では分裂を乗り越える動きが実を結ばなかったと指摘しました

長崎では60年代後半、鎌田定夫や秋月辰一郎ら、市民主体の「長崎の証言の会」の粘り強い活動が始まります。これに注目した本島等市長が80年から、平和宣言文起草委員会に有識者や被爆者らを起用しました。次の伊藤一長市長も長崎での世界NGO会議を提案し、2000年に実現した地球市民集会ナガサキに対し、「金は出すが口は出さない」と市民に全権を委ねた。証言の会の動きが底流にあったからこそ、行政、市民、既存の諸組織が一体になった取り組みができるようになったのです。これが広島との違いを生んでいます。

一方、広島はこの12年間、秋葉忠利市長の下で行政主導の運動に力を入れてきました

秋葉さんの平和行政には二つの点で根本的な問題がありました。一つは、日本政府の核政策に対し正面からもの申す姿勢がなかったこと。「非核三原則を守る」と言いながら米国の核の傘(核抑止力)に頼る、という矛盾きわまる政策を批判し、変えさせることが広島、長崎の使命です。秋葉さんが核廃絶をどこまで突き詰めて考えていたか、私には極めて疑問です。

もう一つは

米国へのスタンスです。オバマジョリティーという言葉に秋葉さんの米国頼み、他力本願の発想が表れています。米国が核に固執する政策をなぜ維持できるのか。それは、日本政府の対米追随をいいことに、広島、長崎への原爆投下は正当で、従って将来も核兵器使用はありうる、とする立場だから。広島、長崎は「原爆投下はいかなる理由でも正当化できない」ことを主張し続けなければ、米国に核政策の根本的見直しを迫ることなどできません。米国は、オバマジョリティーを言う広島を抱きしめたいくらいでしょう。

秋葉氏は「報復ではなく和解を」が持論でした

これは議論のすり替えです。誰も米国を暴力でやっつけたいわけではない。しかし米国に「原爆投下は間違いだった」と認めさせなければ、何も始まらないんです。「とにかくオバマさんに広島に来てほしい」では、「核政策を変えなくても目をつぶる」と白紙委任状を与えることに等しく、核兵器廃絶を目指す広島の自己否定と同じです。

秋葉氏には平和市長会議をNGOとして発展させたとの評価があります

問題は加盟都市の数ではなく、具体的に何をしたかです。「2020年までに核廃絶を」という構想と、「都市を攻撃目標にするな」(CANTプロジェクト)ぐらいでしょう。しかし、2020年への道筋を示すはずのヒロシマ・ナガサキ議定書は紙1枚で、昨年の核不拡散条約(NPT)再検討会議で議題にも取り上げられない中身ゼロの代物でした。CANTも「都市以外は攻撃していいのか」という含意にならざるをえません。平和市長会議の成果は疑問です。

ヒロシマ・ナガサキ議定書が採択されなかったことについても「なぜか」という検証はなされていません

議題にも採択されなかった時点で、秋葉さんは「構想及び内容に問題があった」と自らの責任を認め、「20年までの核廃絶の暁に」実現するとしていた五輪構想も撤回すべきでした。また長崎と違い、平和行政があたかも市長の専管事項で、誰も物申さない雰囲気が充満しているのも「広島は疲れている」状況を表しています。広島の人は、「お上」に弱い自らを厳しく問い直すべきです。

では広島は、どのように平和思想を構築していけばいいのでしょうか

広島に何より必要なのは、原爆体験だけでなく、戦争体験ひいては人間の尊厳を全体的にとらえる認識を我が物にすることです。国家は「受忍論」を押しつけ、また、戦争被害者を分断しようとしてきました。国家の戦争責任をあくまで回避し、過去の歴史を正当化するためです。広島は、そういう国家のあり方を正す先頭に立つべきです。日本の侵略があったからこそ原爆投下があったという加害と被害の因果関係を踏まえた歴史認識を我が物にすることも必要です。それでこそ、「真珠湾攻撃をしたからといって残虐極まる原爆投下が許されるのか」という問いかけも可能になるのです。

視野を大幅に広げるべきだと

原爆を、人間の尊厳の最も徹底した総合的な破壊だと認識すれば、他のあらゆる形態での人間の尊厳の否定という問題に目を向けることにつながります。戦争にとどまらないあらゆる暴力の解消こそが、一人ひとりの人間の尊厳を保障する「平和」だという視点を確立できるのです。

どうしたら暴力のない世界がかなうのでしょう

私たちは日本国憲法という答えをすでに出しています。日米安保のために今は座敷牢に入れられた状態ですが、ほこりを払えばぴかぴかです。だから広島は長崎、沖縄と一緒になって、全国民に対して「日米安保か憲法か」を問うべきです。相互依存でがんじがらめの世界で、これからも暴力で物事が解決できるのかと。

長崎や沖縄との連携がもっと必要だと

広島、長崎や沖縄の体験は日本国憲法の原点になりました。戦後保守政治が最も恐れてきたのが、対米追従の政治を根底から改める力を秘めている広島、長崎、沖縄が一緒になって全国に平和を発信すること。沖縄は基地問題で不退転の取り組みを進め、長崎も活発になっています。広島だけが眠っていることは許されません。

具体的には

広島市長が「米国の核の傘に頼る政策を改めない限り、首相に8月6日に広島へ来させない。原爆投下は誤りだと認めない限り、米国代表も来させない」と言明したら、日本中が目を見張ります。広島に触発されれば、「私たちは日本国憲法でいく。日米安保は願い下げにする」と言う日本人が多数を占め、日本の政治は変わるし、世界も変えられます。エジプトの人々がエジプトで起こしつつあることを、日本の私たちが日本でも起こすのです。

広島の周辺には、考える材料はあると

在任中に16人の識者にインタビューし、広島に世界に通用する普遍的な平和思想の「原石」が多くあることを知りました。丸山眞男(まさ・お)がかつて「日本では思想が蓄積されない」と指摘しましたが、私は今の広島にあてはまると感じます。散逸している思想の「原石」をまとめ、蓄積し、普遍性を持ったものに仕上げたいものです。

私たち一人一人は何をすべきでしょうか

広島、長崎なくしてありえなかった日本国憲法を共通項にして、広島とかかわる人々は、21世紀の世界の歴史的状況を踏まえた明確な問題意識をもとに、「広島に何を求めるか」をはっきり問うべきでしょう。広島の側もそうした問いかけに主体的に答える努力を続けることで変わっていくべきです。私自身、広島を離れた後も問題提起を続けていきたいと思っています。

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