日本の領土問題の歴史的・法的起源

2011.01

*私は前に、尖閣列島(釣魚島)をめぐる日本と中国との間の領有権問題についてこのコラムで取り上げたことがあります。その際、日本に帰属する領土の範囲については、ポツダム宣言第8項が「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州、四国及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」と規定して、「吾等(連合国)ノ決定スル諸小島ニ局限」されることが決まっていたことに触れました。そして、台湾の領土的帰属に関することではありましたが、日本は日中共同声明第3項において、「日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場(「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であること」)を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する。」と述べ、上記ポツダム宣言の規定を尊重することを確認していることにも触れました。  私の趣旨は、日本国内では、尖閣問題にしても、竹島問題にしてもまたいわゆる「北方領土」問題にしても、日本の固有の領土であるから日本のものである、という主張がほぼ自明なこととして受け入れられており、その暗黙の了解のもとに国内的議論が行われていることに対して、ポツダム宣言及びそこで引用されたカイロ宣言などの国際的な文書において示されている国際的な了解からすると、これらの島々の帰属を決定するに当たっては、「日本の固有の領土であったか否か」は国際的には考慮される事項ではなく、連合国間の合意によって決められることになっていた、ということを指摘することにありました。誤解を恐れずに簡明直裁に言えば、「仮に過去においては日本の固有の領土であったとしても、これらの島々の領土的帰属先を決定するのは連合国であって日本ではない」ということがポツダム宣言第8項で明らかにされているということです。そして、サンフランシスコ平和条約(以下「平和条約」)の以下の規定は、カイロ宣言及びポツダム宣言の枠組みのもとで決められたということなのです。

第二条(a)
 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(以下省略)

ちなみに、ポツダム宣言が履行されるべきだとしたカイロ宣言の主な内容は次の通りです。

3大同盟國ハ日本國ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル爲今次ノ戰爭ヲ爲シツツアルモノナリ
右同盟國ハ自國ノ爲ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土擴張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟國ノ目的ハ日本國ヨリ1914年ノ第一次世界戰爭ノ開始以後ニ於テ日本國カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國カ清國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ
日本國ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本國ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ驅逐セラルヘシ
前記3大國ハ朝鮮ノ人民ノ奴隸状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且獨立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス

 私の指摘に目をとめてくださったのでしょうか、最近、広島の出版社である渓水社から、原貴美恵教授(紹介されている経歴によれば、カナダ在住でウオータールー大学准教授)が2005年に同社から出版された『サンフランシスコ条約の盲点 -アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」-』という題名の書籍を私に送っていただきました。本当に申し訳ないのですが、送っていただくまではこの本の存在には私はまったく知識がありませんでした。しかし、一読して、原教授がアメリカ政府その他の資料を丹念に発掘されて、日本の抱える領土問題について、「現在ではそれぞれ別個の問題として扱われがちであるが、いずれも戦後対日領土処理、とくに1951年のサンフランシスコ平和条約という共通基盤から派生したものである」(p.24)ということ、この平和条約は米ソ(東西)冷戦激化の中で日本を反ソ反共戦略におけるアジアの砦にしようとしたアメリカが主導してできたものであること(私たちが「サンフランシスコ体制」として理解するものは、単に日本をアメリカの対アジア政策に巻き込んだものとして理解するのは不十分で、アメリカが張り巡らせた反ソ反共を基軸とした、日本その他の国々との軍事同盟体制全体として理解するべきであること)、そのことを認識してのみ、尖閣、竹島、北方4島(原教授は、ミクロネシア、南極及び南沙群島まで扱っています。)という領土問題に関する正確な認識を持つことができること、についてきわめて有益な問題解明をしておられることを知りました。
 私一人の知識にとどめておくのはもったいないので、原教授の研究成果(と私が理解するもの)から私が学んだいくつかのポイントについて、以下に紹介しておきたいと思います。ただし、これはあくまでも私の理解であり、したがってその文責は言うまでもなく私自身にあります。この文章に触発される方は、是非原教授の原著を読まれることを強くおすすめします(1月30日記)。

