広島離任インタビュー(1)

2011.02.11

*広島離任を前にして、朝日新聞広島支局から申し出があって、平和問題に関して連続3回のインタビューに応じることになりました。第1回目のものが2月9日付の広島版に掲載されましたので、ここにも載せておきます(2月11日記)。

菅政権が昨年末、新防衛大綱が決定しました。中国を強く意識した内容です

 政権交代当初、「日米同盟のあり方を再検討する」と言った鳩山政権がもろくも崩れ、菅政権は小泉政権以来の対米追従路線に戻りました。大綱は、その正体の表れです。冷戦終結後、台頭する中国を脅威とみる米国のアジア・太平洋戦略に沿った内容で、驚きはありません。

尖閣諸島の漁船衝突問題で、日中関係は極度に悪化しました

 尖閣の領有権問題は「棚上げ」するというのが、国交回復以来の両国の暗黙の合意でした。04年の中国人活動家の尖閣上陸事件では、当時の小泉政権は強制送還で幕引きさせた。約束を守ったわけです。政権が代わっても、外交の一貫性は守られなければいけない。それなのに、前原誠司外相は今回、真っ先に米国務長官に「日米安保が尖閣に適用されるか」と確認しました。これは「いざとなったら中国と戦争してね」と頼んでいるに等しい。外交の拙劣ぶりは目に余ります。

米国は「適用される」と回答したそうですが

 内心は苦々しいでしょう。米国は、日本との軍事同盟なくして中国とは対抗できません。台湾問題をめぐり、最悪の場合は中国と戦争する覚悟もあると思いますが、日中間の問題での開戦は想定していないはず。米政府高官も「外交的解決を望む」とくぎを刺しています。なのにこうした発言は日本のメディアが全然報じません。

反中国論が強まっているのはなぜでしょうか

 日中両国は歴史的に、対等な関係になったことがありません。江戸時代までは中国が上位との意識があり、明治以降は逆転した。1945年の敗戦は日中関係を結び直す好機だったのですが、戦後の日本は米国の支配下で「反共」の立場をとり、中国を異端視し続けました。さらに今の若手政治家には米国留学経験組が多く、米国の色眼鏡で中国を見ようとする。彼らは中国が日本をしのぐ大国になったことがいまいましくて仕方ない。憎悪の感情すら加わり、きわめて危険な状況です。

両国の相互不信から始まった日中戦争のことすら連想してしまいます

 日本が過去の失敗から学び、真に反省してこなかったツケが出ています。戦後、米ソ英仏に分割占領されたドイツでは、ナチス時代の過ちを徹底的に反省しました。だが米国の単独占領だった日本では、これ幸いとばかりに侵略の歴史を隠蔽(いん・ぺい)した。第2次世界大戦まで常に対立し、戦争を繰り返したドイツとフランスは今やEUの中心として盟友関係を結んでいるのに、日中関係が比較にならない状況にあるのは異常なことです。

反省は、賠償につながりかねないと警戒する声が日本では根強くあります

 反省イコール「頭(こうべ)を垂れる」と連想されがちですが、中国の人々は、文字通り、自らの行いを省みる「反省」を求めているに過ぎません。日本は国としてそれができていない。自衛隊の海外派遣がドイツ軍の海外派兵と比べても問題視されるのは、「日本人は本当に大丈夫なのか」という意識を周辺諸国の人々に持たれているからです。過去の歴史を我が物として受け止める意識を持たなければ。

どうすればいいでしょうか

 自分たちが常に正しく、悪いのは相手という「天動説的な国際観」を改める必要があります。日本は戦前、絶対天皇制を至上の価値とし、アジアを見下した。戦後は米国が天皇に取って代わっただけで、他国のことは、日本より上か下かというタテの関係でしか見てきませんでした。国と国はすべて対等、平等という前提に立ち、相手の立場から日本はどう見えるかという「他者感覚」を持って物事を考える「地動説的な国際観」が求められます。

なぜ日本人は「天動説」なのでしょう

 欧州や米国には、ルネサンスや宗教改革、革命を経て勝ち取られた人権・デモクラシー(民主主義)という普遍的価値があります。米国も「自分が世界の中心」と考えている意味では「天動説」ですが、普遍的価値という客観的鏡で自らの行動が正しいかを検証する可能性は備えている。オバマ米大統領がアフガニスタン派兵の正当性について何度も国民に弁明を強いられるのは、「主権者である米国人をなぜ死なせるのか」という人権・デモクラシーに基づく根本的な疑問に答えなければならないから。しかし、戦後日本では人権・デモクラシーが「与えられた」との意識が強く、普遍的価値として私たちの言動を律する規範(モノサシ)になっていません。

日本国憲法の人権尊重が定着していないと

 日本では、国を「お上」とみる考えが根強くあります。しかし、欧米ではもともと、人権は国家に対する抵抗権として発展してきた経緯があります。人民主権が確立した今日においては、国家は個人の尊厳を実現する機能的な道具に過ぎず、個人の上に立つ存在ではありえません。人類の普遍的成果ともいうべき人権・民主という価値を我が物にし、その価値に照らして自らを規律する発想を持たなければ、「天動説」も克服できるはずがない。そうした国民的な覚醒(かく・せい)が生まれるとき、この国ははじめて変わることができると思います。

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