1.領土問題に関する日本の主張を縛る平和条約の重み

原教授の問題意識で私が重要だと感じたのは、「平和条約の第二章「領域」は、「未解決の諸問題」が発生する様々な要素を含んでいた」(p.24)という指摘でした。具体的には次の諸点です。
① 台湾、南樺太・千島、南沙・西沙諸島に関し、条約では「日本による領土放棄が規定されているものの、「どの国(政府)」に対して放棄したのか明記されておらず、紛争の種が残されている」こと(同頁)。ここでのポイントは、この規定ぶりに落ちつくまでには様々な経緯があったこと(帰属先を明示する案も検討されたこと)、しかし最終的にどの国に対して放棄するのかを明記しないことになったのは、優れてアメリカの対ソ・対中をにらんだ戦略的・政策的考慮の結果であった(日本の主張・立場が考慮された形跡はない)ということです。
② 「条約は、日本が放棄した領土の範囲についても明確な定義をしていない。このため日本と隣国との間で、竹島、尖閣諸島、そして北方領土の帰属が、将来係争となる余地を残した」こと(p.25)。ここでのポイントは、アメリカ政府の内部における検討の過程においては、カイロ宣言に即して、これらの島嶼(北方領土に関しては国後及び択捉)を明確に日本の領域から外す案が検討されることもあったこと、つまり、日本の立場・主張が否定される可能性が現実にあったこと、それが最終的に日本が放棄する領土について明確な定義を置かないことになったのは、①の場合と同じく、やはりアメリカの戦略的・政策的考慮によるものであったということです。
③ 北方領土問題に関しては、平和条約に先立ってヤルタ協定で対日処理をめぐって秘密協定が行われていたことがさらに問題を複雑化することになったこと(同頁)。最終案に落ちつくまでの過程においては、アメリカ政府はヤルタ協定を簡単に無視するわけにはいかず、落としどころについて様々な案(2島案や4島案など)を検討したことが文献的に明らかにされます。結局上記①及び②に落ちついたのですが、それは日本の主張を尊重した結果ということではないのです。
④ 沖縄(及び小笠原)に関しては、平和条約は日本が放棄するとは記していないが、主権の「最終帰属先を明記していない」ため、「これらの領土における日本の主権を保証するものではなかった」こと(同頁)。ここでのポイントは、アメリカ政府が検討したのは沖縄そのものの扱いをどうするかということであって、尖閣問題はその中に埋没していたということ、沖縄を日本の領土として返還するという答えを平和条約から引き出すことはできないということです。そしてアメリカは一貫して沖縄のアメリカにとっての戦略的重要性という視点で考えてきており、尖閣を含む沖縄の領土的主権の帰属という問題にはほぼ関心がなかったということです。
なお原教授は、領土問題を考える上で、領土問題そのものを扱った平和条約第2条の規定のほかに、平和条約の次の二つの条文が意味を持っていることを指摘しています。
 一つは条約第25条の規定です。条文は次の通りです。

「この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国…をいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。…この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原及び利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。」

 原教授の指摘にしたがえば、「条約に「署名し且つこれを批准」しない、いずれの国に対しても「いかなる権利、権原又は利益も」授与されるものとみなしてはならない、と記されている。ソ連は条約に署名せず、中国のどちらの政府も講和会議に招待されなかった。それ故、ソ連も中国も日本が放棄した領土について何の権利も取得しなかったということになる」(p.24)わけです。しかし、私なりの理解を加えれば、ロシアも中国も平和条約の当事国ではないわけですから、この規定があるかどうかはまったくあずかり知らぬところです。北方領土問題にしても尖閣問題にしても、ロシア及び中国としては、平和条約は一切関係のないことですから、彼らの主張の根拠はカイロ宣言とポツダム宣言(及びロシアに関してはヤルタ協定)のみということです。
 もう一つの規定は第26条です。条文は次の通りです。

「日本国は、1942年1月1日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国…と、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の効力発生の後3年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼされなければならない。」

この規定の実質的な意味は、原教授によれば、「ダレスは、ソ連への領土の割譲はサンフランシスコ平和条約には言及されていないので、日本がソ連の二島返還のオファーを受諾することは、米国よりもソ連に大きな利益を与えることになり、その場合、第26条によると米国は沖縄を請求できることになるとした」(p.158)ということにあったのです。この点に関する原教授の指摘をもう少し詳しく引用しておきます。

「日ソ交渉への米国の介入は、「ダレスの脅し」としてよく知られている。1956年8月、日本側全権大使であった重光葵外相が、ソ連の二島返還オファーを受諾し平和条約を締結しようとしたところ、当時米国務長官になっていたダレスが、もしソ連に譲歩して国後・択捉を諦めるなら、沖縄に対する日本の潜在主権は保障できないと警告したのである。近年の研究及び公開文書からは、ダレスの介入には主として二つの理由があったことがわかってきている。一つは米国の沖縄支配を確実にするため、もう一つは日ソの和解を阻止するためである。
国務省記録に残る「米国にとって琉球諸島(沖縄)は、ソ連にとっての千島列島よりも価値がある」というダレス発言にみるように、沖縄の戦略的重要性は、アジア太平洋地域で冷戦が激化するにつれて増大していた。しかし、米国には、沖縄を自国の管理下に留めておく強い根拠がなかった。もし日ソ間で北方領土問題が解決されたら、次は米国に沖縄を返還するよう圧力が掛かるであろう。それは、二島をオファーして領土問題の解決を図ったソ連の狙いでもあった。そこでダレスは、彼自身が平和条約に挿入しておいた「歯止め条項」第26条を使って、もし日本が北方領土でソ連に譲歩したならば、米国は沖縄を請求できるという議論を持ち出したのであった。」(p.146)

私たちはともすれば、領土問題を「日本の固有の領土である」という主張の正当性という観点のみから考えがちですが、平和条約そのものがアメリカの反ソ反共戦略追求のための産物であり、アメリカにとっては領土問題もそういう枠組みの中でしかとらえられていなかったことが分かります。そういう観点で考えるとき、私が前にコラムで指摘したポツダム宣言第8項の「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州、四国及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」という箇所の重み(日本の固有の領土であるか否かには関係なく、これら島嶼の主権的帰属は連合国が決めるのだ、ということ)を再確認せざるを得ないでしょう。

2.北方領土問題に関する補足的考察

北方領土問題に関してよく指摘されることに、千島列島のソ連への引き渡しの約束は1941年の大西洋憲章にある領土不拡大の原則を越えているということがあります。この点に関しては、原教授によれば、「90年代に入ってからの研究では、米国は早くからソ連の千島取得の要望を察知しており、ルーズベルトはそれを承知の上で、ヤルタ協定に合意したことが明らかにされている」(pp.117-118)し、「ヤルタでは、ソ連の欧州における領土拡大(フィンランド、ポーランド及びドイツ)にも合意が与えられており、ルーズベルトもチャーチルも領土不拡大原則を必ずしも遵守する意志がなかったことが理解できる。ヤルタでの千島引渡しの約束は、「協力の代償」であった」(p.118)とされています。しかし、ルーズベルトの後を襲ったトルーマンは、「米ソ対立の文脈で日本を認識し始め」、「ソ連がヤルタで約束した利益をごっそり持って行くのは面白くなかった」(p.119)ために、ポツダム宣言では領土不拡大原則をうたったカイロ宣言だけを盛り込んだ、というのです。
 平和条約に関するアメリカ政府内部での千島に関する検討においての焦点は「ヤルタ協定と他の戦時合意にみる領土不拡大原則との齟齬をどうするか」(p.128)だったわけですが、歯舞、色丹を除く千島のソ連への引渡し案がかなり最後の段階まで維持されていた様子が読み取れます。しかし、最終的に帰属先を明記しないという案が「他の領土処理との整合性」(p.143)という根拠で中華民国、カナダから提案され、最終的にアメリカは、「ソ連は島の占領を続けるであろうから、日本と安保条約を結ぶ米国には不都合な状況が出てくる可能性がある。日ソの離反は望ましいが、それが米ソ直接武力衝突にエスカレートする事態は避けなければならない。それ故、日本にこれらの島々を放棄させる一方、帰属先も故意に未定にしておいたのである。また当時は、ソ連の講和会議欠席が予想されていた。…平和条約に関与しないソ連に、恩恵を与える必要はないと考えられた」(p.144)ということで最終案を固めたという経緯が明らかにされています。
 今日の時点で考えるとき、アメリカによる沖縄と北方領土とのリンケージという問題が存在しなくなっている点で、1956年の日ソ交渉当時と今日とでは大きな違いがあります。つまり当時と比較すれば、北方領土問題を日本とロシアの二国間交渉で解決を目指す条件が生まれているということです。 しかし、日本が拘束されるのはポツダム宣言(及びカイロ宣言)であって、ヤルタ会談の結果には日本として縛られる筋合いではなく、日本の固有領土は返還されるべきだという主張を日本としてはなし得るとしても、それが二島であるのか四島であるのかという点になると、以上のアメリカ政府の平和条約での千島問題の検討過程から考えても、日本が4島に固執することに対する国際的環境は厳しいものがあるのではないでしょうか。ましてや、カイロ宣言の規定及びアメリカ自身がコミットしたヤルタ協定を盾にとるロシアに対する日本の交渉上の立場は決して強いものとは言えないと考えざるを得ません。
果たして現状では限りなく不毛に近い領土問題に固執することが賢明なのか、それとも、まずは日ロ関係を発展させることに全力を傾け、将来的に領土問題を冷静に話し合う条件・環境ができるのを気長に待つという政策を正面に据えるべきなのか、という問題を国民的に議論することが、私たちにとっての先決課題なのではないかと思います。

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